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人には、自分の内にある醜い感情を認められないことがある。公正であろうとする人間ほど、顕著に。誰かを憎むこと、嫌うことをする自分が、嫌いになるのだ。しかし感情をコントロールすることなど、よっぽどの人間でも容易なことではない。清廉であろうとすればするほど、その感情に対する嫌悪感は湧き、そしてその嫌悪感はその人個人を壊す。
「ノア、様は、どうして、このような、ことを……」
「このようなこと? 君に感情を自覚させたことか?」
「……」
ノアは少しだけ考え込んだ。そして思いつくままに自分の考えをヘレンに話す。
「君は、実に能力が高い」
「?」
「あのまま潰れるには、勿体ないと思った」
「勿体ない…?」
ノアは小さく頷きながら話を続ける。
「所見で申し訳ないが、君は"当主となるべく頑張った自分"に対して、矜持を持っているように見えた。そしてとても真面目であり、清廉であり、正しくあろうとするものだろうとも」
「……それは」
「いや、目指すことは構わない。だが、そううまくいかないのが人の常だ。…ヘレン、君は、自分が正しく在れない、あるいは間違えるという自分を認められるか?」
「…わ、かりません…」
「だろうな。私からすれば、きっと君は認められないだろうと思った」
ノアにとって良かったのは、ヘレンが認められるくらいに柔軟性があったことだろうか。これで認めてくれなければ、ノアはヘレンを切り捨てるほかなかっただろうから。
「だから酒を飲んで、少しだけ理性を無くしてもらった」
未だに思い出したようにほろほろと涙を零すヘレンを見て、ノアは苦笑を零して手巾を渡した。
「擦らないように。明日酷くなるからな」
「ありがとうございます……」
ヘレンは手巾を素直に受け取り、目元に当てる。
「ここ数日の君を見て、結果を伝える。合格だ。経験さえ積めば、領主補佐としてどこでもやっていけるだろう。簡単ではないが、カロリアンの城で事務官として働くことも夢ではない」
「っ…ほんとう、ですか…?」
「あぁ。君の家庭教師はとても素晴らしいな。君のことを本当に想って教育したことがわかる」
ノアの言葉に、ヘレンはさらに涙を零した。
「しばらくはこの家で経験を積むといい。その後は母上とも話をして決めよう」
「っ……はぃ…はいっ!」
ほろほろと涙を零すヘレンを、ノアはじっと見つめた。女性の涙を綺麗だと思ったことなどほぼないが、ヘレンのそれは珍しく綺麗だと思った。
誰かを陥れるためでも、情に訴えるわけでもないそれは、まるで心の滓を流すかのように見えた。
******
自分が、世界で一番幸せな日だと、カレンは思った。
十七になり、それと同時にアレックス・ファフニールと結婚式を執り行った。初めは、姉ヘレンのことを気にして延期しようとも言ったが、アレックスの並々ならぬ熱意に負けたカレンとその両親は結婚式を執り行うことを決意した。それに、カレンは未だに少しだけ怒っていた。アレックスとの婚姻を止めるように言われたことを。そのことをアレックスに言うと、アレックスはきっと嫉妬していたんだろうと言っていた。
「カレンちゃん、きれい!」
「ありがとう、アンドレ!」
五歳になったアンドレアスは、輝くような笑顔をカレンに見せた。これからはアンドレアスに会う機会も減ってしまうだろう。しかし、カレンはカレンの幸せを掴むのだ。
「―――世界一綺麗だよ、カレン」
「アレックス様も、世界一素敵ですわ」
純白のドレスは、両親が金に糸目をつけずに作ってくれたものだ。今日という日を、どれほど楽しみにしていたか。
…正直に言えば、姉であるヘレンにも祝ってほしいという気持ちはある。だが、姉は自分とアレックスの結婚を喜んでいない。だから今日彼女の姿がないのは仕方ない。
両親が少しだけ心配そうに見ているような気がするが、どうしてだろうか。
お婆さまにも来てほしかったが、体調がすぐれないと言われてしまい、その姿もないことが少しだけ寂しい。イライアスも困惑露わにとうの昔に帰ってしまった。
それでも、カレンは幸せの絶頂にいた。
「あなた、本当に、カレンは大丈夫なの?」
「……カレンが結婚したいと望むのだ、大丈夫だろう」
カレンの結婚式が行われた同日の夜、ドナルドとジャクリーヌは不安そうに互いの顔を見た。カレンは幸せそうにしていたが、ロドリゲスとイライアスとの話し合いの一件以降、二人はアレックスへの不安を抱いていた。
あの時はアレックスが厚意からその話をしてくれたのだと思っていたのだが、冷静になって考えてみればおかしな話だと気付くことが出来た。そもそも、どうして気づくことが出来なかったのだろうとドナルドは自分でも不思議に思った。
「……あなた、私たち、とんでもない間違いを犯してしまっているのでは…」
「ジャクリーヌ……」
ジャクリーヌの言葉に、ドナルドは唇を噛んだ。
ヘレンへの罪悪感は、彼女への対応を鈍くさせ、誤らせた。その分カレンとアンドレアスを誤らないようにしようとし、出来る限り要望を叶えようとすると、何かを間違えてしまったような気がする。
しかし、ドナルドは苦悶に満ちた表情を浮かべながらそんなことはないはずだと自分に言い聞かせた。
「……アレックスのあれは、きっとただの厚意から出たものだ、本気ではあるまい。ヘレンについては調べさせている。母上にはバレないようにしなければならない。体調を崩している今、そのような話をすれば悪化してしまうだろう」
「あなた……」
「アンドレアスの家庭教師に、グリンデルを呼んでいる。ロドリゲスから聞くには、グリンデルは既にヘレンとアンドレアスの教育について話をしてくれていたようだ」
「ヘレン…っ」
ヘレンのことを思い出したのか、ジャクリーヌが口元を抑えて嗚咽を隠そうとする。現在、マイヤー伯爵夫人であるジャクリーヌは、長女ヘレンのことが話題に出るたびに不安定な精神状態になる。夫人としてあるまじき姿だが、それでもドナルドは妻を愛していた。
「……カレンには何かあれば必ず言うように言ってある。アンドレアスは、これからのグリンデルの教育に期待しよう」
「っ…わ、私たちは、何を…!」
「…ヘレンを探し、カレンを見守り、アンドレアスをしっかりと育てるんだ、ジャクリーヌ」
「で、でも、ヘレンは…」
「ジャクリーヌ。私たちは何度も間違いを犯した。それを挽回するには、これから頑張らないとならない、いいね?」
「そ、そうね、あなた…」
不安そうに自分を見るジャクリーヌを、ドナルドは抱き寄せた。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。…あの頃、アンドレアスが生まれるまでは全てがうまくいっていたように思える。だが、アンドレアスが生まれたのが間違いだとも思っていない。
ただただ、自分が間違えてしまったのだということは理解している。だが、間違いをどう正せばいいのか、ドナルドには分からなかった。
イライアスはありとあらゆる伝手を使って、ヘレンの行方を捜していた。しかし不思議と、彼女の足取りは掴めずにいた。まるで、誰かが故意に隠しているかのように。
「……どこに…!!」
イライアスはいら立ちを隠せないまま、調査用紙をばらまく。どれもこれも、似たような人物がいたという報告ばかりで、本人である確証がない。どうして、見つからないのだ、そう憤っていると。
「兄さん」
「……サイラスか」
「もういい加減関わるのよしなよ。兄さんには関係ないだろう?」
「だが、おばあさまに頼まれていたんだぞ?」
「それは夫人のことだけでしょう? どうして兄さんが失踪した令嬢のことまで気に掛けるの?」
「それは…」
サイラスの言うことは最もだった。ヘレンとイライアスは、一時共に過ごしただけの仲でしかない。イライアスが今までヘレンのことを気にかけたのは、エリザベスから頼まれたからだ。しかし、今、イライアスは個人的に調べている。
「……何かあれば、夫人が悲しむだろう」
「それこそ、僕らには関係のないことだよ。だって、マイヤー家が管理すべきことを怠ったのが原因だろう? どうして兄さんがそこまで調べているのか、僕にはわからないよ」
「お前はお婆様が悲しまれてもいいというのか?」
「それじゃあ言わせてもらうけど、兄さんはこの家がどうなってもいいというわけ?」
サイラスは冷たい目で兄を見た。正直に言って、兄の行っていることは自己満足だとサイラスは思っている。一時は自分の勉強の為と家を離れたのはまだ許せる。だが、こうも頻繁だと後継者として自覚があるのかと問いたくなるのだ。
「フィオナの一件が兄さんに負い目を持たせているのは理解できる。でも、ご令嬢はフィオナじゃない。兄さんがやっていることは自己満足だ」
「サイラス、お前…」
「だってそうだろう? これでご令嬢に懸想して婚約したいと考えているのであればまだ理解できる。でも、兄さんは婚約の打診も何もしない。何の為に探しているの?」
「……」
「答えてくれないの?」
サイラスの問いに、イライアスは答えられなかった。どうして、自分が探しているのか。
「それにさ、ご令嬢は家から逃げたんでしょう? それって、結局家にいられない、自分を守るためなんじゃないの? それなら兄さんは探して、ご令嬢をどうしたいの?」
「……乗り掛かった舟だ、途中で放り出すことはできない」
「はぁ…そう考えているのって、兄さんだけじゃない? それに、そのご令嬢だって兄さんのことを頼りにしていたら連絡の一つでもくれるんじゃないの? くれないってことは、兄さんのやっていることがご令嬢の為じゃないってこと、知っているんじゃない?」
「そんなはずない!」
「なんで? 兄さんとフィオナのことは知っている人は知っているよ? ご令嬢が知らないってどうしてそう思えるのさ」
「……まさ、か…」
あり得ない、そう言いたかった。だが、言えなかった。思えば、ヘレンはいきなり余所余所しくなった。それまではいい距離感であったというのに、本当にいきなり。そしてイライアスは必死に思い出す。いつから、そういう風になったのかを。
「……夫人の家にいた時…? でも、誰が……」
ヘレンが回復し、そしてすぐに実家に戻ると言い切ったあの頃、既にヘレンは自分との間に距離を作っていたような気がする。となると。
「まさか、エリザベス夫人が……?」
イライアスは気づけなかった。大切なものが何なのか。
過去に囚われたままの彼は、目の前にあった、手に入れられたかもしれない幸福を自らの手で傷つけていた事実にまだ気づいていない。
たくさんのご意見感想をありがとうございます。
物語に関して、活動報告にいくつか記載をいたします。
ご一読いただければ幸いです。




