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ヘレンがマイヤー家から逃げ出して三か月後、その身はカロリアンへと踏み入れていた。三か月の間に色々とあったが、サブリナとその夫の尽力のおかげで、ヘレンは自身の居場所がマイヤー家に伝わることなくひっそりと国を出ることに成功していた。
「お初にお目にかかります、ヴィノーチェ公爵様。ヘレンと申します。この度は私の無理なお願いを聞いて下さり、誠に感謝しております」
「ようこそ、ヘレン。私はエルサ・ヴィノーチェ。長い付き合いになるかは分からないが、歓迎しよう」
「感謝いたします」
ヘレンは、家名を名乗らずに挨拶した。それが良かったのかはわからないが、少なくとも話が出来る相手だと判断してもらえたらしい。サブリナからの事前情報では、歓迎しよう、という言葉はないそうだ。
「ここでは伯爵令嬢としての扱いはできない。それでも構わないね?」
「もちろんです。お世話になる身、出来ることをさせていただけましたら幸いです」
「いい心がけだ。私の息子を紹介しよう。ここでは貴女の面倒を見ることになる」
そうしてやって来たのは、精悍な顔立ちをした青年だった。
「初めまして。ノア・ヴィノーチェです」
「お初にお目にかかります、ヴィノーチェ様。ヘレンと申します」
「ここはヴィノーチェばかりだから、ノアで構いません」
「恐れ入ります、ノア様」
紺色の髪は柔らかそうで、はちみつ色の瞳は優しい色合いをしている。しかし、その瞳に温かさはない。
「よし。ヘレンにはこの屋敷でノアの補佐を主にしてもらう。私はこう見えて忙しい身でね。屋敷にいないことが多い。だが、ノアが使えないと判断したら、この屋敷にはおけない。それは理解してもらおう」
「はい」
「その後の生活は安心してくれ。ここに置けないだけで、君に合った職場を紹介しよう」
「恐れ入ります、公爵様」
一見冷たいように聞こえるそれだが、カロリアンは実力主義なのだから当然のことだ。むしろその後のことまで考えてくれているだけ、有難い。
「今日は移動で疲れているだろうから、夕食までゆっくりしているといい。晩餐の席では、下の子供も紹介する」
「はい」
「ノア、案内してあげなさい」
「わかりました」
さばさばとしているが、ヘレンには有難かった。はっきり言って、連日の移動はヘレンに疲労を蓄積させていた。
「ではヘレン、こちらへ」
「ありがとうございます、ノア様。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「あぁ」
はじめはノアには歓迎されていないと感じたヘレンだが、案内が進む内に案外そうではないのかもしれないと認識を改めていた。
「ここは書庫になる。補佐になってもらった際に、調べ物はここでするといい」
「はい」
ノアは効率主義のようで、エルサの執務室からヘレンの部屋までの間に必要そうな情報を教えてくれた。さらに、歩く速度もヘレンに合わせてくれる。両手放しで歓迎しているというわけではなさそうだが、少なくとも邪険に思われているわけではなさそうだ。
「我が家では食事は家族で摂ることが決まりだ。朝は八時、昼は十二時、夜は六時となっている。遅れないように」
「あの、ノア様…」
「何だ?」
「その、私のような者がご一緒してもよろしいのでしょうか」
「あぁ、気にするな。母上は皆で食事をするのが好きでな。他ではないのかもしれないが使用人もローテーションでいる」
「左様でしたか、失礼いたしました」
ヘレンはヴィノーチェの食事のスタイルに内心で驚きを隠せなかった。祖母の家では人数が少ないということもあって、使用人たちと同じ食卓に着いていたが、ヴィノーチェは数倍の人数がいるだろう。それにも関わらず一緒に摂ろうとする家に、仲がいいのだな、と感じた。
「ここが貴女の部屋になる。節度を持って使用してくれ」
「はい、ありがとうございます」
「夕食時にまた迎えにくる。それまで休んでいるといい」
「お気遣いいただきありがとうございます」
ノアはそれだけ言うと、颯爽とその場を後にした。忙しい人なのだろうか。その人に案内までさせてしまったことを、ヘレンは少しだけ後悔する。
用意された部屋は、思ったよりも女の子らしくてヘレンは驚いた。
壁紙は落ち着いた色合いの花柄で、用意されている家具も武骨なものはなく繊細なつくりをしたものばかりだ。用意してくれた人は、とても気を遣ってくれたのだろうと感じる。
大きな本棚には、いくつかの分厚い本がすでにある。カロリアンの歴史などの本だ。机も用意されてあり、筆記用具なども置かれている。まさに至れり尽くせりだ。
「……とりあえず、荷物をしまってしまわないと…」
大きな衣装棚を開くと、そこにはすでに何着か衣類が収納されている。大きさからみて、ヘレンに合いそうだが、まさかこれも用意してくれたというのだろうか。いや、違うかもしれない。ヘレンは確認してから衣類をしまおうと考え、自分の荷物から必要なものだけを取り出した。
荷解きをしながら、知らずに安堵のため息を吐く。サブリナは大丈夫だと太鼓判を押してくれていたが、見知らぬ人の家に世話になる以上、しっかりしなければと緊張していた。
緊張は未だ取れることはないが、それでも思ったよりも頑張れそうだと思える。
「……頑張ろう」
それは、ヘレンが初めて自分の為に頑張ろうと決めた瞬間でもあった。
*****
「ロドリゲス、ヘレンは、ヘレンはどこに行ったんだ…」
「旦那様。以前からお伝えしている通り、私にはわかりかねます」
ヘレンが家を出てから三か月、マイヤー家は沈みに沈み切っていた。長女、ヘレンが家出をしたのだから、ある意味当然かもしれない。
きっかけを作ったカレンは、自分の所為だと落ち込み、ふさぎ込んでいる。
「伯爵」
「あ、あぁ…イライアス殿…何か」
「エリザベス夫人のところに確認してきましたところ、やはりヘレンは来ていませんでした。ですが、手紙が届いていました。ただ一点、知っているのは使用人だけで夫人はヘレンがこの家でうまくやっていると思っています」
「なに!?」
憔悴しきった様子のドナルドは、イライアスの言葉を聞いて目を爛々とさせた。
「……自分は元気にしている。自分の力を試すため、家を出た。だから探さないでほしい、と。夫人にはこれ以上心労を与えたくないため、絶対に話さないでほしいとも書いてありました」
「……やはり」
「やはり? どういうことだ、ロドリゲス」
「……お嬢様の心情を察してお話ししておりませんでしたが、お嬢様が家を出る直前にお会いしました」
「何だと!? どうして今までそれを隠していたんだ!!」
怒鳴るドナルドに、イライアスが落ち着くように言う。感情に任せたままロドリゲスを怒るのは簡単だ。しかしどうして彼が今の今まで話してくれなかったのかが重要なのだ。
「執事殿、どうして今までそのことを話さなかった?」
「……お嬢様は、大奥様のところへ身を寄せると、あの時仰っておられました。しかしよくよく考えてみれば、お嬢様が向かわれるはずがないのです」
「どういうことだ」
ロドリゲスは非難染みた目で、ドナルドを見た。その視線を受けたドナルドは、そんな視線を向けられたことがなかったのか、驚いている。
「お嬢様は、苦悩し、悲しんでおいででした。旦那様や奥様がお嬢様を腫物のように扱う、と。アンドレアス様に関しても、どうしていいのかわからない、とも。カレンお嬢様は、自分を信じてくれなかった、と」
「どういうことですか。カレン嬢のこととは、アレックス殿のことですか」
「多分、そう考えるのが自然でしょう」
ドナルドもイライアスも、名実ともに婚約者となったアレックスのことは聞いている。しかし二人ともヘレンの考えすぎだと思っていた。ドナルドが調べたとき、アレックスには何一つとして問題がなかったのだから。
「ヘレンは信頼できる人に調べてもらったと聞いていますが、心当たりはありますか」
「私にはわからん……」
「…可能性として、あの時期屋敷にいらしていたグリンデル先生、リュシアン先生、オルト夫人のいずれかかと」
「っ! 三人をすぐに呼び出せ!」
「その前に」
ロドリゲスは厳しい視線でドナルドを見た。
「旦那様、家令の域を超えていると理解したうえで、発言させていただいてもよろしいでしょうか」
「……何だ、ロドリゲス」
「旦那様は、ヘレンお嬢様をどうなさるおつもりだったのですか」
「……それは」
「伯爵、それについては私もお伺いしたいことでした」
ロドリゲスとイライアスの視線に、ドナルドは少しだけ顔色を悪くしながら視線を俯かせる。
「ヘレンお嬢様は、お戻りになられてからアンドレアス様の先について、奔走されておいででした。これからの教育、心構えをしっかりとさせないと、マイヤー家を盛り立てられないと。だからあのようにお叱りでした」
「だが、ヘレンは厳しすぎるだろう」
「いいえ、それを言うのであれば、昔の旦那様のほうがヘレンお嬢様やカレンお嬢様に対して厳しかったですよ。少なくとも、お二人に好き嫌いを許しておられませんでした」
言われて思い出したのか、ドナルドがはっとしたようにロドリゲスを見る。
「………アレックスから、一つ提案があった」
「どういったものですか?」
「……ヘレンは、一度ああなってしまっただろう…。嫁ぎ先が簡単に見つからないのであれば、ファフニールで面倒を見よう、と」
「……は?」
イライアスは本気で驚き、ロドリゲスは予想もしていなかった言葉に絶句した。
「―――お、お待ちください、旦那様……まさかとは、思いますが、それを妙案と思われたのですか?」
「……私だって、どうしていいのかわからなかった…。いつまたああなってしまうか分からない娘を、変な男に嫁がせるわけにはいかない…その点、アレックスは理解を示してくれていた」
「っ、カレン嬢は知っているのですか!?」
「知らない…、だが、双子なのだから喜ぶかと…」
ドナルドの言葉に、二人の男は言葉を紡げなくなった。特に、ロドリゲスのドナルドへの失望は隠せるものではなかった。
「……旦那様…私もヘレンお嬢様に頼りすぎて後悔しております、ですが、貴方様ほど酷い方は見たことがない」
「ろ、ロドリゲス…」
辞職しそうなその言葉に、ドナルドが狼狽える。だが、ロドリゲスは自嘲を含んだ笑みを漏らした。
「かくいう私も、お嬢様を追い詰めた一人です…。ご安心ください、旦那様。ヘレンお嬢様がお戻りになるその日まで、私はこの御屋敷でお待ちするとお伝えしましたので」
ロドリゲスはそれだけ言うと、部屋を後にした。ドナルドは力が抜けたように座り込み、イライアスはどうしてこうなってしまったのだろうと頭を抱えるのだった。




