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ヘレン・マイヤーは、天才ではない。
教師であるグリンデルは筋がとてもいいと褒めていたが、それはヘレンの弛まぬ努力の賜物だった。夜遅くまで勉強をし、時間のあるたびに素振りをした。気分転換がてらに乗馬をし、優雅に見えるように指先ひとつまで気を遣うようにした。
五歳から始めたが、初期のころは見られたものではなかった。
素振りをすれば模擬剣の重さに体を持っていかれ、乗馬だって何度落馬しそうになったことか。マナーだって教えてくれるオルト夫人に何度怒られたのか、数えきれない。
それでも、ヘレンはひたすら黙々と努力した。
その努力を知ってか、教師陣は誰一人ヘレンが出来ない子だとは判断しなかった。
「―――お父様、お母様」
「あぁ、ヘレン」
授業の合間の移動をしているとき、ヘレンは両親を見かけ声をかけた。ここ数年は勉強ばかりで家族と顔を合わせるのは夕食ぐらいだったから。
だがそれはカレンも同じようで、夕食時、カレンは自分が頑張ったことを一生懸命に報告していた。
「お父様、その」
「あぁ、聞いている、よくやっているようだな。偉いぞ」
「えぇ、いい子ね、ヘレン。でももっともっと高みを目指さなくてはいけませんよ」
「そうとも。お前がマイヤー家を盛り上げるのだからな」
「はい」
手放しの褒め言葉ではなかった。それでも、自分の頑張りを知ってくれているとわかり、ヘレンは嬉しくなった。もっともっと頑張れば、流石自分の娘だと言ってくれるだろうか。
大変な日もうまくいかない日もある。それでも、頑張っていれば、それで成果を見せれば褒めてくれる。ヘレンは、自分が天才でないことをとうの昔に理解していた。一を読んで十を知ることはできない。でも、頑張れば三か四くらいは読めるようになりたい。
ヘレンはもっと頑張ろうと決意を新たに、自室へと戻る。
その時、背後から聞こえてくる音には、気づかないフリをした。
「お父様、お母様!」
「カレン」
「まぁ、カレン、ダンスの先生がとても上手だと言っていたわよ」
「本当!? えへへ、カレン、ダンス大好きなの」
「そうか、ジャクリーヌと一緒だな」
「あら、ドナルドだって、私と踊るの好きでしょう?」
「そうだな、カレンは、そういうところは私たちにそっくりだ」
「そうなの? それなら、カレンにもお父様みたいな素敵な人と踊れるようになる?」
「むぅ!? カレン、まだ早すぎるぞ? まだ九歳じゃないか」
「ふふふ、あなた、女の子の成長は早くてよ?」
「くぅ…カレンが嫁に行く日か…いやいや! 私の目が黒いうちはそうそう簡単には…!!」
背後から聞こえる楽しそうな笑い声に、ヘレンも笑みを零す。そういずれ。自分もカレンのように両親に褒めてもらうのだ。自分は、カレンよりもたくさん頑張らなくてはならない。だって、マイヤー家を継ぐのだから。それだけの期待を背負っているのだから。
ヘレンは胸に抱えた本を強く抱きしめた。
***
「ヘレン、カレン、ジャクリーヌにドナルド、久しぶりですね」
「「おばあ様!」」
「お義母様、ようこそお越しくださいました」
「長旅でお疲れでしょう、母上。滞在中はゆっくりとしてください」
ある日、領地の端にあるマイヤー家の別荘から、前伯爵夫人でありヘレンたちの祖母でもあるエリザベスが顔を見せにマイヤー家へとやってきた。
エリザベスは元侯爵令嬢で、祖父である前マイヤー伯爵とは恋愛婚だった。そしてその二人の間に生まれたのがドナルドであった。前マイヤー伯爵の有能さはバーゲンムート内でも有名で、その子であるドナルドも及ばずながらも優秀であった。
「大丈夫、と言いたいところですけど、老体には堪えますね…。お言葉に甘えて少し休ませていただこうかしら」
「おばあ様、私がお連れします!」
ヘレンは久しぶりに会える大好きな祖母を前に、つい元気よく昔のように言った。
「ヘレン、もう少し淑女らしくしなさい。そんなにはしゃいでいてはみっともない」
「あ…ごめ、も、申し訳ありません…。おばあ様、よろしければ私が案内いたします」
しかしそんなヘレンをドナルドが嗜める。それをエリザベスは悲しそうに見ながら諌めた。
「ドナルド、私だって久しぶりに会う孫にそのように対応されてしまっては寂しいわ」
「いいえ、母上。ヘレンはいずれマイヤー家を担うのです。そのためには、公私混同なくしっかりとした態度をとれるようにしませんと」
「ドナルド…」
「おばあ様、カレンも一緒にご案内するわ! こっちよ!」
その場の空気を読めていないのか、それとも読んでの敢えての行動なのか。カレンがエリザベスの手を握り、引っ張ろうとする。
「カレン、そんなに強く引いたらおばあ様が」
「早く早く! お姉さまも早く行きましょう!」
ドナルドとジャクリーヌはカレンの子供らしい行動には一切口を挟まず、微笑ましそうに見ている。
「ヘレン、妹と一緒に行ってあげなさい」
「はい、お父様、お母様。おばあ様、こちらです」
手を引かれ先に行く祖母が、ヘレンを見た。
「? どうかなさいましたか、おばあ様」
「……いいえ、なんでもないわ」
どうして、そんな表情をするのだろうか。
どうして、そんな切なさそうに、ヘレンを見るのだろうか。
「おばあ様、聞いて、カレンね!」
「そう、ダンスが上手なの、素敵な殿方からたくさん声をかけられてしまうかもしれないわね」
その日の晩餐は、両親に双子、そして祖母の五人での和気藹々としたものだった。用意された料理もいつもよりも丁寧で凝っており、料理人たちの気合が窺い知れる。
ヘレンはその一つ一つを味わいながら、家族の話を聞いていた。
「そう、カレンは頑張っているのね、とても凄いわ……。ヘレンは、どうなのかしら?」
すると、祖母はカレンの話を切り上げてヘレンについて聞いてきた。それにヘレンが応えようとすると。
「ヘレンもよくやっていますよ。少なくとも先生たちからの覚えは良いみたいです。ですが、それだけで慢心しない向上心のある子ですよ、母上」
「えぇ、その通りですわ、お義母様。ヘレンもカレンもとてもよくやっていますが、ヘレンはこのマイヤー家に恥じない教養をつけるために毎日頑張っておりますの」
ね、と母に言われ、ヘレンはにこりと微笑みながら頷いた。やっぱり、お父様とお母様はちゃんと自分のことを見てくれているんだと感じながら。
しかしエリザベスは少しだけ顔を曇らせた。
「とても素晴らしいことだわ…。でも、ちゃんとお休みを取っているの? ドナルドだって、休みを入れながら勉強をしていたでしょう?」
「母上、ヘレンは私を超えるような伯爵になってもらわなければ…。それにヘレンが無理をしているとは聞きませんし」
「そうですわ、お義母様。ヘレンもちゃんと自分から話してくれますわ」
そして大人三人からの視線に、ヘレンは教わった通りににこりと笑みを浮かべた。
「はい、ご心配には及びませんわ、おばあ様。お父様、お母様も私の頑張りを知ってくださっておりますから、私は大丈夫です」
「……そう」
ヘレン本人がそう言うと、エリザベスは何も言えなくなったのか、少しだけ悲しそうな笑みを浮かべていた。
「ねぇねぇ、おばあ様、カレンのお話をもっと聞いて!」
「あらあら……カレンはおしゃべりさんね…いいわ、もっと聞かせて?」
笑い声の聞こえる晩餐は、間違えなく家族団欒の場だった。両親ははしゃぐカレンを優しく見守り、祖母は一生懸命に話しかける孫の話に相槌を打っていた。
ヘレンは、それを淑女らしく見つめていた。
「ヘレン、起きているかしら…?」
その夜、自主学習を終えたヘレンはそろそろ休もうと思い、寝る準備をしているときに祖母はやってきた。
「おばあ様? どうかしましたか?」
「ちょっとね…、ねぇ、少しだけおばあ様とお話ししない?」
ヘレンは喜んだ。結局、晩餐の時はカレンがずっと話していたため、ヘレンが祖母と話すことはほとんどなかったのだ。
「もちろんです、おばあ様、よろしければどこか応接間にお茶を用意しましょうか?」
教わった淑女教育であれば、夜分遅くに寝間着で人と会うのははしたないとされている。それなら、今から急いで簡単なドレスに着替える必要があるだろうと判断してのことだった。しかし祖母はそれには及ばないと返答した。
「では、どちらで…」
「ヘレン、少しだけおばあ様をお部屋に入れてくれないかしら? 貴女がどのような勉強をしているのか気にしているのよ」
「で、でも…夫人は寝間着では誰とも会ってはいけないって…」
「他人ならそうね…でも私は貴女のおばあ様で、同性よ? それに言わなければ大丈夫よ」
聞こえてくるちょっとしたお茶目な声に、ヘレンの戸惑いは昂揚感へと変わっていく。悪いことなのかも、しれない。でも、おばあ様がいいとおっしゃっているし…、もしバレて怒られてしまっても次からは絶対にしないと言えばいい。一つ勉強になったと夫人には言えばいいのだ。
ヘレンはそこまで考えて、そろりと扉を開いた。
「こんばんは、ヘレン」
「こんばんは、おばあ様…どうぞ、廊下はお寒いでしょう」
「ありがとう、そんなに寒くはないから大丈夫よ」
祖母もすでに寝る準備を終えていたのだろうか。寝間着にガウンを着ている。いつもはきっちりと結い上げられた髪は、緩い三つ編みに編まれ背に流されている。
「夜分遅くにごめんなさいね、今日、あまりヘレンとお話しできなかったから」
「いいえ、こちらこそわざわざありがとうございます」
「……」
「? おばあ様?」
ヘレンは祖母を見上げ、そしてその表情を見て、どうして悲しそうにするのだろうと思った。祖母は、ヘレンが教え通りに話したり行動したりすると、形こそ褒めてくれるが、いつもどこか悲しそうだ。
ヘレンにはそれが、とても悲しかった。
祖母はそのままヘレンの背を押して部屋の中へと入る。せっかく来てくれたのに、少しだけ重く感じる沈黙にヘレンの居心地は悪かった。
「……ごめんなさいね、ヘレン」
「…おばあ様?」
そしていきなりの謝罪に、ヘレンの目は丸く見開かれた。
「いいえ、なんでもないわ…。ヘレン、お勉強は如何?」
「えっと…今いらしていただいているグリンデル先生は筋がいいと仰ってくださって…」
「ヘレン、今はいつもの言葉使いでいいわ」
「え、でも…」
「お願い、ヘレン」
ヘレンは懇願する祖母に、断ろうとは思えなかった。そしてその晩、ヘレンは、昔のような言葉使いで一生懸命話した。その度に祖母は褒めてくれた。
ヘレンは、手放しで褒められた幼いころを思い出し、頬を紅潮させながら話し続け、そしてそのまま眠った。
しあわせな、ゆめをみた。
ほんとうに、しあわせな。