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「お嬢様!」
「どうしたの、マリ」
「大奥様からお手紙が届いております」
「そう、ありがとう」
ヘレンが胃痛に悩まされるようになって数日、祖母エリザベスから手紙が送られてきた。前回からそんなに時間は経っていなはずだが、心配してくれているのだろう。
しかし手紙を読み進めるうちに、ヘレンの表情は強張っていった。
「お嬢様?」
そんなヘレンの様子に気づいたマリが、気遣わし気に声をかける。
「……イライアスが、こちらに来るわ」
「まぁ!」
マリは嬉しそうに声を上げるも、ヘレンの表情は強張ったままだ。しかしマリはそのことには気づけなかった。
「イーライ様がこちらに! お嬢様を心配されているのでしょうね! いつ頃いらっしゃるのでしょうか?」
「そう、かもしれないわね…。予定では一月後に来るようよ」
「まぁまぁ! 色々とお世話になりましたから、滞在を楽しんで頂きましょうね、お嬢様!」
「そうね」
マリは、どうしてイライアスがヘレンに優しかったのか、その理由を知らない。だからこそ、ヘレンとイライアスがお似合いの二人だと考えているのだ。
カレンには婚約者がいるというのに、ヘレンにはいまだにいない。その理由が、伯爵夫妻がヘレンのことを持て余しているせいだとも、知らない。父母は、またヘレンがあのようになってしまうのではないかと恐れているのだ。そんな娘を他所に嫁がせ、何かが起こればマイヤー家の名は少なからず落ちるだろうと考えて。
「…お父様に会うわ。マリ、伝えてもらえる?」
「かしこまりました」
イライアスの身元は、祖母が保証してくれているから父が断るなんてことはないだろう。だが、祖母の依頼で来る彼のことを警戒はすると思われる。
名目は祖母エリザベスがマイヤー家のことを心配しているが体調面で不安が残るため、代理で来るというもの。しかしその本当の目的は、マイヤー家がどうなっているのかを見に来ることだろう。
……そこまで心配をさせてしまっているのか、あるいはヘレンが手紙に書いた問題ないということは信用されていないのか。
「……疲れることばかりだわ」
ヘレンは手紙を引き出しにしまうと、天を仰ぎながら目を瞑った。
*****
「そうか、母上の依頼で…。ヘレン、お前が世話になったという人だな?」
「そうです」
「ふむ…。分かった。客間の用意をロドリゲスに頼んでおこう。滞在中、何不自由なく過ごしてもらうように。ヘレン、既知であるお前が対応するのが一番だろう」
「分かりました」
「あぁ、折角だ。アレックス殿も呼んで家族で食事会でもするか」
「はい」
ドナルドはヘレンの言葉を喜ばしく思いながら色々と提案した。
ヘレンが祖母の元に身を寄せている間世話になった青年、イライアス。祖母の知り合いの孫だというからには、きっと貴族の子息だろうことが推測できた。
一人で様子を見に来るということは、独り身である可能性が高い。婚約者がいるのであれば、独りで来るなんてことはしないだろう。ということは、ヘレンの嫁ぎ先になりえるかもしれないのだ。
しかし念のため、ヘレンに確認をする。
「そのイライアス殿は、結婚をしていないのだな?」
「そのように聞いています」
「ふむ、婚約者がいるという話は?」
「…私は聞いていません」
その時、ドナルドはヘレンの様子が思ったよりも淡々としていることに気づいた。ヘレンとて年頃の娘だ。その娘が、年の近い青年に大切にされていたのだとすれば、この反応はあまりにも淡々としすぎてはいないだろうか?
「……ヘレン、母上から、お前がとても世話になったと聞いているのだが」
「はい、イライアス様には本当に良くしていただきました」
「……その、何もないのか?」
「何も、とは?」
ドナルドはヘレンの表情を見て、ぞわりと背筋が粟立ったのを感じた。
娘は―――ヘレンは―――無感動な瞳をしていた。
「……ヘレン、その、イライアス殿に世話になったのだろう…?」
「そうです」
つい、同じ質問をしてしまうほどに、ヘレンからは何も感じられなかった。どうして、そこまで、他人行儀に言えるのだろう、と思ってしまうほど。
「……何があったのかは知らないが、良くしてもらったのだから、お礼をしなければならない」
「もちろんです」
ドナルドは、聞けなかった。ヘレン、お前はその人のことを好いているのか、とも、嫌っているのか、とも。それほどまでに、自分の娘であるヘレンの異質さを感じてしまった。
もし、ドナルドがヘレンのことを本当に気にしているのであれば、聞くべきであった。
どうして、世話になったのに嬉しそうではないのか、と。
どうして、そんなにも他人行儀なのか、と。
そうすれば、ヘレンは少しは自分のことを気にしてくれているのかと感じて、話していたかもしれない。
「……ロドリゲスに話しておくから、ヘレン、しっかりと持て成すんだぞ」
「分かりました」
―――ドナルドは、ヘレンのことを異質だと感じてしまった。しかしそれが、ヘレンが唯一被れる仮面だと、気づけなかった。
自分たちが、当主としてあるべき姿だと教え込んだ姿だということに。そこまで自分を律してしまうことができてしまった、娘の心情に。
結局、ドナルドはまた逃げたのだ。
****
「ヘレンお嬢様、お久しぶりです」
「…オルト夫人…? どうして……」
翌々日、マイヤー家には懐かしい人の訪れがあった。
眼鏡をかけ、髪はきちりと結い上げられている。それだけで、その女性がとても真面目で厳しそうだと感じさせる。だが、ヘレンは彼女がとても優しいことを知っていた。
「…少し、お話ししたいことがございまして。急な来訪申し訳ございません。少しだけ、お時間を頂けますか?」
「はい、構いませんけれど…」
ヘレンはいきなり先ぶれもなく来たオルト夫人を訝しく思いながらもサロンへと案内する。
「あら、オルト夫人! お久しぶりですね!」
「カレンお嬢様…。淑女たるもの、走るのはあまりよろしくありませんわ」
「あ…申し訳ございません。アンドレを探していたので」
「エマ、貴女もカレンお嬢様の侍女なのですから、しっかりとしないといけませんよ」
「はい、申し訳ございませんでした」
道すがら、カレンとエマに出会うが、オルト夫人に懐かしむ様子はなく、カレンの駆け寄りを注意した。そして同じようにカレンの背後から駆け寄ったエマにも注意する。二人は謝罪しながらも仕方ないというような表情をしていた。アンドレアスを探すという大義名分があるのだ、と言わんばかりに。
「それで、本日はどのようなご用件でいらしたのですか?」
「…ヘレンお嬢様に少し、お話があったので」
「そうですか、あ、そのあとでよろしければアンドレに顔を見せてあげてはくれませんか?」
「時間がございましたら、伺わせていただきます」
オルト夫人は一貫して態度を変えることなくカレンに対応する。いっそ、冷たいとすらヘレンには見えた。
「……オルト夫人、行きましょう。あまり時間がお取りできませんので」
「はい。ではカレンお嬢様、失礼いたします」
「マリ、お願いできますか? 時間をかけて丁寧に淹れたものを」
「はい、かしこまりました」
オルト夫人は、サロンに着くなりマリにそう指示を出した。本来それはヘレンのすべきことだが、どうやら人払いを兼ねていることにヘレンは気づいた。同じくして、マリも。
そしてマリが退室し、二人は向かい合ってソファーに腰かけた。
「……それでオルト夫人、マリまで出払わせてまでのお話とは、何でしょうか」
「その前にお一つ、お嬢様にお伺いしたいことがございます」
「何でしょうか?」
オルト夫人―――サブリナ・オルトはきらりと眼鏡を光らせながら、まっすぐヘレンを見た。その射抜くようなそれに、ヘレンのほうが一瞬だけたじろぎそうになる。
「…お嬢様、国を、お家を出られるおつもりはございませんか」
「………はい?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
そんなヘレンに、サブリナは続ける。
「グリンデルから、この伯爵家のお話を少し伺っております。……お嬢様の現在の御立場も。お嬢様、このままでは、貴女はいけません。貴女の頑張りが全て、無駄になります」
「な、にを…」
サブリナは、彼女にしては珍しくヘレンの戸惑いを無視して続ける。
「この国では、女という立場はどうしても弱くなります。以前までは、お嬢様が後継者となられるという前提がございましたから、問題はございませんでした。しかし、これからはそうもいきませんでしょう。ご子息がお生まれになった以上、お嬢様の居場所はここにはございません。そこは、お分かりになるでしょう?」
「っ……」
サブリナの厳しい現実を告げる言葉に、ヘレンは息を呑む。
「どうして、それが国を出ることに繋がるのですか…」
「お嬢様、ここバーゲンムートとアーガンマースでの女性の立場は低いことはご存知ですね」
「はい」
「そしてカロリアンは有能であれば、ダンデリオンは女性の社会進出、そしてエーファリアでは女性が優位であることも」
「知っています」
「カロリアンに、私の知り合いがおります」
「カロリアンに…?」
サブリナは少しだけ早口に、そして小声になりながら続けた。
「そうです。有能でなければ、あの国では厳しいかもしれませんが、お嬢様であれば問題ないと私も、そしてグリンデルも思っております」
「どうして…」
ヘレンには分からなかった。どうして、二人がそこまで自分を評価してくれているのか。そんなヘレンの戸惑いを理解したのか、サブリナは柔らかく目元を緩める。―――初めて見る表情だ。
「…ヘレンお嬢様、貴女はとても素晴らしい私の生徒です。そんな貴女が、駄目になっていくのは見ていてとても辛いのです。それほどまでに貴女は頑張って私どもの期待に応えておられました。その貴女が報われるお手伝いを、させていただけませんか?」
「夫人……」
その時、トントン、と扉が叩かれた。そしてマリが紅茶を持って入室してくる。
「大変お待たせいたしました、紅茶の用意ができましたので、お持ちいたしました」
「ありがとう、マリ」
マリの姿が視界に入った途端、サブリナはいつものような楚々とした佇まいに戻る。どうやら、本気で誰にも聞かれたくないようだ。
そして二人は当たり障りのない会話をし、サブリナは屋敷を後にした。
最後に、ヘレンの耳元でこう言い残して。
「…詳細を今度お話しいたします。手紙をお送りしますので」
「…分かりました」
遠ざかる馬車を、ヘレンは見送った。




