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マリは自分の主を心配していた。
「お嬢様、そろそろお休みになったほうが…」
「駄目よ、アンドレアスのこれからの教育方針を考えないと」
「ですがそれは、旦那様と奥様が…」
「マリ…わかっているでしょう? お父様とお母様はアンドレアスに甘すぎる。このままではアンドレアスの嫌なことをさせないかもしれないわ」
「…」
ヘレンの言葉に、マリは何も言えなかった。事実、そうなるとしか思えなかったからだ。マイヤー家待望の嫡男であるアンドレアスは、相変わらず誰からも甘やかされて、叱る人がほぼいない。ヘレンと同じように危機感を抱いているロドリゲスは、あくまでも執事でしかなく、アンドレアスを叱ることなど出来るはずもない。
その為、アンドレアスの好き嫌いを直そうとしているのはヘレンしかいないという現状が続いていた。
「お嬢様、その……」
「どうしたの、マリ」
「……イライアス様にご連絡をお取りになられないのですか?」
「……どうして?」
不思議そうに問うヘレンに、マリは心の中で驚いた。だって、あんなにも心を許していたと思っていたのに。
「そ、の、イライアス様はエリザベス様も良くご存知の方ですし、色々と助言を頂けるのでは」
「マリ」
マリはしどろもどろになりながらも言うと、それをヘレンが止めた。力強い言葉で。
「マリ、イライアス様にもイライアス様の生活があるわ。これ以上、マイヤー家の問題を抱え込ませるわけにはいかないわ」
「でしたら、せめて大奥様に…!」
「駄目よ。お婆様は私の一件で心労をおかけしてしまっているわ。今だってなかなか来られないのはお婆様の体調があまりよろしくないからよ? これ以上心労を重ねさせてはいけないわ」
「っ」
ヘレンが祖母、エリザベスの元からマイヤー家に戻って以来、エリザベスは精神的な負担が祟ったのか、体調を崩しやすくなっていることはマイヤー家の使用人ですら知っていることであった。
確かにそんな人にマイヤー家の現状を伝えるというのは酷かもしれない。しかし当主は大奥様の息子で、大奥様は先代の伯爵夫人なのだ。
そんなマリの心情を読み取ったのか、ヘレンは苦笑を浮かべた。
「……マリ、心配してくれてありがとう。でも、ここでちゃんとしなければマイヤー家はいずれ衰退するわ。他人に力を借りなければお家事情一つ解決できないというレッテルが貼られてしまうのよ」
「ですが、お嬢様にはお嬢様の未来があるではありませんかっ、今のままではお嬢様はこの家に捕らわれ続けることに…」
「マリっ!!」
「っ、し、つれいいたしました……」
マリは自分の失言を悔やんだ。誰よりも傍にいて、自分の主が家族のことをどう思っているかも理解していたというのに。
マリには理解できないが、この若い主は家族をとても大切に思っている。あのような状況に陥らされた今でも、なお。正直に言って、そんなマイヤー家の人々がマリはあまり好ましく思えなかった。確かにとても優しい人々だ。この家に仕えられたことが天恵だと思えるほどに。
しかしそれも今では少しだけ苦く思う。
どうして、ここの家の御方は自分の主に優しくしてくれないのだろうか。
…否、優しくしているのだろうと思う。水準以上の教育、衣類、食事。少なくとも暴力を振るわれることもなければ、冷めた家庭を見せているわけでもない。認めたがゆえに厳しくしているのも、理解できなくはない。
だが、それでも。
「……マリ、泣かないで」
「っ…、な、いて、ませ……」
マリの頬を、熱い雫がしたたり落ちる。自分が泣いている場合ではないのに。泣く資格なんてないのに。
そんなマリに、ヘレンは持っていた手巾でその頬を拭う。
「お嬢様、お嬢様っ……!!」
幸せになって欲しいのに。
誰よりも、誰よりも、ただ、幸せになって欲しいのに。
いっぱい頑張ってきた姿を知っているからこそ、穏やかに笑ってほしいのに。
「…泣かないで、マリ」
こんな、苦笑染みた笑みを、見たいわけではないのに。
―――どうして、ままならないのだろうか。
****
「奥様」
「シンシア、ヘレンからの返事は来たかしら…?」
「はい、こちらに」
エリザベスはゆったりとした椅子に腰かけながら、シンシアから渡される手紙を笑みを浮かべながら受け取った。開けば、いつものように丁寧な文字が並んでいる。季節の挨拶、そして体調を心配する内容。こちらは変わりなくやっているので、心配しないでほしいと締めくくられている。
「……シンシア、本当に大丈夫なのかしら?」
「ヘレンお嬢様ですもの、大丈夫ということは大丈夫なのではありませんか?」
シンシアの返答に、エリザベスは憂い気にため息をつきながら手紙を卓上に置く。
エリザベスは、ヘレンが心配で仕方なかった。孫は、何故か回復したとたんに戻ると強行して戻ってしまった。もう少しここで心を癒していけばいいと思ったのに、家が心配だからと。
そのあとからくる手紙には、恙なく暮らしている、家族みんな元気だとしか書かれなくなったのだ。
「…そういえば、カレンの婚約者は決まりそうなのよね?」
「そのように聞いておりますわ」
「…ヘレンは、どうなっているのかしら」
「ドナルド様が取り計らっているようですが」
シンシアの淀みない返答に、エリザベスはそうなのだろうと思う。いくらあの息子と言えど、自分の娘に対して何もしないということはないだろう。
ただでさえ負い目があるのだから。
「シンシア、奥様には」
「言っておりません」
「そのままで頼んだぞ」
「…ダン、本当にいいのでしょうか?」
その夜、使用人専用の部屋ではシンシアと執事のダン、そしてオレリーが顔を突き合わせていた。三人の表情は暗い。
ダンの手には、封筒が握られていた。
「……ヘレンお嬢様にも困ったものです…。いくら奥様を心配させたくないからと言って、私たちにまで偽証を依頼してくるとは…」
ダンの手に握られているのは、ヘレンからダンたち使用人宛の手紙だった。内容は、マイヤー家の本当の現状、そして自身のことだった。
結果的に言えば、芳しくない現状がマイヤー家にある。さらに言うのであれば、予想以上に悪い状況だ。
「……アンドレアス様の教育が思った以上に難航しているのは、厳しいですね」
「というより、当主様も奥方様も危機感を抱いていないというのは…」
「それよりも、ヘレンお嬢様のこれからが何も決まっていないことのほうが問題です! お嬢様はデビュー時こちらにいらしたから参加されていないのでしょう? ならばお茶会などに積極的に参加していい殿方を見つけなければならないというのに…。当主様奥方様もそのことを理解されていなさすぎです!」
オレリーが憤慨する。ダンにもその気持ちは痛いほどよくわかった。あの心優しいお嬢様が、ここまで蔑ろにされる理由がわからない。
…分からないというか、理解したくない。現当主であるドナルドのことは、ダンも良く知っている。だからこそ、彼らが後ろめたさゆえに何もしない、さらに言うのであれば嫡男の存在に逃げていることが想像できた。
「……亡き旦那様と奥様の教育が間違っていたとは申しませんが…どうしてそうなったのか…」
ダンの知るドナルドは、良くも悪くも普通の人だった。天才でもなく、だからといって愚直でもない。本当に可もなく不可もなくという評価が一番のものだった。
自分に自信があまりないせいか、問題を先送りにしたり見なかったことにするのは幼いころからままあったが、まさか親になってまで改善されていないとは。
「それにしてもお嬢様もどうして奥様には内緒にしてほしいなどと…」
「それは致し方ないことでしょう。奥様の体調面を考える優しさをヘレンお嬢様はお持ちですから。ですがどこから情報が洩れるかわからないから、私たちに根回しをしたのでしょう」
「わかっていますけどっ」
シンシアはやるせない思いを吐き出すかのように深く息を吐いた。
正直、シンシアの気持ちがダンには痛いほど理解できる。エリザベスには話さないにしても、イライアスに相談すればいいのに、ヘレンはそれすら嫌がる。曰く、マイヤー家に関係のない人だから、と。
「それにしても、イライアス様とヘレンお嬢様、結構いい感じだと思っていたのですけどね」
「……」
それはダンも思ったことだった。しかしある日を境に、ヘレンはイライアスとも距離を置くようになっていた。その理由は、ダンにもわからない。イライアスも同じだったらしく、去るヘレンの背を少しだけ悲しそうに見ていたのが今でも思い出されるのだ。
「……ままなりませんわね」
オレリーの一言は、その場にいる全員の心情を語ったものだった。
****
カタリ、とヘレンは持っていた筆を卓上に置いた。それは父が自分に誕生祝にくれたものだ。まだ幼かったヘレンは、それももちろん嬉しかったが、カレンが贈られている人形のほうが良かったと思ったことがある。もちろん、口にすることはなかったが。
「……期待なんて、したら駄目ね」
卓上には、ヘレン宛の手紙が一通、無造作に置いてある。それは、イライアスからの手紙だった。
季節の挨拶から始まり、イライアスも領地に戻ったこと、そして元気にしているだろうかという当たり障りのない内容だった。
手紙がきて嬉しいと、自分を今でも気にしてくれているのだと喜ぶ気持ちの一方で、自分をかつて失った恋人の代わり…贖罪の対象にしているのだと思うと、ヘレンの心は鈍く痛んだ。
思えば、初恋だったのかもしれない、とヘレンは思う。自分だけを見て、優しくしてくれる。そんな男性に、想いを寄せずにはいられなかった。しかし結果として、彼はヘレンという個人を見てくれていたわけではないと知ってしまったが。
伝えられなかった想いは、今でもヘレンの中で燻っている。だからといって伝えることなどしないが。伝えたとしても、相手を困らせるだけというのがわかりきっていて、誰が伝えようと決心できるのだろうか。
もしそういう人がいるのであれば、ぜひその心情を教えてほしい。
―――少なくともヘレンには、それができないから。
それと同時に、自分の将来のことを考える。
本来十五で出席する予定だったデビューのパーティーには参加できなかった。ならば他のパーティーに参加して何かしら繋がりを作らなくてはならないが、家のことが手いっぱいでそれすら行っていない。……いや、それもきっと言い訳にしか過ぎない。
……正直に言って、ヘレンは怖いのだ。
今まで、普通の令嬢のような教育を受けてこなかった。そんなヘレンにとって、お茶会、他の令嬢との会話というのは未知なる世界なのだ。何を話せばいいのか、何を話したらよくないのか、よくわからない。自分の一言で、マイヤー家の質が疑われてしまうかもしれない。
それが、とてつもなく恐ろしいのだ。
「………どうしたら、いいの」
ぽつりと零されたそれは、迷子のように頼りなく響いた。




