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「いやだああああ!!」
「駄目よ、アンドレアス!」
「ヘレンなんか嫌い!!!!」
ヘレンは泣き叫ぶアンドレアスを前に、泣きそうになりながらも必死に窘めた。
「アンドレアス、嫌いなものも食べないと立派な人になれないのよ?」
「でも嫌いだもん!! ぼく、お外で遊びたいぃぃぃ!!」
「アンドレアス!」
アンドレアスの癇癪に、ヘレンは困り切っていた。アンドレアスは四歳になったものの、誰もが甘やかすせいか未だに我が儘を言うことのほうが多い。
幼子なので仕方のないことだが、問題は周りの大人たちだった。誰一人として、我が儘しか言わないアンドレアスを窘めないのだ。むしろ、嫌いなものを食べる必要がないとまで言う始末。ヘレンは、自分が幼い時もこうだったのだろうかと不安に思うほど、父母はアンドレアスに甘かった。
「アンドレアス、嫌いなものを食べれたらお外で遊んでもいいのよ?」
「いやだ! パパもママも、カレンちゃんも食べなくていいって言った!」
「それでは駄目よ、アンドレアス。ちゃんと食べないと大きくなれないわ。それにお父様、お母様、でしょう?」
ヘレンは何とかしてアンドレアスに嫌いだという野菜を食べさせようとする。料理長にも頼んで、食べやすくしてもらっているというのに、アンドレアスは何故か気づき、それを全て除けるのだ。
「ヘレン、それくらいにしてあげなさい」
「!」
「パパ!! ヘレンがいじわるする!!」
アンドレアスの叫びを聞いたのだろう、ドナルドが顔を顰めながらヘレンに言った。
「ですがお父様、野菜もしっかり食べないと、体に悪いです」
「アンドレはまだ小さいから苦手なだけだろう。大きくなれば食べられるようになる」
「ですが……」
「お父様、カレンもお姉さまの意見に賛成ですわ」
「カレン!」
同じくして、カレンがやって来てそう口にする。正直にいえば珍しい。カレンはアンドレアスを甘やかしている筆頭だったからだ。しかしヘレンはカレンの言葉を嬉しく思った。自分だけがそう思っているわけではないと思えて。
「アンドレ、嫌いなものを食べられる人はかっこいいのよ?」
「ううぅ~~……なんで、カレンちゃんも、いじわる言うの…?」
「アンドレ、いじわるじゃないわ。お姉さまも私も、アンドレに素敵な大人になって欲しいから言うのよ」
「………」
ヘレンはカレンの言葉に、そういった言い方があるのだと一人感心していた。自分は頭ごなしに食べなさいとしか言わず、それに対してアンドレアスは反発ばかりしていた。
しかしカレンの言葉には、アンドレアスは涙目になりながらも大人しく聞いているのだ。
「そうよ、アンドレアス。私もアンドレアスに素敵な人になって欲しいから言っているのよ。ね? 少しでもいいから食べましょう?」
「……カレンちゃん、てつだってくれる?」
「もちろんよ! かわいいアンドレ!」
アンドレアスは涙目のまま、上目遣いでカレンにお願いをする。そのことに、ヘレンは少しだけ寂しくなりながらもカレンに食事を渡した。
しかし。
カシャーーーン
「っ! アンドレアス!!」
アンドレアスは差し出されたそれを口にすることなく、投げ捨てた。皿が甲高い音を立てて床に転がり、盛り付けられた野菜は無残に転がった。
それを見たヘレンは、すぐさま鋭い声でアンドレアスを叱ろうとする。
しかしヘレンの声に驚いたのか、アンドレアスは大泣きを始めた。
「うわあああああああん!! ヘレンが、ヘレンが、おこったぁあああ!」
「アンドレアス! 泣いてすむことでは…!」
「まぁまぁ落ち着いて、お姉さま。よしよし、アンドレ…駄目じゃないの、食べなくちゃ」
「うぅむ、アンドレよ、いくら何でも良くないぞ?」
「ううっく、ひぃっく…だって、だって、へれんが、ぼく、やだってゆったのに、たべろって、おこる…」
「むぅ…。ヘレン、もう少し優しい物言いは出来ないのか? アンドレが怯えてしまっている」
「お父様! 何を言っているのですか、折角作ってもらったものを…!」
床に転がっている食材が、どれほどの時間と手間暇をかけて作られているか知らないはずがないのに。しかしヘレンの言葉は、ドナルドへは届かなかった。
「アンドレ、私の可愛い坊や…? どうしたの?」
アンドレアスの泣き叫ぶ声を聞きつけた母、ジャクリーヌが慌ててやってくる。その姿に、ヘレンは辟易た。また、始まるのか、と。
「ままぁああ!! へれんが、ぼく、やだってゆったのに!!」
「まぁまぁ、泣かないの、アンドレ。ヘレン」
「…はい、お母様」
「アンドレはまだ四歳よ? 少し厳しいのではないの?」
「ですが」
「ヘレン、アンドレは貴女の弟よ? 大丈夫、大きくなれば理解してくれるわ」
「……はい」
ひくひくとしゃくりを上げるアンドレアスの周りを、父母、そしてカレンが囲む。そしてそれぞれがもう泣かなくてよいと慰めを口にする。
確かに、ヘレンが教育を施されるようになったのは五歳からだ。まだ、二年弱の自由な時間がアンドレアスには残されている。だからと言って、甘やかしすぎるのはよくないのではないだろうか。それとも、自分が可笑しいのだろうか。
背後にいるロドリゲスの空気から、自分が間違っていないのだとわかっていても、家族の中では厳しすぎるという評価。ヘレンはアンドレアスが五歳になるまでは我慢しなくてはならないのだろうかと自問自答しながらも、その光景を見ていた。
****
「アレックス様!」
「こんにちは、カレン。お久しぶりです、マイヤー伯爵」
「あぁ、久しいな、アレックス」
その日、マイヤー家にはある人物が訪れていた。
青年の名前はアレックス・ファフニール。ファフニール伯爵家の長男であり、カレンの婚約者候補の一人であった。候補といっても、ほぼ決定しているのだが。
ファフニール伯爵家は、マイヤー伯爵領の隣を治める貴族だ。かつてはマイヤー家よりも栄えていたが、現在の当主である夫妻は人が良すぎ、結果として裕福とは程遠い生活をしている。そんな家を再び栄えさせようと頑張っているアレックスは、評判がよかった。
「カレン、大したものでなくて申し訳ないが、受け取ってくれないか」
アレックスはそう言って花束をカレンに渡す。
「まぁ、可愛らしい! ありがとう、アレックス様」
渡された花束は、豪奢とは程遠くどちらかと言えば地味なものだったが、カレンはそれを笑顔で受け取った。
「あーー! アレにいさま!」
「やぁ、アンドレアス。元気にしていたかい?」
「うん!!」
見知った人の顔を見たアンドレアスは、満面の笑みを浮かべながらアレックスへと駆け寄る。そしてそのまま抱き上げられてきゃっきゃっと笑った。
「アンドレはアレックスが好きだなぁ! お父様ももっと好きになってくれていいんだぞ?」
「お父様、おひげ痛いんだもん!」
「ふふふ、お父様、お髭を御剃りになったほうがいいかもしれないわ」
「むぅ…」
「さぁアレックス様、サロンへどうぞ」
「ありがとう、カレン」
カレンとアレックスの婚姻は、カレンの恋愛感情から生じたものだった。デビューの際に開かれた舞踏会で、カレンがアレックスを見て一目ぼれをしたのだ。そうでなければ、金策にあえぐ家に娘を嫁がせるようなマイヤー家ではない。
カレンと婚姻を結ぶことにより、ファフニール家はマイヤー家からの援助を受ける予定となっており、その代わりに定期的にカレンを実家に連れてくるのを条件としている。それをアレックスが許諾したのだ。
「―――あれは」
サロンへと続く道すがら、アレックスは外の光景を見てそう漏らした。
「? あぁ、ヘレンお姉さま。剣のお稽古をされているのね」
「そうか。なかなか話す機会がないものだね」
「そうね。お姉さま、いつもお忙しそうにしているから」
「せっかく家族になるのだから、仲良くしたいのだけどね」
「アレックス様…。今度お姉さまも来てくださるように言っておくわ」
「ありがとう、カレン」
そんな二人の会話に、アンドレアスは頬を膨らませながら抗議した。
「ヘレンと仲良くしないほうがいいよ、アレにいさま」
「ん? どうしたんだい、アンドレ」
「だって、ヘレン、いじわるだもん」
ふくりと頬を膨らませるアンドレアスの頬を、アレックスは微笑みながら突く。しかしアンドレアスはむすりとしたままだ。
「アレックス様、アンドレはお姉さまに怒られたこと、根に持っているのよ」
「もってないもん!」
「あら? 本当かしら?」
「ほんとうだもん!」
「そうなのか…、アンドレ、きっとヘレン嬢も君のことを思って強く言ってしまうだけだよ」
「む~~~、アレにいさま、へれんのみかたなの?」
「ははっ、違うよ。私は皆の味方だよ」
「だめー! アレにいさまは、アンドレのみかた!!」
「だぁめよ、アンドレ! アレックス様はカレンお姉さまの味方よ」
「やぁああ!」
「………アンドレ、お父様が味方に」
「やーー!!」
くすくすと笑い声が廊下に零れる。暖かな日差しの降り注ぐ廊下、そこはまさしく理想の家族の姿があった。
「お嬢様」
「―――っ」
「お嬢様っ」
「はっ!」
「ヘレンお嬢様!!」
「っ、マリ?」
ヘレンは一人無心で剣の素振りをしていたところ、マリのいつにない大声によって現実へと戻される。思ったよりも長く素振りをしていたようで、手が少しだけ痺れていた。
「お嬢様、そろそろお切り上げになられたほうがよろしいかと思います。カレンお嬢様の婚約者候補の方もいらしております」
「あ、あぁ、そうだったわね…。でもこんな格好では会えないわ。また今度にするわね」
「左様にございますか…。では湯あみの準備をしておりますので、どうぞお部屋に」
「ありがとう、マリ」
ヘレンは差し出された手拭で汗を拭く。いくら暖かいとはいえ、風が当たれば体が冷えてしまう。風邪をひく前にさっさと室内に戻らなくては。
「―――」
不意に視線を感じたヘレンは、感じたほうへ視線を向ける。そこはサロンで、遠目にもカレンたちがいるのがわかった。
「っ…」
ヘレンの背筋が、一瞬粟立つ。室内にいる青年と、視線が絡み合った。柔らかく微笑んでいるが、その視線は鋭い。どくり、とヘレンの心臓が大きく脈打つ。
きっと、彼がカレンの婚約者候補なのだろう。その彼がどうして自分を見ているのだろうか。
「……」
ヘレンは絡み合った視線を無理矢理引き剥がすかのように、体を動かす。どうして、彼はあのような視線を自分に送ってくるのだろうか。挨拶すらしたことのない自分に。
「お嬢様?」
「……今行くわ」
手に握った剣を、強く握る。やる必要もない鍛錬を、ヘレンは続けている。続けることが、唯一落ち着くことだった。
その瞬間、あの優しい時間が脳裏に思い浮かぶ。
緑溢れる、優しい世界。
でも、もう自分はそれを手放したのだ。
ヘレンが生きる世界は、ここなのだから。




