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「アンドレアス、好き嫌いは駄目よ」
「いやああああああ!!」
「ヘレン、そんなに厳しくしなくてもいいだろう」
「お父様、駄目です。アンドレアスには苦手を克服することを覚えてもらわないと」
「へれーやだああああ!!」
アンドレアスの泣き叫ぶ声が食堂に響く。その光景をカレンとジャクリーヌは辛そうに見ているだけだ。ドナルドに至っては、やり過ぎだと声を上げてくる。
しかしヘレンは折れなかった。
それはグリンデルと話し合った結果だったからだ。
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「お久しぶりです、グリンデル先生」
「ヘレンお嬢様…! よかった、元気になられたのですね」
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
対外的にヘレンは病気療養という形で祖母エリザベスの元に身を寄せていたことになっており、急遽移動したため、碌に挨拶もせずに別れていた。そのことを謝罪すると、グリンデルは気にしないでほしい、完治したのであれば喜ばしいことだと返した。
「本当に心配しておりました…! 当主様に伺っても大丈夫だの一点張りでしたので」
「先生…本当に心配をおかけしました。でももう大丈夫ですから」
「えぇ、えぇ…! 時にヘレンお嬢様、私に何か聞きたいことがあると」
「はい。少しご相談したいことがありまして」
「私で答えられることであればなんなりと」
そうしてヘレンとグリンデルはかつてのヘレンの勉強部屋へと足を運ぶ。数年前まで毎日のようにいた場所。下手をすれば、自室で過ごす時間よりもここで過ごした時間のほうが長いかもしれない。
ヘレンはマリに紅茶を頼むと、グリンデルの真正面へと座る。
「それで、お聞きになりたいこととは」
「…先生、小さな子に、一切怒らずに何でも与えるというのはいいことなのでしょうか」
「………アンドレアス様のことですな」
ヘレンはこくりと頷いた。
「…正直に申しまして、ヘレンお嬢様がここから離れてから、私がこちらに伺ったのは数度しかございません。詳細を伺えますか?」
「はい…私も先日執事のロドリゲスから聞いたのですが、アンドレアスは嫌いなものを一切食べない、慣れた人に我儘を言う、欲しいものは何でも与えられている、欲しいものが手に入らないと癇癪をおこす、くらいでしょうか」
「ふむ…。嫌いなものは食べさせようとしているのですか?」
「いいえ、食べなくていいと」
「慣れた人に我儘を言うというのは? 甘えているのではありませんか?」
「初見の人とは物怖じしてあまり話さないのですが、慣れると我儘を言うようです。私も甘えているのだと思ったのですが、ロドリゲス曰く、自分の言うことを聞くのが当たり前だと思っていると感じると」
ヘレンの回答に、グリンデルは唸った。
「欲しいものは直ぐに与えられているというと…我慢が出来なくなる性格に育つ可能性があります。欲しいものが手に入らないと癇癪を起すのがそれに近いでしょう」
「そうですか…一番聞きたいのは、それらを今から矯正することは可能ですか?」
「…ちなみに、そのことに危機感を覚えられているのは?」
「私と、屋敷に務めている人が多いようです」
「恐れながら、伯爵家の方々は貴女お一人ということですか?」
ヘレンは小さく頷いた。グリンデルの言葉に非難の色が見えたからだ。
「あぁ、お嬢様を責めているわけではありません。ただ、少々甘いような気がしまして」
「グリンデル先生もそう思われるのですか…? ロドリゲスも似たような心配をしていました」
「子がいると自然と。親というものは難しいものです。いくら正しく優しい子に育てようとしても、子育てに正解などありません。親とて人の子です。迷い、苦悩し、自分に間違いがないのかと常に自問しようとも正解などありませんから、不安に駆られるばかりです」
「……先生でもそのように思われるのですね」
「ふふ、お嬢様、私とて人の子であり、貴女様と同じように幼い時があったのですよ」
ヘレンはグリンデルの言葉を新しいことを教えてもらったかのように感じながら聞き入った。ヘレンにとってグリンデルは大人で、何でも知っていて間違えなど犯したことのない聖人君子のように思っていたからだ。
そんなヘレンの考えを読んだのか、グリンデルは苦笑を浮かべた。
「お嬢様、私は天才ではありません。貴女様と同じように勉学に励み、先人たちの教えをひたすら学んだ一人にすぎません。………私にも、かつて驕っていた時がありました」
グリンデルは罪を暴露するように目を伏せながら話す。そんなグリンデルを見たことがなかったヘレンは、こくりと喉を鳴らしながら全身全霊で紡がれる言葉へその身を傾ける。
「……人より少しだけ成績の良かった私は、自分の子であれば同じように優秀であるべきだと押し付けてしまったのです」
「……それは」
「えぇ…完全にやってはならないことです。子には子の夢が、希望があったというのに。私はそれを無駄なものとしてひたすら優秀であるように強要したのです」
後悔しているからか、グリンデルは深いため息を吐きながら続けた。
「清廉潔白で在れ、常に正しく在れ。そう子たちに説きました。そして次男は、その重圧に耐え切れず、家から逃げ出しました」
「……」
ヘレンは何も言えず、沈黙したままグリンデルの言葉を聞く。
「あの当時は、なんて親不孝者だと怒りました。しかしあまり物言わぬ妻に激怒されまして」
「…奥様に?」
「はい。どうして自分の子を認めてやらないのだと。頑張りをどうして求め続けるのかと。…一言褒めて、親子の時間を持たないのかと」
ヘレンには、その言葉の重さが良く分かった。分かって、しまった。
「当時の私にはいまいち理解できず、家長という立場でありながら私は家の中でも浮いた存在になりました。そして長男が結婚し、孫が生まれました。その年になると、家から逃げた次男のことを気にするようになり、ようやく次男の行方を調べたのです」
「…見つかったのですか?」
「はい。次男は、平民の女性と結婚し、幸せそうに暮らしておりました」
グリンデルはその光景を思い出すかのように目を伏せた。
「……既に次男は子がおり、とても楽しそうに笑っていました。その孫を見る次男も、穏やかで私よりも幸せそうに見えたのです。…正直に言いまして、言葉になりませんでした。いくら勉強が出来ても、貴族の端くれで裕福であっても。私が持っていないものを持っているように見えました」
「…先生は、どうしたのですか?」
「…私は、恥を忍んで次男に会いました。正直、憎まれていると思っていました。しかし次男は、私に穏やかに挨拶をしてくれたのです。あの瞬間、私はどれだけ子供たちを見てこなかったのだろうと思ったのです」
グリンデルはその時のことを思い出したのか、目尻に涙を滲ませながら微笑んでいた。
「次男が、あのように笑えるなんて、私は知りませんでした。孫が生まれていることも、幸せに暮らしていることも、何一つ、知らない…知ろうとしなかったのです。……それから、ですね。子供のためを思う教育が全てではない、と気づいたのは」
グリンデルは穏やかに微笑みながらヘレンを見た。
「私は一概に人様の家庭の教育の善し悪しをいうことは出来ません。ですが、強要しすぎでも良くないですし、だからとって甘やかしすぎるのも良くないと勝手ながら思っている次第にございます」
正直に言って、ヘレンにはグリンデルの後悔の一部しか理解できなかった。だが、それでも少しだけわかったことはあった。
「……今、私に出来ることはアンドレアスを正しく導くこと、ですか?」
ヘレンの言葉に、グリンデルは微笑を浮かべた。
「それはお嬢様が見つけることです。正しい、というのは誰にとって正しいのか。誰にとって正しく在って欲しいのか。私は助言は出来ましても、導くことはできません」
グリンデルのその言葉に、ヘレンは少しだけ突き放されたような気持ちを感じる。
「お嬢様、貴女はまだお若い。アンドレアス様のことを気にするお気持ちは理解できますが、貴女は貴女の進退をお決めにならないといけません」
「……先生、その、以前お話ししてくださった件は…」
「……申し訳ありません、やはり非常に難しいようです」
「……そうですか」
ヘレンは想定していた返答だと理解しつつも落胆を隠しきれなかった。ヘレンは未だに自分の道を見つけられていない。見つける前にアンドレアスの問題が発生したというのもある。
本来それらは、マイヤー当主がやるべきことだが、ドナルドはアンドレアスのことで手がいっぱいでヘレンの将来のことなど欠片も考えていないだろうことはわかる。
「……先生、アンドレアスのこと、手伝ってくださいませんか」
「…もちろんですよ、お嬢様」
ヘレンも、問題を先送りにした。それしかできなかった。自分が継ぐと思っていた家。しかしそれが出来なくなったからといって、衰退してほしいわけがない。
ヘレンは、両親はもちろん、妹弟も、仕えてくれている人たちを愛しているのだから。
アンドレアスが間違った道に進むとは思っていない。だが、ある程度のことは必要だ。両親が自分のことを苦く思っていて甘やかしているのだとすれば、それを正すのは自分のやるべきことだとヘレンは思っている。
アンドレアスが生まれたことは奇跡であり、喜ばしいことなのだ。あの子が産まれたことで自分がそれを恨むなどしてはいけない。
「先生。私は、この家を盛り上げたいと思っています。そのために、ずっと頑張ってきました」
「えぇ、よく、存じておりますよ」
「その為に、アンドレアスに必要なことを教えてください」
「もちろんです、お嬢様」
「…先生、私を気にしてくださってありがとうございます。どれくらいになるかわかりませんが、これからもよろしくお願いいたします」
ヘレンは淡く微笑んだ。
自分の将来なんて見えない。正直にいって、これからどうやって生きていけばいいか分からない。それでも、家族は大事なのだ。
褒めてくれなくても、厳しくされていても。それでも、それがヘレンのためだと理解していたから。だから、頑張ろうと思えた。
ヘレンは、またしても少しずつ自分を追い詰め始めた。
―――本人は気づかなくとも。
もう、たすけてくれたあたたかい手は、ない。




