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「ヘレン、本当に戻るの?」
「はい、おばあ様。こちらに長くお邪魔してしまいましたし、それに一度戻ってちゃんとしてからまた遊びに来たいです」
ヘレンが一人で泣いた日から二週間後、ヘレンは一度マイヤー伯爵邸に戻ることになった。それはヘレンからの意見で、エリザベスやイライアスはそれを止めようとした。しかしヘレンの意志は固く、結局一時帰省という形で話は落ち着いた。
「それにしてもヘレン、こんなに急がなくてもいいのではないですか? まだ体調が万全ではないかもしれませんし…」
「イライアス、大丈夫です。一応私も剣術を習った身、体力は落ちてしまっているかもしれませんが、それも鍛錬の一端とします」
にこり、と綺麗に笑うヘレンに、イライアスとエリザベスは何も言えなくなる。本人がここまで言うのであれば、大丈夫なのかもしれないと思っているのだろう。
「お嬢様、準備が整いました」
「ありがとう、マリ」
「ヘレン、本当にダンに送らせなくて大丈夫なの…? とても心配よ」
「大丈夫です、おばあ様。それにダンさんも長距離の往復の旅は大変ですよ? ちゃんとした方に御者を依頼しているので、大丈夫です」
「まぁ、フィグ副隊長に頼んだのであれば大丈夫だとは思いますが…」
ヘレンの帰省の旅に一番問題となったのが御者だった。エリザベスがいる際はダンがするのだが、今回はヘレンが戻るだけだ。そのため、短期間で往復することになる。いくらダンが体力があったとしても、六十を超えた人にやらせるべき仕事ではない。
そんな時、ヘレンはヴィーゴで知り合った自警団の二人を思い出したのだ。早速手紙を出してみると、ゼンからは色よい返事でフィグに選考させると言ってくれたのだ。
「それにしてもヘレンはとても行動が早いのね…。まさかあの自警団の方々に連絡を取るとは思いもしなかったわ」
「何かあったら言ってほしいと言われていたので、今回だけ甘えさせていただきました」
にこにこと話すヘレンを、イライアスは心配そうに見ている。
「ヘレン、私も一緒に行きましょうか?」
「イライアス、私は大丈夫ですよ? もう小さな子供でもないですから、一人で帰ることくらいはできます」
ヘレンはイライアスの申し出をころころと笑いながら断る。その様子に、イライアスは眉根を寄せた。
「―――ヘレン、何かあった、」
「お嬢様! そろそろ出発されませんと日が暮れてしまうと御者の方が」
「わかったわ、マリ。イライアス、何か言いかけました?」
「……いえ、なんでもありません。道中気をつけるんですよ」
「そうよ、ヘレン。何かあったらすぐに連絡をして頂戴?」
「お嬢様、奥様もご心配されていますし、私どもも心配しておりますので、必ずご連絡をください」
次々に送られる言葉に、ヘレンは破顔した。
「―――ありがとう」
そうしてヘレンは、マリを連れて帰路へと立った。
「……夫人」
「何かしら、イーライ」
「何か、おかしく思いませんでしたか?」
「何のことを言っているの、イーライ?」
イライアスは言葉にできない不安を胸中に感じていた。何かを、見落としているような気がしてならないのだ。
「ヘレンですが、様子がおかしいと思いませんでしたか?」
「? いいえ、昔のあの子はあんな感じだったわ」
「昔、というのは…」
「ずっと前の話よ? もう五年以上前くらいかしら。そのあとからヘレンは淑女たれとドナルドたちに窘められていたわ」
「……そう、ですか」
エリザベスが違和感を感じていないのであれば、ないのかもしれない。自分とヘレンは短い付き合いでしかなく、自分がヘレンのすべてを知っているわけではないのだから。
「そう、ですよね。気のせいでした」
イライアスは自分の勘を信じなかった。もっと考えていたら。踏み込んでいたら違和感の正体に気づいたかもしれない。しかし結果として、イライアスは気づくことはなかった。
イライアスの感じたヘレンの違和感。それは簡単なことだった。距離があるのだ。
自分ですべてを手配してしまい、そして予定を立てる。そのことを、ヘレンはエリザベスにもイライアスにも相談することはなかった。
自分には八つ当たりしてもいいと言ったイライアスは、結局一度も八つ当たりも泣きつかれもしなかった。つまり、ヘレンは淑女として…当主として鍛えられた仮面を被ったのだ。
しかし以前のように振る舞うとばれてしまうため、出来る限り柔らかい態度にして。
もしイライアスがこれに気づいていたのであれば、きっと何が何でもマイヤー家には戻さなかっただろう。
だが結果として、ヘレンはエリザベスの庇護下から飛び立つことを決意したのであった。
*****
「それにしてもお嬢様、いきなりお戻りになるなんて…何かあったのですか…?」
ガタガタと揺られる馬車の中、マリは不安そうにヘレンに問うた。自分の主は言葉に出さないことのほうが圧倒的に多いのだから。しかし目の前に座る主は、にこりと微笑みを浮かべた。
「何もないわ、マリ。いつまでもおばあ様にご厄介になるわけにもいかないでしょう? それに私も十五だもの。婚約者を探してもらわないとならないわ」
「でもお嬢様…きっとすごく時間がかかると」
「そうね。マイヤー家に利のある相手ともなると、結構難しいわね。でも大丈夫、お父様なら見つけ出してくれるはずだわ」
穏やかに微笑む主に、マリはふと違和感を感じた。自分の主は、自分の前でもこのように笑っていただろうか?
不安になるも、きっと反応がない時間が長かったからだと自分に言い聞かせる。自分はお嬢様にとって唯一の侍女なのだ。心を許してくれているはずだ。
「……」
ヘレンは一人考え込むマリを見、そして肘をつくと窓から見える景色をその瞳に映した。その瞳は、無感動に景色を反射していた。
何日か揺られた馬車は、ようやくヘレンの見覚えのある道へと出た。つまり、マイヤー家が近くなっているということだ。久々に戻る家に、少しだけ緊張しているのが、自身でもわかった。
自分がいなくなった後のあの家は、大丈夫だろうか。アンドレアスはもう三歳だが、話すのだろうか。カレンは、両親は。確かに一時色々とあって家族に亀裂があったかもしれない。だが、ヘレンは家族の愛を疑ったことなど一度もなかった。
家を離れてほぼ二年。そのうちの一年以上の記憶は曖昧で、そんなに長くいた自覚はない。だが、家族はその分時を重ねているのだろう。家族が変わっているのと同じように、ヘレンも変わった。
以前は当主になるためだけに頑張ってきたが、そこまで頑張らなくてもいいと思えるようになったのだ。それに関しては、イライアスに感謝しかない。
自分だけを求めてくれる人に出会えるとは思わないが、せめて自分を愛してくれている家族には報いたい。迷惑をかけて、きっと心配をかけてしまっただろう。もしかしたら、今も心配しているのかもしれない。自分が回復に向かっていると手紙を出したときも、もっとゆっくりして療養するようにと言ってくれるのだから。
「お嬢様、そろそろお屋敷が見えますぜー!」
「ありがとう」
御者が車輪の音に負けない大きな声で馬車にいるヘレンたちに声をかける。やっと、着くのだ。自分の生まれた家に。帰ってきたのだ。
家族は、自分の愛した家族は、泣いて迎え入れてくれるだろうか。
「あら、お姉さま、お帰りなさい!」
「カレン、ただいま」
屋敷に着き、久しぶりに会う執事ロドリゲスに戻りを喜ばれたヘレンは、ちょうど玄関に顔を出したカレンによって迎え入れられた。しかし迎え入れられた、というよりはたまたまその場にいたような印象を受ける。
「カレン、久しぶりね。迷惑をかけたわ…。それで…カレン? 聞いてる?」
「あ! ごめんなさい、聞いていたわ! アンドレが最近やんちゃで、慌ただしいの」
カレンは少しだけ悪びれない様子で、でも謝罪しているようには聞こえないそれを口にする。昔は一心同体のように感じていた双子の妹が、遠くにいるように感じた。
「ごめんなさい、お姉さま、今アンドレを探さなくてはならないの。またあとでお話を聞かせて!」
「え…えぇ…」
ヘレンは思っていたのと違う出迎えを受け、一人呆然とする。そんなヘレンに、ロドリゲスはお部屋でお休みくださいと声をかけた。
「お父様とお母様は?」
「……旦那様と奥様は、アンドレアス様の四つになられるお祝いの贈り物を探しに外出しております…。すぐに戻ると仰られていたのですが……」
「…私が戻ることを、忘れてしまっているのかしら」
「……いえ、そんなはずはございません」
一瞬の無言が、答えだとヘレンは思った。
「そう…。とりあえず荷物を部屋に運んでもらえる? マリにはそのまま休むように伝えて」
ヘレンは荷物を置くと、懐かしいともいえる部屋を見回す。空気は籠っておらず、埃も見当たらない。常にだれかが掃除をしてくれていた証拠だ。
それは、いつかヘレンが戻ってくると信じてくれていたと感じられて、嬉しくなった。
「お姉さま! 今大丈夫?」
「カレン? どうしたの?」
「アンドレを連れてきたの。アンドレ、貴方のもう一人のお姉さまよ」
「・・・」
開かれた扉、顔を覗かせるカレンのドレスの裾から、ちょこりと顔を出すアンドレアスに、ヘレンは破顔した。黒い髪に青い瞳。ふくりとした頬は柔らかそうだ。
「こんにちは、アンドレアス。ヘレンお姉さまよ」
「・・・」
もじもじとしながらも、少しずつ寄ってくるアンドレアスにヘレンはしゃがんで視線を合わせる。最後に見たのは生まれて半年くらいのことだっただろうか。そのころと比べて大きくなり、話すようになったのだろうアンドレアスの成長を、ヘレンは喜んだ。
「ねーしゃ、ま?」
「えぇ、そうよ。ヘレン、ヘレンお姉さまよ」
「かれーちゃ!」
アンドレアスはカレンを見上げながらそう口にする。いったい何のことだろうか。
「あ、私のことをカレンちゃんと呼ぶのよ。可愛いでしょう?」
「そうね」
「へー、ちゃ?」
「ふふ、そうね。ヘレンお姉さま、よ」
アンドレアスは姉たちをお姉さまと呼ぶようには言われていないようで、きゃっきゃっと笑いながらかーちゃ、へーちゃと呼んだ。
「そういえば、私についてくださっていた先生方は今はどうなさっているの?」
「え? そういえば…。お父さまがアンドレアスには早いと仰って今はいらっしゃっていないわ」
「そう……先生方にもご迷惑をおかけしてしまったわ…」
「もうお姉さまってば、気になさらなくてもいいんではない? それよりも今からアンドレと一緒にお茶をするのだけど、お姉さまも如何?」
カレンの誘いに、ヘレンは首を横に振った。
「ごめんなさい、カレン。長旅で疲れてしまって…。でも今度はぜひ一緒にしたいわ」
「そう…。そうよね、お姉さま、お疲れになっているわよね。お疲れのところごめんなさい。アンドレにどうしても会わせてあげたかったから」
「気にしないで、カレン。アンドレアス、明日一緒に遊べたら遊びましょうね」
「うん!」
そうしてカレンとアンドレアスは廊下の向こう側へと消えていく。
ヘレンはその背を見送り、部屋に戻るとベッドへと倒れこんだ。はしたないという人は、今はいないからいいだろう。
「………」
これからの自分がどうなるのか。想像もつかないヘレンは、少しの不安に包まれながらその意識を落とした。




