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その世界には大きな大陸が一つと広大な海があった。長い長い歴史の中で、大なり小なりの国々が生まれては消えていった。
そして結果として、大陸は五分割され、それぞれが国として成り立つようになった。
バーゲンムートを中央上とし、時計回りにカロリアン、左にダンデリオン、その左にエーファリアそしてアーガンムートときてバーゲンムートとなる。
すべての国に接しているのはバーゲンムートのみで、国交の要の国ともなっていた。
しかし、五つの国では百年以上戦争は起きていない。和平条約を結んでいるからだ。
かつて、五つの国が出来始めたころに大戦があった。各国が他の地を奪おうとしたのだ。そして流れた血は少なくなかった。死体の上に死体を置くような戦争は、長続きはしなかった。当たり前だ。戦争をする人がいないのだから。
そこから教訓を得た先人たちは、二度とこのような過ちが起こらないようにと和平条約を結んだ。
そしてそれは今日を以てしても守られている。
***
その日、バーゲンムートにて伯爵を賜るマイヤー家は、待望の赤子の誕生に沸いた。
当主であるドナルドとその奥方であるジャクリーヌは、貴族では珍しく恋愛婚をしていた。別段、それが珍しいというだけで全くないわけではない。ただ一つ、問題を除けば。二人は二十代前半には結婚していたが、十年以上子宝に恵まれることがなかった。
通常であれば離縁し、子を儲けることが求められるドナルドであったが、彼はそれだけは頑として受け入れなかった。そして出来なければ養子をもらうとまで言ったのだ。ジャクリーヌ自身、それがいけないことだとわかっても愛する人と離れなくていいという喜びには勝てなかった。
そうしてドナルドが三十後半に差し掛かり、ついに養子の話が本格化した時に奇跡は起こった。
ジャクリーヌが懐妊したのだ。その時のマイヤー家ほど、歓声に満ちた家もそうそうないだろう。夫妻は、男女どちらでもいいから健やかな子が生まれるようにと日々祈り続けて十月十日。
ついにその日がやってくる。
「ジャクリーヌ!! あぁ、ジャクリーヌ!! ありがとう、ありがとう!!」
ドナルドは、涙で濡れた頬をそのままに嗚咽交じりのお礼を、お産を終えたばかりの妻に伝える。
「どな…るど…」
「あぁ、ジャクリーヌっ…今の君はまるで女神だ…!! 愛しの我が子は…」
ドナルドは妻の頬にキスをすると、おくるみに包まれた小さなそれに目がいった。
「双子!? ジャクリーヌ、君は天使を二人も生んでくれたのか…!! 男女どちらだ?」
「お嬢様にございます」
「そうか、そうか!! ジャクリーヌ、本当にありがとう、なんて素晴らしい日なんだ…」
「あなた……」
ドナルドは滂沱たる涙をそのままに泣き崩れた。夫妻は、今この世で一番幸せなのは自分たちだと本気で思った。
生まれた双子は、マイヤー家の証である黒髪と青い目をしていた。
長女はヘレン、次女はカレンと名付けられた。
バーゲンムートにはある特殊な法がある。それは、貴族のためのもので、"相続する男児が生まれず、直系の女児が国の試験を合格すれば、女当主として認める"というものだった。
それは幸か不幸か。マイヤー家には天啓のように思えた。ジャクリーヌが運よく男児を妊娠するよりも、確実に自分たちの血筋が残せる。
マイヤー家の長女であるヘレンを、次のマイヤー家の当主にすべく教育する、という方針は、言葉にされずとも決まった。
***
方針が決まったからといって、すぐに教育に力をいれたわけではない。少なくとも、ヘレンとカレンは五歳までは同じように育てられた。
「カレン、こっち!」
「まって、おねえさま」
ヘレンははきはきとした活発的な子で、カレンは大人しくも芯をしっかりと持った子だった。二人の仲は良く、常に一緒にいた。
「カレン、おさんぽしよう」
「おねえさま、カレン、おうちでおにんぎょうさんとあそびたい」
「昨日、あそんだよ?今日はおさんぽ」
「いやっ! カレン、おにんぎょうさんがいい!」
何度かに一度、二人はこうして喧嘩をするも、姉であるヘレンが折れることで仲良くしていた。そんな二人を、ドナルドとジャクリーヌは温かく見守っていた。
夫妻はその後も子作りに励んだものの、やはりと言ってはなんだがなかなか授からず、ついに長女であるヘレンを女伯爵とすべく教育を行うことを決定した。
そしてそれを伝えたのは、ヘレンたちが五歳になる前日のことだった。
「ヘレン」
「はい、お父さま、お母さま」
「ヘレンには少し難しいかもしれないが、ヘレンが五歳になったら、色々と勉強をしてもらおうと思っている」
「はい」
「それはこのマイヤー伯爵家を存続…続けるためのものだ。そのためには、国の試験に合格しなくてはならない。とても難しいだろう…そのために、ヘレンにはたくさん勉強をしてもらう」
「はい」
ヘレンは、話のほとんどが理解できなかった。しかし、家のために勉強をたくさんしなくてはならないということだけは、理解した。
「座学、剣術、馬術などだ。大変だとは思うが、お父さまとお母さまのために頑張れるな?」
「はい!」
ヘレンは元気良く返事をした。明るい声は、明るい未来を連想させていた。
「お嬢様、今日はここまでです」
「ありがとうございました、グリンデル先生」
「いいえ、お嬢様は覚えがとてもよろしいので、教え甲斐があります。伯爵様も鼻が高いでしょうなぁ」
ヘレンは尊敬する先生にそう言ってもらい、嬉しくなって顔を綻ばせる。グリンデルはヘレンたちの住む領地の中でも一番の座学の先生なのだ。その先生が褒めるということは、両親もきっと自分を褒めてくれるだろうと思い、にこにこと先生を見送る。
「あら、グリンデル先生」
「あぁ、伯爵夫人。私は本日はここで失礼させていただきます」
「そうですの。先生、ヘレンはどうかしら」
「とても勤勉ですよ。自慢の生徒です」
「そう…。でしたら、出来る限りお願いするわ。旦那様の希望でもあるの」
「そうですか。わかりました、こちらで考えますので、今度その件についてお話をしたいのですが」
「わかったわ。旦那様にそう伝えます。今日はお疲れ様でした」
「はい。ヘレンお嬢様、また」
「はい、グリンデル先生。お気をつけて」
グリンデルは皺のよった顔をくしゃりとさせ、ヘレンの頭を一度撫で屋敷を後にした。
「お母様! グリンデル先生が褒めてくださいました!」
「そう、いい子ね、ヘレン。でも慢心しては駄目よ? 貴女はこのマイヤー家を継ぐのですから」
「はい!」
母ジャクリーヌに頭を撫でてもらい、ヘレンの気持ちはふわふわと浮き上がった。しかし次の瞬間、慢心しては駄目という母の言葉を思い出す。そうだ、期待されているのだからもっともっと頑張らなければ。
「お母様、ヘレンは今日の復習をしてきます」
「いい子ね、ヘレン。しっかりとお勉強するのよ」
「はい、お母様」
ヘレンは習いたてのカーテシーで挨拶し、そのまま元の部屋へと戻った。そこはヘレン専用の勉強部屋で、たくさんの本と紙がある。難しくてほとんどの本が読めないが、全部読めるようになったらお父様とお母様は喜んでくれるかな、と思いながら今日見た本を開く。
集中して幾ばくか過ぎたころだろうか。扉がノックされる音でヘレンは意識を現実へと向けた。
「はい」
「お姉さま、カレンよ」
「どうしたの、カレン」
ヘレンは椅子から立ち上がり、扉を開く。そこには自分と同じ顔だが、ヘレンよりたれ目のカレンが、大事にしている人形を抱えて立っていた。
「お姉さま、あそびましょう?」
「だめよ、カレン。わたしはお勉強しないといけないの」
「なんで? お姉さま、ずっとお勉強ばっかり。カレンとぜんぜんあそんでくれない」
「しかたないの。お父様とお母様にするように言われているのよ」
「……カレンもする」
「え…? いいけれど、お父様とお母様に聞いてからにしないと」
「わかった、カレンもお勉強するから、またあそぼう?」
「もちろん」
しかし結果として、カレンはヘレンと同等の教育が施されることはなかった。いや、というよりもカレンが早々に音を上げたのだ。
初回の授業で、わからないばかりを連発し、それなら書き取りをやらせようにも手が疲れるしか言わない。本を読み聞かせようにもつまらない。そんなカレンに教師のほうが先に匙を投げた。
カレンの興味は、綺麗なものばかりが多かった。レース、宝石、ダンスやお茶。淑女として必要なものにしか、カレンは興味を示さなかった。しかしマイヤー伯爵家はそれを喜び、嬉々としてカレンに淑女教育を行うことを決めた。
二人の教育は完全に分かたれ、かつては一心同体のようですらあった二人は、ついに日に何度かしか顔を合わせないことが多くなった。
「あらカレン、もうこんなに素敵な刺繍ができるの? 流石私の娘ね」
「ヘレン、よくやっているな、だが慢心してはいけない。お前はこの伯爵家の当主となるのだからな」
「「はい、お父様、お母様」」
しかし、そんな家族を心配している一人の老婦人がいた。
前マイヤー伯爵夫人であり、現伯爵ドナルドの生母であるエリザベスだった。
「ドナルド、ジャクリーヌ。今から教育に差をつけるのですか? 少し、早すぎはしませんか」
「母上、何をおっしゃっているのですか。ヘレンは伯爵家を継ぐのですから、仕方のないことでしょう」
「でも、小さいころはもっと遊ばせてのびのびとしたほうが」
「いいえ、お義母様、ヘレンもカレンも私たちの期待に応えるのが嬉しいようですから」
「そう…なの?」
両親である二人にそう言われては、祖母であるエリザベスに何も言えなかった。だが、一抹の不安はあった。期待に応えることを喜びとした二人が、応えられなくなった時のことを考えたのだ。
「いいですか、ドナルド、ジャクリーヌ。過度な期待をかけてはなりませんよ」
祖母の言葉に、二人は頷く。そんなことすまいと言わんばかりに。
「もちろんですよ、母上」
「そうです。私たちの可愛い子ですもの」
愛はあった。
疑うことのない、愛は。