18
時折、不安になる。
どうして私はここにいるのだろう、と。
ここでゆっくりしていてもいいのだろうか、と。
彼が言うには、それが強迫観念というものだ、と教えてくれたけれど。
私にはそうは思えなかった。
だって、私は、それを求められていたから。
頑張ったら、褒めてくれるはずだから。
褒められないのは、私の頑張りが足りないだけのはずなのだ。
彼にそういうと、彼は少しだけ悲しそうに笑った。
彼にそんな表情をさせたいわけではなかったので、私もなぜか悲しくなった。
「ヘレン……世界は広い、とても。貴女を求めてくれる人は、もっとたくさんいますよ」
たくさん、って。
いったい誰のことだろう。
お父様やお母様以外の人のことだろうか。
わからない。
だって、ずっと二人の為に頑張ってきたから。
わからない。
これから、どうすればいいのか。
「それは少しずつ探してみましょう? 大丈夫、貴女は一人ではないのですから」
*****
彼…イライアスは、とても優しかった。それこそ、エリザベスが驚くほどに。ヘレンと常に一緒にいるわけではなくとも、何故かヘレンが考え込んだり落ち込んだりするとどこからともなく現れ、そして傍にいてくれるのだ。
マリはもちろん、回復したオレリーもシンシアも、イライアスのその勘の良さには舌を巻いていた。
「そういえばヘレンはどうして私のことをイーライとは呼ばないのですか?」
「それは…みんなイーライって呼んでいるから、です…」
「…そう、ですか」
ヘレンは暗に自分だけがそう呼ぶ、という特別感が欲しかった。そしてそれを当の本人に知られ、恥ずかしく思った。しかしイライアスはそれを聞いて、嬉しそうに微笑むだけ。
そんな彼に、ヘレンが思いを寄せるようになるのは、そう難しいことではなかった。そしてイライアスも自分に対して憎からず思っているのではないかと思った。それくらい、イライアスはヘレンに対して紳士で、優しかった。
「お嬢様、今日はこちらをお願いします」
「わかったわ、トミー。前と同じように蒔けばいいの?」
「はい」
「では私は水を汲んできますね」
「お願い、イライアス」
「お嬢様、泥がついてしまいますからこちらを」
「ありがとう、マリ」
土を掘り起こし、空気を含ませながら柔らかい土を作る。もちろんそれにトミー特製の肥料を混ぜることを忘れてはいけない。柔らかい土に、小さな種をばら撒く。トミーが言うには秋口に咲く花で秋桜というらしい。
「トミー、秋桜は何色の花を咲かせるの?」
「それは咲いてみないとわかりませんなぁ…、ピンクや白、赤にチョコレート色なんてものもありますなぁ」
「チョコレート色、ですか?」
「そうだよ、マリ。あまり知られていないがね、とても可愛らしい色だ」
「お嬢様、見てみたいですね」
「そうね!」
早く芽が出ないだろうか、と心を浮足立たせていると、ちょうどイライアスが如雨露に水を汲んでやってくる。
「イライアス、秋桜ってお花、知っている?」
「―――」
ヘレンが問うた瞬間、イライアスの表情が一瞬抜け落ちたかのように見えた。
「……イライ、アス…?」
「…あぁ、すまない…。秋桜…? 知っていますよ、可愛い花ですよね」
「え、えぇ…」
今のは見間違いかとヘレンは思ったが、あまりの衝撃的な出来事ゆえについ言葉に詰まってしまった。そんなヘレンに気づいていないのか、イライアスは植えたばかりの種に水をやる。さぁ、と水がまかれ、光が反射する。きらきらと光っているのに、とても綺麗な光景なのに。どうしてかヘレンは素直にそう思えなかった。
「…イライアス、大丈夫…?」
ヘレンはなぜかはわからないが、イライアスにそう問うた。
「…大丈夫ですよ、ヘレン」
いつものように笑みを浮かべながら答えてくれるイライアスに、ヘレンはほっとした。なにか機嫌を損ねるようなことを聞いてしまったのかと思った。
ヘレンは気づけなかった。いや、気づけるはずもなかった。
イライアスはいつも同じような笑みを浮かべていることを。あの夜以外、感情を荒げていないということを。
いくらヘレンが勉強をし、頭が良かったとしても。彼女はまだ十五歳の少女だった。本からばかり知識を得た彼女は、世間を、人をあまり知らなかった。
ヘレンは他人と自分を重ねられたことがなかった。ずっと、ヘレンはヘレンという一個人で、長女であったから。自分に優しい、ということに、別の理由があるなんて考えたこともなかった。
ヘレンは、確かに悲しい思いをした。両親からの重圧をずっと受け続け、そしていきなりそれを不要のものだったとされた。見据えていたはずの未来をいきなり奪われ、途方に暮れた。褒められたいという一心で行ってきたこと全てを、無為なものだと知らされた。必要だと思っていたものすべてが、手のひらを返されるように不要だという絶望を思い知らされた。
しかし、喜びに際限がないように、悲しみにも際限はない。
ヘレンは、それを知らなかった。
喉が渇いた、と。その夜ヘレンは一人ベッドを抜け出し厨房へと向かっていた。いつもであればマリが水差しを用意してくれているのだが、その日は忘れてしまったらしい。だからと言って、休んでいるマリを起こそうという考えはヘレンにはなかった。
「―――」
「―――」
すると、談話室からかすかな声が聞こえていることに気づいた。誰だろうと思ったヘレンは、音をたてないように静かに扉に近づく。
…のちに思えば、やめておけばよかったと思う行為を。
「―――イーライ、本当にありがとう」
まず聞こえてきたのは、祖母であるエリザベスの声だった。
「いいえ、夫人。気にされないでください」
そしてもう一人は、イライアスだ。
「本当に貴方には感謝しかないわ…。貴方がいてくれなかったら、私はヘレンに普通に接することは出来なかったかもしれない」
「そんなことはないですよ、夫人。貴女はとてもお優しい…。そんな貴女がヘレンに対してそのような行動をとるはずはありません」
「そうかしら…? …それにしても、貴方も本当に変わったわね…。昔はそんな言葉使いしていなかったでしょう?」
「まぁ…。色々とありましたから」
ヘレンはエリザベスの言葉に少しだけ傷つきながらも、仕方のないことだと自分に言い聞かせる。反応のない面識のある相手に、どうしたって思うところはあるのだから。
「それにしても…どうしてあそこまであの子の面倒をみてくれるの…? 以前話していたことに関係はあるのかしら?」
「……えぇ」
以前話していたこととは、なんだろうか。それと自分の何の関係があるのだろうか。
……ヘレンは、聞いてはいけないと思いつつも耳を傾けてしまった。聞いたことを後悔するとも知らずに。
「貴方の恋人…だったわね」
「…そうです。私は愛するフィオナの苦悩や絶望に気づけず、心無い言葉で彼女を傷つけ、そして失った」
「―――っ」
ヘレンは息を飲んだ。
「ヘレンと同じように両親や周りから過剰な期待をかけられ、そしていきなり捨てられた。そんな彼女に、私は雑な物言いでまた頑張ればいいと言ってしまい、そして彼女は命を絶った」
「まさか…そんな…」
「おばあ様には夫人には言わないでくれと頼みこんだんです…人に話せるような内容ではないので…」
「それは仕方のないことだわ…。辛かったわね…」
「……あの時、どうしてもっと優しい言葉をかけてやらなかったのだろうと、何度も後悔しました。もっと一緒にいてあげていたらと…」
イライアスの声が湿り気を帯びる。ヘレンはそのことに衝撃を受けた。いつだって柔らかな笑みを浮かべている彼が、そんな悲しいことを経験していたことに。
「……だからなのね、ヘレンの傍にいてくれるのは」
「―――」
ヘレンは扉の外で、言葉を失った。
「えぇ…。かつてフィオナを死なせてしまった私に出来る、唯一の贖罪だと思っています。彼女が立ち直れば、私も少しは救われると思って」
「本当にありがとう、イライアス…。でも、少しでもヘレンに好意を持っていたりはしないのかしら?」
聞いては、いけない。
「私はもう二十三ですよ? それにヘレンはまだ十五だ。妹のような感じですよ。それに彼女だって、私が傍にいるからそう思い込むかもしれませんが、大人になれば気づくでしょう」
「………」
ヘレンはふらりと、音をたてないように二階へと上がった。
自分のことを、好きではなかった。自分は、酷い勘違いをしていた。あんなに優しくしてくれているのだから、きっと自分のことを好いてくれているのだと、思い上がっていた。
でも、違ったのだ。
イライアスはかつてなくした恋人の代わりに、ヘレンを見ていただけだった。ヘレンという個人を、見ていたわけではなかった。
「っ……ふ」
淡い、想いだった。そう思わなければ、やっていられなかった。イライアスはヘレンをまだ十五と言っていたが、その十五の娘は十五なりにたくさんの勉強をして知識を得ている。
自分の気持ちが本気だったとしても、淡かったと思わなければ、いけなかった。例え、本当に好きでずっと傍にいたいと、この人の役に立ちたいと思っても。
それが、イライアスの望むことだから。
……自分を、ヘレンを大切にしてくれているわけではなかった。
自分は、フィオナという彼の無くなった恋人の代わりでしかなかった。
結局、イライアスもヘレンを見てくれてなどいなかったのだ。
「~っ、――っ」
ヘレンは枕に顔を押し付けながら必死に声を押し殺す。ばれてしまってはいけない。自分が知ったとなれば、きっとエリザベスは悲しむし、イライアスはまたやってしまったと己を責めてしまうかもしれない。
ヘレン一人が我慢をすれば、いい。
「っ、っ、くっ、―――っ」
引き攣る喉が、呼吸を妨げる。それでも、ヘレンは我慢しなくてはいけない。もう、十分迷惑をかけてしまったのだから。
――― 一人ではないと、貴女を求めてくれる人はいると言ったその口で、彼はヘレンを求めてはいなかった。
好きだと思った人は、それをあり得ないと真っ向から否定した。
結局、ヘレンを求めてくれる人など希少なのだ。
ヘレンは苦しかった。
物理的なのか、精神的なのかわからない。胸が詰まって、苦しくて、悲しくて、怖くて、どうしようもなくて。
でも、それを表に出してはいけない。
たくさんの人に迷惑と心配をかけたのだから。
ヘレンは胸のその痛みを、声を押し殺しながらひたすら耐え続けた。




