14
その日は、からりとした天気だった。
燦々と太陽が大地を照らし、一時の暑い日々を人たちは謳歌していた。五つの国の四季は簡単で、バーゲンムートは夏が短く冬が長い、逆に下のほうに位置するダンデリオンとエーファリアは夏が長く冬が短い。他の二か国は夏と冬が同じくらいの期間あるのだ。
バーゲンムートに住む者たちは、短い夏を謳歌することを知っていた。水遊びを楽しみ、祭りがいたる地で開催される。その祭りを楽しみに他国から人が訪れるほどだ。もちろん、逆もしかりだが。
そんな日に、エリザベス含むヘレン一行は、屋敷からほど近い場所にある町の祭りに来ていた。町と言っても小さいものだが、その日ばかりは賑わっていた。
ヘレンの状況を考えれば難しいかもしれなかったが、イライアスとマリが付きっきりでヘレンの傍にいること、さらに町の規模からしてそこまで大勢の人が来ないだろうと判断してのことだった。
「見てください、お嬢様! たくさん屋台が出ていますよ!」
「マリ、色気より食い気か? ヘレン、見てごらん、この町の祭りは街の至る所にいろんな色を使った布を垂らしているんですよ」
「そんなことありません…! あ、甘い匂い…」
「ほら」
エリザベスはダンとオレリーと共に三人を眺めていた。
「マリってば、はしゃぎ過ぎではありませんか、奥様」
「少しくらいいいだろう…。奥様、お疲れではありませんか?」
「オレリー、たまにはマリも楽しまなくちゃ…。年頃ですもの。ダン、ありがとう、今日はいいほうよ」
少しだけ日差しがきついが、その分色々な場所に果実水が売られている。エリザベスの手にもすでにそれはあった。
「おおおく…エリザ様、向こうのお菓子気になりませんか?」
「マリ、少しは落ち着きなさい」
エリザベスは大きく手を振りながら提案してくるマリに、笑みをこぼす。落ち着いた様子の侍女だと思っていたが、実際は活発型らしい。しかしそのお蔭か、屋敷が明るくなっているとも感じられた。
「マリ、私に気を遣わなくてもいいわ。イーライ、悪いけど、二人をお願いね」
「もちろんです、夫人」
ついにマリも面倒を見られる側になりかけていると気づき、慌てて咳払いをした。
「コホンっ、し、失礼しました」
「今さら取り繕おうとしなくても構わないぞ?」
「いいえ! 私もヘレン様の侍女ですから! もっとしっかりしませんと!」
「ふふっ…マリはいつもよくやってくれているわ。今日はせっかくのお祭りなのだし、楽しんでいらっしゃい」
「でも…」
「マリ、奥様がこう仰られているのだから、楽しみなさい」
ダンの一言に、マリの目は輝いた。本当は遊びたかったのだと気づく。しかしそんなマリにオレリーは釘をさす。
「あくまでも嗜みをもって、ですよ? お嬢様を置いていくなんて言語道断ですからね、マリ」
「はい!」
マリは嬉しそうに頷くと、ヘレンの元へと駆けていった。幼いころから侍女やお手伝いなどをしながら頑張っていたマリは、本人も知らないうちに童心へと戻っていたのだろう。いつもは凛とした顔だちが、どこか幼く見えた。
マリを待っていたらしいイライアスと、そのイライアスに手を繋がれたヘレンが合流する。ヘレンを挟んで三人で手を繋ぐさまは、人によっては子供かというだろう。
しかし、それほどまでに仲の良い三人を見て、エリザベスは微笑みを浮かべた。
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「見てください、お嬢様! 綺麗な飴細工ですよ」
「あぁ、美味しそうだね」
イライアスとマリはヘレンを連れて様々な露店に顔を出した。ヘレンのぼんやりとした無表情が浮くかと思いきや、誰もが祭りで気分が向上しているらしく、誰もそんなことは気にしなかった。
「マリ、ヘレン」
「わ、いいんですか?」
「あぁ。ヘレン、落とさないように気を付けてくださいね」
すると、イライアスがマリとヘレンに飴細工を買って手渡した。マリには猫の形をしたものを。ヘレンには、薔薇の形をしたものを。マリは目を輝かせながらそれを頬張り、ヘレンは持ち上げて太陽に反射する様を見ていた。
「気に入ったみたいですね」
イライアスが声をかけるも、ヘレンは薄紅色に染まったそれを眺めていた。
その時だった。
「きゃああああっ!!」
「な、なんだ!?」
「だれかぁああっ」
「!?」
「な、なに…!?」
人垣の向こうのほうから、幾人もの叫び声が聞こえた。マリはびくりと怯えながらもヘレンを守ろうと背後に回そうとする。
イライアスは何が起こっているかを確認すべく、逃げまどい始める人込みを何とか抜けようとしていた。そして、何が起こっているのかを視認した瞬間、血の気を失った。
「おらあああっ、このばばぁ殺されたくなきゃ、金をよこせえええええ!!」
「馬も用意しろ!!」
そこには、汚らしい恰好をした男三人に捕えられたエリザベスの姿があった。
「っ!! 夫人!!」
イライアスはこの時、完全に判断を誤った。
「ア? 夫人? ってことは、お貴族様かよ!!」
「金あるんだろ? 出せや」
イライアスはしまったと思った。そして同じくしてダンとオレリーを視界の端に認める。どうやらオレリーは突き飛ばされた際に頭を強打してようで、意識を失っているようだ。そのオレリーを抱えながら、ダンが唇を噛み締めているのが鮮明にわかった。
「……金が目的か」
「あぁ、そうだ、有り金寄越せ」
「こんなことをしても、すぐに町の自警団に捕まるぞ」
「だからさっさと馬と金を寄越せって言ってンダロォ? 耳あんのか、坊ちゃんよォ」
「ばばぁ殺されたくないなら、さっさとしたほうがいいぞ」
イライアスは眉間にしわを寄せた。捕えられたエリザベスの顔面は蒼白で、今にも倒れそうだ。あれではあまり保つまいと考える。自分が女であれば、率先して手を挙げていたが、生憎と男だ。それならば他の方法で夫人を救うほかあるまいとイライアスは自分に言い聞かせる。
「……金でもなんでも用意する。だから、その人から手を離せ」
「おおお~? お願いに聞こえないなぁ?」
「っ……その人は老いている、連れて行くのに向いていないだろう。頼む、私を縛り上げてくれて構わないから、その人を離してくれ」
イライアスの提案に、男たちは顔を見合わせるとガハハと下品に笑った。その笑い方で、イライアスはやはり無理かと悟る。冷や汗が背筋を伝った。
「―――わ、たし、が、かわ、る」
空気が変わったような気がした。
「お、じょ…さま…?」
マリが驚きのあまりに腰を抜かしたらしく、へたりと座り込んでいる。周りの人々は状況がよくわかっていないようだが、それでも声を発した少女を驚きの目で見つめた。
「私が、代わります。おばあ様を離して」
イライアスがヘレンの声を聞いたのは、この時が初めてだった。
悲鳴が、聞こえた。
とても悲しい叫び。
誰かが怒鳴っている。
どうして。
ヘレンは薄い紗のかかったような世界の中で、外の音を聞いていた。音は、いつだってヘレンの耳に届いてはいた。ただ、その内容を考えないだけで。耳に入っても、右から左へと流れていくのだ。
しかし、最近は稀に音の意味を考えることがあった。自分の名前。綺麗な音。それだけは、少しずつヘレンの内に降り積もっていった。
その日、紗の向こうは色彩豊かだった。目に痛いほどの、たくさんの色。暖かい何かが手を引く。たくさんの匂い。声。きっと、楽しいのだろうと、思った。
その叫び声が聞こえるまでは。
少しだけ震える背中から覗き見た紗の世界は、驚くほど殺伐とした空気を放っていて。
誰かが、苦しんでいるのが見えて。
誰か…あの人は、自分の知っている人ではないのか。
大切で、大好きな人。
どうしてその人が、苦しんでいるのだ。
―――全身に鳥肌がたった。
何を、しているのだろうか、自分は。
全身が一気に熱を孕んだ。
もがくように紗を取り払う。
何もせず、ただ息をしているだけの自分は、何をしているのだ。
目の前で、大切な人が苦しんでいるのに。
どうして、何もしようとしないのだろうか。
目の前がチカチカして、痛い。
その瞬間、ヘレンは言葉を発していた。
「―――わ、たし、が、かわ、る」
久しぶりに発した声は、掠れていて酷く聞きづらかった。それでも、その声は、誰の耳にも届いた。
紗の世界にいては、大切な人が守れない。それなら、一時でもいいから出る。そして、苦しんでいるおばあ様を助けるのだ。
「駄目だ!! ヘレン、君は病み上がりだろう!?」
「病み上がりぃ? ちょうどいいな! ばばぁよりも動けんだろ」
「待て、そこらの女連れても金にならんぞ」
「聞いてなかったのか? あの小娘、おばあさまって呼んでやがった。何かしらの関係はあんだろ」
イライアスは舌打ちしそうになった。頭のまわらない馬鹿であれば、適当にやり過ごしたというのに。
「ほら、お嬢ちゃん、こっちきな。ついでに馬連れてこい…そこの坊ちゃん、馬連れてこいよ」
「駄目だ!! 彼女はっ」
「わ、たしが、着いて行く。だからおばあ様には、何もしないで」
「物わかりのいい嬢ちゃんだなァ…いいこにしてりゃーばあさんは返してやんよ」
「………だめ、へれ…」
極度の緊張のせいか、年のせいか。弱り切ったエリザベスが何とか声をかける。しかしヘレンは小さく笑みを返すだけだった。
「嬢ちゃん、馬連れてこれんならそこの坊ちゃんからも金盗ってこい。出来んだろ?」
「わかった」
ヘレンは淀みない歩きでイライアスへと近づく。イライアスは小声でなんとかヘレンを止めようとした。
「駄目だヘレン、君まで危険にする…!」
「大丈夫、よ」
しかしヘレンは不思議と自信に満ちた声で返した。
「それより、申し訳ない、のだけど、お金を……おばあ様が、これ以上は、お辛いわ」
「………」
イライアスは葛藤するも、どうすることもできない自分を理解し、懐から財布を取り出してヘレンに渡した。
「…ありがとう。……あとで、もう一度名前を、お聞かせくださる?」
「っ」
目を見開くイライアスに、ヘレンは小さく息を零す。まるで、笑うみたいに。
「お、おじょう、さまっ……!!」
マリは縋りつくようにヘレンのスカートを握って、首を懸命に横に振っている。しかし、ヘレンはそんなマリの手を優しくほどいた。
「マリ、今まで、ごめんなさい」
まるで、遺言のようなそれに、マリの涙腺は一気に崩壊したらしい。へたりと座り込んだまま、嗚咽を零していた。
ヘレンはイライアスから財布をもらい、周りで様子を見ていた男から馬を二頭借りると、男たちから少しだけ距離を取って立ち止まった。
「お嬢ちゃん、早くしな? じゃないとおばあ様がどうなっても知らんぜ?」
「先に…おばあ様を、解放してください」
「ああん? 嬢ちゃん、オレたちに命令できる立場なのかァ?」
「……病み上がりの、私が、抵抗するとでも? それとも、私のような小娘ひとり、抑えきれない……?」
「カカっ! 言うじゃねぇか! オイ、離してやれ」
「っち、しかたねぇな、おらよ!!」
男はエリザベスをヘレンのいる方とは逆方向に突き飛ばした。様子を見ていた町の女性がエリザベスを抱えて逃げるように遠ざかる。緊張から解放されたエリザベスは、ぐったりとしている。
「さァ来な、嬢ちゃん」
ヘレンは、手にあった手綱をはらりと落とした。