12
ピチチ、と鳥が鳴く。日差しは暑いが、木陰に入ると風が吹き、涼しい。木々を見上げれば、萌えるような緑が目に入る。
ヘレンとマリ、そしてダンは、予定通りに目的地である湖へと到着した。
湖面はきらきらと太陽の光を反射し、時折ぱしゃりと魚の跳ねる音がする。湖自体は、そこまで大きくない。一周するのに大した時間はかからないだろう。ダンによると、深さもそこまではないらしい。
マリはヘレンにも聞いてもらえるように、どうして湖がここにあるのかをダンに聞いてみた。
「私も詳しいわけではないのですが、どうやら地下水が湧き出ているようなのです」
「ちかすい? ですか?」
「はい。地下に溜まった雨水などです。専門の方が言うには、それは他の大きな湖とも繋がっているようです。ここに湧き出た正確な理由はわかりませんが、地形の問題だろうとも言われています」
「へぇ…、お嬢様、ですって。とても綺麗ですね」
ヘレンは木陰に誘導されると、そのまま湖をみながらぺたりと座り込んだ。マリが慌てて敷物を用意するが、ヘレンは気にしていないのかじっと湖を見ている。マリは涙目でダンに助けを求めると、ダンはため息を吐きながら老体に無茶させないでくださいね、と一言言って、ヘレンを敷布に運んだ。
さぁ…っと風が吹き抜ける。暑さを一瞬忘れさせてくれるほどの清涼感ある風だ。
「あっ…お嬢様、栗鼠、栗鼠がおりますよ」
「マリ、大声は駄目ですよ」
「あ…申し訳ありません」
湖の水を飲みに来たのだろうか、小さな栗鼠がきょろきょろとしながらも湖へと近づいていく。マリもヘレンも、実物を見るのは初めてだった。
「ちいさぁい…可愛いですねぇ、お嬢様」
マリが小さな声でヘレンに話しかける。ヘレンも、動く小さな動物が気になるのか、じっとその様子を見ていた。そんなヘレンの様子を、マリとダンが微笑ましそうに見る。
そして三人はショーンに持たされた昼食を摂ることにした。用意されたのはサンドイッチで、数種類ありそうだ。
「お嬢様、お食事です。ショーンさんが腕によりをかけて作ってくださったものですよ」
マリは、一つ一つ包まれたうちの一つをヘレンに渡す。中身はローストビーフのようだった。ダンはチキンを、マリはヘレンと同じローストビーフを選択した。
「美味しいですねー、こんないいお天気の日に、お外で食べるサンドイッチは格別です」
「本当に。お嬢様もそう思われているでしょうね」
「お嬢様ですもの、きっとそう思われています」
二人はくすくすと笑いながらサンドイッチを頬張る。ヘレンも小さいながらにもサンドイッチを食べていた。そうして三人は食事を終えると、マリが淹れた紅茶を楽しんだ。
「あ、お嬢様、今度は兎ですよ、可愛いですね」
すると栗鼠の次には兎が湖へと近づいていた。夏毛のためかスリムに見えるが、小さくて可愛いらしいには変わりない。白いお尻をふりふりしながら湖に顔を突っ込んでいる。
しかし次の瞬間、兎は振り向きながら耳をピン、と立たせた。
「あら、どうしたんでしょうか」
「……あれは」
どうやら、狐が林の奥から顔を出しているらしい。兎は敏感にそれを感じ取ったのだろう。しかし、そのあとがよくなかった。
パシャーン、と何かが湖に落ちる音がした。兎が驚いて落ちたのだろうと、すぐにわかった。だから気づかなかったというか。音に驚いてそちらを見ていたら、マリの視界を何かが駆けていった。
「…お嬢様!?」
マリの悲鳴と共に、今度は大きめの音がする。ダンはヘレンのいきなりの行動に固まってしまい、マリはどうしていいのかわからないままとりあえずヘレンの後を追った。
「お嬢様!」
「っ、ヘレンお嬢様!!」
マリとダンが慌てて湖に近寄る。そしてダンが飛び込もうとした瞬間、もう一つの影が見事な弧を描いて湖へと飛び込んだ。
「!?」
「なに!? なに!?」
飛び込んだ人影はどうやら青年のようで、すいすいと泳ぎながら兎を追いかけているヘレンに追いつく。そしてそのまま兎を捕まえ、ヘレンの頭の上に乗せるとまたすいすいと泳ぎながらヘレンを伴って戻ってきた。
「い、イーライ様!?」
「え、ど、どなた、え?」
青年はダンにヘレンを渡すと、自身は腕の力で湖から上がった。ちなみに兎はさっさと森の奥へと消えている。
「ダン、久しいな…そして出会いがしらに湖に飛び込むとは思わなかった」
「イーライ様…!! マ、マリ、お嬢様とイーライ様に拭く物を!!」
「は、はい!!」
マリはわけがわからないまま馬車へと走る。念のためと拭く物を用意してくれたシンシアに感謝をしなければ。そうして息を切らしながら持ってきた物をダンに渡し、マリはヘレンを拭く。
「このままではいくら夏とはいえ、風邪をひいてしまいます。戻りましょう。マリ、後片付けを頼めますか?」
「はい、すぐに」
「あぁ、ダン、すまないが私の馬も連れて行ってくれ」
「もちろんです」
そうして一行は慌ただしく屋敷へと戻った。
***
「シンシア、オレリー! 湯を沸かしてくれ!」
「まぁまぁまぁ!! どうしたの、お嬢様! まぁまぁ、お寒いでしょう…!!」
「イーライ様もこんな…後でわけを聞かせてもらうわよ、ダン」
「わかっている、だから早く」
戻ってきた一行、いや、ヘレンとイーライは屋敷に戻るなりすぐさま湯殿へと連れて行かれた。帰りを急いだといっても、濡れたままで三十分もいれば人によっては風邪をひく。
イーライは男性で鍛えているからその可能性は低いかもしれないが、ヘレンはどうかわからない。そうして、ヘレンが温まったと判断されたマリによって、現在は髪の毛を乾かされていた。
「ヘレン、大丈夫? 湖に飛び込んだって聞いたけれど…」
「大奥様…申し訳ありません、私がついていながら…」
「いいのよ、マリ。ダンから聞いているわ。兎が落ちたのを見てヘレンが飛び込んだように見えたって…。でも、よかった…」
「大奥様…?」
「ヘレンも、そうやって少しずつ動けるようになっているのよ」
「!」
そうだ、とマリは思った。ずっとずっと、何にも関心がないように見えたヘレン。そのヘレンが、自ら動いて兎を助けに行った。…助けに行ったのだろうと思われる。
「でも、急かしては駄目よ、マリ。ヘレンの速度に合わせなければ」
「はい、大奥様」
マリは少しだけ涙ぐみながら何度も頷いた。大切な大切なお嬢様。きっと、ここにきたのは間違いではなかったのだ。ゆったりとした時間は、確実にヘレンを癒している、そう感じられたのだ。
「この度はありがとう、イーライ。面倒をかけてしまったわね」
「いいえ、夫人。気にしないでください」
マリがヘレンの支度をしに二階へ上がった直ぐ後に、イーライがエリザベスのいる居間へとやってきた。髪が少しだけ濡れているが、頬が赤くなっていることからちゃんと温まってきたらしい。
「オレリー、紅茶をお願いできる?」
「かしこまりました、奥様」
そうしてオレリーが居間からいなくなり、エリザベスとイーライの二人だけとなる。
「……ヘレンはどうだった?」
エリザベスは微笑みながらイーライに問うた。と言っても、馬車の中で話したりはしていないだろうから、彼の印象だけでしかないが。
「とても優しいご令嬢ですね」
「あら、どうして?」
エリザベスはイーライの簡素な印象に驚く。そしてそれ以上にヘレンを表す言葉がない。しかし会って間もないのに、ここまでわかるものなのだろうか。
「秘密にしてくださいね、夫人」
イーライは片目を瞑りながら小声で話し出した。
「実は、あの時ヘレン嬢たちを見ていたんです。少し離れたところから。兎が足を滑らしたとわかった瞬間、ご令嬢は躊躇うことなく走り出したんです。普通に考えれば、一般的なご令嬢はまず野生の動物を救おうとはしません。ましてや、湖に飛び込んでまで助けようとする女性もそうそういないでしょう。ですが、あの時のヘレン嬢に迷いはなかった。だからそう思っただけです」
「……そう、そう感じてくれたの」
イーライの言葉に、エリザベスは心が温かくなる。
「それにとても美しい。流石は夫人の孫娘です。あの青い瞳はまるで宝石のようでした」
「あら、まるで口説いているようにも聞こえるわよ、イーライ」
「口説かせていただけるのであれば」
「ふふっ……」
エリザベスは手を口元にあてながら優雅に笑った。本当に、そうなってくれればいいとすら思いながら。
イーライならば、ヘレンの伴侶として最高だろう。幼いころから彼を知っているが、それだけは断言できる。しかし、こればかりは当人たちの心次第。エリザベスが変に手を出すべき問題ではない。
「失礼いたします。奥様、ヘレンお嬢様のご支度が整ったようで、こちらにいらっしゃるそうです」
「ちょうどよかったわ、ヘレンは大丈夫そうかしら」
「シンシアも確認し、怪我などは一切ないそうです。しっかりと湯で温まっているので、気を抜かなければ大丈夫かと」
「ありがとう、オレリー。それにイーライ、改めてお礼を言わせて頂戴」
「当然のことをしたまでです、夫人」
オレリーが紅茶の準備をしていると、居間の扉が叩かれる。
「失礼いたします、大奥様。入室してもよろしいでしょうか」
「もちろんよ」
そしてそこにはマリの後ろにいるヘレンがいた。マリは一礼してから入室し、ヘレンの手を引く。
「ヘレン、貴女を先ほど救ってくださったイライアスよ。イライアス、こちらが私の孫娘のヘレン」
ヘレンはじっとイライアス…イーライを見る。そんなヘレンにイーライは立ち、腰を折り曲げながら座っているヘレンの手の甲に口づけを落とした。
「初めまして、レディ・ヘレン。私はイライアス。気軽にイーライと呼んでください。貴女のおばあ様であるエリザベス夫人と、私の祖母が古くからの友人で、私もお世話になったことがあるんです」
にこり、とその端正な顔を笑みに染めるイーライ。普通のご令嬢であれば一瞬で真っ赤になるかもしれないだろうが。だが、今のヘレンには一切効かなかった。
真っ青な瞳は、イーライの金緑色の瞳を見つめる。今までそんなことをされたことのないイーライは、逆に自分のほうが緊張するのを感じた。ヘレンは少しだけ目を細めると、不意に飽きたかのように視線を窓の外に固定した。
青々とした緑が、窓の外を彩る。
「あぁ…綺麗ですね」
イーライはそれだけ返すと、エリザベスとともに紅茶を楽しんだ。




