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エリザベス・マイヤー前伯爵夫人の屋敷は、当主夫妻の屋敷を南に下り、アーガンマースとエーファリアンの国境から少しだけ離れたバーゲンムート国内に構えてある。もちろん国境の境目が近いということで、それぞれの国が警備隊を派遣しているが、彼らが本来の仕事をしなくなってすでに百年が経過していた。だからエリザベスが住めるということもあるが。
まぁ暴力機構は仕事をしないほうがいいのだろう。彼らが仕事をするということは、すなわち、戦争が待っていることになるのだから。
「ヘレン、ここに来るのは初めてよね。ここは私と旦那様が別荘として建てた屋敷なの。少し小さいけど、とても快適に過ごせるはずよ」
ヘレンは祖母に言われるまま屋敷を見上げる。だが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。そのことを少しだけ寂しく思いながら、エリザベスはヘレンを屋敷に招く。
「みんな、戻ったわよ」
「奥様!」
「お帰りなさいませ」
「みんな、私の孫娘のヘレンよ。ヘレン、皆を紹介するわね。執事のダンは知っているからいいとして、侍女のシンシアとオレリー、料理人のショーン、ここにはいないけど庭師のトミーもいるわよ。ヘレンは彼のこと覚えているかしら? ちなみにオレリーとショーンは夫婦なのよ」
エリザベスが紹介すると、名を呼ばれた使用人は頭を下げて笑みを浮かべる。事前にヘレンのことを話してあったので、反応がなくても気にしないでいてくれる。
「シンシア、オレリー、頼んでいたヘレンの部屋は?」
「もちろんご用意できております、二階の日当りのいいお部屋です」
「ショーン、ダンと一緒に荷物運びをお願い」
「わかった、シンシア。奥様、今晩の夕食は腕によりをかけますぜ!」
「ふふ、楽しみだわ。さぁ、ヘレン二階に行きましょう、貴女の部屋を用意してもらったのよ」
エリザベスは子供のようにはしゃぎながらヘレンの手を引く。エリザベスの屋敷にいる人々の年齢層は高い。一番若いのが四十七歳のショーンだ。だからだろうか、若い子が屋敷にいるだけで嬉しくなってしまう。
「ここよ、まぁ、とても可愛いわね、シンシア!」
「愛らしいお孫様と聞いておりましたので」
エリザベスはシンシアのセンスの良さに気分が上昇した。部屋自体は比較的にシンプルだ。だが、壁紙はクリーム色と柔らかで、ベッドは青い花がちりばめられたシーツを使っている。窓際にある小さなテーブルも、深い色をした木目のものを使用している。縁に繊細な飾り彫りがある。
「青が多いのね」
エリザベスは部屋を見回して気づいた。てっきりピンクを使用してくると思っていたが。
「ヘレンお嬢様は、大変綺麗な青い瞳をしていると聞いたので、青にいたしました。もし他の色をご希望でしたら用意いたしますが」
「いいえ、とても素敵よ、シンシア」
青、といっても部屋にある青は清廉とした印象を持たせる。深い青をそんなに使用せず、薄い青が多いのもあるだろう。だからとって、寒々しいという印象もない。まさしくシンシアのセンスが輝いている。
「今度サロンの模様替えもお願いしようかしら」
「奥様と一緒に考えるのもとても楽しそうです」
くすくすと上品に笑う二人。そんな二人はヘレンがふらりと動いたことに、一瞬気づかなかった。
するり、とヘレンの細い指が机を撫でる。
「ヘレン……」
「お嬢様…?」
すると、ヘレンの表情が緩んだ。
「っ」
エリザベスはその表情を見て、息をのむ。ここ数か月、殆ど表情らしい表情を浮かべることのなかったヘレンが。
「お、奥様、お嬢様が…!」
「…えぇ、えぇ…!」
微かとはいえど、微笑みを浮かべている。それも、作ったようなものではないそれ。あの日の夜、二人だけの秘密だと小さく笑ったような。
エリザベスは零れそうになる涙を必死に堪えて笑った。これなら、大丈夫、ヘレンは、大丈夫だと確信して。
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「お嬢様、今日はトミーさんのところに行きましょう? 花の植え替えがあるそうで、手伝ってほしいとのことです」
ヘレンとマリの生活は、マイヤー家の屋敷にいたころよりも活動的になっていた。マイヤー家では庭を散歩するか、ぼんやりとすることが多かったヘレン。しかしエリザベスの屋敷では花を植えたり散策したり、釣りをしたりしている。全て自発的な行動ではないが、少なくとも部屋に籠りきりということは減った。
「トミーさん! よろしくお願いします!」
「あぁ、マリ、お嬢様、今日はお手伝いありがとう。早速始めようかね」
六十歳になるトミーは、エリザベスと一番付き合いが長い。前当主の時から専属庭師として抱えられている。妻に先立たれ、子供たちは成人してそれぞれの家庭を持っているという。一人になったトミーを、エリザベスは住み込みで庭師をしてほしいと言って雇い入れているのだ。
「お嬢様、今日は暑くなりそうですから、帽子を被ってください。喉が渇かれたらこちらに用意しているものをお飲みくださいね」
マリはそう言いながらヘレンの帽子を被せる。ヘレンが屋敷に来て早数か月。季節は夏となっていた。
ヘレンの状態は、良くも悪くもなっていないというのが現状だろう。いまだに言葉を発さず、ぼんやりとしていることが多い。だが、植え替えなど言えばやる。これが良い傾向なのかそうでないのか、屋敷の人たちにはわからなかったが、のんびりとした生活を送っていた。
「ヘレン、マリ、今日は湖に行ってみたらどうかしら。涼しくて気持ちいわよ」
「大奥様はどうなさいますか?」
「ごめんなさいね、マリ。少し暑さにやられてしまったみたいで、私は屋敷で休んでいるわ」
「わかりました」
ある日、ヘレンはエリザベスにそう提案された。湖は屋敷から馬車で一時間もかからないほどの距離にあるらしい。森の少し奥まったところにあるが、エリザベス本人も何度も訪れ危険はないそうだ。
「せっかくですから、ピクニックでもしましょうか、お嬢様。ショーンさんにとびきり美味しいものを作ってもらいましょう!」
「あら、いいわね、マリ。ダン、二人をお願いできる?」
「もちろんです。マリ、できれば私の分も作ってもらえると助かります」
「はい! ではショーンさんにお願いしてきますね!」
マリはうきうきとした雰囲気を隠さないまま厨房へと消える。その後ろ姿を、エリザベスとダンが微笑ましそうに見ていた。
「マリとお嬢様がいらしてくださってから、この屋敷も随分と明るくなりましたね、奥様」
「本当に。毎日が楽しいわ……ヘレンも、そう思ってくれているといいんだけど」
エリザベスがちらりとヘレンに視線を送る。ソファーには、紅茶に口をつけるヘレンがいた。
「大丈夫です、奥様。ヘレンお嬢様もきっと安らいでおられますよ」
「……そうだと、いいわ」
エリザベスは定期的にマイヤー家へと手紙を送っている。内容はヘレンのことが主だ。返信は一度も間を開けることなく、しっかりと送られてくる。しかし、その内容はカレンやアンドレアスのことばかり。結びに、申し訳程度にヘレンのことが書かれている。
こちらが送ってからちゃんと送り返しているということはエリザベスの書いた手紙はしっかりと読まれているのだろう。そしてきっと、ヘレンはエリザベスのところにいたほうがいいのだろうと彼らは考えているのだろう。自分たちの元ではなく、エリザベスの元にいたほうが。
手紙の内容にヘレンのことが少ないのも、きっと後ろめたさからだろう。息子ながら、逃げてばかりのドナルドに嘆息しそうになる。
しかし本音を言えば、エリザベスとてそうしたい。息子夫婦と離れ、使用人たちと暮らす屋敷での生活に文句は一つもない。だが、やはり時折寂しくなるのだ。
だが、エリザベスはいずれヘレンをドナルドたちに返すことを決めている。
それを、本人が望んでいなかったとしても。
それが必要だと思っているから。
一人思考に耽っていると、どうやら出かける準備ができらしく、マリが慌ただしくヘレンを立たせる。
「お嬢様、動きやすい服装にしましょう! ダンさん、ショーンさんが用意が出来たらダンさんに渡すと言っていました」
「わかりました。私は馬車を確認してきます。お嬢様の準備が出来たら玄関で待っていてください」
「わかりました!」
マリがヘレンの手を引いて階上へ上がる。初めて行く湖を、マリのほうが楽しみにしているように見える。
「マリも、来た当初はもう少し落ち着いていたと思いましたが…」
「ふふっ…いいじゃない。あの屋敷にはマリより年下の子もいたから、きっと気を張っていたんでしょう。それにあの子がああしてくれると、とても明るくなるわ」
エリザベスは上品にコロコロと笑う。こんな毎日が、続いてほしい。叶うなら。せめて、自分が生きている間だけでも。
「奥様、イーライ様がいらっしゃっています」
「まぁ、イーライが? 通して」
ヘレンたちが出かけて一時間もしないうちに、屋敷にイーライがやってきた。ヘレンを迎えに行く直前に会ったきりだ。手紙のやり取りはしていたため、きっとこちらの事情を酌んでくれていたのだろう。
「エリザベス夫人」
「イーライ! 久しぶりね、元気だった?」
「私は変わりなく。夫人は如何です?」
「最近は暑さで少しまいってしまっているけど、元気よ。タチアナは最近どう?」
「お祖母様も暑さが厳しいと。ですが元気にしておりますよ」
イーライは、とても仲の良い友人タチアナの孫だ。若かりし頃は、互いの家に遊びに行っていた。しかし前マイヤー伯爵、エリザベスの夫が亡くなってからはその親交も途絶えがちとなった。愛する人に先立たれたエリザベスが完全に塞ぎ込んでしまったためだ。マイヤー家の屋敷ではなく、愛する夫との思い出の屋敷に籠りきるエリザベス。
そんな彼女を心配したタチアナは、孫のイーライにエリザベスの様子を見てくるように依頼した。イーライは、幼いころエリザベスに懐いていたための人選だったようだ。
結果として、親友に心配をかけているとわかったエリザベスは少しずつ立ち直ったのだ。
「夫人、ヘレン嬢は? 問題がなければ挨拶をしたいのですが」
「ごめんなさい、イーライ。ついさっき、湖に行ってしまったの」
「そうですか、間の悪い時を選んでしまいました…。どなたが一緒に?」
「侍女のマリとダンよ」
「……夫人、よければ私がお迎えに上がっても?」
「あら、貴方がそんなことを言うなんて、そんなにヘレンが気になるのかしら?」
エリザベスはからかうようにイーライに言う。しかしイーライは笑みを浮かべたまま頷いた。
「もちろん、夫人のご自慢のお孫様、そして私も孫の立場にありますからね。それに、侍女殿とダンだけでは、何かあったら対応しきれないでしょう。夫人、よければ私にヘレン嬢を迎えに行く誉れを」
いつになく必死なイーライの様子に、エリザベスはふふ、と笑みを零した。
「なら、ぜひお願いしようかしら、騎士様」
エリザベスの言葉に、イーライは晴れやかな笑みを浮かべた。