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Everlasting  作者: 水無月
見えぬ先
11/118

10



 しとしとと、雨が大地を濡らす。春先のため、少しだけ気温が低くなっている。土の香りがふわりと漂い、薄い霧がかかるとまるで別世界のようだ。

 十四歳になったヘレンが燃え尽き、そしてその二か月後、彼女は生家を離れることになった。

 発症して二か月、結局ヘレンはずっとぼんやりしたままで、最初は祖母の家に送ることを良しとしていなかったマイヤー家当主が折れる形となって、ついに話は決まった。

 初めは、家にいて家族と共いれば、いずれ必ず治ると豪語したドナルドは、一切戻る兆候のないヘレンに心を折られたようで。同じく、夫人であるジャクリーヌはヘレンの顔を見ることすらも怖がるほど、心を病ませた。

 結果として、ハルトマン医師の言うことが現実となったのであった。





「……」

「どうですか、ハルトマン医師(せんせい)。ヘレンは長旅に耐えられそうですか?」

「…問題はないでしょう。大奥方様も急いで馬車を走らせたりはしないでしょうから、景色を楽しまれながら行かれるのがよいかと」

「そう、ありがとう、ハルトマン医師」

「いいえ」


 念のため、エリザベスはヘレンをハルトマンに診せた。食事も睡眠もとっており、以前よりも顔色がよくなったような気がしたが、念のためだった。

 ヘレンは相変わらず、ぼんやりと外を眺めたり歩いたりする日々を送っている。その傍には常にマリの姿はあるものの、家族であるドナルドやカレンの姿はめったに見られなかった。見ていられなかったのか、それとも罪悪感に駆られるからなのか、エリザベスは分からないし、理解しようとも思わなかった。

 とにかく、この屋敷から自分の屋敷に移すことが最優先だと思った。


「……伯爵様は?」

「…意地悪ね、医師。あの子たちは、ヘレンの傍に居続けることが出来なかったわ」

「そうですか。まぁ、そうなりますね」

「あら、医師でもそう思われるの?」

「一番最初に診断した際にお伝えしましたから」

「そう…」


 初めのころ、ドナルドとジャクリーンは時間の許す限りヘレンの傍にいた。食事も一緒にし、散歩なども行き、たくさん話しかけていた。しかし、そのどれにもヘレンが反応を示すことはなかった。

 いくら自分たちの娘とはいえ、一切反応のない人間の相手はきつい。それが、ある意味では自分たちのせいだと思っているのであれば、尚のこと。

 徐々に傍にいる時間は減っていき、そしてここ一週間は朝に一度しか、顔を見せにきていなかった。


「ですから、環境を変えたほうがいいとお伝えしましたのに…」

「医師もおっしゃって下さいましたの…? まったく、あの子達ったら…」


 正直、これ以上はこの家の人が保たないだろうとエリザベスは見ている。伯爵夫婦はのめりこむようにアンドレアス、そしてカレンに構っている。傍から見ていて必要以上に。

 コミュニケーションが足りていなかったというのは、事実だ。それを補おうとするのも、いい。だが、やり過ぎてはいけない。エリザベスがそれとなく伝えても、二人の耳には届かなかった。それほどまでに、ヘレンの状態は二人にトラウマを植えつけた様だった。


「……カレンは要領のいい子だから、問題ないとは思うけど…」


 エリザベスは、もう一人の孫、カレンにも気を配っていた。両親に言いたくても言えないことがあれば言いなさい、と。そしてカレンの侍女であるエマにも、目を光らせるように言った。

 しかしカレンは、エリザベスの心配を余所にいつもと変わらない日常を送っていた。

 そんなある日。



『ねぇ、おばあ様』

『なぁに、カレン』

『私は、お姉さま(・・・・)のようにはならないわ?』

『……そうじゃないのよ、カレン』

『私はね、おばあ様、お姉さまのようにお父様たちの期待に応えようなんて思っていないもの』

『どういうことかしら?』

『ダンスもマナーも楽しいからするわ、でも、たまには疲れちゃうもの。やるときはしっかりやるけど…頑張りたくないときは頑張らないわ、私』

『…カレンは要領がいいのね』

『お姉さまが頑張り過ぎなだけ。真面目すぎるのよ。昔、遊ぼうって誘っても、すぐに勉強しなきゃって…。確かにお父様たちがお姉さまに期待していたのは知っているわ。でも、もうちょっと他にやり方があったんじゃないって思うの』



 カレンからそう話されたとき、この子は大丈夫だとエリザベスは思った。エマも同じように考えているらしく、『カレンお嬢様は発散のやり方がお上手なのです。ですから、私が心配せずともお嬢様はご自分から話してくださいます』と言われた。

 きっと、カレンにもカレンなりの悩みがあり、それを家族に言えないときにエマに話していたのだろう。

 …ヘレンは、それが出来なかった。


「大奥方様とヘレンお嬢様が行かれてしまった後、私のほうでも念のため注意しておきます」

「ありがとう、医師」

「いいえ、大奥方様と大旦那様にはお世話になりましたから」

「そんな昔のこと…でも今回はとても助かるからお願いするわね、ジョシュア」


 ジョシュア・ハルトマン四十六歳。彼は、若かりし頃に先代マイヤー家にとても世話になっていた。ジョシュアはハルトマン家の三男坊で、家もそこまで裕福ではなかった。しかし彼には医師になるという目標があったのだ。それを、知り合いの伝手で知ったマイヤー前当主は、ジョシュアに手を貸した。

 いずれ立派な医師となったときには、自分の家族を助けてほしい、その前払いだ、と言って。

 それから、ジョシュアはマイヤー家を最優先にする医師となっている。最優先というのは、マイヤー家で常に病人がいるわけではないので基本的には町にある病院に勤めているのだ。個人でも開けるが、そうすると病人を待たせてしまうということで、ジョシュアは病院勤めを選択した。


「それで、いつごろご出立されるご予定ですか?」

「三日後を予定しています」

「そうですか…私は生憎仕事がありまして…」

「構いません。今日来ていただいたのですから」

「申し訳ありません、大奥方様」


 そしてエリザベスは宣言通り、ヘレンの荷造りを終わらせた。行きはエリザベスと執事兼御者のダン、帰りはそれにヘレンと、ヘレンについていくと宣言したマリの計四人となった。

 しかしそれでは荷が運びきれないため、エリザベスは新たに日雇いを雇い、計二台の馬車で自身の屋敷へと戻ることになった。

 一台目には御者とマリ、そして荷物を。後続にヘレンとエリザベス、御者にダンだ。


 そしてエリザベスがハルトマンに話してからの三日間、ついにマイヤー夫妻がヘレンの部屋を訪ねることはなかった。





 その日は、生憎小雨が降った。しかしこれ以上先延ばしに出来ないと判断したエリザベスは、出立日を変えることをしなかった。


「ドナルド、ジャクリーヌ」

「母上…」

「お義母様…」


 そして出立する日、ドナルドとジャクリーヌは顔色を悪くしながらも見送りに玄関へとやってきた。来なかったら見限るところだったが、そこまで酷くないことに心の中で安堵する。


「お姉さま、お元気で。次会うときは小さいころのように話してくれたら嬉しいわ」


 カレンはいつもと変わらず、ヘレンを抱きしめて挨拶をしている。声は明るいが、少しだけ震えているような気がするのはエリザベスだけだろうか。


「ヘレン…」

「ヘレン…」


 そうしていると、ドナルドたちがヘレンの前に立った。憔悴しきっている二人は、まともにヘレンの顔を見ない。下を俯いたまま、ぼそぼそと話す。


「その…達者でな」

「体には、気を付けるのよ…」


 微笑むその表情が、わずかに引き攣っているが、エリザベスは何も言うことはない。

 ヘレンは変わらずにぼんやりとしている。…家族と視線が合うことは、ない。


「…行きましょう、ヘレン」


 長居をすればするほど、到着が遅くなる。それは老いたエリザベスにも無理を強いることだった。


「母上っ…」

「何かしら、ドナルド」


 馬車にヘレンを乗せ、自分も乗ろうとした瞬間、背後からドナルドに声をかけられた。その声は必死さが混じっており、どこか泣き出しそうにも聞こえる。


「……て、手紙を」

「わかっているわ」

「こ、こちらからも、出します、ですから、ヘレンを、ヘレンを……」


 ドナルドはそう言って、エリザベスに頭を下げた。その隣ではジャクリーヌも手巾(ハンカチ)で顔を覆いながら頭を下げている。二人が、ちゃんとヘレンを想っていることがわかった。


「…貴方たちこそ、元気でね。いつになるかはわからないけれど、また来たいわ…。カレン、その時はみんなでお茶をしましょうね」

「はい、おばあ様」







 がたごとと、馬車が揺れる。質のいい車輪などを使用しているが、道自体が舗装されていなければ付け焼刃だ。馬車の窓を、たたっ…と雨が叩く。筋になって流れ落ちるそれを、ヘレンは見ていた。

 少しずつ遠くなるマイヤー家の屋敷。

 ヘレンは、それをただただ瞳に映していた。その表情には、何も浮かんでいない。喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も。ただただぼんやりと見ていると、エリザベスは思っていた。


「……っ、ヘレン、貴女―――」


 エリザベスはヘレンを見て、絶句する。そしてくしゃりと顔を歪めると、ヘレンの隣に座ってその痩躯を抱きしめた。エリザベスの体が震える。まるで雨を抱き込んでいるかのように、冷たい。暖かくしているはずなのに、雨のせいだろうか。ヘレンの体がとても冷たく感じられた。


 ―――ヘレンは、その青い瞳から雫を零していた。


 きっと、本人は気づいていないのだろう。瞬きもせず、ただただ雨によって歪んだ生家を見つめていた。憂いもなく、切なさもなく、歓喜もない。エリザベスには、ヘレンが何を思って涙を流しているのかはわからない。

 ただ、その姿を見ていると胸が痛くなるのだ。何かを言ってあげたいのに、言えない。何を言えばいいのか、言っていいのか、それすらわからないのだ。

 エリザベスの体は震え、その頬を涙が濡らす。孫娘が泣き声をあげていないのに、自分があげるわけにはいかないと唇を噛み締めて。


 ヘレンにとって全てと言っても過言ではない家から引き離す。それが、ヘレンにどのように作用するのか、エリザベスには想像もできなかった。でも、あそこには置けない。それだけは確かなことだと思った。






 とおくなる、いえ

 ちいさくなる

 みえなくなる


 あめがふっている

 まどを、たたく

 ゆがむ、けしき


 どこかがいたむ

 なにかがいたむ

 でも、わからなかった



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