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「母上……」
「………」
エリザベスは、久しぶりに訪れるマイヤー家に微塵も感動を覚えなかった。迎え入れたのは心細そうにしている息子ドナルドと、その妻、ジャクリーヌだ。
「……手紙では、よくわからなかったの。どういうことか、説明していただける?」
「……」
夫婦は顔色を悪くしたまま、エリザベスを応接間へと案内した。そして侍女に紅茶を用意させると、深く深く息を吐いた。
「…ヘレンが、燃え尽き症候群なるものに罹りました」
「聞いたわ」
「…今までのように活発に動くことはなく、声も聞いていません」
「それで」
「……日々ぼんやりと過ごしています」
「…私は、どうして、そうなったのかを、聞いているの」
エリザベスは怒気を纏わせながら問うた。どうして、こんなことになってしまったのだ。あんなにも頑張り屋な子が、どうして。
「―――ドナルド、私は貴方たちに言ったわね。もう少し休み休みさせてあげなさい、と」
「……」
「あの時、ヘレンは何も言わなかったわ。でもその日の夜、あの子の部屋に行ったの」
二人だけの秘密、と笑っていたのに。今でも守っていたのに。
「あの子は、驚くくらい頑張っていたわ。自慢するわけでもなく、ただ、何をした、と。…まるで、初めて聞いてもらう幼子のようだったわ」
「そんなはず…!!」
「あら、なら、あの子は何をしていたの?」
エリザベスの言葉に、ドナルドとジャクリーヌは話し出す。
「あの子は勉強の筋がとてもいいと」
「そうです、あの年で、過去試験問題の正解率を半分超えたのは凄いと」
「それに乗馬も板についたとも」
「マナーもしっかりして、教えることはないと聞きましたわ」
「教養もしっかりと身について、同じ年頃であれば群を抜いているとも!」
エリザベスは、二人の口から齎される情報に悲しくなった。
「……それは、教師の方々から聞いたのね。ヘレンの口からではなく」
「っ」
なんてことだろうと、エリザベスは呻きたくなった。優秀な我が子、確かにそうだ。しかし、その内容を…本人からの主観を、両親が知らないだなんて。本人から聞かずに、ただただ教師陣に任せっきりだなんて。
あの時、おかしいと思っていたのだ。
目をキラキラとさせながら話してくれるヘレン。その姿は幼さすらあった。…自分が褒めれば、目を潤ませ頬を上気させていた。嬉しくて嬉しくてしょうがない、というのがわかった。
でも、どうして。
どうして、そんなに泣きそうなの、ヘレン。
聞けばよかった、あの時に。
そうすれば、こんな今は来なかったのかもしれない。
「……ヘレンが夜遅くまで勉強していることを、あなた達は知っていた?」
「…聞いては、いました」
「聞いていて、止めなかったの?」
「……」
「一度目の試験問題、結構解いていたようね。手紙で読んだわ。凄いことって言っていたけど、あの時の手紙にはそんな気持ち、少しも感じられなかった」
ヘレンはよくやったとグリンデルは言っていましたが、ヘレンならもっと出来るはずです。今回は体調を崩したようですが、次回は必ずやってくれるでしょう。
手紙には、そう書かれていた。エリザベスには十分に思えたが、息子たちには足りないのか、と。そして体調を崩してまで試験を受けるヘレンが心配になった。
「……ねぇ、二人とも、ヘレンを褒めてあげた?」
「ほ、褒めていました、よ」
「いい子だ、と手放しに?」
「……」
「…アンドレアスが生まれたことは、素直に喜ばしいことよ。でも、あなた達が、あの子に当主になるよう教えたのでしょう?」
エリザベスは、ヘレンにあの夜言ったのだ。
もし、辛いようならおばあ様から話してあげよう、と。しかしヘレンは首を横に振った。
『おばあ様。お父様も、お母様も、私に期待をしてくださっているの…。私なら、マイヤー家を継げるって。だからね、頑張りたいの』
エリザベスは熱くなる目頭を何とか抑え込むように力を入れた。あの、健気な姿を思い出すだけで、愛しさと……言葉に出来ない切なさが溢れる。
「―――あの子は、あなた達が期待してくれているから、頑張りたいと言っていたのよ。小さいころから、それだけを目標に生きていたのよ…」
「―――」
ドナルドとジャクリーヌは目を伏せ、言葉を失っていた。
「子供…跡継ぎが生まれることは、いいことよ。でも、あなた達は娘に課したことを忘れてはいけなかった。そのフォローをしなければならなかった。ずっとずっとこの家にいるのだと思っていたヘレンが、いきなり家から出ることになると気づいて、悲しくならないわけないでしょう」
きっと、自分の居場所を奪われたようにも感じただろう。だが優しいあの子のことだ。弟にも誠意をもって接していただろうと思う。
「…それで、あの子に何を言ったの」
「…母上?」
「知り合いの方が、教えてくれたの。きっかけになる何かがあったはずだと。アンドレアスが生まれてから時間が経っているわ。それなのに、ヘレンは燃え尽きてしまった。何かきっかけがあったとしか思いようがないわ」
それはイーライが教えてくれたことだった。
「……」
「わ、わかりませんわっ…!!」
顔色を真っ青にする二人に、心当たりがあるのだとエリザベスは思う。そして、二人がそのきっかけだとも。そしてそれを隠したいと思う気持ちも。
「……とりあえず、ヘレンに会うわ」
「…ロドリゲス」
ドナルドはヘレンに会う勇気がないのか、項垂れたまま執事に声をかける。きっと、母である自分がドナルドたちの虚勢を見破っていることもわかっているだろう。
しかしエリザベスは断罪しに、ここに来たわけではない。
「こちらです、大奥様」
「えぇ」
自分は、助けに来たのだ。
可愛い孫娘を。
「ヘレンっ……!」
「っ、大奥様!?」
ヘレンは部屋で、ただぼんやりとしていた。何をするでもなく、ただただ窓から外の風景を眺める。そんな時が止まったような部屋に、突如突風が吹いた。
マリは驚きながらも目を潤ませる。
「マリ、あぁ、大変だったわね…」
「いいえ、いいえ、大奥様…私よりも、ヘレンお嬢様が…」
エリザベスはマリの言葉に、窓辺に座るヘレンへと歩み寄る。いつもであれば自分が来た瞬間から笑みを浮かべるその表情は、何も浮かんでいない。
「…ヘレン、聞こえている…? お婆様よ」
ヘレンはエリザベスの声に反応したのか、そちらを振り向く。が、その表情は相変わらず変化を見せない。そのことに、エリザベスは涙を堪えた。
「ヘレン……ごめんなさいね、私が、もっと言っておけば……せめてもっと早く来てあげられていたら…」
「大奥様…」
背後から聞こえるマリの声が震えている。
「マリ、ヘレンを連れて行くわ。ここでは、きっとよくならない」
エリザベスは覚悟を決めるように声に出した。このままではいけない。きっとドナルドたちもヘレンも、ダメになる。そうエリザベスは確信した。
出来るだけ急いで、ここを離れないと。
そう思ったエリザベスに、明るい声がかけられた。
「おばあ様! いらっしゃっているのなら教えてください!」
「…カレン」
そこにはヘレンと同じ色、殆ど同じ顔をしたカレンがにこにこと笑っていた。
「もう、おばあ様ったら、すぐにお父様たちとお話をして、こちらに来てしまわれるんだもの。ね、お茶をしましょう、おばあ様!」
「……カレン、今はそういったことをしている場合ではないのよ」
「? ならいつできますか? 明日?」
「カレン…貴女、お姉さまがこうなってしまっているのに…」
その時、カレンは頬を膨らませた。
「…お姉さまお姉さまって、みんなして。お姉さまが頑張っていらしたのは知っているわ。でも、お姉さまだって、悪いところがあったと思うわ」
「カレン?」
カレンは止めるつもりがないのか、そのまま不貞腐れたようにぽろぽろと零す。
「だって、そうでしょう? お姉さまは真面目すぎたのよ。もっと上手く手を抜いてやればよかったのに。それでアンドレが生まれて当主になれなくなってしまったって…別にいいじゃない」
「―――カレン」
「そうでしょう? だって、お姉さまは女の子ですもの。花嫁になれるわ!」
「お願い、カレン、それ以上は」
「それに女性の方が当主になるのって、とても大変なのでしょう? ならいいじゃない、もう頑張らなくてよくなるんだから。なのにお姉さまは…。これじゃあアンドレも可哀そうだわ」
「カレンっ、もうやめて!!」
絹を裂くようなエリザベスの叫びに、カレンはようやくびくりと肩を揺らして止まった。
「……カレン、貴女の言いたいこともわからなくもないわ…。でも、貴女の姉なのよ? どうしてそんなことを」
「……もういい」
カレンはそれだけ言うと部屋を出て行った。その後ろ姿を呆然として見送るしか、エリザベスにはできなかった。
****
夜が来る。いつもであれば、復習をする時間。でも、もうしなくてもいい。
母に言われて、ヘレンは漠然とした不安を心に抱えていた。
目が冴える。そうだ、いつもであれば眠くなるまで復習や、日中の練習や鍛錬で疲れ切っていたのだから。
ベッドに転がり、天井を見る。
いつもであれば、明日の予定を考える時間。
座学のどの分野をしようか、午後は乗馬をしようか、それともダンスだろうか、と。
……でも、ヘレンは気づいてしまった。
もう、やらなくていいのだと。
それで、何をすればいいのか、わからなくなった。
あれ、と思って、何か楽しいことをやろうとも、考えて、でも、何も思いつかなくて。母が言うようなことを、今まで何もしてこなくて、じゃあ他のはなんでやっていたのかって、両親に言われたからで、じゃあなんで両親はそう言ったのかは、ヘレンが当主になるためで、でも、ヘレンは当主になることはなくて。
あれ。
からっぽだった
おどろくほど、からっぽだった
いったいなんのために、がんばっていたのだろう
いわれたとおりにしかしてこなかった
じぶんでしたいとおもったことではなかった
そのせいだろうか
どれもこれも、じぶんのためだといういしきがない
どれもこれも、すきだとおもえるものではない
まえまでみちていたようなきがしたのに
いまではからっぽ
なぁんにも、ない
つまらない
つまらないにんげんだ、わたしは
だって、いうことをきくしか、のうがない
ぼろぼろと、くずれていく
じぶんだとおもっていたものが
うちがわから、そとがわから
もうたてない
もうあるけない
いきも、できない
そうしてヘレンは、静かに一人で絶望して。
何をすればいいのかわからなくなって。
目標を失った。