姓無き兵卒は崇拝する
あの日、あたしは運命に出会った。
皇歴2019年。弥生の20日。
行われたのは私たち平民にとって”お祭り”という感覚しかない元服の儀。
あたしは城にて働く一兵卒として、初めてそのお方を垣間見る。
や、ほんと、チラッと目線があっただけなんだけどね。
その時の衝撃ったら無かったよ。
陳腐な表現にはなるけど、あれね。
雷に打たれたような衝撃ってやつ。
心臓が口から飛び出すんじゃないかって。
いや、違うな。それよりももっと。
心臓が鼓動だけで胸を突き破るんじゃないかって。
そう、そんくらい。
とにかく、そんくらい凄かった。
”傾国の美少年”と巷で噂されていた『酒井ミナヅキ』様と目が合ったのは奇跡だったんだと思う。
△▼△
元服の儀の当日。
あたしは運良く当直の時間を外れる事に成功していた。
同僚たちからは恨めしく妬ましい視線を送られたが、そんな事など気にならない。
平民はこのくらい図太くなければ!
私が城に働きに出て早数年になる。
何回か巡った元服の季節だけど、この期間一日を自由に過ごせた日は今まで一度たりとも無かった。
年がら年中賑わっている江戸の町だが、この日はその中でも特別賑わう日だ。
気の緩んだ隙を見て、盗みや強盗を働く者が多く出てくる。
それをしょっ引くのも、あたしたち「町奉行所」の役目。
お祭り騒ぎの日に呑気に休みなぞ貰える訳がない。
だが、今日のあたしは一味違う!
神社への参勤行列だけでも見ようとぉう!
この時間だけでも自由時間を得るべくぅう!
上司にゴマ擦りをぉう!
あっ! 施したぁあ!!
何せ、今年の元服祭りは大物揃い。
近くで見なきゃ損ってもんだよ。
今のあたしは正に有頂天!
鼻歌なんぞ歌っちゃって、意気揚々と大手門への道を歩いてきた。
しかし。
しかし、だ。
誰も攻めちゃこないだろうに時代錯誤も甚だしい。
くねくねと曲がった道を見てみれば、そこにはごまんと人がいる。
おいおい。
大手門までは城内の奴らしかいないからお手軽に殿上人を見られるぞ、なんて法螺ついた奴は誰だい。
まるで餌に群がる鯉じゃないか。
あたしもその一人だって?
その通りだよ!
大手門に至るまでの道は城の外で暮らす平民たちが入ってこれない。
それでも、あたしみたいな奴らが大勢押し寄せてきたのだから、ただでさえ狭い道は荒波の如く。
当然と言えば当然だ。
城内にいる人数だけでも結構な数ではあるのだし、曲輪はその構造上どうしても見通しが悪いのだから、別に大手門内の方が良いとも一概には言えない。
けれども、大手門内の私たちにとって唯一ともいえる利点がある。
道が広くはないからこそ、選民の方の近くにまで行けるのだ。
しがない一兵卒であるあたしが高貴な方々を目にする機会などそうそうない。
それを出来るだけ間近で見れる機会があるってんなら、そりゃ野を越え山を越え。
同じ城で働く顔見知りたちと鍔迫り合い、なんとか最前列のそれはもう貴賓席みたいな場所を手に入れた。
服装とかは勘弁しておくれ。
だって、この後すぐ警邏なんだもん。
あたしの目の前で、輿の通り道に人が紛れ込まないよう監視する同僚が「ぢっ」と小汚い舌打ちをした。
あーやだやだ。
これだから下町育ちの平民は。
気品てもんがないね、気品が。
ほら、見てごらんな。
あっちからやってくる煌びやかなお方たち、を……。
うお!?
もう来たんか?
あっぶない、あぶない。
場所取りに必死で時を忘れていた。
あたしは身を乗り出すようにして城の方へ続く道を見据える。
ズンドコズンドコ太鼓を鳴らし、そりゃもう目に眩しい装いのすんごい方たちが目に入った。
先頭は上様の御世継だ。
輿の上で腕を組んで真っ直ぐを前を見つめる凛々しいお顔に、同性ながら惚れ惚れする。
あ、あたしもあんな女になってみてー……。
次にいらっしゃったのは井伊の姫様。
あたしは全く関わった事がないんだけど、城勤めの他の奴に聞いたら、なんでも凄く良くしてもらったと感激していた。
あたしの家は侍従としての奉公に出せるほどの家格でもなかったから、選民の方々は雲の上の存在だ。
話しかけられるなんて、それだけで腰を抜かしてしまう。
その上、気にかけてもらった?
「夢でも見たのか?」って聞いて「そうかもしれん」なんて答えが返ってきた時にゃ末期だと思ったね。あれはもう助からない。
ふんわりとあまり女らしくない緩そうな雰囲気を撒きながらあたしの前を井伊の姫様が通り過ぎる。
そして次。
そう、次だ!
これこそあたしの大本命!
町奉行所なんて女臭い場所に放り込まれているあたしにとって、噂で聞いた美少年は心の潤い!
まあ、噂だし? どうせ誇張はされてるだろうけど、火の無い所に煙は立たないって言うし?
それなりに可愛い――。
△▼△
「—―っはぁ!?」
あ、あたし、今何してた?
うっそ、記憶が飛んだ。
え、勿体ない!
殿様は? 絶世の美少年は!? どこ!?
慌ててキョロキョロと左右を見渡してみると、行列の最後尾が道の先へ消えていくところだった。
待っ……てやゴルアァァァアァッァッァァッ!!!!
この時あたしは、人生の中で最も身体能力が上がってたろうね。
そんくらい必死だったんだよ。
自覚はあった。
だって、あのご尊顔をもう一度拝まなければ、あたしは死ぬに死にきれない!!
そこから先は、とにかく大変だった。
追いついても、「後から来た奴に譲る場所などねえ!」と締め出され。
大手門を抜ければ「ぎゃああぁぁっぁああああぁぁぁ!!」と歓声なのか悲鳴なのか。いや、これは怒声か。
もうすっごい声の応酬。
「この中を警邏すんの? うっへぇ……」なんて少し現実に引き戻された。
元々、大手門の中で見たら警邏へと向かう予定だったあたしに、これ以上の時間は残されていない。
目元を右袖でグッと拭い、尚も溢れる滴。
誤魔化すように顔を空に向ける。
ああ、あたし、とんでもないものを見ちったよ。
そっか、神はこんなに近くにいたんだなあ。
すっ飛んだと思っていた記憶が蘇ってくると、あたしは地獄のように怒号が飛び交う大手門の向こう側へ向けて、そっと手を合わせた。
脳裏には一人の少年。
あたしの体験は一瞬。
記憶を追走するように、目を閉じもう一度ご尊顔を顧みる。
それは、想像よりも美しく、噂よりも尚神々しい。
小さく可愛らしい耳が覗く、絹のように滑らかな射干玉の黒髪。
陽光を吸い取るかのように深く濃厚なその色合いの中に、角度によっては輝く白い輪が差し色として浮かび上がる。
肩口で揺れる毛先はまるであたしを惑わすようだった。
そして、輿に座る姿は白百合のよう。
豪奢な裳着に身を包みながらも、その線の細さは儚く尊い。
華美である装いはいっそ不要。
彼本来の幽玄の美は、装飾品によって施されるものではない。
それを分かっているのか、裳着の柄も刺繍も煩くない程度に抑えられており、彼の気品をより引き立てていた。
それは薄く施された化粧にも反映されており、小さな口、柔らかな頬、スッとした眉。
どこまでも遠くを見つめる、澄んだ水面の瞳。
濃紺色の目は一体どこを見据えているのか。
彼全体のどことなくつかみどころのない雰囲気は、きっとこの瞳によるものなのだろう。
柄にもなく、というか、こんな表現あたしにもできるんだな、と。
最早他人事のように考え、唖然とし、ポカンと間抜けに口を開けて。
それはもう魂が半分抜けてたであろう、あたしに!
あの酒井の若様が、視線をよこして下さったのだ!!
はい、無理ぃぃぃぃぃーーー!!??
思い出すだけでもう無理ぃぃぃぃぃぃーーー!!
あたしの許容量はそこでいっぱいだった。
ごめん、見栄張った。
それ以前からいっぱいだった。
今思い返せば自分で自分の首を絞めて怒鳴り散らすくらい勿体なかったと思うけど。
それでも、あの時は本当に「あ、死ぬんだ。あたし、一生の運全部使ったわ」と。
いや、ほんと!
あの時はほんとにそう思ったの!!
で、その後は狂乱の宴と化した江戸の町を東奔西走した訳よ。
あ、警邏ね。仕事よ仕事。
後から聞いたら、神社で何かあったらしいし、戦技館で果し合いの人前仕合するし。
もうほんっと見たかった!
ちっくしょう!
夜中は夜中で、なんか騒ぎが起きたし。
江戸の町人たちは落ち着きってもんを知らんのか!?
そして、やっと落ち着いてきたと思ったら、酒井の若様は学舎へと行ってしまった。
そりゃそうっすよね。
選民の方ですもん。元服もしましたし。
あああああぁああぁぁあああっぁっぁぁぁあぁぁああああ!!!
下男、下女に留まらず、選民の方々まで。
その日の城内の空気は重かった。
だから、あたしたちは立ち上がったのだ!
△▼△
何故か酒井の若様—―ミナヅキ様は人を避ける。
始めは変な人って感じだったけど、元服の日以来その認識は変わった。
無用な混乱を避けるためだったんだ!
なんてお優しい!
部屋に籠ってばかりでお体でも弱いのかな、とか色々な憶測もあったが、なるほど。
あの細いお体ではそれも十分に有り得る。
酒井の若様は病弱であまり外に出歩けず、上様の御世継「アカリ様」や井伊の姫様「コハク様」が直接部屋に訪れ様子を見ているとも聞いた。
あのお方たちも、あれだけの美貌を持つ殿方が気になって仕方ないと見える。
分かる。分かるよ!
あたしにとっては高嶺の花過ぎ。手を出すなんて想像するだけ天罰が下るが、あの方々だったら現実的だ。
と言う事は、アカリ様とコハク様は……恋敵!
かあっ!
こりゃあなんて御伽草子だい!?
あたいは今、歴史の証人になっている!
って、違う。
あたしたちはミナヅキ様に安寧と平和。そして安らぎを得て欲しいのだ。
あの日、ミナヅキ様の御威光に触れたのはあたしだけではなかった。
大勢の同士たちがいたのだ。
それは城の内外問わず。
平民と選民の垣根を越え。
ついには、あのミカゲ殿にまでたどり着いた!
ミカゲ殿と言えば彼の御仏、ミナヅキ様に仕える筆頭侍従。
同じ平民とは言え、あたしとは明らかに格も立場も違う。
それでも、同士たちの協力により、あたしたちは一つの約定を得るに至った!
「……そうですね。若様への忠節、見せて頂きました。であれば、あなた方の活動を認めましょう。全ては若様のため。その身、その命を捧げなさい」
そう。全てはミナヅキ様のために!
あの日、あたしの運命に出会ったのだ。
始めはその美しさに心を奪われたのかと思った。
けれど、今ならばはっきりと言える!
”神子”となったミナヅキ様は本物の”神仏”だ!
天照様もお認めになった大徳に、わたしたちが尽くすのは当たり前じゃないか。
しかも、あのお方に平和に過ごしてもらうための行動。
お手を煩わせる事なく、日向はミカゲ殿が、陰をあたしたちが。それぞれ万全の態勢でミナヅキ様を支える!
うんうん!
やっぱり可愛く美しい男の子を愛でるのは素晴らしいね!
彼に近づく害虫は一匹残らず駆除する!
あたしたちの活動はまだ始まったばかりだ。