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②焔の国

 それから数日経った。わたしの記憶にも特に変化はない。まぁ覚悟が決まったぐらいで戻ってきてくれたら、苦労はないのだが。

 朝食のあと、午前中の仕事が少しだけ早く済んで、暇になったのが午前の十時半。それから、せっかくのいい天気なので布団を干そうと思いつき、階段をえっちらおっちらしているのが今の状況だ。

 ランス付きの使用人の部屋は第十三棟の二階にある。そこの一室にベッドを4つ並べて、わたしとエミリアさん、ミリア、リアちゃんの四人で使わせてもらっている。三人分の布団を運び終わり、最後に自分の分を運び出そうとしたところで、ふと声が届く。

「ナナミちゃーん」

 おっとりとした女性の声。窓の外からだった。わたしは窓の外へ顔を出すと、下に目線を向ける。そこには金色の髪に青い瞳をした女性が立っていた。わたしと同じ制服を着ているはずなのに、どこか上品な感じだ。

 ところで……わたしの名前を知っていたようだが、どこかで会っただろうか?

 そしてその女性には変ったところがひとつ。その女性が立っているのは庭のはずれのはずなのに、右手にフライパンを持っているのだ。女性が「おはよー」なんて言ってくるから、こちらも「おはようございます」と返す。

「これ、あげるねー」

 謎の女性は〝にぱー″と笑うと、フライパンを構える。女性は左手に持った黄色い果物を宙に放ると、思いっきりフライパンでそれを叩いた。

 わたしは慌てて、飛んできた果物を捕まえる。突然のことに唖然としてしまって、手を振って去っていく女性に、果物のお礼を言いそびれてしまった。

「また今度、会ったときにちゃんと言わないと」

 それはそうと、果物をフライパンで叩くなんて、少し非常識ではないだろうか? 普通はそんなことをしたら、果物が傷んでしまうだろうに。そう思って、わたしは果物を回して見てみるのだが……

「あれ?」

 何度見ても、果物にそれらしい傷はない。

 わたしは首を傾げる。部屋を出て厨房に向かう途中も、ずっともやもやした気分が抜けなかった。



 昼食のときに、フライパンの女性のことをみんなに聞いてみる。すると、思いのほか有名人らしかった。

「ああ、〝にぱー″はきっとマドカさんね」

「フライパンはマドカさんですね。いつも持ってます」

「消去法でマドカさんです。このお城で特にデタラメなのは、エミリア姉さんとナナミさんとそのひとですから」

 へぇ、わたしってそっち側のカテゴリーなんだ。気をつけよ……

「マドカさんは、グレン兄さん専属の使用人だよ」ランスだけがきちんと親切に教えてくれる。「僕も良く知らないけど、秘書みたいなこともやってるらしいね。とぼけている感じだけど、グレン兄さんが重用するってことは、すごい人なんじゃないかな」

「へぇ……」

 昼食の最後に、マドカさんからもらった果物を切り分ける。思いのほか美味しくて、ちょっと驚いてしまった。みんなにも評判がよかったし、市場で同じのを見かけたら買って来ようかなんて思う。

 昼食が終わると、ランスは自室にこもってしまった。また魔法の研究でもしているのだろう。わたしはと言うと、今日は一人で皿洗いだ。「午前中の仕事が少なかった分、まぁしょうがないか」なんて呟いて、じゃぶじゃぶ食器をこすっていく。

「あらまぁ、お一人?」

「ん?」

 声を掛けられて振り向くと、そこにはマドカさんがいた。マドカさんはフライパンの柄を帯に挟むと、「手伝ってあげる♪」と言ってくれた。

「あ、そうだマドカさん。果物ありがとうございました」

「あれ、たまたま市場の端でもらったのよ。美味しかった? 特に問題なかった?」

「ええ、とっても美味しかったです……『問題なかった?』って?」

「よかった♪ じゃぁわたしも食べてみようかな」

「え?」

 そういってまた、マドカさんは〝にぱー″と笑う。うん、深く考えないようにしよう。

「マドカさんって、いつからこの王宮にいるんです?」「そうね、物心付くころにはこの王宮に出入りしてたかな」「お父さんかお母さんがここで働いてたんですか?」「ううん、塀をよじのぼって、果物を盗みに来てたのよ」「え……王宮ですよ?」「てへっ。まぁ子供の頃の話よ。そしたらある日、兵士さんにみつかっちゃってね。怒られるかなって覚悟したんだけど、でも拍子抜け。『次からは籠をもっておいで、好きなだけ取ってっていいから』って言われちゃった」「へぇ。誰もその果物食べないんです?」「まぁ、さっきのと違って、渋くて美味しくないやつだからね。実は干すと甘くなるんだけど、それを知ってる人は少ないかな。収穫の季節は秋ごろだからもう少し先。その頃になったら、市場とかに配りに行くんだけど、暇だったら手伝ってほしいなぁなんて♪」「いいですよ、わたしでよければ」「ありがとっ」「それにしても、平和な国ですね」「そうね」

 それから、マドカさんはまた笑う。つられてわたしも笑ってしまった。

 それにしても、わたしはどうして『平和な国』なんて言葉を口にしたのだろう。わたしはこの国しか知らないはずなのに。

 それとも、記憶を失う前の常識とこの国の生活が、それほどまでに掛け離れているのだろうか。

 そんなことを考えていると、「えいっ!」「うにゃっ!」とマドカさんにデコピンされてしまう。

「ナナミちゃん、今の顔かわいくない~」「だからって、ほっぺ引っ張らないでください~」「嫌ぁだ! わぁらぁえぇ~」「うみゃぁ。分かりました、分かりかしたから~」

 マドカさんはわたしの頬から手を離すと、わたしの頭を「いいこいいこ」と撫でてくれる。こういうところは、どことなくエミリアさんに似ているような気がする。

「あ、そうだ!」マドカさんが言う。「聞こうと思ってたんだけど。ナナミちゃんはこの国に来る前は、どこの国にいたの?」

「覚えていないですけど、『穂の国』だと思います。一ヶ月前にランスに拾われたのがそこなので」

「そうだんだ」

「わたしがこの国の人じゃないって、やっぱり分かっちゃうんですね」

「まぁ確信とかは無かったんだけど、この国じゃ珍しい髪の色だから」

 いろんな話をしながら、マドカさんは一通り洗いものが片付くまで手伝ってくれた。再び腰に差したフライパンを手に取ると、「あぁ落ち着く♪」なんて言っている。そういうものなのだろうか。

 わたしはマドカさんに、手伝ってくれたお礼を言う。マドカさんは「べつにいいのよ~」と、はたはたと手を振っている。

「わたしも仕事、サボれたし♪」

「え?」

「なんてね。あ、そうだ。これはナナミちゃんにお願いなんだけど」

 マドカさんはそういいながら、ポケットのメモをわたしに差し出した。

「グレン様が、ランス様と話がしたいそうなの。今日の夜十時に、部屋に来るよう伝えてもらってもいいかしら?」

 わたしはメモを受け取る。そこにはマドカさんが言った時間と場所が書いてあった。

 それにしても、改まって話とは何のことだろう。グレン王子が絡んでいるということは、もしかしたら外交関係の話だろうか。 

「伝えるのはいいですけど、何かあったんですか?」

「わたしも詳しくは知らないけど、きっとあんまり楽しい話じゃないでしょうね」

 そう言ったときのマドカさんの顔は、そのときだけは笑ってはいなかった。



 マドカさんからの伝言をランスに伝えると、わたしは午後の仕事を手早く片付けた。いてもたってもいられないというのが、ちょうどの表現だろうか? まだ『月の国』に来て一ヶ月のわたしが何をと自分でも思うけれど、ランスとグレン様が今夜何を話すのか、気になってしょうがなかったのだ。

 時刻はもうすぐ午後五時。夕食は王族全員が揃って顔を合わせるので、使用人総出で準備に当たる。厨房に行くと、早い人たちはもうすでに下準備をはじめていて、鶏ガラと果物が入った鍋が煮込まれていたりする。牛肉を薄く均等に切ったり、野菜の皮を剥いたりと、夕食の二時間前から大忙しだが、みんなとても馴れた手つきだ。こんなに上手にはできないだろうけど、わたしも頑張らなくてはと思った。

「先輩、何かお手伝いすることは」

「あんたには無い。でてけ」

「うにゃぁ」

 追い出された。

 それでも中をのぞいていたら、『ナナミ立入禁止』なんて張り紙をされた。

「ナナミ、どうしたの?」

「あ、エミリアさん」

「なんか浮かない顔をしてるけど、どうかし……ぷっ、あひゃひゃひゃひゃ! あーーーっはっはっはっ。傑作、マジうける。とうとうナナミの悪名もここまで轟いたんだねぇ、いやぁっはっはっはっ、面白ぇ~」

「むぅ……笑いすぎです」

「ごめんごめん。つい……あはははは」

「笑いすぎですっ!」

「ホントごめん、ちょっと待って今無理あははははっ!」

 だいたい三分後ぐらい? エミリアさんがようやく大人しくなり、「いやぁ。ツボった、ツボった。笑い疲れちゃったよ」なんて言いながら壁に寄りかかっている。「知りません。ぷぃっ」「悪かったって、ね?」

 それからエミリアさんが張り紙を剥がそうとしてくれたのだが、ほかの使用人たちから猛反対されてしまった。張り紙は結局そのままだ。ヒドい……



 というわけで、することがなくなってしまった。

 夜十時までにはまだ時間がある。ベッドで横にでもなろうかなと、わたしは部屋に戻ったところだった。わたしたちの寝室は二階。階段をのぼって部屋の前まできたところでしかし、上の階から話し声が聞こえる。もうこの上にあるのは、ランスの部屋と書斎だけだ。わたしは足音を忍ばせて、ランスの部屋の前まで行く。扉は閉まっていて、中の様子は分からない。耳をそばだてると、誰かが泣いているような声が聞こえてきた。

「痛むかい?」

 これはランスの声だ。

「……大丈夫です」

 女の子の声。泣いているのはこの子だろう。幼い印象を受ける、弱々しい口調のそれに、わたしは聞き覚えがあった。

「ごめん。次こそ……いや、いつか必ず何とかするから」

「ランス様、いつもありがとうございます。だけど……本当にそんなことできるのでしょうか? そんな方法、あるのでしょうか? もしかしたらこの呪いは一生解けないんじゃないかって、いつかまた大切な人を失ってしまうんじゃないかって、時々怖くなるんです。そもそもわたしが『神の右手』なんて、何の当てつけなんでしょうね。ねぇ、ランス様。わたしもう、右手一本で何でもできるようになりました。着替えも料理も掃除も洗濯も水汲みも、全部! だからもう、わたしのこれを切り落としてくださいです!」

「それはだめだ。そんなことをしたら、今度は肩から肺と心臓が腐る」

「誰かを殺してしまうよりマシです! こんなわたしなんて……」

「駄目だっ!」

 それから激しい音。もみあっているようにも聞こえるそれに、わたしは咄嗟に扉に手をかける。しかしわたしが扉を開ける前にその音は収まり、わたしは入るタイミングを失ってしまった。まぁ盗み聞きしていたのだから、これでよかったのかもしれないが。

 途端、扉が開く。

「ごめんなさいっ!」

 泣きながら女の子が部屋を飛び出してきて、脇目も振らず階段を駆け下りていく。わたしには気づいていない様子だった。

 恐る恐る、わたしは部屋の中に入る。異臭がした。何かが腐ったような臭いだ。それから目に入ったのはランスの右手。まるで全体を火傷して水ぶくれができたようにも、酷く化膿をして内側から膿が漏れているようにも見えた。ところどころ内出血もしているようだ。しかしランスはそれを意に介した様子もなく、ただ階段のほうを見つめていた。

「ランス、今のリアちゃんよね?」

「ナナミ、きいてたのか……そうだよ」

 それからランスは、わたしに包帯のようなものを差し出してくる。魔法式につかうような模様が書かれているそれを、わたしは受け取った。

「悪いけど、これをリアちゃんに届けてもらっても良いかな? こういうときに何てこえをかけたら上手くいくか分からないんだ」

「いいけど……それよりもランス、右手は?」

「あぁ、これは二週間ぐらいすれば治るよ。でももし見かけたら、エミリアさんに僕の部屋へ来るようにお願いしてもらってもいいかな?」

「よくわからないけど、それで大丈夫なのね? じゃぁちょっと行ってくる!」

 わたしは走る。あんなに取り乱したリアちゃんを見るのも初めてだ。ランスもいつもどおりに振舞ってはいたけど、心の内までそんなはずはないだろう。詳しいことは何もわからないまま、とにかく急がなくてはいけないような気がした。



 リアちゃんを完全に見失ったわたしは、先に厨房へ向かい、エミリアさんにランスのところへ行くようお願いした。少しは怪訝な顔をされるかとも思ったが、意外にもエミリアさんは仕事を途中で放り出し、血相を変えて走っていった。王宮の敷地内をどれぐらい探し回っただろう、諦めかけて一息つこうと思ったときに、薔薇園に一人たたずむリアちゃんを見つけた。

「リアちゃんっ!」

 呼ぶ。呼んでから、しかしどう話を切り出していいのか分からなくて、いまさらわたしは二の足を踏んだ。リアちゃんが振り返る。目が合う。リアちゃんの目は泣き腫らしたように赤く、口元の笑顔は苦虫を噛み潰したあとのように力任せで、それは悲しそうにも苦しそうにも怯えてるようにも見えた。気が付けば走り出していた。小さな体を抱きしめる。勢いあまって二人して地面に倒れてしまったが、それでもわたしの手は解けなかった。

「えっと……ナナミさん?」

「大丈夫だよ!」

 わたしの口を突いて出たのは、そんな言葉だった。リアちゃんがどういう状況なのかも分からない。何が大丈夫なのかも、何をすればいいのかも分からない。だけどただ伝えたくて、だからわたしは叫ぶ。

「大丈夫っ、大丈夫だから!」

「大丈夫って、何がですか?」

「わかんない。わかんないけど、大丈夫だから! どんなことがあっても、わたしもランスも、きっとエミリアさんもミリアも、リアちゃんの味方になってくれるから!」

「……もしかして、聞かれちゃってたのですか?」

「ごめんね。でも、事情はさっぱり。それと、ランスから預かりものがあるんだけど」

「わたし、酷いこと言っちゃったのに」

「まぁ、ランスだからね」

「そうですね。ランス様は優しいですから」

 わたしは立ち上がる。リアちゃんに手を差し出したが、リアちゃんは首を横に振って、自分で立ち上がった。リアちゃんに包帯を渡すと、リアちゃんは制服の袖を肩までまくり、慣れた手つきでそれを左腕に巻きつける。再び袖を下ろして左手をポケットに入れると、巻いたはずの包帯はまったく見えなくなってしまった。もしかして、わたしと初めて会った日からずっと、その左腕には包帯が巻かれていたのだろうか。

「ナナミさん、ありがとうございます」

「よく分からないけど、これで大丈夫なの?」

「あくまで応急処置です。ですが、一応は」

「そっか。よかった」

 とりあえず胸をなでおろす。

 本当は聞きたいことがいっぱいあったし、まだまだ心配なこともいっぱいある。もしかしたらわたしじゃ力になれないことかもしれないけど、それでも知りたいというのが本音だった。そんな心を見透かされてか、はたまた当然の疑問なのか、リアちゃんが言う。

「何も聞かないんです?」

「本当はいっぱい聞きたいけど、でも、今日はやめとくね」

「すみません、ありがとうございます」

「ううん」

 ちょっとだけ臆病になったのもある。でもそれと同じぐらい、いまリアちゃんに質問してしまうと、リアちゃんが話したくないことまで言わせてしまうような気がした。とりあえず伝えたいことは伝えたし、今日はこれぐらいにするべきだろう。



 部屋に戻る。「ランスにはわたしから伝えておくから」と言って、少し早いがわたしはリアちゃんをベッドに寝かしつけた。それでもリアちゃんが眠りにつくまで二十分ぐらいはかかっただろうか。すでに時刻は十時を回ってしまっていた。

 ランスが自室にいないことを確認し、わたしは急いでグレン様の部屋へと向かう。わたしが到着したときには、ちょうどランスがグレン様の部屋に入ったところだった。扉が閉まったのを確認して、わたしは扉に聞き耳を立てる。

「ランスか?」低い声。グレン様の声だ。「ん、その右手の包帯はどうした」

「ちょっとね。二週間ぐらいで治るよ。ところで、僕に話があるって聞いて来たんだけど……もしかして、外交がらみ?」

「察しがいいな。そうだ」ランスの問いにグレン様が答える。「『月の国』と交流が無いから聞いたことが無いかもしれないが、『(ほむら)の国』という国がある。『月の国』からみて方角は東だな。『剣の国』と同盟関係にあった国だ」

 『剣の国』と聞いて思い出すのは、つい一ヶ月前に滅んでしまったことと、『剣の国』が『月の国』に侵攻する準備をしていたということだ。もしかしたら『焔の国』も同様に、『月の国』を狙ってきたりはしないだろうか?

 そう思い至ったのはわたしだけではなかったらしく、ランスはグレン様に聞き返す。

「『剣の国』と同盟関係……戦争になる可能性は?」

「まだ何ともいえない状態だが、考慮すべきだろう。『剣の国』と組んでこの国を狙っていた可能性も十分に考えられる。交易の拠点ということで手出しをする国は今までいなかったが、この地を欲しがる国は多い。そのうちのひとつだったということだろう」

 交易の拠点であるこの場所を自分のものにしたいと思う国は多いから、『月の国』はいつ他国に攻め込まれてもおかしくない。そう以前、ランスが言っていたことを思い出す。『月の国』は国土が狭く資源も乏しいため、軍事的な意味での国の力はとても弱い。攻め込まれたら、まず勝ち目は無いという。

 それでもこの国が存続しているのは、『月の国』への侵攻した国が、周辺他国から一斉に狙われることになるからだ。交易拠点の『月の国』があることで、それぞれの国に平等に利益がある。その利益を独り占めしようとすれは周辺の国が一斉に止めに掛かるし、もしこの土地を得ることができたとしても、いろいろな国から狙われることになる。だから不用意には手が出せない。それが今までの、『月の国』の状況だったらしい。

「詳しくはわからないけど」ランスが言う。「『剣の国』は、本格的に『月の国』への侵攻の準備をしていたのは間違いないんだよね?」

「ああ、間違いない。『剣の国』の国王は戦争で伸し上がった軍人上がりだった。無謀な戦は絶対にしない。つまりは……」

「周りの国々を一斉に敵に回しても問題が無いぐらいの戦力を持っていたってこと?」

「そうなるな。ランス、石火矢(いしびや)って聞いたことあるか?」

「いや、無いけど」

「鉄でできた、筒のような形の兵器だ。火薬を使って石を矢のように遠くまで飛ばすことができるらしい」

「兄さん、そんな武器が実在したらひとたまりもないじゃないか」

「だが、できるだろ」慌てたランスの声に、グレン様が冷静に返す。「別に、石火矢が作られていたって証拠もなければ根拠も無い。可能性の域を出ない話だ。『剣の国』は金属加工技術に長けた軍事国家だった。が、油や火薬の技術に長けた『焔の国』と手を組んでいたとなると最悪の組み合わせだ。今思うと寒気がするな」

 戦闘の準備が整いつつあったということは、つまりその『イシビヤ』という武器が、すでに完成していたということだろうか?

「ナナミちゃん」

 ふと、掛けられる声。いつの間にか、すぐ横にマドカさんがいて、わたしと同じように聞き耳を立てていた。声が漏れそうになったところで、マドカさんに口をふさがれる。

「しぃーっ。気づかれちゃうわよ」

「それって、マドカさんのせい……」

「だから、静かにって」

「むぅ」

「でさ、ナナミちゃん」マドカさんが言う。「わたしちょっと気づいちゃったんだけど、完成した石火矢を『焔の国』が持ってるって事は無いかな?」

「……それは怖いかも」

 でも、確かにありえる話に聞こえる。わたしにははっきりとはイメージできないけれど、ランスやグレン様の口ぶりからして、石火矢は相当な脅威になるのだろう。それこそ『月の国』どころか、周辺諸国が力を合わせても手に負えないレベルで。

 おそらくそれを察してか、ランスが言う。

「『焔の国』には、調べには行くの?」

「昨日、調査隊を送ったところだ。どうにも良い予感がしなくてな」 

「兄さん、そう言ってこの前の予感もはずれた……」

「全く外れていたわけではない。『剣の国』が攻めてくる予感がしたときも、調べてみたら本当に戦争の準備しているところだった」

「でも攻めてこなかったよ。気づいたら滅んじゃってたし」

「まぁそうだな。昔は結構、当たったんだがな」

 あ、グレン様って予感とか信じる人なんだ。怖い人かと思っていたけれど、意外とおちゃめなところもあるのかも。

「それともうひとつ、この前言ってたのは何だっけ?」

「もう言わん。あのとき鼻で笑われたからな」

 拗ねた♪ グレン様、かわゆす♪

「だから、ごめんってば」ランスが謝る。「確か、『今年は日照りのせいで市場街の泉と井戸が枯れて大変なことになる』だよね。大丈夫だよ、兄さん。きっとこの予感もはずれになるから」

 市場街の井戸? それってわたしたちが魔方式を仕掛けたところのことを言っているのだろうか。つまりランスは、グレン様の予感の話を聞いたから、井戸に魔法式を仕掛けに行ったってこと?

 考えても結論は出ず、次の話題に移ったので、またわたしは聞くことに集中する。

「ところでランス」グレン様が言う。「黒い髪に赤い瞳の女って、どこかで見たりしていないか?」

「黒い髪に赤い瞳?」

「そうだ」

 ちょん、ちょん。マドカさんがわたしの肩をつついてくる。

 振り返ると、マドカさんはわたしのほうを指差していて……えっ? 『黒髪に赤い目をした女』ってわたし? そんな馬鹿なっ!

「予感じゃなくて、俺も正直、戸惑っているんだが」グレン様は口ごもりながら続ける。「一昨日だ。妙な光景がいきなり頭に浮かんできた。赤い瞳で黒い髪の女が、軍隊を連れてこの国に侵攻して来てな。そしてこの国が滅ぶんだ」

「それって両目が赤かった?」

「ああ、両目だ……おい、額に手を当てるな、熱など無い!」

「兄さん、疲れているのかなって思って。大丈夫?」

「確かに、どうかしてるかもしれないな。すまん、忘れてくれ」

 それにしてもまた、突拍子もない話が飛び出したものだ。

 これが笑い飛ばせればよかったのだが、グレン様の声は真剣だった。そして今までの予感の話を聞いてしまった後だと、口でなんと言おうと、ランスはこれを無碍にはしないだろう。

「よかったね、ナナミちゃんが赤いのは片目だけだもんね」

 マドカさんの言葉にわたしは頷く。

「そろそろ話は終わりかな。ナナミちゃん、逃げるよ~」

「あ、はい」

 マドカさんといっしょに、グレン様の部屋から離れる。

 そのすぐあとに扉の開く音がして、わたしは胸をなでおろした。



 それから数日後のこと。

 以前にマドカさんから分けてもらった果物を探して、わたしは市場街を歩いていた。

 おおよその場所は聞いていたので、わたしはすぐにその店を見つける。かわいらしい赤毛の女性が出している、『穂の国』の果物を並べた露店だ。わたしが「おいくらですか?」と聞くと、赤毛の女性は「差し上げますよ。皆さんにもそうしていますので」と言って笑った。

 果物はまだまだいっぱい店の裏に積んであったけど、本当に貰っちゃっても良かったのだろうか? そんなことを考えながら、王宮に戻る途中だった。

「ひとつ……いや、ふたつほど尋ねてもよいだろうか?」

 振り返ると、そこには体長2メートルはあるのではないかという、大きな男がいた。わたしは思わず息を呑む。その大男は青い瞳に灰色の髪をしていて、屈強そうな男の人を4人ばかし連れている。おそらく護衛かなにかだろう。

「は、はぃ、にゃんでしょうにゃ」

 ヤバぃ、噛んだ。

 馬鹿にしていると思われなかっただろうか?

 しかし灰色の髪の男は意に介した様子も無く、広場の井戸を指差して言う。

「あの井戸の水は、飲んでもよいだろうか?」

「あ、はい。誰でも自由に使っていい井戸なので」

「すまない」

 灰色の髪の大男は護衛の四人に、先に井戸に行くよう指示する。護衛の四人は目配せをしたのち、頬に二本傷のある男が残り、ほかの三人が水を飲みに行った。

 おそらく砂漠を越えてきたのだろう。灰色の大男を包む黒いマントは砂にまみれ、大男の顔にも疲れが見て取れる。大男が「それともうひとつだが」なんて話し出そうとしたので、わたしは「水を飲むぐらいでしたら待っていますので」と、井戸のほうへ行くよう促す。

 えっと……ところで、何をやっているのだろう。

 井戸の水を汲むための桶を下ろしたりあげたりしているが、一向に水が入らないようだ。もしかしてこの人たちの国には、井戸はないのだろうか?

 わたしは桶を手に取ると、井戸に投げ入れてから勢いよく引き上げ、水の入った桶を大男に渡す。大男は護衛の四人に先に飲むように勧めたところ、逆に護衛達に勧め返されていた。十分に喉を潤したのち、わたしは大男とその護衛にも、何度も礼を言われてしまった。

 もう、最初に持った大男の怖い印象は、わたしの中から消えてしまっていた。

「それで、もうひとつの質問と言うのはなんでしょう?」

 大男に尋ねる。大男は王宮を指差すと、それから言った。

「何とか、この国の王に謁見を願えないだろうか? 私はここより東方にある『焔の国』の王子で、ノレイン・ウー・ヒースクリフという者だ」

「えっ?」

 『焔の国』という単語は、それこそほんの数日前に聞いたばかりだった。好戦的といわれていた『剣の国』の同盟国。これから『月の国』に侵攻してくるかもしれない国。石火矢という強力な武器で武装していて、近隣諸国を一斉に敵に回しても十分に戦える戦力を持っているかもしれない国。

 『焔の国』について想像していた印象と、大男の持つ雰囲気があまりにも違いすぎて、わたしは当惑する。

 そんなわたしの様子を勘違いしてか、大男が言う。

「連絡無しに来たのはこちらだ、無理にとは言わない。ただ、謁見できるかどうかを聞いてきてくれるだけで構わないのだが、難しいだろうか? それとも、服装から王宮の使用人だと思って話しかけていたのだが、私の勘違いだっただろうか?」

「あ、いえ、あっています」

 改めて、ノレイン王子を見る。その目は真剣で、だからわたしは、彼の気持ちにできる限りの誠実さをもって応えようと決める。

「王宮の使用人で、ナナミといいます。わたし程度では良い返事をいただけるか分かりませんが、その件、伺ってまいります」

「すまない、助かる」

 ノレイン王子は左手を差し出し、慌てて右手を出しなおす。ノレイン王子はもしかして左利きなのだろうか? わたしも右手を差し出して握手した。

 そしてまた、ノレイン王子は使用人のわたしなんかに深々と頭を下げた。



 王宮の近くまで案内したのち、門の前で待つようノレイン王子に言う。

 わたしがノレイン王子のことをランスに伝えると、ランスはすぐさま国王の下へ向かってくれた。ランスを待っている間が手持ち無沙汰になったのもあり、わたしはランスが登っていった階段の下で壁に背を預け、ぼんやりと窓の外を眺める。

 しばらくして足音。わたしが振り返る。しかし階段を下りてきたのは、ランスではなくグレン様だった。わたしは慌てて背筋を伸ばす。

「お疲れ様です、グレン様。 ……グレン様?」

「――――――っ、」

 グレン様は、なにかに驚いているようだった。わたしの顔をまじまじと見ているような気もして、それからわたしの髪の色と瞳の色のことかと思いあたる。

 つまりグレン様にとって今の状況は、黒い髪に赤い瞳をした女が他国の王子と護衛を王宮の内部に招きいれようとしているということだ。グレン様は眉間に皺を寄せて、ただ一言、言った。

「貴様、名前は?」

「……ナナミといいます」

「そうか」

 急いでいるのだろう、グレン様はそれ以上は聞かずに、走っていってしまった。しばらくしてランスが戻ってくる。「ノレイン王子を、謁見の間に案内してもらってもいいかな?」と言われ、わたしは頷いた。

 門のところで待ってもらっているノレイン王子のもとへ駆け足で行き、謁見の許可が出たことを伝える。王子にはまた感謝されてしまった。

 王子とその護衛を謁見の間へと案内するのだが、いかんせん、謁見の間なんてわたしも入るのは初めてだ。「こちらです」なんて案内をしながら、わたしも興味津々だったりする。扉を開くと、部屋の奥まで続くのは赤いカーペット。部屋の奥にはこの国の国王が座っている。ランスとグレン様の父、ヴォルム王である。

 国王の椅子の横にはグレン様が立っていて、部屋の端にはランスもいる。ほかにも二十人ほどの衛士がこの部屋に集まってきていた。

 というか……大丈夫なのだろうか。この王宮の兵士は三十人ほどだ。遅番などの交代も考えると、この城で今動ける兵士がほぼ全員、ここに集まっていることになる。おそらくこの部屋にいないのは、門番が数人とか、その程度だろう。

 ノレイン王子と護衛四人は、腰に提げた剣などを床に置く。膝を突いてヴォルム王に頭を下げ、まず謁見の許可について感謝を述べていた。

「度重なる無礼をお許しください。我が名はノレイン・ウー・ヒースクリフ、『焔の国』の第一王子です。この度は使節としてではなく、一個人として謁見を願いました」

 ヴォルム王が、グレン様に目線を送る。それを合図に、グレン王子はノレイン王子に向かって話しだす。

「『月の国』第一王子、名をグレンという。まず、今日ここに来た理由を話していただこう」

 一瞬の間。息を呑むような沈黙。まるで時が止まったようだった。それはおそらく、ノレイン王子が最も重く感じているのだろう。そんな中でノレイン王子は、玉座に傅き、頭を下げたまま、

「我が国の属国となるよう、勧めに参りました」

 とんでもないことを言い出した。

 属国とは、政治的、経済的に従属関係にある国のことだ。つまりは、『月の国』の統治権をよこせと言っているようなものだった。

「脅迫か」グレン様が言う。「我が国と貴国との軍事的な力の差は、埋めようのないぐらい大きいものだ。しかし第一声がこれとは。『剣の国』と同盟を結んでいたとあっては、こんなものなのだろうな。かつての同盟国は、侵攻を繰り返し、略奪で国を営み、ついぞ良い噂のひとつも聞かなかったぞ?」

「撤回を」ノレイン王子が言う。「いま仰ったことが事実であったとしても、『剣の国』は『焔の国』と取引関係にあり、我が国を支えてくれていた国です」

「ただ対等に取引をしていただけでは?」

「それでも、我が国が救われたことは確かです。撤回をお願いします」

 ただただまっすぐな言葉だと感じた。わたしはさっきとは別の意味で息を呑む。もしかしたらわたしと同じような印象をノレイン王子に持ったのか、グレン様はノレイン王子に謝罪し頭を下げた。

「話を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 この部屋の誰もが頷き、ノレイン王子は言葉を続けた。

「『焔の国』では、水が足りていません。自国で賄えるのは僅かな湧き水と、果物や野菜のみです。以前は『剣の国』と取引をして買っていたのですが、それも適わなくなりました。試算の結果、このままでは我が国の民の五割――半数が命を落とすことになります。早急に水が、それも大量に必要なのです」

「申し訳ないが、水に関しては難しい相談だ」グレン様が答える。「我が国も夏季には水が不足がちになり、節約して過ごしている。分けるほどの水はない」

「それも承知の上です。ですが、だからこそ『よこせ』と言う……それが我が国の王の方針です。我が国の王は既に、『月の国』への侵攻の準備をしています。申し上げにくいのですが、軍事的な意味での彼我の差は大きく、戦争になれば『焔の国』の勝利は間違いないでしょう。無駄な犠牲を出すことも、この国を血で汚すこともありません。降伏し、属国になってください!」

 違和感はあった。ノレイン王子が低姿勢で言った降伏勧告。その理由が、ようやく見えてきた。

 『焔の国』の王の方針は、『月の国』に侵攻して水を奪うこと。ノレイン王子は水が必要な事情は理解したうえで、それでも国の方針に納得ができなくて、『月の国』に降伏するよう言いにきてくれたのだ。

「属国となれば、我が国の民は水を失う。そうすれば死者も大勢出る。提案には納得することはできない」

「戦に敗れ、全てを奪われるよりかは遥かにマシです。子供は取り上げられ、男は奴隷として売られ、女は辱めを受ける。年老いたものや病を持つもの、売れ残った者はうち捨てられるでしょう。もはや人間としても扱われず、生まれてきたことを呪いながら死んでいく……戦に負けるとはそういうことです。『焔の国』とは、そういう国なのです。そのことについては、私の力が及ばず申し訳ない。ですが、私は『焔の国』の第一王子です。自国の民が最優先なので、これ以上の譲歩はできません。ましてや、今回の訪問は私の独断であり、国王の意思にそぐわぬものです。私はこの場で交渉することもできなければ、今この場で私の提案に頷いていただいたとしても確約することもできません。納得していただけないことを重々承知で、それでもお願いします。我が国が兵を挙げる前に降伏し、属国になってください」

 また沈黙。みると、ノレイン王子の拳が震えている。

「ひとつ、聞いてもいいですか?」

 沈黙を破ったのは、寒気がするほどに冷たい声だった。およそ感情と言うものが欠落したような声。振り返る。いつもの口調とあまりにも違いすぎて、それがランスの声だとすぐには気付けなかった。

 ランスは問う。

「王子は、『月の国』の国民二万七千人と、自国の兵士二百七十人。比べるとしたら、どちらが重いと考えますか?」

「それが私にとっての命の重さという話なら、自国の兵二百七十人です」

「では、貴国の兵士何人なら、我が国の全国民二万七千人と釣り合いますか?」

 ランスが尚も問う。その質問の意図を図りかねてか、はたまたその瞳の奥にもっと別のものを見てか、ノレイン王子はたじろく。

「貴様……何を言っている……」

 たぶんこの場で、ノレイン王子だけが、ランスの言わんとしていることを理解しているように思えた。

 ランスが口を開きかけたところで、グレン様が「もういい」と、ランスの言葉を制する。それからランスの言葉の非礼をノレイン王子に詫びたのち、グレンは言う。

「ノレイン王子、少し時間をいただきたい」

「いえ、返答は本国に直接お願いします。私の独断は、今や国内中に広まっていることでしょう。すぐにでも国に戻らなくてはいけません。それと……あまり余裕は無いものと思ってください」

 話が終わる。

 来賓用の宿泊室へ泊まるようグレン様は申し出たが、ノレイン王子はそれを断り、町で宿を取ると言った。ランスに指示されて、わたしは王子達を城下町にある宿屋へと案内することになった。

 わたしが謁見の間を出るときにはもう、いつものやさしいランスに戻っていたが、あのゾッとするような冷たい声がいつまでも脳裏を離れてくれなかった。



 宿へ案内する途中、少しだけノレイン王子と話をした。気になっていたのは、滅んでしまった『剣の国』の土地で湧き出る水を『焔の国』で使えないのかと言うことだった。

 それについて、ノレイン王子は一言だけ、こう答えた。

「あんな水は飲めない」と。

 その真意を聞く前に宿屋についてしまい、わたしはノレイン王子と別れた。



 城下町は、何度来ても飽きない。仕事があってなかなか来れないのもあるけれど、いろんな国の人がいて、いろんなものが売られていて、いつもならば通るだけでも目移りしてしまう。そんな道を今だけは、周りを見る余裕も無くわたしは歩いている。

 『焔の国』が侵攻の準備をしている。グレン様が降伏するかの検討をしている。『戦争』なんてぼやけていた言葉が、次第に輪郭を持ってくる。兵士が軍を成して来るのだろうか。応戦するのだろうか。侵攻されれば街は焼け、人が大勢死ぬのだろうか。

 重なるのは、夕日のような赤に塗りつぶされた景色。

 あたり一面が燃え盛り、多くの命が一瞬で消えていくあの夢。

 頭が割れそうに痛い。足元がおぼつかなくなって、わたしは壁に手をついた。王子を宿屋へ送り届けた報告をしなくてはいけないので、まっすぐに王宮に戻らなくてはいけないのだが、今は一歩も歩けそうになかった。荒い息を鎮める。無理に鎮めようとして、胸が張ったように痛くなった。

 壁に背を預けて数分、少し状態が良くなってきた頃だった。 

「姉ちゃん。そこの黒髪の姉ちゃんっ!」

 少年の声。目を向けるとそこには、以前に手鏡を売ってくれた黒髪の少年がいた。『鋼の国』から出稼ぎに来た少年だ。走ってきたのか、息を切らしているようだった。

「ん、どうしたの?」

「お願いがあるんだ。俺を、あのとき一緒にいた王子に会わせて欲しいんだ!」

 今日は、案内したり引きあわせてばかりだな。わたしは少しだけ腰をかがめると、少年に聞く。

「ランスのこと? でも、どうしてランスに会いたいの?」

「ケントが殺された」

「ケント?」わたしは気分が悪くなるのを堪えながら聞き返す。「ごめん、ケント君って誰かな? それに、殺されたってどういうこと?」

「そっか。姉ちゃんたちにナイフを売った、『剣の国』から来た少年って言えば思い出せるか? そいつがケントだ。姉ちゃんたちがナイフと手鏡を買ってくれた日の夜……たぶん十二時ぐらいかな。ケントが金色の髪の男と一緒にいるのを見たんだ。顔は見えなかったけど、月明かりがあったから髪の色は間違いない。路地裏に入っていったから尾行してみると、ガラスみたいなのでできた大きなトゲみたいなのでケントの体が貫かれてたんだ。実物は見たこと無いけど、ツララっていうのがそんな感じだと思う。俺、そのときは逃げちまって、後から戻ったら血のあとだけが残ってた……本当だから信じてくれよ。とにかく、ケントがその王子に殺されたのは間違いないんだよ!」

 ランスが、ケントっていう少年を殺した?

 まさか。あのランスが人殺しなんてするわけがない。ちょっと不器用だけどお人好しで、優しいランスには、そんなことができるはずもないのだ。

 わたしは黒髪の少年の頭を撫で、そして言う。

「大丈夫。ランスはそんなことしないよ」

 わたしの言葉に、少年はがっかりしたようだった。申し訳なく思いつつも、報告のために急いで王宮に戻らなくてはいけなかったので、わたしはこの場を離れた。



 それから数日経つが、わたしはなかなか寝付けないでいた。布団を頭までかぶり、真っ暗の中でうずくまる。ノレイン王子が最後にグレン様に言った、『あまり余裕は無いものと思ってください』という言葉。それが頭から離れなかった。

 王宮に戻ったあと、その日のうちに、いろいろとランスに聞いてみた。

 すると、この国に軍事力というものは皆無らしかった。戦力とよぶにも心許ない、見張りが任務の兵士が三十人強。軍と言うものは存在せず、つまりはその三十人強が、『月の国』の戦力だった。

 グレン様も、軒並みならない外交術で周辺国の均衡を図り、どこかの国が権利を独占しようとしたり横暴をしようとすれば、周辺国の力を借りて睨みを利かせてきた。戦力も用いずに国を今日まで守ってきたのは、グレン様の働きがあってこそだった。しかし、周辺国と束になっても適わない今回のような状況では、今までのやり方は通用しないのだろう。

『月の国』の王族といえば聞こえは立派だけど、要は交易の場の管理役に過ぎない――そうランスは言った。

 今思えばそうだ。手ずから井戸に細工を施したり、周囲の国を自分の足で視察したりなどは、普通の国の王族がすることではない。王族と言う名を冠しながら、国民の上に立って権威を振るうほどの力も十分には持ち合わせていないのかもしれない。平和だと信じて疑わなかったこの国が、これほどまでに小国だと知ったのは衝撃だった。

 だけど、その話を唖然としているときに、エミリアさんが言ったのだ。

『この国を守ろうとする気持ちだけは、他の国の王族と比べて何ら遜色がないわよ。だから権威なんてなくても、この国はこんなにも活き活きしているのよ』

 本当にその通りだと思った。

 一ヶ月ちょいの生活でわたしが見た範囲なんて、王宮ので働く人と訪れてきた人、市場街の景色ぐらいだけれど、みんなこの国が好きなんだと思った。

 わたしはどうかな?

 今の生活は大好き。本当に生きてるって感じがする。

 わたしはこの国を、好きになれているのかな?

 重なる。

 いつも夢で見ている景色が重なる。

 市場街で働いている人たちが炎に包まれて死んでいく、王宮で働いているみんなが黒く焼け焦げて動かなくなる、そんな想像をしただけで、怖くて涙が出てきた。

 でも、わたしがこの国を好きになれたってことかな?なんて思うと、それは少しだけ嬉しかった。

「ナナミちゃん、泣いているのですか?」

 布団の外から届く声。ミリアだった。わたしは寝巻きの袖で涙を拭くと、布団をよけて体を起こした。

「大丈夫。心配させっちゃった?」

「ううん。大丈夫ならいいんです」

「そっか、ありが……ミリア、なんで布団にぐるぐる巻きのまま、ベッドじゃなくて床に座っているの? しかもミリアのベッドって部屋の逆隅だよね?」

「えへへ。ベッドから落ちたあと、転がってこっちまで来たみたいです。頭がちょっと痛いから、ナナミちゃんのベッドの角にゴツンして目が覚めたのかも」

「それはまた大冒険だこと」

「寝てるときのわたし、よくがんばりました。はなまる~」

「いや、褒めてないから」

 わたしたちは顔を見合わせて笑ったあと、エミリアさんとリアちゃんが眠っているのを思い出して、お互いに口元に人差し指を当てた。

「ナナミちゃん」改まってミリアが聞いてくる。「えっと……なんて聞けばいいのでしょう? このあともう、すぐに眠ってしまいますか?」

「ううん、ちょっと寝付けなかったところ」

「少し、お話しませんか?」

 わたしが頷くと、ミリアは壁に掛けてあった防寒用の上着を羽織る。わたしがベッドから立つと、ミリアは棚に畳んでおいてあるわたしの上着をとってくれた。わたしは上着を羽織ってボタンを留める。見るとミリアは、まだボタンを留めるので苦戦しているようだった。

「相変わらず細かい作業が苦手ね、ミリアは。留めよっか?」

「ありがと。でも、こういうことは自分でやらないと、いつまでも器用に使えるようにならないですから」

 不器用にも程があるでしょ? 出かかった言葉をわたしは呑み込む。もしかしたらこの不器用さにも、何か理由があるのかも知れないと思ったからだ。

 部屋を出ると、向かったのは庭の一角。月が良く見えるそこで、わたしたちは腰を下ろした。

「ちょっと変な話をしてもいいですか?」

 そうミリアが切り出す。「ミリアの話はいつも変よ?」なんていうと、ミリアは「茶化さないでほしいです」といって拗ねてみせた。

「ナナミちゃん。ランス様の右手の包帯のことって知っています?」

「その下の怪我も見た。膿んでるというかただれているというか、ちょっと酷い感じだった。ランスは二週間で治るって言ってるけど、本当に治るのかなってかんじ」

「たぶんそれは大丈夫だと思います。エミリアさんがいるので」

「エミリアさんって、もとはお医者さんかなにかだったの?」

「医学については、知識をかじった程度って言ってました。それにしては詳しいと思うので、謙遜も入っているんでしょうけど。元は刺青師だったと聞いています」

「刺青師?」

「はい。でも、医学の知識については確かなので、ランス様は二週間で治るとエミリアさんが言ったのなら、治るんだと思います」

 わたしは頷きながら、しかしひとつの違和感を感じた。ミリアの顔はどこか悲しげで、その目はどこか遠くを見ているようだった。

「話の腰を折って悪いんだけど……ミリア、ランスの話なのに落ち着きすぎてない?」

「そうですね、ちょっと余裕が無かったからかもしれません。ランス様の話をするつもりではなかったので」

 ざわり、と風が吹いた。

 首筋を伝う嫌な汗を冷たい風が撫であげる。ようやくわたしに焦点が合う、二つの赤い眼。木の葉は次第に音を消し、しんと静まり返った空気の中で、薄紅色の唇を引き剥がすように開く。大きく息を吸ったあと、そしてミリアは言う。

「伝えたいのは、リアちゃんの左手についてです」

 ミリアの言葉に、わたしは息を呑んだ。

 丁寧に言葉を選んでいるのか、「本当はルール違反なんでしょうけど」なんて前置いて、一呼吸を挟んだのち、また言葉は紡がれる。

「リアちゃんの左手は、触れたものを腐らせる『悪魔の手』です」

「触れたものを腐らせる?」

「はい。三秒触れれば人は死に、岩は風化し、閉じた部屋では空気も朽ちます。今は魔法式の書いた包帯で左腕の周りだけ時間を止めていて、その間は左手も動かせないらしいです。リアちゃんの言葉で、わたしもはっきりとは理解していないのですが、『左腕は生命力に飢えている』そうで、長期間、何かを腐らせたりということがないと、自分の腕が指先から次第に腐っていくそうです。もしも腕を切り落としたら、今度は左肩から体の中心に向けて蝕まれていくだろうと、ランス様は言ってました」

「そんな……もしかして、『出軌(サリエル)の瞳』をもっているから?」

「たぶんそう。そういうことだと思います」

 ランスの言葉を思い出す。

『特異な能力や神に祝福された存在、逆に呪われた運命を生まれもった子供は、金色の光の筋を宿した赤い瞳を持って生まれてくる』と。

 ランスは迷信だと言ってたけど、もしかしたら本当なのかもしれない。

 そしてもうひとつ。わたしは腑に落ちない点について、ミリアに問う。

「なんでわたしにその話をしたの? リアちゃんにとってこれは、知られたくない話のはずなのに」

「リアちゃんのためのつもり……なのかな? ナナミちゃんにお願いがあって、リアちゃんを嫌いにならないであげて欲しいのです。本当に怖い能力ですが、それでもリアちゃんはリアちゃんです。いつまでも隠し通せるものじゃないってのもあるのですが、ナナミちゃんだから話したっていうのも、分かってくれると嬉しいのです」

「そんなことなら大丈夫。そんな心配そうな顔しなくていいよ。本当はミリアも、すっごい勇気出して話してくれたんだよね。ミリアも大好きだよ。こんなわたしを信じてくれて、本当にありがとう」

「ナナミちゃぁぁぁんっ」

「ほら、泣かないの。みんな起きちゃうでしょ。もう、ミリアは相変わらずなんだから」

 本当にミリアは相変わらずだ。泣き虫なくせに、誰かのためにならすっごい頑張っちゃう子。自分も両目に『出軌(サリエル)の瞳』を宿しているくせに、自分も嫌われるかもなんて考えない。もしミリアが何らかの能力を持っていたとしても、絶対に自分を嫌わないで欲しいとは言わないのだろう。

 だからわたしはミリアの能力について聞こうとして、やめた。能力がもしあったとして、それがどんなものであっても、ミリアはミリアだ。もし本当に能力を持っていて、困っていることがあるのなら、その時こそ力になってあげなくては。

「悪い子み~つけたです♪」

「貴様ら何をしている?」

 突然声を掛けられて、ついついいつもの癖で「うにゃ?」なんて言ってしまったあと、声を掛けてきたのがグレン様だと気づき、背筋が凍る。わたしは慌てて立ち上がると、「失礼しました」と頭を下げた。

 グレン王子の隣にはマドカさんも一緒だ。グレン様はいつもどおり眉間に皺を寄せていて、マドカさんもいつもどおり微笑んでいる。にぱー☆

「マドカが物音がしたというので来てみたが、何事もないなら構わん」

 マドカさんがわたしたちのことを、ランスの使用人だと説明してくれて、疑いが晴れたようだった。ミリアの様子も落ち着いてきたので、そろそろ部屋に戻ろうかと考えていると、グレン様から声がかかる。

「ナナミといったか。少し話せるか?」

「え、わたしですか?」

「そうだ。心配しなくても、聞きたいことがいくつかあるだけだ」

「はい、わかりました……」

 わたしはグレン様に頷く。ミリアが心配そうにこちらを見ていたが、「大丈夫」と言って、先に部屋に戻るよう言う。グレン様がわたしなんかに声をかける用件なんて、ひとつしか思い当たらなかったからだ。ミリアの姿が見えなくなるのを確認して、わたしは言う。

「黒髪に赤い瞳の女……それがわたしだということでしょうか?」

 グレン様が夢で見た、『国を滅ぼす黒髪に赤い瞳の女』。グレン様の話はそのことについてだと思った。グレン様は少しだけ動揺したのち、「ランスに聞いたのか」と聞いてきたので、「すみません、立ち聞きしていました」と正直に言う。

「迂闊だったな」グレン様がため息を漏らす。どうやら相当、疲れているようだ。「いや、今回はその話ではない。むしろ君がノレイン王子を案内してくれなければ、この国は最悪な終わりを迎えていた。本当に助かったと思っている」

 へ? あれ、もしかしてわたし感謝されたの?

 拍子抜けしてしまって、たぶんわたしはまん丸な目のアホな顔をしていることだろう。マドカさんにデコピンされて、ようやく我に帰る。

「あ、すみません。えっと、話ってそれのことなのでしょうか?」

「ひとつはな。君のおかげで助かったこともあるので伝えるが、おそらくこの国は、このまま行けば終わりだ。正攻法ではすでに詰んでいる。ノレイン王子の提案どおり、宣戦布告される前に属国になるしかない。それが現状、最善の選択だろう。策と呼べるほどのものでもなく、恥ずかしい限りなのだがな」

 そういうグレン様の目の下には、大きな隈が見てとれる。きっとわたしなんかには想像のつかないぐらい、いろいろな策を練っては破棄し、袋小路で解決策を模索したのだろう。

 それからなんの唐突もなく、しかし意味ありげな口調でグレン様は言った。

「ランスは何を企んでいる?」

「企む?」

「今のこの状況は、あまりにも異常なんだ」

 わたしが首を傾げていると、グレン様は突然、自分の左目に人差し指を突き刺し、目玉を抉り出した。息をするのも忘れているわたしに、手のひらの上のものを見せてくる。よく見るとそれは、目玉の形をした作り物のようだった。

「義眼、ですか?」

「そうだ。『出軌(サリエル)の瞳』って聞いたことあるか?」

「ありますけど……でも、ランスがそれは迷信だと言ってました」

「なるほどな。だが、あいつが本気でそれを言う筈がない。俺も『出軌(サリエル)の瞳』を生まれ持った人間だからな」

「グレン様もですか?」

「ああ。俺はもともと捨て子だったらしくてな、自分で言うのも恥ずかしいが、『赤い左目をした聡明な子供』がいるなんて話を義父が聞きつけて、養子にしたそうだ」

 聞くと、現国王――ヴォルム王は、もともと経済面を取り仕切ることが多く、逆に政治に関することを何も知らないまま、初代国王の病死と同時に国王なったそうだ。

 初代国王が病に犯されたてすぐ、ヴォルム王はグレン様を養子にとり、政治と軍事、外交の分野を中心に教育を施した。そしてグレン様が七歳のとき、『王子として人の上に立つものが、呪われた目を持っていてはいけない』と自分から言い、左の眼球切除してを義眼に挿げ替えたのだという。

「それは思い切りがいいというか、なんというか……」

「だが必要なことだった。ちなみにランスは、義父の血を継ぐ正当な王子だ。まぁ有り方は正統派ではないがな」

 ん? これはグレン様なりの冗談だったのだろうか?

「それで、その……グレン様には能力は?」

「大したものではないが、能力は持っている。時折だが、未来を見ることができる能力だ。そしてそれはランスも知っている。だからランスは、『出軌(サリエル)の瞳』を持つものには能力が宿ると知っているはずだ」

 ということはつまり、ミリアやわたしにも能力が有る可能性が高いと言うことだろうか。ミリアの口ぶりからして、もしかしたら能力を持っているのかもしれない。けれどわたし自身については、その覚えが全くなかった。

 いや、そうとも言い切れないのか。

 だってわたしには、記憶がないのだから。

「で、それが四人だ」

「四人? なにがですか?」

「この城にいる、『出軌(サリエル)の瞳』を持つ者の数だ。俺、ナナミ、さっきいたミリアという女。それからリアという使用人もランス付きでいると聞いた。本来は同じ世代に、一国に一人生まれるか生まれないかという頻度らしい。俺は国王に拾われてここにいるが、残り三人はすべてランスのもとにいる。だから聞いているのだ」

 そしてグレン様はもう一度、最初の疑問を口にした。

「ランスは一体、何を企んでいる?」

 わたしは答えることができなかった。わたしは何も知らないし、いままでそれに疑問も抱いてこなかったのだから。

 けれどそれをただの推測として受け流すことも、わたしにはできなかった。

 わたしは「何も知らないです」と答える。自分の能力について心当たりがなく、一ヶ月以上前の記憶がないことを伝えると、グレン様は「そうか」とだけ言った。落胆した様子もなく、しかし何かを考えているようだった。

「あのっ!」

 去ろうとするグレン様を、気がつけばわたしは引きとめていた。

「もし、ランスがグレン様の力になれたら、この国を守れるのでしょうか?」

「それは分からない。チェックにはあと一手、駒が足りないのだ」

「その話、ランスに伝えても構いませんか?」

「ではお願いしよう」

「はいっ!」

「ところで、大したことではないのだが、俺からもうひとつ質問いいか?」

 改まってなんだろう? わたしがとりあえず頷くと、グレン様は言う。 

「何で俺は『様』で、自分の主であるランスには敬称をつけない?」

 あっ! ついいつもの癖で、グレン様の前でランスを呼び捨てにしていたことに、今さらながら気づく。

 ランスと最初に会ったときには、『ランス様』なんて呼んでいた。ランスは『様なんていらない』と言っていたのだが、使用人だからと思って『ランス様』と呼んだ。

 でも、一緒に生活する中である日、違うと思った。そうじゃないと思ったのだ。

 だってわたし、気づいてしまったから。

「だってランス、寂しがりやじゃないですか」

「なるほどな」

 本当に小さくだけれど、わたしは初めて、グレン様が笑うところを見た気がした。



 次の日の朝。朝食の前に、ランスにグレン様の伝言を伝える。

「グレン様と昨日、話をしたんだけど……あと一手って言ってたかな。とにかくあとちょっとで、『焔の国』が攻めて来るのをなんとかできそうなんだって」

「兄さんは、何でそんなことをナナミに?」

「ノレイン王子を案内したのがわたしだからかな? でも話の流れだったような気もするかも。とにかくそのことで、ランスと相談したって言ってたよ」

「いくらなんでも、軍事や外交に役立つような魔法はないんだけどな……」

 そういいながらも、ランスは朝食を終えるとグレン様と話してくると言い残して席を立った。

 何となく嫌な感じがする。そういったわたしに、エミリアさんは仕方ないよと言った。折り合いがつかなくて、丸く収まらないこともあるのよと。


 その日のうちに使者が『焔の国』に向かって、『月の国』を発つ。無条件で属国になるわけではなく、こちらからも条件を出しての交渉らしい。

 ランスは言った。交渉はおそらく決裂するだろうと。

 そうしたらどうなるの?というわたしの問いに、ランスは言葉を濁した。それは悲観するでなく、それも織り込み済みで意図を持って行っているように見えた。

 三日後の夜か、四日後の夜だろう。ランスは『焔の国』の進軍をそう予想した。正確には、夜の間に準備を整え、夜明けにあわせて侵攻してくるそうだ。

 それから三日間。王宮の中の一部の人間を除いて、おおよその国民がいつもどおりの日常を送る。戦争なんて呼ばれるものに何かをできるわけでもなく、だからわたしは、明後日には占領されてしまっているかもしれない部屋を、明日には王族のものではなくなっているかもしれない薔薇園を、今夜には他国の兵士に土足で踏み荒らされてしまっているかもしれない王宮を、いつもどおりに整えた。もしかしたらこれが最後かもしれないと思うと、少しだけいつもよりも丁寧に作業する自分に気づいた。

 使者が『焔の国』へ交渉へ行って、三日目の夜。ランスが予想した日のうち、最初の夜だ。寝付けるはずもなく、布団を頭からかぶっていたわたしの耳に、絹擦れのような音が届く。部屋を出る足音が三人分。扉の音とともに少しだけ大きくなった、扉の外を歩いてきたもうひとつの足音。わたしは足音が遠くなったのを確認して、自分の布団を押しのける。エミリアさんも、ミリアも、リアちゃんの姿もそこにはなかった。

 『月の国』は中心部に王宮と城下町。その周囲を畑などを営む村が囲い、国の外は四方に砂漠が広がっている。移動は主に馬だが、砂漠では馬も走ることはできない。まだ追いつけるかもしれない。わたしは寝巻きのまま王宮を飛び出すと、ただひたすら東へと走った。

「ナナミちゃん、乗って!」

 声がした。振り返ると、マドカさんが馬に乗ってわたしを追いかけてきていた。わたしが何かを聞く前に、マドカさんはわたしを馬の上に引きあげながら言う。

「ランス王子が動いたのね? 道はこっちであってる?」

「わからないです。とりあえず東に向かっていただけなので」

「まぁ妥当ね。じゃぁそれでいきましょう」

 マドカさんが馬を走らせる。振り落とされないように、わたしは必死で(くら)にしがみついた。

 それにしても、マドカさんはどうしてここにいるのだろう。服装こそ使用人の制服で、フライパン常備なのもいつもどおりだが、水筒や応急手当の道具、望遠鏡まで鞄に入っている。馬に乗ってきたことといい、事前に準備でもしていたかのようだった。

「マドカさん、どうしてマドカさんはここにいるんですか?」

「迎撃っ♪」マドカさんは答える。「迎え撃つの。『月の国』の人口が二万七千。夜明けと同時の奇襲をかければ、『焔の国』側は二千人の軍勢で事足りる。多くても三千でしょうって。まぁ数字はグレン様の受け売りなんだけど。で、それぐらいならわたしがなんとか追い払っちゃえばいいかなって」

「えっ、一人で?」

「頑張ればできそうじゃない?」

 いや、無理だと思う。だいじょぶだいじょぶ♪って感じで〝にぱー″って笑っても無理なものは無理ですよ? そういえばマドカさんはちょっとおちゃめでとってもデタラメ人だったって、今さらながらに思い知らされる。

 しかし、ふと思う。もしかしたらランスたちも、二千人以上の『焔の国』の兵士を迎え撃つために行ったのだろうかと。

 冷たい風が吹く。夏と言えど、砂漠の夜はとても寒い。砂漠に入る前に馬を下り、マドカさんは手綱を木の幹にくくりつける。「ここからはランス様たちにも気づかれないようにね」なんて言いながら、マドカさんは人差し指を唇に当てる。わたしが頷いたのを確認して、マドカさんは歩き出した。わたしもそれについてゆく。

 一番東に位置する村を抜けると、砂漠が辺り一面に広がっていた。砂にはかすかに人の通ったような跡があり、それをたどっていくと、ランスたちの姿がみえてきた。ランスたちはまだこちらに気づいてはいないようだ。

 砂が高く積もっているところを指差して、「ちょっとそこに隠れてて」とマドカさんが言う。わたしは砂の陰に隠れると、そこからランスたちの様子を観察した。直径二十メートルほどの大きな魔法式のようなものが砂の上に彫られていて、その端でランスはエミリアさんとミリア、リアちゃんに指示を出しているようだった。

 月と星を見る。だいたい午前三時といったところだろうか。日の出が四時半頃なので、もし本当に今日侵攻してくるのなら、そろそろ『焔の国』の兵士がこのあたりに現れてもおかしくない時間なのではないだろうか。

「お待たせ」

 マドカさんがわたしの横に、ちょこんと腰を下ろす。

「マドカさん、なにをしていたんですか?」

「魔法式っていうんでしたっけ? それをちょこっと見に行ってたのよ。砂の上は書きにくいはずなのに良く書けててね、初めてじゃないのかなって思っちゃうぐらい。ランス様って器用なのね」

「まぁ、器用といえば器用ですけど……」

 何でだろう。マドカさんの今の言い方に、少しだけわたしは違和感を感じた。

 しばらくすると、遠くに砂埃が立ち上がるのが見えてくる。次第にはっきりと見えてくる旗は、『焔の国』のものに違いなかった。

「魔法をここで使っちゃうのは、ちょっともったいないのよね。わたしが頑張ってもいいんだけど、せっかくだから、お手並み拝見といこうかしら」

 マドカさんはそう言うが、たった四人でどうにかなるもののようには、わたしには見えなかった。それともあの大きな魔法式が、二千人超の軍勢に勝てるような力を持っているのだろうか。

 そんな恐ろしいものを、ランスは研究していたのだろうか。

 そんな言葉が、わたしの脳裏を過ぎった矢先だった。

「発動しない……」

 ランスの声だった。

「ランス様、退きましょう」言ったのはエミリアさんだ。「魔法なしではどうしようもないです」

「それは駄目だ。国の東端で、夜明けにあわせてグレン兄さんも手を打ってる。せめてここで戦力は削ってく」

「でも、勝ち目なんかないんですよ!」

 たぶん魔法式が発動しなかった今、『焔の国』の侵攻を完全に止める手立ては無くなったのだろう。そんな中、最初に動いたのはミリアだった。

「ランス様。わたし、行きますね」

 能力がもしあったとして、それがどんなものであってもミリアはミリアだと、わたしは思っていた。だからわたしはミリアの能力について一度は聞こうと思ったときに、その言葉を呑み込んだ。

 けれど、目の前の光景を見て、それを言える自信がわたしにはなくなってしまった。

 それは家一軒と比べてもまだ大きいほどの巨体だった。それには腕があり、木のように太いのが右に二本、左に三本。右の腕のうち一本は肘から二股に別れ、計三十本の指は鋭い鈎爪になっている。胸の皮膚を突き破って肋骨が出てきたと思うと、それはさながら虫の足のように折れ、内二本大地に刺さり残り六本は腕と同様に振りかぶられる。それと同様のものが背中から八本突き出てきて、飛び散る体液が砂漠の砂を濡らした。しかし、異形と化した上半身とは対照的に、人間のそれを大きくしただけのような二本の足。元の大きさのままで巨体の先に乗っている頭部。ランスに別れを告げたままの笑顔で、ただただ涙を流す少女の顔が、それをミリアだと言っていた。

「ミリア……」

 ランスに向けたのは、とっても優しい笑顔だった。大丈夫だよって、わたしに任せてって、そう言わんばかりの微笑みだった。

 本当にミリアは相変わらずだ。泣き虫なくせに、誰かのためにならすっごい頑張っちゃう子。自分も嫌われるかもなんて考えない……違う。自分が嫌われてでも、守りたいものがあるんだ。嫌われてもしょうがないって、もしかしたら今までそうやった諦めて生きてきたの? だから嫌われることに人一倍怯えながらも、自分を嫌わないで欲しいとは絶対に言わないの?

 その巨体は前進する。馬の倍は速く走るそれは、一瞬で二千人超の軍勢の前に立ちはだかる。体を支えるものを除く、右の腕と肋骨の全てが大きく振り上げられ、

「ごめんなさい……」

 声のあと、一瞬で振り下ろされた。

 悲鳴にかき消されてしまった声はしかし、もとより肺の奥から微かに搾り出したような、消え入りそうな声だった。

 ミリアが泣いている。

 せめて近くに行ってあげたいって思った。あの腕の一本にでも抱きついて、がんばれって言ってあげれば、どれだけミリアが救われることか。ミリアの味方だよって、ミリアはミリアだよって、そう囁いてあげることがどれだけ支えとなるか。

 それなのに、わたしの足はすくんで全く動いてはくれなかった。

 それは加えて三度、ミリアは腕と肋骨を振り下ろす。

 おそらく百なんて数を優に超す命が、あの場では失われているのだろう。

「撃てぇぇっ!」

 軍勢の中から一人の男の声。同時に炸裂音がいくつも同時に響く。石火矢だ。昇る煙は、見て取れるだけでも八はあるだろうか。全てを同時に撃ち込まれえて、その巨体は地面に崩れ落ちた。

「第二射構え。撃てっ!」

 それが立ち上がろうとしたところで、再び石火矢による砲撃。身動きが取れない状態のそれに、続けて三回目の轟音も響く。

 その巨体の陰になって、今は見えない。

 今、ミリアはどんな顔をしているのだろう。

 痛みに苦しんでいるだろうか。必死に耐えているのだろうか。怒りをままに敵を睨んでいるのだろうか。悔しがっているだろうか。悲しんでいるだろうか。

 それとも、謝っているのだろうか。

 国を守れなくてごめんねと。ランスを守れなくてごめんねと。自身の体を異形と化して、見せたくない姿で殺したくない人たちを殺して、この場の誰よりもいっぱいいっぱい苦しんで、それれもミリアは言うのだろう。こんなわたしでごめんね、と。

「馬鹿っ……」

 何て言っていいのか分からないまま、漏れた言葉がそれだった。わたしは気がつけば走り出していた。砂に足をとられる。自分の足に縺れる。何度も転んだ。無様な走り姿のまま、それでもわたしの体は止まらなかった。次第に砂が硬くなる。足元が湿ってきて、頬に少し重い滴が飛んでくる。人の胴のようなものに躓き、大きな水溜りの上で盛大に転ぶ。何かやわらかいものに手を着いて立ち上がると、わたしはまた駆け出した。「第四射構え!」声が聞こえる。たぶんわたしがいるここも危ないのだろう。それでもわたしは、大きくて白い虫の足ような肋骨に両腕で抱きつく。

 叫ぶ。

 気がつけばわたしはそれを、「ミリア」と呼んでいた。

「ナナミちゃん……」

 わたしを呼ぶ声。答えてくれた。ほんの数時間前に聞いたはずの声が、酷く懐かしく感じる。安心したのか、嬉しくなったのか、気がつけば目の端から涙が伝っていた。

 わたしはここで死ぬのだろうか? 戦争に来た人たちの真ん前、言うならば最前線だ。しかし来るはずの石火矢の第四射は来ず、発射の号令の代わりに聞きなれた声が届く。

「一度、退きましょうです!」

 リアちゃんの声だった。

 振り返るとリアちゃんは、先ほどまで号令を出していた男の首を左手で掴んでいる。男の体は指の当たるところから次第に皮膚が赤く溶けたようになり、やがてどす黒く濁っていく。男が一言も言葉を発することはなく、ただ自立が不可能になり、無残な姿で砂の上に倒れた。

 異臭が漂い、殆どの兵士が萎縮する中、亡骸を飛び越えて襲い掛かってくる兵士が二人。そのうち一人は飛んできたナイフが側頭部に刺さり倒れる。ナイフが飛んできたのは、エミリアさんが立っている方からだった。もう一人の兵士は剣を振り上げると、真っ直ぐリアちゃんのほうへと走っていた。わたしは咄嗟にリアちゃんの左手を思いっきり引いた。すぐに手に力が入らなくなり、リアちゃんを離してしまう。リアちゃんが地面に倒れると同時、わたしの目の前で兵士の剣は空を斬った。

 兵士と目が合う。

 次に振り上げられた剣は、間違いなくわたしを狙っていた。

 風を感じる。死が形を持って、わたしに迫ってきているのが分かった。こういうとき、本当はもっと取り乱すものなのだろうか。怖いと思うのだろうか。遣り残したことを悔やむのだろうか。せめて『さよなら』を言おうかとふと思うが、たぶんそんな時間もないのかな。

 ミリアとも、リアちゃんとも、仲良しのつもりでいたんだ。

 だけど二人が背負ってるものとか、ランスが抱えてるものとか、全然知らないんだって思ったとき、ちょっとだけ寂しくなったんだ。エミリアさんも昔に何かあったのかな? 会ったばっかりのわたしにいっぱいいっぱい仲良くしてくれて、そのとき貰ったいろいろな言葉や優しさは嘘じゃないって思ってる。本当だよ? 出会えてよかったって、これだけは胸を張って言えるんだ。改まって口に出そうとすると、ちょっと勇気はいるんだけどね。

 でもね。だけどね。

 だから今日を境に、もっと仲良くなれたらいいなって。こんなときだけど、ほんのちょっとだけそう思っちゃってたんだ。

 何でだろう。今にも剣が振り下ろされようとしているのに、ちっとも怖くないんだ。それでも今、死にたくないって思えているのは、たぶんきっと、幸せなことなんだよね?

 だから、『さよなら』は言わないことにした。

 もうたった一言を言う時間さえ残されていないけど、最後に言い残すなら、やっぱり『ありがとう』がいいなって思った。

 でもやっぱり、死にたくないなぁ……

「えっ?」

 一瞬、剣の動きが止まったような気がした。

 ――パチンッ――

 指をはじくような音。わたしの前に割り込んできた人影は、金色の髪をした少年のものだった。ランスだ。ランスが指をはじいた音にあわせて、ほんの一瞬、頬を撫でる冷たい風。

 そして次の瞬間、兵士の胸はガラスでできた大きなトゲとも、無骨なツララとも見て取れる透明な塊に貫かれていた。

 噴き出した赤い血が頬と腕とに注ぐ。生暖かいそれを不気味と感じながら、若干の嫌悪感を感じながら、それでも自分が生きていると実感して頬が緩んだ。

「ナナミ、大丈夫?」

「大丈夫……きゃっ!」

 安心したからかな? 突然、足に力が入らなくなってしまった。ランスに肩を借りて、ようやく何とか立ち上がる。歩くことはちょっとできなさそうだ。

 あったかい。ランスが力強く握ってくれている手と、寄りかかっている肩が、今のわたしにはとても頼もしく感じた。ランスの吐息が頬に当たって、つられてわたしはランスの横顔を見た。あともう少しで触れる距離。ランスの唇が小さく開いて、「間に合ってよかった」と聞こえたときには、本当にすっごくうれしかった。

 顔が熱い。自分の顔は今、もしかしたら真っ赤になっているのかもしれない。ランスに見られてたらちょっと恥ずかしいな、なんて思った。

 冷たい風が吹いた。

 顔を上げると、もう残りの兵士が襲ってくる様子はなかった。全体で言えばまだ半分以上の兵士が残っているように見えるが、その誰もが動こうとはしなかった。

「じゃぁここからは、わたしが頑張ろっかな」

 兵士達を前に立ち尽くすわたしに、追い越しざまに聞こえてきた言葉。使用人の制服に身を包んだ女性は、上品そうな歩き方で、おっとりとした口調でそう言った。小奇麗な靴で血だまりを踏み、転がった死骸の胴を踏み、腕を蹴りよけ、服が体が顔が汚れるのも意に介さず、ただ進んでいく。大きくあくびをすると、腰の帯に挟んだフライパンを右手に構えなおし、その女性はリアちゃんよりも、ミリアよりも前に立つ。

「もともとが二千二百人、いま残ってるのが千五百人ってところかな? あ、ちょっとの間、わたしの前には出ないでね」

 その女性――マドカさんは振り返ってミリアとリアちゃんにそう言うと、いつもどおりに〝にぱー″と笑った。

 その異様な雰囲気に、何人かの兵士が逃げ出す。その波は次第に広がり、やがて全体がわたし達に背を向けて走り出した。

「ごめんね。ちょっと逃がせないのよ♪」

 そう言うと、マドカさんはフライパンを二回、指で弾く。甲高い音がどこまでも響いた。マドカさんがフライパンを再び握りなおす。

「――Wake up(起動) bratpfanne(ヴラトファーネ)――」

 それは何か意味がある言葉だったのか、はたまた何かの呪文だったのか。ほんの一瞬だけ、フライパンの内側に魔法式のような紋様の淡い光が浮かび上がる。わたしはほんの一瞬だけ月の光の加減で、フライパンの先にあるものが見えた。

 それは剣だった。十メートルはあるのではないかと言うぐらいの長さで、重さの持たない透明な刃がフライパンの先に延びている。マドカさんは軽い足取りで逃げる兵を追うと、横に大きくフライパンを一振り。まるでおもちゃの積み木が崩れるように、逃げる兵士の五分の一ほどが一瞬で切り裂かれ、地面にぞんざいに捨てられた。それが数回。わずか二分もしないうちに、千五百いたはずの兵士は誰一人として立ち上がることはなくなる。

 圧倒的だった。

 最後にすべての石火矢を真っ二つに斬ると、マドカさんはポケットからハンカチを出して頬の汚れを落とす。きれいに磨いたフライパンを腰の帯に挟むと、マドカさんが言う。

「さ、帰りましょ」

 確かにここに長くはいないほうがいいのだろう。

 けれどわたしはマドカさんの言葉に、首を横に振った。ミリアがまだ、立つことができないのだ。ミリアに、元の姿に戻れるのか聞く。ミリアの返事は、戻れるけど一時間ぐらいかかるというものだった。首に近いところから順に、細胞をひとつずつ作り直していくらしい。先に帰っていて欲しいとミリアは言ったが、ランスもリアちゃんもエミリアさんも、この場所で腰を下ろした。

「もうちょっと一緒にいてあげたいけど、グレン様に報告しなきゃいけないし。ごめんなさいだけど、先に戻っちゃうわね」

 マドカさんはそう言うと、歩きづらいはずの砂漠をすたすたと歩いていった。

「これが終わりじゃない」ランスが呟く。「『焔の国』の戦力がこの程度のはずがない。次はもっと大人数で来るはずだ」

「それってやっぱり、結構まず……うにゃ!」

「いいから、あんたはこっち!」エミリアさんはそう言って、わたしの頬を引っ張った。「それよりナナミ。手、見せて」

「あっ、そういえば」

 リアちゃんを助けるときに、咄嗟にリアちゃんの左手を引っ張ったのを思い出す。おかげで左手には全く感覚がないんだった。改めて見てみると、赤く腫れ上がったり膿んでいたり、酷い場所では黒ずんで融けていたりと、結構ひどい状態になっている。

「エミリアさん」リアちゃんに聞こえないように小声で聞く。「こんな状態でも治るんです?」

「三週間ってところね。わたしね、もとは『命の国』の出身なのよ。薬の処方とか医療とかを頑張ってる国ね。わたしはそこまで腕が立つわけじゃないけど、『命の国』ではこんなのは初歩の初歩なの。だから任せて。大丈夫、治して見せるわよ」

「どうしよ、お仕事できなくなっちゃいますいよね? わたしってクビ?」

「ランス様がそんなことするわけないでしょ。ってか、本当は手首からポイなの。暢気にそんなこと言ってられる怪我じゃないの」

「やっぱりそうなんですよね……エミリアさんが大丈夫って言ってくれたから、ちょっと安心しちゃって」

「あんたねぇ、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 動かない手に注射と塗り薬を何種類も使って、最後に薬剤をしみこませた包帯を左手に巻いてもらった。「ランスとおそろい♪」なんて言ったら、エミリアさんに本気でひっぱたかれた。

「ナナミさん」声を掛けてきたのはリアちゃんだ。「えっと、その。謝って許されることじゃないかもですけど、その、ごめんなさぃ……」

「もしかしてこの手のことを言ってるの? 気にしないで。わたしが勝手に掴んじゃっただけだし、その前にわたしが助けられてるんだから」

 わたしがそう言うと、リアちゃんは突然泣き出してしまった。どうしていいのか分からなくなったわたしに、エミリアさんが言う。

「察してあげて。あの能力を知られたら嫌われるんじゃないかって、ずっと怖がっていたのよ。ナナミちゃんを傷つけてしまったあとは、不安でしょうがなかったはずよ」

「そっか……」

 たぶんわたしには、その気持ちを本当の意味で理解してあげることはできないのだろう。だからせめて、その小さな体を両手で精一杯抱きしめた。わたしを抱き返してくる細い右腕の感触が嬉しかった。

 それにしても、改めて思う。

 振り返るとそこには、おびただしいほどの血の量と、肉片とが散らばっている。約二千二百人分……その誰一人として生き残った者はいない。

 その光景を見ていると眩暈がしてきて、同時に喉の奥からせり上がっているものを感じる。耐え切れずわたしはその場で吐いた。それでも気分が好転することはなく、二度、三度、何も出てこなくなっても、苦しい息だけを吐き出し続けた。

 這い蹲るわたしの前に、ランスが屈む。吐瀉物まみれのわたしの顔に目線を合わせるように、そしてたぶん、わたしの視界を遮るために。

「それでいいんだよ」ランスが言う。「ナナミはこんなものは見なくていい。そのままでいい。見慣れていなくて、それでいいんだ」

 優しい笑顔。わたしの口元の汚いものを、ランスは指で拭ってくれた。

 『ランスはこんな光景を見慣れているの?』そんな意地悪な質問が頭の隅を過ぎって、だけど言葉にする勇気は出なかった。

 しばらくして、ミリアの体が元に戻る。エミリアさんがミリアに予備の服を渡す。ミリアが服を着るのを待って、わたしたちは『月の国』への帰り道を歩き出す。

「あ、そういえば……」

 歩き出してすぐ。わたしはふと気になることがあって、確認に行く。

 ランスが砂に彫った魔法式の一角。誰も行かなかったような端のほうで、魔法式の一部が意図的に消されたようになっていた。

「ナナミ~、まだ?」

「すみません、もう大丈夫です!」

 たぶん麻痺してるんだと思う。考えなきゃいけないことがもっとあるんだろうなって思う。めちゃくちゃな一日だったから、もしかしたら明日の朝起きたら、考えが変っているのかもしれない。

 でも、今はただ、全員で『月の国』に帰れることが嬉しかった。

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