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霧の中の遭遇

作者: 山内 清清

英国の航空短編小説に、大2次大戦中一人のパイロットが幻の飛行場に悪天候で着陸したものがある。しかし今回の小説は幻の飛行場は入り口となるが、そこから展開される人間物語が主題である。

 我れ霧の中に着陸す

 霞が浦に沿った小さな飛行場を飛び立って、真西に向かって愛機のセスナ182型JA4007号は順調に飛行している。

 阿見の飛行場から真西の航路は土浦市の南端を通り、学園都市つくばの真ん中を通り抜け、水街道市の上空に至る、途中小貝川を横切り、鬼怒川を眼下に見て利根川に至る。利根川に沿って上流に向かえば、関東平野は無事にその果てまで、群馬県の妙義山まで、気楽に行ける。専門家の言う航法も要らない、

 しかし梅雨期の関東平野は見通しが悪いので気を抜いてはいけない、東京電力の送電線やその鉄塔には気を付けないと衝突しかねない。鉄塔の高さは90m程しかないので、地表面から1500フィート(F)以上の高度を保てば、悠々クリアできる。

 しかし雲が低くなり、霧が濃くなったり、雲底が500フィート(F)以下になると危ない、まあ利根川に沿って飛ぶ限り送電線や鉄塔に遭遇することもない。所所で送電線が利根川を横切っているが、場所は予め、航空図で確かめてある。

 今日の目的地は妻沼にある学生グライダーの滑空場である、車で3時間程の距離であるが、空から行くと所要時間が30分で、5月の新緑を味わいながら、楽しい飛行ができる。

 途中人工河川の江戸川の土手にも社会人のグライダーの滑空場やら、中央大学グライダーの滑空場やら、読売新聞社のグライダーの滑空場やらとにかく数多く散らばっている。

 お陰でエンジンの故障や、天候の急変があってもいつでも避難着陸が可能である。水街道市上空を過ぎたころ鬼怒川が利根川に合流する当たりで、黒雲が下方に発生し、霧雨が風防の透明な窓に当たり始めた。

 小型機の通信用に割り当てられた126.2MHzの周波数に航空無線機を切り替えて無線通信を傍受し、他の小型航空空機が回りにいないか耳と目の見張りに注意を注いだ。

 突然“JA・362…”と無線が入った、近くのローカルの飛行場に着陸しようとしているらしい。視界はどんどん薄暗くなっていく、そのまま利根川に沿って飛び続けても目的地にはいけるが、急ぐ旅でもないし、安全第一である。やっぱり霧と雲が怪しくなってきたので、こっちも何処かに適当な滑空場を見つけて降りることにした。この辺りは送電線や鉄塔がなく、田植えの済んだ田は水が張っていて鏡のようであり、上空の小さな透き間の青空を水面に写した田んぼに近づくようにして地表面を見渡した。

 あった!左手下方に舗装された、短い滑走路が細い“割り箸”のように見えた、更に小さな赤い吹き流しがダラリと垂れ下がっている、風がないので滑走路はどの方向から進入してもよい。

 126.2MHzの周波数で、通報をおこなう、”こちらセスナ182型JA4007、霧と雲のため、そちらに着陸します、どうぞ”。

 ローカルの飛行場では無線を傍受はしても、誰も返事はしてくれない、暇な人がいてたまにはボランテアで、例えば”こちら、大西飛行場どうぞ、滑走路方向ゼロナイナー(09)”と答えてくれることもある。

 今日は珍しく”こちら、・・・行場どうぞ、滑走路方向はいずれでもOKです”と答えてが来た。

 天気では雨雲で運が付いてないが、人には付いているようだ、手短に西向きの”25(トゥーファイブ”、磁方位の250度(やや西)に向かった滑走路に降りることにした。

 最終進入路で次第に高度が低くなると、降下中でも飛行場の周りの様子が一瞬にわかる。事務所小屋の屋根や壁はすっきりしていて、周りの草もきれいに刈り込まれ、また滑走路から小屋へ続く通路はきちんと舗装されている。なかなか小綺麗な飛行場である。余り外見をすると着陸に失敗して、事故になるおそれがあるので、最後は前方滑走路に目を集中し、エンジンを絞りながら思い切って高度を下げた、数秒後に車輪がゴロゴロと地面を転がる音と、何時もながら響きが座席を介して腰に伝わり無事着地したことを噛み締めた。

 しばらく滑走してから滑走路上でUターンして格納庫と事務所のある駐機場に向かった、空いた所に機体を止め、手順に従ってエンジンを止めた。パソコンのウインドウズ95は、急に電源を切ると、ソフトウェアの機能を不具合にすることがあり、順番に起動中のプログラムを終了して、最後に電源を切るようになっている。航空機のエンジンも同様に操作手順に従って、エンジンを止めないと飛行機のエンジンもおかしくなる、その間は外を見るよりは、機内の各種エンジンメーターを良く見ている。

 浜野は鍵を抜き、ドアを閉めて、機内から持ち出した車輪止め(チョーク)を片方の車輪に当てがって、霧雨のなかを歩いて事務所に向かった。しかし、辺りが暗く濡れているせいかその間事務所からは誰も出てこないし、窓から顔を出す者もなかった、少し寂しい。

事務所に入り“お世話になりますと”いうと、もの静かな若い男性がいて、“いらっしゃい”と答えた、奥のテーブルに23、4才の若い青年がゆったと座っている、こちらを向いて”浜野さん久しぶりだね”とはっきりした声で言う、びっくりして良く見ると、石井君、石井さん、いや石井である。

 石井は浜野に初めて小型飛行機の操縦を教えてくれた人いわゆる、飛行教官であり、調布空港のホンダ飛行クラブで、パイパー社製のチェロキー180型、低翼機に乗せてくれた。

 2人は上空に上がると夏には、よく入道雲の近くまで、飛んで行った、入道雲を翼端でかすめて飛んでははしゃいでいた、入道雲に入ってはいけないが、訓練空域でのたまの接近飛行はおもしろいものであり、浜野も雲を身近に触れることに何とも言えない幸せを感じた。


 “どうしたの、石井さん”と答えて、“そちらも視界不良で降りたの”と聞いた、“まあそうだ”とどっちにでも取れる返事であった。

 浜野は着陸して間もなくまだ少し緊張し興奮しているので、詳しい会話は出来ない状態である、“奥に千秋氏もジョンさんもいるよ”と石井は言った。

 浜野は“あそう”と軽く答えて、そこらのいすに一先ず腰かけて、体と頭が着陸直後の緊張から地上の通常の神経に戻るのを待った。椅子に座ったまま窓から外を見ると、霧は益々深くなり雲の塊が滑走路上を濡らしながら、流れて行くのが見える。大したことのない霧と判断していたが、大事を取って着陸して良かったと思った。

 5月の最終日とはいえ梅雨季節前の北西から寒冷前線のせいで、肌寒くガラス窓は閉まっていて、室内は軽い暖房のせいか暖かくまた静かである。

いつの間にかどんよりとした霧は流れを止め、ほっとする間に外が暗くなり、先程まで気づかなかった外灯の弱い蛍光灯の明かりがひとつ煌々と輝いて見えてきた。

  目を室内に戻すと、千秋氏が目の前に立っていた、千秋氏は大柄でがっちりした32才の立派な大男であり、本職はNHKのデイレクターである。いつか完成したばかりの、渋谷の放送センターの見学に招待されたことがある1967年頃である。

 戦後初の国産練習機、富士重工のエヤロスバルFA200を、千秋氏は最近飛んでいる、いやFA200を使って学生を教育している。”浜野君元気か”と言われた、”はい元気です、教官も元気そうですね”と挨拶した。

 この千秋氏からは尾輪式のセスナ170型の離陸と着陸を教わった、セスナ170型は大柄の白人向けに製作された機体なので、ペダルが深く、座席をいっぱい前方に寄せても比較的に小柄で下肢が短い浜野には、ラダーの踏み込みと爪先で行うブレーキ操作には少なからず苦労した。

 浜野は調布のNHKフライングクラブに対して、訓練飛行料金の支払いが残っていたので、千秋氏にここででっくわすのはバツが悪かった。

 しかし、千秋氏は未払い金のことはなにもなかったかのように、静かにほほえんでいる、”視界が悪いひどい天気だね、気を付けな”と何時になくやさしい。

 次に堀川氏と一緒にジョン・マイルズ氏が現れた、”ハマノサン ゲンキ?”ときた、“おうジョンさんじゃないか、いつもの堀川氏とそろって何ですか”と聞いた。

 堀川氏は新宿の小田急新館の後ろにあるとあるバーのバーテンで、ジョンさんは浜野の仕事の上司である、ジョンさんはイギリス人だが、いたく日本人と日本の生活が好きな痩せ型で背が高く少し、猫背気味のハンサムな30才の白人である。

 言い忘れたが浜野は27才の青年である、あれ!現実の浜野はセスナ182型JA4007を別の友人知人4人で購入して、資金計画が無謀だということで妻に離婚を宣言された57才のお父さんである。24才と20才の2人の息子と、昔昔ロスアンゼルスで激しい恋愛の末結婚した妻真由美とがいる50代後半の父親である。

 一瞬きざな哲学的妄想が襲ってきた、「滅び去った過去の人々と、現実と悪戦苦闘し生活する人々と、未来の今から生まれて来る子孫とからなる人類とは何だ、このような人類に仏やキリストは思いを馳せた、しかし小さな浜野のような人間は自分の利益と欲望のみを求めて現実を生きている”。

 仏やキリストは地球を越えて太陽系や宇宙にまで思いを馳せた、浜野のような人間とは全くその存在が異なる。浜野はエンジンに乗り掛かるようにした座席で空を飛ぶグータラ中年親父で、多少五月蝿いエンジン音を我慢して飛ぶ程度の自由に大満足している。それでいい、それ以上は望むにお及ばない、今が贅沢であると、自問自答した。


 石井は1969年11月に青森県五所乃川原上空で、吹雪の中を函館に向かって飛び立ち、みぞれ降る田圃に墜落死した、千秋氏は1970年5月に竜ケ崎の飛行場で曲芸飛行の失敗で田植えが済んで手入れされた田んぼにつっこんで事故死した、訓練生とともに去って行った。

 ジョンは1970年9月ニューヨーク市郊外のティータボロ空港近くのよりにもよって丘上の高級アパートの水道タワーに、衝突して友人の銀行マンと一緒に激突死した。日系人の若き成功者サイコロ焼き肉のレストラン王ロッキー青山氏が購入したばかりのピカピカのセスナ310Q双発機であった。

 石井も千秋もジョンもロッキー青山も、浜野の24才と20才の2人の息子が生まれる以前の、更には妻の真由美と廻り合う以前の仲間である。高度経済成長時代に技術系の職場に就職したばかりの浜野は石井とも千秋ともジョンとも、知己になってたった3年前後前後で深い付き合いとなり、互いをよく知るようになっていた。

 石井は当時四谷の2間のアパートに婚約者と同棲していた、死んだとき婚約者は妊娠していた、あの子は無事生まれ育ったのだろうか。

 千秋にはたしか2人の子があったようだ、きれいな奥さんとその一家は幡ケ谷の近くに当時としては浜野には手の届かない高価な一戸建ての庭付きの家に住んでいた。

 ジョンの方は毎週大阪出張で仕事に追われ、家を空けることが多く、奥さんが別居を希望したが、終には奥さんが日本的仕事中心主義に怒り出してイギリスに帰国してしまった、そのようにどこか可哀相な男である。

 緊張が弛むと浜野は何となく眠気がして、事務所内の椅子でうつらうつらし始めた、石井や千秋やジョンとそれ以上の話をするわけでもなく、彼らに聞き・話すことが一杯あったのに、聞かずじまいだった。その時には急ぐことはない、時間は充分ある、少し休んでから後にゆっくり話をしようと思い、つい座ったまま軽く寝込んでしまった。

 ふと軽い寒気を感じて軽い眠りから覚めると当たりが明るくなっている、先程までの濃い霧や霧雨はうそのように何処かに去っていた。事務所内にも活気が満ちている、事務の若い青年に着陸料を3千5百円払おうとすると、“お金入りません”という、“ところで皆さんは何処にいますか”聞くと、4人一緒にセスナの双発機310Qに乗って仙台空港に向かったという。

 浜野も妻沼の滑空場に急がないと、待っている石渡氏や中村氏が心配するからその場を去り、とり急ぎ離陸した。離陸すると上空にはまだ薄い雲が一面にたちこめている、薄い雲なので、一気にエンジンをフルパワーにして上昇突破した。3000フィートで水平飛行に移り、エンジン出力を巡航値に設定して、後方を振り返り今飛び立ったばかりの飛行場を探した、しかしそこだけが何故か先ほどまで薄かったはずの雲か逆に濃くなり滑走路が雲に隠れて見えなくなっていた。

 西に2、3分飛ぶと眼下に何時もの利根川が見えた、利根堰が広がり、前方下方に羽生市が見える妻沼はもうちょい先である。

 ”こちらセスナ182型JA4007号、教官の石渡さん応答お願いします”と呼びかけると、お馴染みの石渡さんの元気な呼び声がすぐ返ってきた、”グライダーが3機1000フィート当たりに飛んでいるので、気をつけて、ランウェイ真ん中27(トゥーセブン)”と。

 グライダー用に細くナガーイ長い3本の滑走路があり、浜野は指示に従いそのうち真ん中の西に向いた滑走路に機体を合わせる。周りのグライダーとの距離を見定めながら、進入中心線を必死に目で追い、着陸位置が合ように操縦して着陸態勢に入った。


 さて石井は調布飛行場で浜野が最初にであったパイロットである、浜野は学生時代に少々グライダーで飛んだことがあるので、一人前に給料を貰える身分になり、飛行機を飛ばそうと思った。調布飛行場には社会人の飛行クラブがあるので、訪ねてみた。

入会金や年会費や実際の飛行料金を聞いて廻ると意外と高く、ボーナス期でないと入会さえ無理であった。ところが最も安いクラブがNHK飛行クラブであった。そこで出会ったのが石井である。せっかく訪ねてきたので、”直ぐ飛びたいだろうと”言う、“1万円なら1時間直ぐにでも飛びたい”と答えると、“じゃ行こう”と言う。“そんなに簡単なの”どうしたものかと聞くと、石井は本田フライングクラブの会員でもあり、低翼のパイパー機なら今空いているとのことであった。

 つまり石井が自分の属する飛行クラブのパイパーを借りるので、費用は浜野持ちで、彼も一緒に飛びたいとのことである。

 但し左の機長席に誰が座るかとなると、オーナーのクラブ側では、商売上正式のクラブ員でないと、機長席に座らせないことになっている。ところが石井は“いいよ、いいよ”と言って黙って機長席に“座れと”浜野を左座席に押し込めた、本田宗一郎に良く似た本田フライングクラブの社長が不満そうな表情で遠くから見ていた。しかし我々は知らん振りして、エンジンを始動して駐機場からさっさとタクシーウエイに向かって機体を動かした。

 滑走路の手前で機体を止めてエンジンの暖気運転と出力試験をおこなった。それは地上の乗用車と違って飛行機は一旦空中に上がるとそのまま継続してある高度まで飛び続ける必要がある。離陸前にシリンダーやピストン等エンジン内部の金属構成部分の温度をある程度均一にしておく必要がある。特に外気温度が冬の北海道では低く、夏の沖縄では高いと、シリンダーに濃いガソリンを大量に吹き込み点火すると、ピストンで圧縮された燃料が急激に燃焼して、シリンダーを破壊する恐れがある。そうなると車ならエンストを起して道路上で止まるだけでいいが、航空機は空中から墜落し、繰従者だけでなく、地上の他人にまで怪我や損害を及ばすことになる。

 タクシーウエイ(誘導路)から滑走路に向かって機体を移動すると途上で、エンジンは次第に全体的に温まり、金属構成部分の温度がある程度均一になる。この場合機体が移動中にはエンジンは低出力で回っている、滑走路に入る前に機体は、一旦風に向かってエンジンを低出力のまま維持し、車輪にはブレーキを掛けて停止する。ブレーキ操作は車と同じだが、両足の爪先でペダルを踏み込む。この停止状態で、ペダルを更に強く踏み込んで、エンジン出力とスロットル(アクセル)操作量との追随確認を行う。まずスロットルの操作量をゆっくり増加させてエンジンを低出力から次第に最大出力まで上げる。このときブレーキペダルの踏み込みが足らないと機体が動き出すので、必死に踏み込んだまま、この状態をしばらく継続する。このとき強く踏ん張らないと機体が動き出して危ない、エンジンも最大出力、操縦士も最大努力で勝負する。

この間何かエンジンに整備上で欠陥があると、途中で異常振動とか出力低下とか、排気筒から炎とか爆発音が出る。そうでなければエンジンの正常性確認がとなる。

エンジンと一体となったプロペラの回転数を増加させる途中で、カリカリとかパンパンとか異常振動がないかを、耳に神経を集中して音を聞く。正常だと、ブーンの緩い音がビューンと高音に移動し快音となる。

その後エンジンをスロットルの操作で元の低出力に戻し、ブレーキの踏み込み力も緩めてほっとし、更に幾項目かのエンジン正常性検査を行う。

 エンジンが2基以上の場合各エンジンについて同様な正常性確認を繰り返しおこなう。この安全確認操作は、航空機に客や見学者として単に搭乗する者にとっては時間がかかり面倒なものであるが、飛行機好きな操縦士たちにとっては、これらエンジンの正常性確認操作はいくらあっても楽しいものである。

その後に、無線機で滑走路に入ることを他機と官制塔に通知する。官制官はこの無線を聞いて、状況に応じて滑走路に入る許可か、または”しばしそこで待て”の指示を出す。

  とにかく石井は滑走路の中心線に機体を合わせて、離陸許可をコントロールタワーから貰うとあっと言う間に離陸した。浜野は始めてなので、何がなんだか分からぬままに滑走路が後方下方に飛び去り小さく見えていた。

 浜野は“浮いた、浮いた”とキャキャと喜んでいたのである、2000Fで水平飛行に移ると、石井は自分の操縦幹から手を離して浜野に“ほらやってみな”と言った、空中操作はグライダーと殆ど同じである、ただエンジンの音がうるさい、空冷式の160馬力が計器パネルの直ぐ前で唸っているのだから当然である。下方には荒川の流域が初夏の緑で一面に緑で心地よく広がっている。失速操作や蛇行飛行や360度旋回や上昇や降下を石井は一通りやってくれた。勿論エンジンの調整は浜野にできることではないので彼が時々スロットルレバーをこまめに操作している。エンジン出力が強すぎると限りなく上昇し続けて6000F、8000Fまでも上昇する。


 初心者は機首を上に向けると機体が上昇するものと勘違いするが、物理的に高度は位置のエネルギーを高めることであるので、エンジンの馬力が必要である。ガソリン燃料を燃やして、この発生した熱エネルギーを機体高度の位置エネルギーにプロペラで変換している。従って飛行の上昇と降下の訓練では、上昇はスロットルレバーを押して出力アップ、降下は引いて出力ダウンと教官から徹底的に教え込まれる。ちなみに単に操縦捍を引くと機体の姿勢が上向になり空気抵抗が増えて速度が落ちるだけとなり、更に引くと終には失速する。


 出力アップして余り上空に行くと、そこには速度の早い自衛隊機や米軍機や時には旅客機が飛んでいるので、航空官制と連絡取らないと空中衝突の危険がある。だから高度3000F前後に止まっている必要がある。そのためにはエンジンの出力を適度に押さえる、暑い日には局地的に上昇気流が発生し、軽いパイパー機はグライダーのように黙っていてもどんどん上昇する。これを避けるにはこの場合更にエンジン出力を落とすことになる。だから水平飛行でも初心者には難しい操作なのである。

 さて、早くも小1時間たったので調布へ帰ることにした、石井から“飛行場がどこかわりますか”と言われてみると、浜野には今何処にいるかも分からない。しょうがないので“荒川と太陽を目安に下流に向かえば三鷹の上水道人工湖が見えるだろうからそうしましょう”と言うと、“その通り、航空路に対する基本思考が働いているなあ、きっと操縦免許が短期期間で取れますよ”と誉めてくれた(入会を誘っているのである)。

 滑走路が右方下方に見えてきた、中心線に正対面できるように航跡を逆計算して右旋回をしながらエンジンを絞って行く。空気力学上、車みたいに急には曲がれないの、空の3次元空間で緩い立体曲線を描きながら滑走路に向かい、高度を徐々に下げて行く。

 流石に石井の着陸前の操作は立派なもので、次第に滑走路が正面に近づいてくる、グライダーでは高度を高めにとって、空気ブレーキを開いて強引に高度を落として地面に接近する。

 飛行機ではエンジンの出力を微妙に調整して、滑走路に接近させている、なるほどうまくエンジン出力を調整することが着陸のミソだと気づいた。

 滑走路が遠ければエンジン出力を大きくし、近ければ小さくするそうするといい具合に機体が滑走路面に吸い込まれて行くことになる。

 クラブハウスに帰ると、千秋や米田がいた、米田はこのNHK飛行クラブからプロのパイロットとなり、当時としては若い我々から見て見事に日本航空の定期操縦士の道に進んでいる幸せな青年である。


 ここで、浜野が若い時に経験した宮崎にある航空大学校に合格するための、航空身体検査について説明する。航空医学に精通した港区にある慈恵会病院で身体検査が実施される、通常の健康診断と80%と同じである。しかしその外に肉体力の視力・聴力・匂い力・握力・並行感覚力が数値化されて測定される。並行感覚力検査では、両目を瞑って、太い線上を何歩まっすぐに歩けるか測る、また両目を瞑って、片足で立たせて何分間継続できたか測定する。左右の足を交代して行われる。病気のうち梅毒がないか生殖器も医師により目視検査があり、更には肛門の直接目視検査があり、当時は尻洗い便器がなかったので、前の晩に風呂場で体を洗い、翌朝は大便なしで試験に臨むようにする。その朝どうしても便意があり、用事を済まして、そのまま肛門検査を受けるとどうしても多少匂いがのこるので、試験官の医者は不機嫌になり、低い評価を受けることになる。

 機内搭乗員のスチューワーデスの健康診断も同じ慈恵会病院で行われていたので、順番待ちの部屋には2,3人若いきれいな女性がいたので、浜野は緊張感がほぐれるひと時もあった。ひょっとして合格したら、このような清潔できれいな女性と一緒に仕事ができるのかと、早とちりの夢を抱く瞬間でもあった。


 しかし面接試験は一番大変だった、それこそ人生哲学を問われるものでああった。質問者は当時現役の航空局所属のジェットパイロットで、国が所有する大型ジェット機米国製のコンベア880型機の操縦教官の「栗栖源太郎」であった。

 まず彼の浜野への質問は、旅客機の操縦士は、飛行機の運転手であり、基本的には職人業である、大学に居るような学問を極め、科学技術を研究するものではない、職人になり切る覚悟があるかと問われた。この第1質問には答えられなかった、浜野は質問には答えずに、飛行機を操縦して大渦の低気圧・台風の上空に行き、そして台風の目に入り大きな旋回飛行をしながら気象観測をしたいと、自分の意見を述べた。面接官は笑って浜野の話を聞いてくれた、彼も若い時同じ考え抱いていたかも知れない。彼は最後に浜野に”今の日本ではそのような贅沢な航空機もないし、飛行機の余裕もない今後10年、20年先だろう”と親切に答えてくれた。

この試験は、出来て間もない宮崎にある航空大学校への受験生を面接するものであった。航空大学校への受験資格は国内大学の2年終了以上で25歳以下であるので、浜野は大学2年終了後、3,4年時の専門課程に進む前に、それと卒業後を含めて3回受験した。

しかし、当時浜野の頭の中の思考構造は以下のようになっていた。物理的な階層構造では最下層に、明日の食事があり、その上に生活展望・就職があった。

なお上には仕事と給料があり、その上に学生としての電子実験があり、なお更にその上には社会政治があり、最上高層には哲学と人生がある。細部では最下層の仕事と給料と電子実験との間に好きなグライダーと飛行機操縦がある。

浜野は最上高層の哲学に耽る時間が多く、卒業したらどこの会社に就職しようかなど眼中になく、ひたすら哲学と人生について熱中していた。当時は技術系大卒であれば、えり好みしなければ、成長する技術系企業に普通なら入れたから、就職の心配をする必要が無かったせいでもあった。

 浜野は結局最上高層にある哲学と人生にまだ人生を賭けて、飛行機の運転手にはなり切れず航空大学校への道には進まなかった。

 浜野が電子技術エンジニアとして印刷会社で働き始めた頃、「日本航空羽田空港墜落事故」があった。

1966年(昭和41年)8月26日。コンベア880-22M (JA8030、銀座号)が、羽田空港でワン・エンジン・クリティカル・カット・アウト(離陸時風下外側一発故障停止)の訓練中、急激な片滑りから滑走路を逸脱し、離陸直後に墜落し、降着装置が破壊され機体は炎上し全損となり、乗員4名および運輸省航空局係官1名の全員が死亡した。

この事故は、コンベア880が、羽田空港から離陸直後に墜落炎上したもので、乗員訓練飛行につき乗客の搭乗はなかったが、同社員4名と運輸省(現・国土交通省)航空局職員1名の5名全員が犠牲になった。

事故機JA8030(米国コンベア社生産番号:22-00-45M・銀座号)は日本国内航空から日本航空にリース中の機体で、所有権は日本国内航空に残されたままだった。

当日銀座号は、午前に羽田から北海道へ往復飛行を行い、午後からは羽田空港で離発着訓練を行うことになった。羽田空港のA滑走路(旧)が工事により閉鎖されていたため、平行するC滑走路(旧)から離陸しようとしていた。この飛行は操縦員の機種限定変更試験のためであった。たぶん当時飛んでいた国産機YS-11からの移行試験だったのだろう。

午後2時35分、試験項目の一つである離陸時にエンジン一発故障の想定で離陸続行とする滑走中に一つの右エンジンが意図的に作動停止された。この操作によって風下の外側の推力がゼロとなり、機体は急激に片滑りしはじめた。目撃証言によれば、C滑走路から右へ逸脱しはじめ、左車輪が折れてC滑走路とA滑走路の間で左向きになったうえで、右車輪も折れてしまった。その衝撃で胴体着陸して爆発炎上し、乗員が脱出する時間もないまま全焼した。

事故原因は、片エンジン停止に対応する操作が困難な機体特性に加え、訓練生のミスも誘発されて離陸直後の墜落に至ったとされている。


このニュースを聞いて、浜野は何となく鳥肌が立った、5名全員死亡のうち航空局職員1名とは、浜野を面接したあの試験官:栗栖源太郎であることが後日判明した。飛行機は空を飛ぶということで、青年の夢であるが、飛行機を続けるならば将来にも危険は避けて通れないものだとその時から覚悟した。その時浜野は確か詩人・作家・哲学者「ゲーテ」の言葉を思い出した、「人間の能力活動範囲には限りがある、しかし自己の分野で極めるまで行動せよ」ということだった。

 しかしその後石井、千秋、ジョン等が同じような飛行機事故死の運命をたどるなどとは浜野には想像だにできなかった。


 最近に分ったことだが、この事故機の整備を主に実行した整備士は現在浜野が付き合いがある、元JALメカが二人いる。一人は比嘉憲一氏で、定年まで勤め上げて退職後は社会文化活動に参加し、日比谷公園あるあのマッカーサーが70年前に日本にプレゼントしたフィダデルフィアの独立宣言の鐘の完全コピーがあり、その保存運動に貢献している。

 もう一人は菊地光基氏で13年間ほどJALで近代航空機のメカニズムを殆ど習得し、あのコンベア880の限定整備士免許まで取得し、その後自主退職してグライダースポーツを社会人に広め、現在グライダーコオンサルタンとを70代後半でも継続している。菊地光基氏は日本中を端から端までエンジン付きグライダーで飛び、各地方の気象を熟知している。


 慈恵会病院の検査では、午後から屋外で体力測定があり、近くの麻布小学校の校庭に行き、野球ボール投げの腕力検査がある、要はボールをどこまで遠くへ投げられるかの測定だ、確か3回投げていちばん遠い距離が記録される。麻布小学校は確か愛宕山の上にあるNHK放送博物館前から見えた所にあった。


 浜野は石井とその後親しくなり、彼の車で横浜にしばしば遊びに行くようになった、横浜の中華害街に食事に行き、バーで軽くウイスキーの水割りを飲んだ。若い石井は品川から京浜国道を自家用車で夕方思い切りぶっ飛ばして走った、こっちも血の気の多い25,6歳なので暴走車に乗っていても怖さなど微塵もなかった。狭い中華街でも大型の中古車で堂々と走行した、通行人の大勢いる通りでは勿論徐行はするが、こんなに狭い通りに車で乗り入れることが、迷惑なことで、今なら恥ずかしくてやれるものではない。

 狭い通りから広い通りに出るところで案の定こっちはそろりそろりとゆっくり出たが、速度が速すぎる車が急に前を横切るので、その車の左後方に軽く刷り傷を付けてしまった。

 相手の車が急に通過しようとしたので、相手が不注意である、助手席の浜野は少し酔っていたので、“オーイ駄目だよ”と相手に注意した。ところが殆ど素面の石井が相手に平謝りをして、車内正面パネルの物入れ箱からタオルを取り出して、相手のこすられた車体を必死に磨いている。浜野は“相手が不注意だよ、お互い様で、そんなことすることないよ”と大声で言わんとすると、石井は手で浜野を制して、相変わらずしきりに誤っている。はてはお金をいくらか渡しているではないか。ピンときたこれが横浜のちんぴらヤクザなのか、話には聞いていたが、世間知らずの浜野はヤクザに向かって大声で文句を言っていたわけである。

 こっちは善良な市民なので、大きい態度が取れたのだが、石井は横浜に詳しいらしく、ここは謝やまるのが得策だと心得ているようだ。いつも大きな中古車でこの界隈を乗り回すので、ひょっとして、ヤクザに狙われていたのだろう。

 石井はブルーライト横浜の歌が好きでよく唄っていた。ガールフレンドが中華街の何処かのクラブでアルバイトをしていて、良く通っていたようだ。やせて背が高く、歌手の石田あゆみによく似ていた。その後石井はその女性と結婚して、四谷のアパートに同棲していた、後日彼らのアパートに遊びに行ったことがある。彼女は妊娠してお腹が少し膨らんでいた。

 浜野は神戸の学生時代も片思いやすれ違い恋愛で、思い切り女性を抱ける状態ではなかったので、羨ましかった。石井はまあまあの資産家の末っ子で、長兄が身元引き受け人であった。練馬の浜野の下宿から一駅先の大泉に直ぐの姉が嫁いで住んでいるとのことであった。当時石井はまだ航空機事業用操縦免許を取ったばかりで、どこかの会社に勤めていたわけでもないのに、生活費があり、結婚もしていた。


 NHK飛行クラブにはセスナ170式の尾輪式の単発機があった、浜野はこの170式で練習することになった、千秋が操縦教育証明を持っていたので、千秋から訓練を受けていた、石井は就職前で、良くこのクラブに遊びにきた。ある日浜野の仕事の上司のマイルズと、その友人と浜野と石井4人でこの170式をチャーターして荒川上空を散歩した、マイルズは二日酔いで着陸操作が下手で、石井に殆どやってもらって不満そうであった。

 費用はマイルズが持った、千秋はおまえ等勝手に170式で遊ぶんじゃないと言ったような顔をした。浜野はうるさい教官の千秋よりも気楽な少し無謀な石井がいいと思った。浜野の手元には今もこの時の170式の前に立つわれら4人の写真がある。同じ日別に千秋の写真も取ったこれも鮮やかに色褪せず明瞭な写真が残っている。


 マイルズ・ジョンはその後転勤で東京から米国のニューヨークに移住した、奥さんは日本からそのままイギリスに男女2人の子供とともに帰国した。この後怪しい運命により5,6カ月の間に石井、千秋、マイルズと立て続けに自らが操縦する飛行機で、個別に日本の青森及び関東平野と米国のニューヨーク郊外で事故死するとは誰も予想しなかった。

 まずその年の年末に石井が青森県五所乃川原上空で、吹雪の中で墜落死した、翌年5月に千秋氏は竜ケ崎飛行場上空から超低空で曲芸飛行を試み機体の引き起こしが出来ず田んぼにつっこんで事故死した。ジョンはその年7月にニューヨーク市郊外で雨模様の視界不良の日にティータボロ空港近く丘上の高級アパートの水道タワーに、衝突して激突死した。

 浜野は千秋の葬式の直ぐ後に6月に羽田からニューヨークに出発した。ジョンから仕事を手伝ってくれと、国際電話があり、渡米することにした。浜野は相次いで石井、千秋を失い、社内同僚女性であり好きな椎名さんには相手にされないし、社内恋愛なんてどうも浜野の趣味に合わない。新宿の沖縄返還運動で知り合ったベトナム反戦運動家の西田貞子には振られて失恋はするし、神戸学生時代の女性達にはもう会えないし、国内にいてもこのまま年を重ねるばかりで、何かしなければと思っていた矢先である。

 少し寂しくなり、神戸学生時代の女性達を思い出した。


 国鉄西の宮駅プラットフォーム1&2番上で、浜野と井本美保子が話している。「鶴兜山(六甲山東端で、西宮市北西にある)にピクニックに行こう」と、美保子保子が言う。「イヤダ」と浜野が答える、「今からグライダーの合宿に出発する、だから駄目だよ」と。


 朝鮮半島の戦争は休戦して・終わって10年以上経っていた、ベトナム戦争は、インドシナ半島で始まったばかりで、アメリカ軍と南ベトナム軍が半島を赤化させないため共産軍と戦っていた。

それに対して北ベトナムとソビエトの交流・交渉,が深まったばかりで、ソビエトが健在の時代である。日本の防衛思想力の方向は、もっぱら対ソビエト一色であった。中国大陸では毛沢東の赤い中国が誕生して間もなかった。


 1950年代始めの朝鮮戦争景気で神戸製鋼所が戦後初めて息を吹き返し始めた頃である。もともと経済活動に長けた神戸と大阪企業群が朝鮮戦争から莫大な利益を上げていた。その従業員の家庭もまたもらう給料と昇給で豊かになっていた。

 井本美保子は神戸女子薬科大の2年生で、浜野は神戸大の3年生である。浜野はこれから加古川市北方35キロにある鶉野飛行場に向かうのである。加西市にある鶉野飛行場跡は滑走路が今も生き残り、浜野はそこで実施される関西

のグライダークラブの練習の合宿に出かけるところである。


 井本美保子は顔が面長で色白、身長は浜野と同じぐらいで、体全体がやや細め(1961代に太めの男女は殆どいなかった)の若さ溌剌とした女性であった。何故このような裕福な家庭の女性が、豊かではない大学生活をけなげに、しかし堅実にしかしまあ貧しくも生きている浜野の相手になってくれたのか今でも不思議である。


 美保子は阪急今津駅近くにある大きな風呂屋の娘である、2人姉妹の姉と父母と4人家族、父は和歌山県串本沖近く紀伊大島から戦後阪神間に出てきて丁稚奉公から身をお越し戦後成功者のひとりである、資金を貯めてついに念願のフロヤ屋を買い取り敷地を拡張して施設は約1000坪あり、裏には燃料の槇置き場があり、いつも雇人の頑丈な若い男が2,3人働いていた。


浜野は神戸大の学生YMCAに井本美保子は神戸女子薬大の学生YWCAに属していた。学生YMCAと学生YWCAはともに簡単に短く学Yと称された。


 神戸大教養部は阪急御影駅側で、神戸女子薬大は阪急六甲駅で、1駅違いの所に位置している。お互いの学舎が近いせいもあり、毎月のキリスト教の聖書研究会は両大学Yが共通会場で行われていた。今でいう大学間交流を古くから先達が設定していたようだ。このように伝統的に以前から習慣化していた、両クラブとももともと部員数がそれほど多くないので、また学生交流の教育的交流の必要性もあった。

聖書研究会のメンバーはやはり神戸大は男性が多く神戸女子薬大は当然女性中心である。女性参加が多いことは浜野にとっては嬉しいことである、男女交際の機会が与えられたという心境である。

単調で野暮な狭い南の島から上阪神してきた浜野にとっては、極めて重要な出来事であった。浜野にはここで、見るもの聞くもの全てが輝いて素晴らしいことだらけであった。特に青年期・青春・思春期の若い浜野にとっては、当地の若い女学生は憧れと羨望の的であった。


鶉野滑走路脇に並んだ浜野は曳航索:鋼製の金属ワイヤーの点検担当である、並び立つ位置は、滑走開始位置にあるグライダーから遠い。この金属ワイヤーを巻き取る大型ドラムとそのV8原動機が固定された位置:ピストと呼ばれるところの近くを担当している。ピストは滑走路の一端に、グライダーは遥かに離れた滑走路の他端にそれぞれ置かれている。大型ドラムと原動機が唸りをあげて回転し、滑走路上のグライダーを、金属ワイヤーを巻き取って強引に引き寄せる。グライダーは滑走路を走り出し次第に速度が上がってくる、ついに離陸速度になると機体が勝手に地上を離れて飛び上がる。金属ワイヤーはまだ機体の先端と結合されていて、加速され機体はどんどん上昇する、通常は機体がピストの前方迎角70度-80度まで引き上げられ、その時高度が約800m程度になる。

そこでグライダーに乗っている操縦者は機体の機首を水方向に押す操作を行い、水平飛行に入った瞬間に、レバーを引いて金属ワイヤーを機体の先端から切り離す操作をする。そこで初めてグライダーは地上に別れを告げて自由になる、大空を大気に浮かんで滑空する。

一方切り離なされた金属ワイヤーは、地上向かって落下する、金属ワイヤーは重量があり、そのまま落下すると、ワイヤー自体が地面との衝撃で劣化する、これを防ぐために、小さなパラシュートがワイヤーの先端に取り着けられて、落下時にパラシュートが開き、柔らかく着地するようになっている。


 はるか彼方の滑走路端から索に引かれて私の方に近づいてきた、機体が間もなく地上を離れて飛び上がった。その後順調上昇を期待しつつ見守っていると、地上約30mの高さに上昇中に突然索が切れた。滑走路の半以上を機体は走り切っており、この高度では、残っている滑走路部分に降りるしかない、ところが余分の滑走路は200m程度しか残っていない。無地着地してもブレーキのない機体は走り続ける、滑走路端で速度が落ちていれば、地上員の我々が遅くなった機体を捉まえられたらいいが、どうも速度がまだ早い。あとは真っ直ぐ走らせて、滑走路端に広がる高さ2mほどあるススキ原に突っ込むしかない。

前後席の操縦席には、練習生が前に教官が後ろに着座している、両方とも肩と腰のベルトを締めているので、相手がススキ原なので、怪我の心配はない、しかし機体は前面に外傷を受ける恐れが充分ある。機体に損傷があるとⅠ機しかないこの合宿はおじゃんとなる。安全のため損傷機体での飛行は内規と法律で禁止されているのだ。


 見ている前で機体は一応着地したが、まだ相当の速度でススキ原に向かって突進し、ススキの林に突入と言う寸前に、アット驚く隙もなく、機体がグルット180度方向に急反転し、今来た後ろの滑走路上を反対方向に走り出した。

見ている地上員の我々訓練学生達は皆唖然となって反対方向に走り行く機体を眺めていた。


 索に引かれて機体が上昇中にその索がどこかで切れたら、まず機首を水方向に押し、水平姿勢になったら、残った索の金属ワイヤーを機体から切り離す、そして直線飛行をし、滑走路が目先に残っていれば、そのまま降下して着地する、ある程度速度があっても滑走路の沿って並んでいる練習生が走って翼端を捉まえて次第に止める。滑走路が目先に残っていなくても、そのまま直進降下して滑走路先に着地する。

そこが空き地や草原や畑であってもいい、突っ込むしかないのだ、下手に変に今来た後ろの滑走路に戻ろうとしては、ダメである。戻れないのだ。


直線降下を始めた機体は、滑走路に着地しても滑空性能がいい機体は前進力が充分に残っている、グライダーの主車輪には、ブレーキ機構が重量制限のために、付いていない着地後は慣性に任せて前へ前へと走り続け、自然に速度が落ちるまで待つしかない。オーストラリア大陸のように、長い・長い滑走路があれば、のんびり待っていいが日本ではせいぜい1000m滑走路である。


芦屋教会で、日曜集会の前方の席を見まわすと、居ました、居ました紛れなく私の前方に座っていた、どんなに心が弾むんだかことか、浜野は牧師さんのお話・説教は覚えていない、ただ美保子の後ろ姿に眩暈がしていた。

 礼拝が終わり、浜野は美保子を先に行かせてゆっくり席を立ち会堂を美保子の後から出るとき思い切って美保子に「スミマセン」と話しかけた。さすがに美保子もびっくりして大きく目を開いて浜野を眺めた。

「学Yの浜野です、井本さんですね」とワザと偶然見かけたふりをして呼びかけた。まさか同じ日曜礼拝に同席できるとは浜野も自信が無かったので、偶然としても不自然さはない。「アッそうです、浜野さんも同じこの教会に来られているのですか、」と静かに返答してきた。駅まで一緒に行きましょうとなった。2人は静かに阪急芦屋駅に向かった。荒削りの男子学生にとって美保子は清楚で美しく浜野はどんなに嬉しかったことか、50年後今思い出しても幸福感に満たされる。


同志社大OBの牧野鐵五郎教官と、京都大OBの赤川浩爾教授とは世代が同じであった。戦時中に牧野は特攻隊機をこの鵜野基地から知覧近くまで誘導飛行した。

赤川は航空機設計に身を置き、爆撃機「雷光」の設計に参加し、また時にはニ式大艇・飛行艇、現在の新明和飛行艇の改良整備に携わった。新明和飛行艇は世界唯一最大の産業用・軍事用海洋機である。

 戦後牧野は学生航空訓練生に操縦訓練を与えた、グライダーの訓練では多くの学生を平和時のパイロットに育てた。この突然の機体180度方向に急反転操作は、たまたま牧野鐵五郎が当該機の後ろ席・教官席に座っていた。

事故寸前のグライダーが180度一瞬方向転換をした操作を浜野が目前で強烈な印象で見たのは、美保子と別れて鶉野飛行場に行ったその日の午後のことである。

 

 聖書研究会が済むと、新学期草々の会でもあってので、3年生のリーダー会長先輩が、「初めての学生を交えたので、お互い簡単な自己紹介をして下さい」と挨拶した。そこで皆で机を四角に並べて参加者の顔が見えるように並べて座った。浜野が時々美保子の方を凝視したのは当然である。


いつか浜野は阪急今津駅近くの井本家に招待されことがある、おいしいごちそうを頂き、美保子のお姉さんと話した、優しそうな姉は、「どうして美保子と親しくなったの」と尋ねた、浜野はどう答えたか忘れた、答えが無かったので、もじもじしたような気がする。食事の後に美保子と浜野は散歩して駅の方に歩いた。嬉しくてもう何も話すことが無かった、手をつないだかどうかも覚えていない。


 昔は岩だらけで、緑が少ない鶴兜山へ美保子と二人でびくニックに出かけた、勿論休日だから他のハイカーもいて、楽しい散歩のようなものだった。しかしそんなに多くのハイカーがいるわけではない、だから時々二人は手を触れることができた。何を話したか覚えていない、お弁当は美保子が持ってきてくれた。その当時浜野は家庭教師のアルバイトをして多少の小遣いはあったようだ、少々のコーヒー代や食事代に苦労した記憶はない。

 浜野の服装は学生服の黒ズボンで、上はセーターか少し派手な色ワイシャツだったような気がする。学生生協で安い衣類を毎回購入するが、少し派手なものにした。


 美保子と浜野は京都国立美術館のモナリザ展を見学に行った、これは電車旅行では日帰りであるが、比較的に長い時間の同行であった。入場は人込みで並んで1時間以上待ったが二人でいろいろ話して退屈の思いは全くなかった。誰からも邪魔されることなく二人は幸せの最中にいた、ほのかな小旅行であった。家庭教師の収入で小銭不足が無く金銭的に苦労した思いは全くなかった。

10年後にモナリザが上野の美術館で展示されて、ニュースになったので、浜野は京都での美保子との鑑賞旅行を一人で懐かしく思い出した。


 学Yでは夏の休暇で、淡路島で聖書研究会の夏合宿もあった、到着の晩は聖書を全員で読み研究し、讃美歌を歌い、女性の一人が祈りを捧げて静かに就寝した。翌朝早く起床したらたまたま美保子も早く起きて宿舎の外にいたので、早速誘って近くを二人で散歩した、何を話たったか覚えていなし。これが美保子との別れの始めであった。


 ニューヨークの私の勤め先のビルは、東2丁目42番街で、国連本部ビル近くにあった、1ドル360円時代で、転勤して年収が一挙に円換算で5倍になった。嬉しくて毎週末は隣のニュージャージーの飛行場に出かけた、飛行機は単発低翼の160馬力パイパーチェロキーで飛んだ。

 そこで落ち着くと、浜野はまた頭脳中枢にある最上高層の哲学と社会政治の人生について考えるようになった。

 ベトナム戦争が激しくなった時期で、ニューヨークの若者は政治と戦争産業と人生とについて苦痛に満ちた思考の渦の中で生活していた。ジョンが浜野を当地に呼んだのは技術が優秀だということではなく、単に会社の若いエンジニアが徴兵でベトナムに送られ人手不足になった、その穴埋めであったことが後でわかった。

 浜野は新宿では毎週ベトナム戦争反対集会とデモに参加して、ジョンバエズに聞き入った関係で、アメリカはどうしてこんなバカな戦争を続けるのだろうと一般のアメリカ市民に対しても不満を抱いていた。

 徴兵に取られた若い知識層は、自国政府に反対し、優秀な若者が遥かアジアの戦場に送られることに、不満と絶望と悲しみにより心を搔き毟られていた。

 浜野のニュージャージーでの飛行機仲間に年代的に叔父さんレベルの白人が2,3人いた。そのうちの一人には丁度大学を卒業したばかりの娘がいた、ある晩私たちはアップ・マンハッタンのとあるバーでウイスキーを飲みながら飛行機談義をしていた。

 すると父親に用事があるとのことで、そこにその娘さんが現れた、少し後で聞いたところその娘の恋人がベトナムに送られた直後のようだった。父親と話を終わった後、飛行機仲間の叔父さんが浜野を日本人だと娘に紹介した、するとたちまち娘の表情が強張り、浜野をきつい目で見返した。驚いたことに「日本人はずるい」という、国際反共戦争にアメリカの若者だけを戦わせて、日本人は金もうけばかりしていると言い出した。娘の恋人がベトナムに駆り出されているのにあなたは、「徴兵された技術者の穴埋めにニューヨークに来たのだろう」と怒りを語った。そして若い白人女性と話せると期待したが、当然だが挨拶もなく現場をすぐ立ち去った。飛行機仲間の叔父さんは浜野に対して済まないことをしたという気まずい表情になったが、浜野には娘さんの意見が理解できる、「気にするな」と逆に慰めた、お互い政治と人生の矛盾を分ち合ったひと時であった。

 地球上の人間はどこかで相互に絡み合って生きている、小市民的な平和と人殺しの戦争との間にある矛盾に簡単な解決策はない、しかし年収が5倍になったと、浮かれているだけではいけない、対策を見出す努力は日夜怠ってはならないのではないかと思い知らされた。。


 現在浜野の飛行時間は霧の滑走路小屋で休憩していた彼らより長生きしたおかげで、教官の千秋よりも多い600時間帯である、当時は飛行時間の少ない浜野は、こと飛行機に関しては彼ら3人の前ではおずおずとして控えめであった。

 今では夢の中でも彼らに、浜野は自分の安全飛行と沖縄の南西諸島を飛んだときの素晴らしさを自慢して話せる立場にある。真夏には酷熱の太陽が照る島々でも空からの眺めは素晴らしい、澄み切った空気、無限に続く空の青、海の青、白波の立つ小島の端にある真っ白なコーラルの滑走路。

 帰国後浜野は、双発機のスーパービーチH18を操縦する時期が一時あった、2基のエンジンが心地良く共鳴し、低音のうなり音を座席に響かせている。胴体の両脇にある450馬力の星型エンジンは2基とも安定した回転音を鳴らし、機体は微少な振動はあるものの殆ど揺れない。何とも言えない頼り甲斐のある規則正しいエンジン音である。

 機体が石垣島を夕方に社内便で離陸し、1時間後にネオン輝く那覇空港上空に到着したときの夜の空の感動は浜野には決して忘れることはできない。

 那覇空港の着陸では、スーパービーチH18機体前面の翼付け根と車輪付け根にある強力な着陸燈に照らされて、果てしなく続くようなコンクリートの滑走路の堺を示す両枠が、連続的に近づいて続いて後方の暗闇に流れて消えて行く。那覇空港の官制塔が、夜空に黒く鮮やかにそそり立っている、ほのかに官制室内部の明かりが見える。

 浜野は故人となったこれら三人と代わる代わる操縦桿を握って、または同時に小型機で編隊を組んで沖縄の島々を飛びたかったのである、しかし、彼らのうち誰とも沖縄飛行の夢は果たせなかった、浜野がスーパービーチH18の機長となって、「ほれあれが浜野の生まれた村だ”、“あの岬の根っこが村だ、白い燈台を見よあれが神戸の大先輩が建てたものだ”と聞かせてやりたかった。


今浜野は妻沼の学生グライダー専用滑空場の真ん中のナガーイ長い滑走路に着陸した、滑走中である、石井、千秋、ジョンに先ほど霧の中の小さな飛行場で再会・遭遇したばかりである、話す時間はなかった、しかし彼らはきっと浜野の調布飛行場以来の人生の小話を読み取ってくれただろう、そう思えてならなかった。

 

我が愛する懐かしき関東平野よ!

浜野はその後グライダーに挑戦している、地上との対話を噛みしめながら空中を飛ぶには50年前の学生時代のグライダーが一番いいと思った。

ただ全くのエンジン無しでは寂しいので、ゆっくり飛ぶのでいいからエンジンが欲しい、技術時代が進みエンジン付グライダーが2020年代には一杯あることが分かった。

そんな週末のある日、昨日24日エンジン付きグライダーで那須岳(約2,000m)上空に行き、エンジンを出力60%にして、山岳気流 wave に乗り、激しい上昇・降下に突っ込み、上昇だけにしがみついて、ゆすぶられながら上昇を続けた。最初のうちは、那須岳周りのスキーファミリーなどが見えたが、高度があがるほど那須塩原市と那須岳だけが見下すようになり、山岳雲の上3,000m程度に出た。すると 山岳気流 wave の上は静かな上昇気流だけになった。

こいうことは単発・多発のエンジン飛行機や高速機体では味わえなかった。

先ほどまでの激しいいゆすぶりがかんぜん全くなくなり、旋回しながらエンジンを60%でも急上昇続けた、驚くなかれあれよ、あれよ言ううちに20,000f:7,000m程度になった、10分以上ととどまると酸素が欲しくなるか、私には頭痛が始まる。更にこの高度では外気はマイナス20度近い、寒さが足元からゾクゾク近づいてきた。那須岳真上頃からキャノピイー内は暖気一杯にしているが、たった100馬力のエンジンでは機内暖気はドンドン下がっていった、凍える前に下降しなければならない。

酸素不足については高山病で。4年前南米高地ボリビアのラパス空港標高3,500M で旅行者として 高山病になり経験済み。

エンジン付きグライダーの操縦席は胴体の前部にあり、両翼より前にある、自己より後方の両翼は横眼でみるか、首を捻って後ろを見ない限り見えない。

このため空中で操縦中は長い両翼を意識できないか、しない。これは心理的に重要である、即ち初心者は上昇気流で機体が揺れると、目の前の前方と地上の下方を見ると、こんな高所から落ちると必ず死ぬと思うので、恐怖心が沸き起こる。

上昇気流が少し荒れて機体が傾くとその気配がなお強まる、傾いたまま空中から今にも落下しそうである、しかし左右いずれかに機体が傾いたときは、眼は地上の方下方をに向く、見るので、その時同時に直下方やや後方にある翼の前端部分が目に入ってくる。そうだ自分はこの長く淡麗な強固な翼の上に乗っているのだ、この翼が壊れない限り永遠に安全だと直感で理解し、心が落ち着く。

一方操縦歴時間の長いグライダー操縦者はもう搭乗前から俺は翼とともに空に行くのだと実感しているから、空中で、上昇気流が荒れて機体がひっくり返るようになっても少しも動揺しないのだ。

今回同乗者のベテラン:日本一の操縦者は25,000f:8,100mまで行きたいという、浜野はもうやめようと提案したが彼は「大丈夫」いう。無酸素のエレベスト並み高度だ、経験してみようと思ってじゃ行こうと従った。耳が内・外の気圧変化に追いて行くのに必死だ。唾を繰り返し飲み込んで対応に努める25,000fで、彼も満足したが、惰性で28,000fまで上がった。機外を見渡すと層雲が下に見える国内線ジェットの巡航高度にいるのだ。たったの2座席エンジン付きグライダーでここまで上昇して、滑空している、なんという素晴らしさか。酸欠のことも忘れて眼下の雲海に感激している。


この高度では那須塩原市及び那須岳もただ下方にあるだけで細かい認識はできない、逆に遠く東北地方の広い範囲が見下ろせるようになった。もういいだろうとお互い認識し、言葉を交わして、エンジンを完全に止めて滑空しながら筑波山の滑空場を目指した。エンジン付きグライダーがここまでやれるとは飛行機野郎の浜野でも感心した。


さて、滑空して帰えることにした、ところが高度25,000fの外気温度はマイナス20度だ、グライダーは胴体は薄い羽布張りである。羽布を通して外気冷気が下肢に忍びこんできた、車の様に暖房ファンは回せない、エンジンは完全停止中である、例え低速回転しても余りに外気温度が低いので排気で吸気を温める熱量が小さく、熱が足りない、馬力がない、要するに酸欠プラス超寒冷温度では命が危ない、降下率を最大にして高度を下げるしかない、3千フィートまで降下するにはどんなに急いでも20分程度かかる。そろそろエンジンを操作準備する右手と操縦杆を握る左手も触覚感覚が失われてきたてきた指先が白くなり始めた。

ようやく8、000フィートまで下がったので、エンジン始動を試みた。今度はエンジンが冷え過ぎてバーテリー力だけでは-始動しない、困ったでは、一瞬急降下して、風圧でプロペラを回して始動をやってみた、強引にプロペラ回転でエンジンを強制回転させたら、ブルンブルルとかかった、安心した。高度が8、000フィートまで下がったので下の大田原市の様子が認識できる。正に三浦雄一郎の冒険登山のような飛行である。


 雲低が地上600feetから700 feet の雨雲を突っ切る飛行

09:30茨城県桜川市の真壁格納庫からJA1111を引き出す。

大粒の降雨なら、霧は発生しない、東電の送電鉄塔高さ大目に60m=190 feet として、関東平野の標高は高崎市・千曲川近くまでの平均標高は大体多めに70 feet とし、

地上から送電鉄塔高さは、190+70=250feet となる。なら300feet で飛行できる、しかし安全を見て海面からの高度(飛行機は海面高度を基準にしている)、その倍の600feet を取れば、関東平野は隅から墨まで飛行できる。  更に100feet 加えて700feet なら安全飛行が可能である。

筑波山西の真壁滑空場から更に西の鬼怒川河川敷の小山滑空場までは、15Kmである、時速100Kmの速度では、飛行時間10分で充分である。

 小山滑空場傍の宿舎から真壁滑空場近くの友人に電話でそこの天候・雨や視界・霧の様子を聞く。霧なし・雨;小降り、曇り空筑波山は中腹まで見える・山頂近く山頂部には雲あり。

風無風、小山滑空場傍の宿舎から真壁滑空場に車で行き、真壁格納庫から機体を引き出し、飛び立つ予定。

小山滑空には有料飛行希望の顧客があり、まず格納がある真壁滑空場から小山滑空場まで機体を空輸する必要がある。

 真壁滑空場周りに霧が無く、滑空場周の視界が見渡せるので、離陸する。車で来る途中田園地帯に設置された送電線鉄塔列の上を注意深く見上げて、上空の雲を確かめた。雲低の高さは、鉄塔列より高い、所ところ薄い雲が鉄塔頂上に架かっているが直ぐまた鉄塔頂上が現れている。

真壁滑空場から離陸後 地上を見下ろすと、細長い川や碧い稲穂一面の田んぼが広がっている、出穂直前まで伸びた稲は一面の緑の布幕となって見える。機体進行方向正面視界には薄い雨雲があり、更に上空を見上げると灰色から次第に濃くなり上空に行くほど黒に近い雲が頑張っている。

地上には小貝川が南西に蛇行して流れ、小貝川を90度に交差し西へ向かうとまもなく国道294を横切る、この国道は南北に真っ直ぐ走る往復4車線の広いトラックドライバーには馴染みの国道である。

このどす黒い雨雲を突っ切って上昇するのは大型ジェットィ機が地上管制からの誘導で、実行できる、その後北海道や沖縄に向かうようにしている。

しかし飛行機野郎の我々は、800feet に上昇した水平方向から上は雲だ、下方の地上は鮮やかな緑が広がって見覚えのある人家やファナックの黄色い大きな工場がはっきり見える。

このまま西に進路を取り小山に向かうと9分後鬼怒川が見えることになっている。飛行中雲が低くなり送電線鉄塔に薄く架かるところもあるが、先へ飛ぶとまた晴れて鉄塔がはっきりする。そのような雲状況を繰り返して小山滑空場が見えてきた。何時ものように着陸実行、9:40


午後15:30

小山滑空場傍から真壁滑空場に戻る飛行、雲行きや降雨状態は午前とほぼ同じ、曇り空。 離陸すると遠くに雨雲を透して雲の上に筑波山の中腹が見える。山頂付近は雨雲にガッポリ覆われている、筑波山を目指して東90度方向に飛べばいい。最大の安心は見える筑波山である、送電線鉄塔を注視するのは往きと同じである、神に感謝。帰りは国道294を下方に横切り、直ぐ小貝川を越えて筑波山の麓を目指す、目的滑空場近くには黄色い工場・ファナックがある、そこが見えたらもう着陸である。


梅雨雨空の雲下飛行に自信がついたので、小山滑空場ではなく格納庫のある真壁滑空場から少し遠い伊勢崎市近くまで飛ぶことにした。航法としては地上目印が十分あるので、楽なものだ。

真壁から伊勢崎市への飛行には、方位はまずやや西250度に取ってラムサール条約の大きな沼が視界に入る位置まで飛び、そこから利根川に沿って更に上流に向かえばいい。

方位をやや西250度では、下館駅と小山滑空場は下方右に寄り過ぎて目視が困難になるので、雨天で雲が低い天候では敢えてこの両確認箇所・位置が見えるコースを取った。

途中の飛行進行方では、何時もの小貝川と国道294を順に横切ると、右下方地上に下館駅と、鬼怒川沿いにある我が小山滑空場とを見下ろして西に進む。


伊勢崎市には軽くない少々思い入れがある。

1969年の渡米前に私は西武線の中野駅近くに下宿していた、当時大機な農家の広い屋敷に複数の家が建っていて、そこの1軒に間借りしていた。そこには大勢の学生とヨチヨチ歩きのサラリーマンが住んでいた。

その中に痩せ気味で中背で青白い顔の日大生がいた、彼は笑い声や笑顔をめったに見せなかった、特に左翼でもなさそうだが、人生を常に真剣に考えているようだった。この憂い気味の青年に私は関心を抱いていた。

彼の郷が、伊勢崎市だと本人か同宿の誰かから聞いた、青白く憂い気味の青年と伊勢崎市とが私の思想の中で結びついて、何時かその町を訪れたいと思うになった。その後彼が死んだということを知らされた。


大きな沼から伊勢崎市に向かう方位はやや西280度程度であるが、とにかく利根川の上流に向かって飛べばいい、更に上流には高崎市がある。

利根川の上流には関東平野が次第に赤城山の裾野に挟まれて、狭まり、更に上流は高崎市から千曲川となる。

飛行を続けるとまず第1の目標位置の大きな沼が前方下方に見えてきた、ここまでは雨雲の雲低も送電線鉄塔すれすれなので安心して飛べた。

そこから前方には館林市とやや北方の太田市があり伊勢崎市へと続く、雲低が下がり雨足がひどくなれば、緊急着陸場はいくらでもある、但し送電線鉄塔には最大の注意が必要だ。

大田飛行場と利根川対岸には学生訓練行場の 妻沼滑空場がる、大丈夫だ。

館林市と太田市との中間で、大粒の雨がキャノピーのフロントガラス(プラスッチク)に当たり始めた。雨雲が真っ白に広がり、前方が白雲に覆われ、下方地上の田園風景も消えてしまった。

機長と私はこの白雲の上に上昇することを暗黙の内に了承し、エンジンを噴かして上昇飛行を実行した。雨の白雲の高さ・厚さは3,000feet 程度だろうから雲上に出て様子を見ることにした。

ところが真っ白い雲は、上昇50秒立っても脱出出来なかった。私は少々焦った、まだまだ関東平野内なので、近くに山は無いから、120秒立っても白雲を脱出出来なければ、現方位の180度真反対に引き返す案を心で準備した。来た道を戻ればいい、白雲への入り口では、視界がまあまあ良かったから大田飛行場にでも降りたらいいと思った。

1970年夏、私はニューヨーク州からペンシルバニア洲にパイパー機で飛行中、雲に出くわし、いくら進んでも雲から抜け出せないので、真反方位の戻り飛行を体験している。

機長に反方位の戻り提案をしようとした時、視界が開けた、雨雲の上を飛んでいた、下方に雲海が見えた、なんとすっきりした気分になったことだろう。

関東平野内だから安心感があるが、念のため下方に雲海から突如ニョキと山の頭でも出てないか四方を見渡したが平らな雲海が広がっているだけ。

このままの雲上飛行の快感を継続したいとの欲望が起きてきた、しかし、機体はエンジン付きグライダーで大した馬力もないので、適当に切り上げることにした。

遥か上空を見上げると、上層雲がしっかりと頑張って敷き詰めている、あの上層雲を突っ切って更に上昇すれば、10,000feet 以上に出たら素晴らしい雲海の上に出られるが、我が機体にはそんな力がない。


何時までも下方雨雲の雲海航海を続けると関東平野端の赤城山の裾野にぶっつかる恐れがあるので、雲の切れ目か、薄いところを探して降下することにした。まだ山らしい気配がないので、直進降下を開始した。山らしい気配が前方や周囲にあれば、螺旋降下となる。

雲の薄いところと言えども、再度雲中降下である、700 feetまで行き着いたら下方に田園風景を期待して降下した。

雲間から左方に利根川右方の田園風景と工業団地が見えてきた、安堵感が湧き伊勢崎市が近いことが実感された。利根川のやや上流で本流と北側の赤城山流とが合流しており、目的滑空場は赤城山流の河川敷にあると言う、近づくと伊勢崎市のゴミ焼却工場クリーンセンターの白い高い煙突がある、その先が目的滑空場である。大粒の雨は雲中降下から雨雲下飛行中も降り続けている、バシャバシャとキャノピーのフロントガラス(プラスッチク)に当たっている。

着陸態勢・姿勢に入った、バシャバシャの大粒雨・水滴で着地寸前の高度が目視ではよく出来ない・不十分なので、脇下を後ろに流れる地面を見ながら、滑走路の赦す限り滑空を伸ばして着地した。目的滑空場にはまだ誰も出迎えがない、08:30ごろで我が機が早く到着したようだ。




              第1部に追加   完    2016年9月


今回モデルに出た若いパイロットの世代は、最新のハイテク大型ジェットの出現を境に退職した者が、私の周りに少なからずいる。私は直接大型ジェットを操縦して高高度を飛行したことはない。しかし、彼らの話と高層気象の知識と偵察衛星前の米国超高度飛行に関する資料を調べているので、世界の大型ジェット旅客機の遭難事故を何らかの形で解明しながら小説に仕上げる予定である。

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