第16話 アマゾネスと闘技場-2
塩漠。
砂漠地帯の中で一二を争う危険地帯のことである。この砂漠にある水は飲料にはまったく適さず、置かれた物を腐食させるのだ。一部の蝿のみが生存しており、ソレ以外には年に1度か2度訪れる渡り鳥以外の生命は存在しない。
―― 砂漠の歩き方 ――
戦いの熱狂に酔いしれて自分も強くなったと勘違いした観客たちが正気に戻ったのは、ペルセネアの半月刀に肉を斬り裂かれた瞬間である。
あっという間に十数人を斬り伏せると、ペルセネアは包囲される前に闘技場の内部に侵入した。追いかける警備兵に対して観客の群れは障害物にしかならず、この混乱に乗じて火事場泥棒を行う者まで現れ始める。
ペルセネアはそのまま逃亡するかと思いきや闘技場の内部で暴れ始め、何人もの警備兵を倒して、控えの剣闘士を次々と破った。そしてそのまま地下に向かうと、今度は魔獣を相手に戦い始めたのだ。
「ムラード様、申し訳ございません。まさか、このような事態になるとは……」
「良い。それよりもアマゾネス――ペルセネアの居場所はわかっておるのか?」
「は、はい。現在、闘技場内の『魔獣窟』に閉じ込めました。今は何体かの魔獣を相手に戦っております。警備兵を向かわせましたが、あいにくと闘技場の魔獣使いの腕では、警備兵と魔獣を連携させて戦わせることは難しく……」
闘技場の支配人ムラードは秘書の話を聞きながら、ゆっくりと席を立つ。
ムラードは30代半ばのガルドリア人だ。
ガルドリア人特有の灰色髪とオレンジ色の瞳を持っており、その顔立ちは醜悪の一言に尽きる。ガルドリア人の多くは魔術と商才に長けているのだが、彼自身も、その才覚に加えて、謀略と裏切りにより闘技場の前の主人を毒殺して支配人に成り上がった。
「〝蟲の皇子〟の奴、やっかいな女をよこしたものだ」
「黄金宮殿に使いの者を出して、領主イヴァに説得させるというのはいかがでしょうか?」
「それで他の勢力から侵入者1人に対処できぬと侮られた挙句、ダークエルフの小僧に頭を下げたと馬鹿にされるのか。それはゴメンだな」
「ですがムラード様! 元はといえば、あの娘が騒ぎを起こした元凶です。非難されるべきは、あの狂犬を送りつけてきた領主イヴァの方であって、我々はあくまでも被害者ですよ!」
愛人兼秘書の女性は声を荒げるが、ムラードは顔を曇らせて首を横に振る。
「いいや、違うぞ。騒ぎを起こした元凶は乱入してきた連中――多分盗賊ギルドだ。俺としたことが、まんまと連中の策謀にハマってしまった」
闘技場の支配者は苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
ムラードにとっては、領主イヴァも盗賊ギルドも厄介な相手である。邪険にするわけにはいかないが、積極的に媚びを売るつもりもない。多少のことには目を瞑るつもりであったが、まさかここまで事態が大きくなろうとは思わなかった。
(この闘技場は俺の城だ。俺の王国だ。それを不満に思っているやつは多い。このまま事態が悪化すれば、四方八方から攻撃を受けて破滅してしまう)
ムラードは苛立たしげに拳を握るが、この展開はイヴァや盗賊ギルドにとっても予想外である。
イヴァは純粋にペルセネアの息抜きを望んで送り出し、盗賊ギルドはそれに少しばかりちょっかいを出す程度の考えだった。それが僅かの間に、ペルセネアという炎が飛び回り、闘技場を焼き尽くそうとしている。
「だがまあ、今更どうこう言っても仕方がない。暴れている雌獅子をどうにかしなくてはならん」
「ま、『魔獣窟』には各地から集めた化物が何百匹とおります。それらでは不足だと?」
「勝てると思うが、こちらの被害も洒落にならん」
ムラードは魔獣使いには無理をさせずに、殺されそうになったら退けと命じると、さらにもう1つ、別の指示を出す。
「雌獅子の始末は、同じ雌獅子に任せよう」
ムラードは計算高い笑みを浮かべる。
勝てば良し、負けたとしても、それはそれで良いと考えての人選であった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
魔獣窟と呼ばれる場所は、闘技場の魔獣に餌をやる場所であり、訓練を行う場所である。地上にある闘技場とほとんど変わらないが、観客席は天井付近に少ししか存在していない。正確には観客席ではなく、魔獣使いが指示を出す場所であり、支配人が魔獣の調教成果を見に来る場所だ。
出入り口は閉じられており、現在は砂場でペルセネアが魔獣を相手に大立ち回りをしている。
戦っている魔獣は3匹。
双頭の蛇アンフィスバエナ。
人食い魔獣マンティコア。
影に潜む鰐の怪物アメミット。
他にも鷲の頭と翼、獅子の体を持つグリフォンや3つ首の猛犬ケルベロス、石化毒を吐く青銅の雄牛ゴルゴーン、黄金に輝く怪鳥ジャターユなどの怪物もいたのだが、これらはすでに全員重傷を負わされて戦線離脱している。
双頭の蛇アンフィスバエナは牛を丸呑みにできるほど巨大な口を開いて、相手を飲み込む隙を伺っている。マンティコアは狒々(ひひ) の頭を持つ四足獣で、蝙蝠の翼を広げて空中を舞いながら、標的に向かって尾から針を飛ばしていた。
最後にアメミットと呼ばれる獅子の鬣を持つ鰐の怪物は影に潜みながら、ペルセネアの背後から奇襲を行っていた。
どの攻撃も一撃受ければ、防具のないペルセネアは即死する可能性がある。
まず、アンフィスバエナの双頭が左右から襲いかかる。文字通り一心同体の完璧なコンビネーション攻撃は、その完璧さ故にあっさりと見破られて、2つ頭が同時にごろりと転がった。
続いてマンティコアは空中を舞いながら一方的な攻撃を加えることを楽しんでいたようだが、双頭の蛇を殺したのとほとんど同時に空中に投げ飛ばした半月刀の一撃を腹に受けて撃沈する。
無手になったペルセネアを見て好機とばかりに、アメミットが影から這い出て、ペルセネアを飲み込もうとしたが、武器などなくともペルセネアは充分に強い。
鉄拳で鼻っ柱を折られた挙句に、脳天に肘鉄を受けて昏倒した。
連戦に次ぐ連戦で、さすがに僅かばかり汗をかいている。
「少しやりすぎてしまったか?」
ペルセネアはそう呟いたが、流石というべきか、魔獣達はまだ生きている。頭を失ったアンフィスバエナは体だけ動かしながら、斬られた頭を無理やり接着し、腹を斬り裂かれたマンティコアも情けない声を出しながら癒しの魔法を唱える。アメミットは顔が変なふうに歪んではいたが、それでも何とか影の領域に退散をする。
「やりすぎだ。ペルセネア」
「里にいた頃と、まったく変わっていませんわね」
魔獣窟にペルセネア以外の声が響く。
その声には聞き覚えがあった。思わず、ペルセネアの頬が緩む。
「久しぶりだな。トルティにテタルナ……、集落を潰されて以来か?」
トルティと名を呼ばれた方が「そうだ」と答える。
その姿はペルセネアと同じ特徴を備えている。黒蜜色の肌と炎のような赤い髪、黄金色の瞳、彫刻のような肉体美、だが違う部分もあった。まず長身のペルセネアよりも更に背が高く、逆に胸は小さい。男性のように短く切っており、男物の服を着せれば中性的な魅力を持つ男性に見えただろう。
だが、ペルセネアと同じような衣装を着ている為、女性的な体つきが隠されていないので、性別が間違われることはない。
一方、テタルナと呼ばれた女性は肌の色と筋肉のつき方以外大きく違う。髪の色は燃えるような赤ではなく落ち着いた薄い水色で、目の色も吸い込まれそうな銀色だ。長身ではあるが3人の中では一番低く、その代わりに胸と尻は一番でかい。
口調だけではなく、仕草も女性的で、3人の中では一番女らしい。
「私達の主人が、お前を止めるように命令してきたのでな」
「一応聞くけど、おとなしくする気はない?」
トルティの両手にあるのは、ジャマダハルと呼ばれる格闘用刀剣だ。この武器の特徴は握りが刃と垂直の方向についていることである。この武器は握り込んだ際、切っ先が拳の方向を向くようになり、殴りつけると刃が突き刺さる。
一方、テタルナは魔神の意匠が施された巨大な斧を片手で持っていた。柄先の部分が丸い鉄球になっており、斧で切り裂くことも鉄球で殴りつけることもできるようであった。
相手の戦闘態勢は充分であり、一方ペルセネアは疲労に加えて、マンティコアに向かって投擲した為、半月刀が手元にない。
「おとなしくしたら、どうなる?」
その回答は観客席の方から聞こえてきた。
「闘技場で起きた騒動の対価を払ってもらう」
声の主はムラードである。
彼の隣りにいる秘書が音声拡大の魔法を唱えて、声を送り届けているのだ。
「こちらにも非があったのは事実だからな。お前さんを闘技場の出入り口に拘束して、今日と明日の間、飢えた観客の憂さ晴らしに使わせてもらうぞ。アマゾネスは丈夫らしいからな。それくらいの間なら、飢えた男どもになぶられても死にはせんだろう。それに一応は見張り役の警備兵もつけてやるし、制裁を終えたら解放してやるさ」
「抵抗したら?」
「その時は、四肢を斬り落として盗賊ギルドに送り届ける。その後はどうなろうと知らんが……、ロクな末路じゃないとだけ言っておく」
「相も変わらず、一方的なルールを押し付けるな」
ペルセネアがため息をつく。
「顔見知りのようだが、手加減してもらえると思うなよ? 対魔能力の高いアマゾネス用の奴隷刻印は定着している。小奴らは儂の命令には絶対に逆らえん」
その言葉を証明するかのように、一瞬だが2人のアマゾネスの肌に刻印が浮かび上がる。複雑な入れ墨のようでもあり、魔法陣のようでもある刻印は、奴隷を永遠に縛り付ける究極の呪法であった。
「そのような呪法を使わなくとも、アマゾネスは主人と認めた相手を裏切ったりはしない」
「戯言を、人は裏切るものだ。人でなくとも、エルフ、ドワーフ、ゴブリン、オークなど、妖精も妖魔も信用ならん。いや、神々でさえも、たやすく裏切るではないか。この世界に信用できる生き物などいない。それゆえに、束縛が必要なのだ」
ムラードは唯一の真理を語るかのように言った。
「なるほど、契約の奴隷といったところだな。だが、お前は自分自身を裏切っているのではないか? 少なくとも、闘技場の法を破っただろう。他人を束縛する前に、自分を律するのが先ではないか?」
「あ、アマゾネス風情が! ええい、手足を切り落とせ。2度と生意気な口をきけなくしてやる!」
闘技場の支配者が顔色をどす黒く豹変させて命令すると、トルティとテタルナが仕掛けてきた。
戦闘民族であるアマゾネスというだけあって、その動きはペルセネアに劣るものではない。トルティのジャマダハルがペルセネアの右腕を僅かに切り裂き、テタルナの斧が左足に毛筋ほどの傷をつける。これまでの戦闘で、初めて傷らしい傷を受けたが、イヴァの奴隷戦士は気にせずにカウンターを放つ。
トルティの腹筋腹に強烈な右拳が叩き込まれて、一瞬だけ白目を剥く。だが即座に意識を回復させると距離を取る。
「ふむ、さすがに一撃とはいかないか」
ペルセネアは余裕そうに呟いた。
これは彼女が豪胆であるというだけでなく、きちんと理由がある。
それはムラードがトルティとテタルナに与えた命令だ。
――四肢を斬り落とす。
恐ろしい言葉であるが、それが2人のアマゾネスの攻撃範囲を絞らせている。
本来であれば、今の一撃はペルセネアの右腕を落とし、左足を落とす予定であったのだろう。残念ながら攻撃箇所がわかっていれば回避するのは可能である。
だが相手もアマゾネスである。完全に回避することはできずに手傷を負ってしまったが、それでも差し引きは悪くない。
トルティには後3発ほど食らわせれば気絶させることができるだろう。そして、トルティがいなくなれば、テタルナの方もすぐに落とせる。
(問題は命令者がそれに気が付き、命令を変更する場合だな)
例えば、ムラードが2人に刺し違えても良いから殺せと命じた場合、ペルセネアの生存率は大きく下がる。1対1であれば負ける気はしないが、捨て身でかかってきた場合はどちらかを犠牲にして足止めを行い、その隙に致命傷を与えることは不可能ではない。
だが幸い、その可能性は低そうである。
(この世に生きる者は、すべて何かの奴隷だが、自らの主人くらいは自分で選びたいものだな)
奴隷の意を酌んでくれるという意味で、ダークエルフの少年は理想的な主人であった。あの時の出会いに感謝しながら、哀れな奴隷戦士の顔面に拳を叩き込む。
(武器を取りに行かんか)
(素手で私達を倒すつもりみたいね。まあ、正解なんだけど、相変わらず化け物じみた勘の良さ)
半月刀が落ちている場所の付近には、ムラードとペルセネアが会話をしている間に、魔獣使いが密かに伏兵を配置していた。アマゾネスと連携させることはできなくとも、一瞬の不意をついて動きを止めることでもできれば、その僅かな隙を見逃さずにトルティとテタルナは手足を狩り取れる。
(クソ、ダメージが蓄積している。後1発か、2発食らうとヤバイな)
(それじゃあ、作戦を変更します?)
(残念ながら奴隷刻印が許してくれそうにないな)
対魔能力高いアマゾネスを縛る呪法は強力であるが、その分、さらに彼女たちに枷をつけていた。
「勝負あったようだな」
ペルセネアの落ち着いた声に、2人のアマゾネスは残念そうな笑みを浮かべるが、戦意を放棄することなく襲いかかった。
ペルセネアは3度目の攻撃もギリギリで回避して、トルティの胸に、動きが鈍った所を下腹に、強烈な一撃を与える。
もちろん、ペルセネアも無傷ではない。ジャマダハルの刃と大斧の刃の攻撃を少なからず受けており、無数の傷跡ができている。だがそこに、さらなる追撃が襲いかかった。それは分解変形したジャマダハルの刃と同じく連接棍のように柄の部分が取り外された大斧の鉄球が、ペルセネアの腕と足を捕らえていたからだ。
「が、ぐぅっ!!」
初めて、ペルセネアが苦悶の声をあげる。
一矢報いながらも、トルティは口からよだれを垂らして、白目を剥いて気絶する。一方、テタルナはモーニングスターのように形を変えた武器を手に、形勢逆転したことを告げる。
「右腕と左足を潰しました。一方、私は無傷です。これだけで貴女に勝算はないでしょうが、もしも仮に私を倒しても、そうなる前に残った左腕か右足を潰すことくらいはできます。そうなれば闘技場の魔獣と警備兵だけでも何とかなるでしょう。わかりますか? 詰みというやつですよ」
「その見解に、異論の余地はない。油断していたつもりはなかったが、まさか武器が変形するとはな。魔法などのカラクリならば抵抗できたかもしれんが……」
まだまだ修行不足だと、自嘲する。
「よくやった! テタルナ、さっさと止めを刺せ!」
「ペルセネア、貴女のことは忘れないわ」
主人の命令を受けて、テタルナは鎖付きの鉄球で、残りの部分を潰そうとする。そして、動けなくなった所で手足を斬り落とすのだ。主人がその命令を撤回しない限り、奴隷刻印の刻まれた彼女たちは無慈悲な処刑人となる以外はない。
鉄球が唸り声を上げるようにして襲いかかり、それをペルセネアは蚊でも取るように掴んだ。
「え?」
何が起きたかを理解する間もなく、テタルナは引っ張られる。
凄まじい勢いでペルセネアの元に引き寄せられて――頭と頭がぶつかる。
凄まじい音がした。
鋼と鋼、いや隕石と隕石をぶつけ合うような爆音が魔獣窟に響き渡り、獰猛な魔獣ですら思わず身をすくめる。
ペルセネアがニッと笑う。
一方、テタルナは信じられないと目を開きながら(この石頭!)と毒を吐きながら、意識を失った。だが、彼女の予見した通り、鉄球を掴んだペルセネアの左手を潰した。
(しまったなぁ。さすがにこれじゃあ、残りの相手を倒すのは無理だ)
足一本動き、口が使えれば、多分兵士の何人かを始末できるだろうが、何十人もの物量で押すか、魔獣でぶつけられてはひとたまりもない。
しかし、最大の好機でもあるにもかかわらず、攻撃してくる者はいなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「く、クソぉ! 高い金を払ったというのに、役立たずが! 腹の虫が収まらん。盗賊ギルドに送るのはやめだ。3人まとめて、なぶってくれる。邪神ハルヴァーよ、どうかご照覧あれ!」
ムラードは観客席からそう叫ぶと、警備兵にとどめを刺すように指示を送ろうとした。だが、金縛りにあったかのように体が動かない。
(な、なんだ? 何が起きた!)
闘技場の支配者は異変の正体を突き止めようとしたが、何もできない。
何もできない彼の代わりに、何者かがポンと肩を叩いた。
「やあやあ、闘技場の王ムラード殿。どうも、うちの奴隷が迷惑かけたみたいで、すまないね」
(〝蟲の皇子〟!)
「いや、実はオークの1人が黄金宮殿に訪ねてきてね。どうにも妙なことになっているみたいだから、調停に来たんだ。まあ、書類仕事の息抜きを兼ねてね」
穏やかな口調で、ムラードの返事など気にせずに、イヴァは世間話でもするかのように話す。この異常な金縛りの原因は、ダークエルフの少年が起こしたことであることは明白であるにもかかわらず、何一つできない。
(護衛は何をやっている! 警備兵はどうした? 魔獣使いでも、剣闘士でも、誰でもいい、俺を助けろ!)
「ペルセネアが苦戦するなんて、いい剣闘士だね。君の縛りがなければ、もっといい勝負ができていたんじゃないかな?」
(クソ、こいつは一体何を!)
ムラードはオレンジ色の瞳をギョロギョロと動かして、どうにか〝蟲の皇子〟の姿を視界に捉えようとする。
「ねぇ、ムラード。ボクは君のことを好きでもないし、君もボクのことは好きじゃないのは知っている。だけど、ボクは君の闘技場の支配人としての能力には、一定の評価を与えているんだ。柔軟さと危機対応能力はたいしたことないみたいだけど、少なくとも平時の運営は過不足なくできる。だから、こんなくだらないことで、君を失いたくないんだ」
背後で、ゾワリと大量の何かが動き、ソレを目にしてしまった!
その瞬間、まるで心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖が全身を駆け巡り、体中から冷や汗が吹き出て、得体の知れない寒さにガクガクと震えはじめる。
先程までの激情が一気に冷めた。
(や、やばい。このガキ……いや、この御方はヤバイ!)
今までムラードはイヴァのことを侮っていた。
形ばかりの領主、少しばかり金儲けがうまい子供、自分がその気になればいつでも叩き潰せる虫のように考えていた。
(とんでもない勘違いだ! 虫は、俺の……我々の方だった! この人がその気になれば、いつでも踏み潰される虫だった!)
歩く時に虫を踏み潰しても気にしないとはよく使われる表現であるが、その逆の表現はあまり使われない。つまり、自分を踏み潰す巨人に虫は気づかない。もしも、その巨人の存在を認識してしまえば、恐怖で動くことなどできなくなるからだ。
「ムラード、やっぱり君は賢いね」
「はひぃ」
声をだすことはできたが、10歳は老け込んだような気がした。
「年を取ったオジサンのアヘ顔には需要はなさそうだけど……まあいいや、とりあえず、ペルセネアは回収するとして、せっかくだし、あの2人のアマゾネスも貰っておくね。一度定着しちゃった奴隷刻印を外部から取り除くのは不可能に近いけど、ご主人様側からなら難しくないよね?」
「じょ、譲渡します」
「そうだね。譲渡後に消しておくよ。たぶん、そのほうが確実だ」
大金を支払って手に入れたアマゾネスの奴隷剣闘士であるが、もはやまったく惜しくはなかった。それでイヴァの興味が自分から別の方向に向くのならば、喜んで差し出す。
「それじゃあ後は……、うん、後で何人か剣闘士をいただきに参上するよ。それと、アマゾネスの入手ルートを教えてくれるかな?それ以外は、今回みたいな件が起こらないように努力すること。後、警備の強化もね」
「わかりました」
ムラードは従順に頷く。
イヴァは自分に対する悪意と一緒に、覇気や才気の類まで吹き飛ばしてしまったのではないかと心配したが、ムラードには余計なお世話であったかもしれない。
少なくとも今の彼は真上に巨人の足があることを知った虫であり、一刻も早く、足の影から逃げようとしているところだったのだから。巨人に心配されるなど、迷惑以外の何物でもなかったことだろう。
アンドロスコルピオは上半身人間で下半身蠍の妖魔である。
下半身の蠍は基本的に赤が多いが、黒やオレンジ、黄色、白など、金属色以外なら殆どの色が存在しており、尾の毒も、即効性の猛毒から遅効性の麻痺毒、睡眠毒など、様々な毒物が存在する。また、蠍の脚は砂漠において人間よりも素早く移動できるので、他の種族よりも有利に戦うことができる。
そんな彼らは元々砂漠の墳墓――ピラミッドの守護者として、長い年月を砂漠の僻地で暮らしていた。だが、数百年ほど昔にある冒険者の一団がピラミッドの謎を解き、彼らを古き盟約から解放されたことをきっかけに、各地に移住を始めた。
砂漠の大部分を支配する帝国は異種族に対して寛容な融和政策を行ったので、今や彼らは砂漠の住民として、その地位を確立している。
種族的な特徴の為、砂漠地帯から離れることは滅多にないが、逆に言えば砂漠ならば何処でも出会う可能性はある。人間と同じく善人もいれば悪人はいるのだが、下半身が蠍という凶悪な外見から人間種には忌避されることは多い。しかし、人間種やエルフ種、ドワーフ種など異種族婚の報告は近年増えており、離婚や虐待などの報告も殆どない。
―― 砂漠の民 第2巻 ――




