6th inning : She is the Lethal Weapon of our team.
【さァ、テレビの前の野郎ども! シャンパンの準備はいいかァ?】
連敗脱出を前にして、アナウンサーのボルテージも上がりっぱなしだ。
一単語を発するたびに唾の飛ぶ音がマイクにかかって実に汚い。
【九回表9対8、我らがアルゲニーズのリードはわずか一点! ロジャースのファッキン強力打線を抑える色男は一体誰だ! くぅ~、焦らすな焦らすな、早く出てこ……い?】
ざわ、とスタンドが不穏な空気に包まれた。
観客たちの目線がグラウンドの中央へ注がれる。
芝生を踏みながら、マウンドに向かってトコトコ歩いてゆく小さな人影。
白地に袖だけが黒いメッシュの上着。黒帽子の中央に輝く「A」の刺繍。
まぎれもないアルゲニーズのユニフォームだ。
「おい、なんだあれ……?」「ええ……?」
ホームの観客の中から不審がる声がぽつぽつと上がってくる。
中には、五フィートそこそこのその小さな人物を、「迷子になってグラウンドに迷い込んだファンの子」と考えて笑う客たちもいたが、左脇に抱えられたピッチャーグラブを見るにいたっては、眉をひそめるほかはなかった。
そして、電光掲示板の投手の欄に、二万観衆の誰もが予想だにしなかった名前が躍り出た。
【タ、タマーキィ、ハイ・ミィ・カワ? なんだこりゃ、なんて読むんだ? え、なに、ヒメカワ? ってそりゃ今日登録された女投手じゃねーか! いくらなんでもこんな大事な場面にっておま……ベンチの頭は大丈夫かァ!】
「大丈夫なわけないだろう!」
アルゲニーズベンチに、ガードナー投手コーチの怒声がこだました。
ベンチの奥では投手交代を告げ終えた監督が、大いびきをかいて寝そべっている。
ウインドブレーカーの胸ポケットからのぞくのは、バーボンの小瓶だ。
パンチパーマにサングラスというジャパニーズ・ヤクザのような風体のこの男は、トーマス・ピネイロ、ネバダ出身の六十歳。
現役時代はアルゲニーズひとすじ二十三年、通算三千本安打も記録した、いわゆるフランチャイズ・プレーヤーだ。
だが現役晩年は故障続きで成績はガタ落ち。
引退した後、チームとは長らく断絶状態にあったが、近年の低迷に悩む球団首脳がせめて客足だけでも、という消極的な理由で呼び戻した。
戻ってきた英雄は、しかし、ただのアル中であった。
毎晩五杯のブランデーはもちろん、試合前後にビールをあおり、果ては試合中にまで飲む、飲む、飲む。そして寝る。
当然その様子はテレビに映され問題になったが、しょせん地方都市の万年最下位チーム。
大きく世論を動かすにはいたらず、彼本人の熱狂的オールドファンの擁護もあり、「まぁ、暴れたり、からんだりするわけじゃないし……」とあきらめ半分に黙認されている状態だ。
もちろんこんなザマでは、自発的に選手交代を告げに行くことなどかなわない。
有事の際にはコーチの誰かがエルボードロップで叩き起こし、手の平大のバカでかい文字で選手名を記したメモを手渡した上で送り出すのだ――が。
「誰だ、メモをすり替えたヤツはぁ!」
ガードナーが振り上げた紙片には、彼が書き記した投手の名でなく、『HIMEKAWA』とあった。
しかも筆跡からバレないよう新聞紙の文字を切り貼りするという、誘拐犯さながらの念の入れようだ。
こんなことができるのはチーム内の人間しかいない。
真っ先に怪しまれたのはもちろん珠姫本人だが、彼女は試合開始からずっとロッカーにこもりっきりであるのを、ドビー含めチームの何人かが証言している。
そうこうしている間に、珠姫はどんどんマウンドに近づいてゆく。
コーチは慌てた。
「あっ、待てタマキ! ええい、犯人探しは後だ! アンパイアに取り消しを要求してくる!」
ベンチを飛び出そうとするガードナー。
と、その肩を引き止める手があった。
「まぁ、待ちなよ」
言うまでもなく、ドビーだ。
「こんな悪フザケをかましたヤツは許せん。確かに許せん。だがよ、このままルーキーを行かせてやっても面白いんじゃねぇか?」
普段は温厚だが熱くなると止まらないガードナーは、たちまち顔を真っ赤にした。
「面白いだぁ? 面白いのはお前の頭だよ! このバカ! タコ! ハゲ!」
「ハ……」
俺はバカかもしれんがハゲでもタコでもねぇ、とキレかけたドビーだが、ここで我を失っては全てが台無し。
一つ咳をして、なるたけ落ち着いた声を作る。
「なぁガードナー、いまや男女同権の時代だぜ。おおかた敗戦処理からなんて考えてたんだろうが、若いヤツってのはこういう厳しい状況でこそでっかく育つもんだ」
「バカ言うな、相手はロジャース打線だぞ! どんなトッププロスペクトでも蜂の巣にされて自信を失うに決まってる! ましてやお前、試合前にこいつのブルペンでの球を見てたろ!」
確かに見た。
リトルリーグでも見られそうなスローボールばかりだった。
球速はおそらく七十マイル(百十二キロ)も出ていないだろう。
おまけに変化球は一切投げられないという。
驚くより先に昇格を決めた連中の頭を疑ったドビーだったが、ガードナーにしても思いは同じだったらしい。
おそらく大量点差がついた場面で適当に投げさせ、失格の烙印を押してマイナーに送り返す腹づもりだったのだろう。
もちろん、ドビーはそんな思惑なんぞ知ったことではなく、
「投球術で勝負するタイプなんだろ」
などと平然とうそぶいてみせる。
さすがにガードナーの顔もけげんに歪み、
「……お前、やけに肩を持つな。まさか……」
「おいおい、冗談よしてくれ。そんなコトして俺に何の得があるんだ? この試合落としたら槍玉にあげられんのはルーキーじゃねぇ、5三振の俺のほうなんだぜ」
肩をすくめてそう言うと、ガードナーはむぅ、と口をつぐみ、
「と、とにかく! このまま投げさせるわけにはいかん! ちょっと待ってろ、ブルペンに電話してくる!」
ガードナーはカベにかけられたベンチへの直通電話機を取り、
「おい、バラック! 出番だ! ルーキーにプロの投球ってもんを教えてやれ!」
イエッサー、と返ってくると思いきや、受話器がよこしたのは気の抜けた返事だった。
『えーっ、もう肩が冷えちゃいましたよぉ~』
「な、なに? お前、次の回行くぞって言っといたろ!」
『でも、アナウンスされたの違うヤツだし~。ま、いいんじゃないですか~。この試合はルーキーに任せて~』
開いた口がふさがらん、とはこのことだった。
「ふざけるな! これは命令だぞ!」
『え~。そんなコーチみたいなこと言わないでくださいよ~』
「コーチなんだよスカポンタン! ええいお前じゃ話にならん! 他のヤツを出せ!」
『いや、みんなも同じ意見ですよ~。ルーキー、がんばれ~って』
出番を奪われてスネているのか、と考えたガードナーだったが、すぐさま考えなおした。
こいつらはそんな殊勝な性格じゃない。
投げたくないのだ。
こちらがリードしているとはいえ、ロジャースも八点取っているわけで、打線の怖さに変わりはない。
ここでヘタを打って大逆転劇に水を差すことになれば査定に響くし、スタンドのファンも黙ってはいない。
ハプニングにかこつけて、これ幸いとルーキーに爆弾を押しつけようという魂胆なのだ。
言い合いの後、ガードナーは決してテレビに流せない罵倒とともに、受話器を叩きつけた。
「なんてヤツらだ! プロならここで目立ってやろうという気にならんのか! ええっ?」
と叫んでも反応はない。
怒りに燃える背中の裏で、野手たちは鼻クソなんぞほじりながら、
「まぁ、気持ちは分かるよなぁ。誰も貧乏クジは引きたくないし」
「俺なんか、チャンスで打席が回ってきたらむしろ逃げ出しちゃう」
「自分で言うのもなんだけどさ、これがアレかな、負け犬根性っつーヤツ?」
あーっはっはっはっは。
「おかしくなぁい!」
しん、と静まる一同。
それをひとしきりにらみつけた後、ガードナーはグググ、とタメをつくり、とうとうキレた。
「もういい、好きにしろ! もう辞めてやる! なんだこのチームは! 選手はフヌケだし監督はアル中だしキャッチャーはタコだしピッチャーは女だし、やってられるか!」
怒鳴り散らして奥の通路へ引っ込んでゆく。
ベンチの前に、つむじ風が吹いた。
「コーチ、辞めるってよ。どうする?」
「大丈夫だろ。キャンプで監督がベンチにゲロ吐いたときにも、同じこと言ってたし」
「だな。来年、息子さんたちが大学と高校に行くらしいし、そう簡単に辞めないだろ」
どこまでもマイペースな選手たちだった。
いきあたりばったりで野球をやっているから、打ったときは喜ぶが、守りに入るとあきらめが先に立つのである。
そこへ主審がウンザリ顔で近づいてきた。
いつまでもベンチでもめていることに、業を煮やしたらしい。
「で、結局どうするの? 誰が投げるか早く決めてよ、ん?」
主審の隣には、呼びつけられたらしい珠姫が所在なさげに突っ立っていた。
彼女にしてみればマウンドに行けばいいのか戻ればいいのか、さっぱり分からないことだろう。
選手たちは互いに顔を見合わせ、まったく自然な流れでチームの中心選手であるドビーに目を向けた。
果たしてドビーは、「ノープロブレム」と極上の笑顔を主審に向けると、珠姫を肩をわしづかみにし、自分の元に引き寄せた。
「紹介するぜ、ミスターアンパイア。コイツが我がチームのリーサル・ウェポンだ」