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23th inning : 「それが、メジャーリーグ」

 乳白色の病室の中、心電計が弱々しい折れ線を流し続ける。

 病室を埋め尽くすのは、テーブルに、窓に、埋もれるほど飾りつけられた見舞いの花々。


 しかし、ベッドに横たわる少女は、その花の色を見ることも、匂いを嗅ぐこともできない。


「また、細くなっちまったな……」


 ベッドのかたわらで、ドビーは寂しそうにつぶやいた。

 毛布がかけられているから見えるのは顔だけだが、それだけでも十分すぎるくらい、やせ細っているのが分かる。


「……そうっスね……」 


 と、その横でカーターが、今にも泣き出しそうな顔をする。


 何も言われなければ、十人が十人とも死体だと答えるだろう。

 珠姫の体は、見る影もなくやつれ果ててしまった。


 あの最終戦から、たった二週間しか経っていないのに。


「タマキ、怒るっスかね。負けたっていったら」


 あの戦いの三日後から始まった、ポストシーズン。

 一回戦となる地区シリーズで、アルゲニーズは一勝もできないまま敗退した。


 カーニバルスとのデッドヒートで力を使い果たし、その上、珠姫ばかりか、手の負傷でドビーまでも欠場。

 もはやチームに戦う力は残っていなかった。


「いくらでも怒ってくれればいいさ。目を覚ましてくれるんなら」


 と、ガードナー投手コーチが、悲しげに顔をくもらせる。


 珠姫のノドには、親指の太さほどもあるチューブが通されていた。

 人工呼吸器がなければ、息をすることすらままならないのだ。

 首にバンドを巻かれ、長いチューブで呼吸器と接続されたその痛ましい姿は、見る者の胸を締めつけた。


 医者によれば、この状態で意識のあったこと自体、説明がつかないのだという。

 この小さな小さな少女は、こんな体で、一体どうやってあの剛球を投げていたのだろう。


「うおおおっ――! すまぬ、すまぬ珠姫殿――ッ! この西郷があんな体当たりをしてしまったばかりにィィィ!」


 アマゾンのスコールのごとく涙をジャジャ降りさせる大男は、言うまでもなくカーニバルスのサイゴウだ。


「……や、なんでいるんスかサイゴウさん。あなた別のチームっしょ」

「決まっておろうが! このようなことになったのは、すべてこの西郷の責任! 試合中のこととはいえ、日本男子として知らぬふりを通すわけにはいかん! うおおおお!」

「……いやまぁ、それは分かったから、空気読んで欲しいっス。あなたがいるとシリアスな雰囲気が跡形もなくな「ヌオオオオッ! もはやこの西郷、腹切ってわびる他なし! 介錯を! どなたか介錯をお頼み申す――――ッ!」


 容赦なくバカ声をかぶせてくるサイゴウ。

 泣いていても人の話を聞かないのは変わらない。


「お前のせいじゃねぇよ、サイゴウ。俺のせいだ」


 ドビーが遠くを見る目で言った。


「あのとき、タマキがまともにプレイできる状態じゃなかったのは、分かりきってたんだ。それなのに、ボールを投げちまった。俺の、せいだ」

「それも違うさ、ドビー」


 ガードナーが、すっかりしぼんだドビーの肩に手をかけた。


「あそこで投げるな、なんてのは選手にとっちゃ息をするなと言うようなもんだ。それに、もし投げなかったなら、タマキは一生お前を許さなかっただろう。お前は正しいことをしたよ」


 ドビーは唇を噛みながら、こくりとうなずいた。


「それはそうと、サイゴウ。キミのところのシスターの話だが」

「うおおおっ、辞世の句! 古池やァ! 蛙飛び込む水の音ォォ!」

「聞け。あのシスター、行方はまだ分からんのか」

「ううぅっ……そ、それがこの西郷も分からぬのです。試合のすぐ後から姿が見えず、連絡もつかずで……」

「そうか。そっちはそっちで心配だな。変に気に病んで、妙なことを考えなければいいが……まぁ、あのシスターはそんなタマじゃないか」


 そこで病室の扉が開き、ナースが入ってきた。

 メガネをかけた、ほんわか顔の若い女だ。


「あのぉ~、みなさん~。面会時間過ぎてますよぉ~」

「えー、まだいいじゃないっスか。固いこと言わないで欲しいっス」

「だめですぅ~、規則は規則ですぅ~。ほら、早く出て行ってください~」


 のんびりしつつも強引なナースは、男四人の背中をぐいぐいと押しにかかる。


「ちょ、ちょっと、分かった分かったっスから!」

「しょうがない、今日はここまでにしよう。タマキ、また来るからな」


 ぞろぞろと病室を出てゆく男たち。


 それを見送った後、ナースは扉を閉め、カギをかけた。

 メガネを外し、ふん、と鼻を鳴らす。


『……失礼ね。ま、確かに気に病んではいないけれど』


 珠姫の眠るベッドのそばに立つ。

 見下ろす少女は笑えるくらい無抵抗だ。

 呼吸器の電源を切れば、赤ん坊でも殺せるだろう。


 ふところから、一本の短い棒を取り出す。

 漆塗りの黒い表面には呪術的な模様があった。


 その先端を珠姫の額に当て、深く呼吸する。

 やがて、棒の全体が青白い、ほのかな光を帯びはじめた――


 ■□■


 聞こえるかしら、九尾。私よ。

 自分の姿が見えている? とってもいい格好よ、貴女。

 醜く痩せさらばえて、まるでガイコツ。

 そのまま理科室に飾りつけたいわ。ふふっ。


 ……返事がないと張り合いがないわね。

 ひょっとして聞こえてすらいないのかしら。


 まぁ、いいわ。

 声だけは届いているものとして、話をさせてもらうから。


 賭けは貴女の勝ちよ。


 ホームランを打つ――それだけが私の勝利条件だったものね。

 ヒットも含めておけば、と思わないでもないけれど、それではきっとつまらないわね。

 現にいま、勝った気はしていないし。

 約束どおり、負けた対価として魂は払うわ。


 ついでに、貴女が泣いて喜ぶおまけをつけてあげる。

 貴女のその病気、治してあげるわ。


 ウソだろう、って顔をしているかしら?

 でも、本来陰と陽の気を操るのが陰陽師。

 むしろ治療は本領よ。

 貴女のその面倒くさい病気だって、どうにでもなるわ。


 私の魂と引き換えに――ではあるけれど。


 まぁ、無様な格好を見せてくれたお礼、とでも思って頂戴。

 その姿は、私の心の理科室にしまっておくわ。

 カギをかけて独り占め……ふふっ。


 ねぇ、九尾。

 間違っても、『改心したのか』なんて思わないでね。

 私は自分が間違っていたなんて、カケラも思っていないのだから。


 ただ、貴女と戦って、気づいたことはあるわ。


 私は、きっと、貴女がうらやましかった。


 何万人もの人間の、拍手と笑顔とブーイングに包まれて。

 その全員に認められていて。

 輝いて見えた。


 私は――認められなかったわ。昔から。


 どれだけ妖を討っても、どんな術を使っても、女というだけで、誰も最後まで私を陰陽師とは見なさなかった。

 「女風情が」「女のぶんざいで」――いったい何度聞いたかしらね。


 その点、ヨーロッパやアメリカは少しはマシだったわ。

 女を見る目がたいして変わるわけではないけれど、少なくとも、化け物を倒しさえすれば認めてもらえた。

 それも多く殺せば殺すほど、残虐に殺せば殺すほど賞賛されるのだから、素敵よね。


 だからかしらね。

 だんだんと、化け物を殺すことのほうが、快感になっていったのは。


 繰り返すうち、手段が目的になっていった。

 自分が本当にどうしたかったのか、忘れてしまった。


 貴女と戦って、ようやくそれを思い出したわ。


 はぁ。

 なんだか結局、改心したみたいな話になったわね。

 しゃくだから、もうこの話はやめにしましょう。

 ひとまず満足したし、長生きにも飽きたし、そろそろお開きね。


 あぁ、そう。

 言い忘れていたわ。


 身体は治してあげるけれど、弱った妖力までは面倒見られないから。

 そのままだと身体との結びつきが弱まって、魂が剥離するわよ。


 はぐれて消えたくないなら、眠っている宿主の魂と折り合いをつけなさい。

 道だけは作ってあげる。

 せいぜい嫌われてなければいいけれど。

 ふふっ。


 ではね、九尾。

 生まれ変わったら、また会いましょう。


 今度もきっと、敵同士で――

 

 ■□■

 

 ……ちゃん。きゅーび、ちゃん。寝てるの?


「……ぅ……?」


 あ、起きてた。えへへ、おはよう。


「珠姫……? ぬしは……」


 きゅーびちゃん、そこにすわってください。


「なに?」


 うちのお金、盗んだでしょう。


「え、」


 アメリカに行くためにこっそり金庫開けて。お父さん、困ってたよ。


「……見えておったのか」


 バッチリ、この目で、見てました。

 きゅーびちゃんが、わたしの身体を勝手に動かしてる間のことは、ぜーんぶ。

 あと、わたしのパスポート勝手に持ってくし、制服も持っていくし、ぬいぐるみ捨てるし、髪の毛切らないし、他にも、わたしの……


「わ、わかった。妾が悪かった、このとおりじゃ、許してたも」


 ……ふふっ。

 ありがとうね、きゅーびちゃん。


「珠姫?」


 ぜんぶ、わたしのためなんだよね。

 わたしの夢のため、野球をしてくれて。

 こんなになるまで、がんばってくれて。


 ぜんぶぜんぶ、見てたよ。

 本当に……本当にありがとう。


「珠姫……。……じゃが……すまぬ。妾は、ぬしとの約束を守れなんだ。チームは結局負けてしもうた。世界一になるという、ぬしの願いを、妾は……」


 きゅーびちゃん。

 あのね。昔、定吉おじいちゃんが言ってたの。


 高校野球は、負けたらおしまい。

 でも、メジャーリーグは、負けてもまた立ち上がれるんだって。


 今日負けても、明日勝てばいい。

 今年負けても、来年勝てばいい。


 何度負けても、あきらめない限りまた挑戦しつづけられる。


 それが、メジャーリーグだって。


「珠姫……」


 だからね、約束は保留中。


 ね、きゅーびちゃん、どうする?

 まだ寝る?

 それとも立つ?


「……珠姫よ。妾は、やはり悪い妖怪じゃ」


 ほえ?


「最初はたしかに、ぬしの夢のためじゃった。そのために海を渡り、野球をはじめた」


 うん。


「じゃが、だんだんとそれだけではなくなった。アルゲニーズの皆と戦うことが、楽しくなっていった。最後は、ぬしのためではなく、自分のために戦っておった」


 そっかぁ……。


 えへへ。きゅーびちゃんも、野球を好きになってくれたんだ。


 それじゃあ、これからは『わたしの夢』じゃなくて、『わたしたちの夢』だね。


「そうじゃな……」


 ほら、きゅーびちゃん。


「うむ」


 立とうよ――。

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