22th inning : Beautiful.
【か、替えない! アルゲニーズはヒメカワを替えません! 最後の最後までこの守護神に任せるつもりです! この死闘、もはや神でさえ止めることはできません!】
すでに打席に入っていたラングマリが、呆れ半分の笑いとともに、声をかける。
『どうしてそこまでするの、九尾? もう妖力は残っていないんでしょう?』
珠姫は息を切らしながら、それでも笑い返した。
『ぬしのほうこそ……なぜそこまでするのじゃ。そんなざまで、打てるとでも思うのか?』
負傷した彼女の右手には、分厚い包帯で固められていた。
中には何枚ものガーゼが重ねられているにもかかわらず、包帯の外側にまで赤い染みがにじみ出てきている。
よほどの激痛なのだろう、白い美貌は脂汗にまみれ――それでも笑みは崩れてはいなかった。
神槍の聖女は、九百年の宿敵に向かって言った。
『貴女が下りないなら、私も下りるわけにはいかないでしょう』
魔球の姫君は、九百年の宿敵に向かって言った。
『妾も、じゃ……』
二人は同時に笑いあった。
これから命のやりとりをする者たちの笑みだった。
『行くぞ、このボロ雑巾』
『来なさい、この死にぞこない』
珠姫の腕がゆっくりと――この時間が過ぎ去るのを惜しむように、ゆっくりと天を向く。
深い息吹が白球に光を灯す。
白球からグラブへ。
グラブからマウンドへ。
マウンドからダイヤモンドへ。
見る間に広がる発光のドームは、やがてグラウンドを、そして球場すべてを包み込む柔らかなオーロラとなった。
【……ビューティフル……】
見るものすべての心を奪う光の、その中心――魔球の姫は白星を己の胸元に抱いた。
ヒザを高く高く持ち上げ、片脚一本で大地に立つ。
スタジアムを包む光がゆっくりと一点に収束してゆく。
水面を滑る動きで足を踏み出し、繭のように丸まった体を開く。
肩の後ろに引いたボールが超新星そのものの光を放つ。
弧を描く右腕、それに導かれた指先と白球。
心と魂、そのすべてを一点に込め、
「破ァ!」
放った。
その瞬間。白球の残した軌道に、誰もが目を疑った。
――ド真ん中へ、山なりのボール。
【な、なんと! ヒメカワ、ここに来てタイミングを外しに来たァ!】
違う。
これが本当に、今の珠姫に絞りつくせるすべてなのだ。
その証拠に、投球を終えた彼女は、そのまま前のめりに倒れ込んでしまっている。
【し、しかしボールは!】
主の執念が乗り移ったように、弧を描きながら確実にストライクゾーンへと向かってゆく。
振らなければ三振、ゲームセットだ。
「こらえろ、ラングマリィ!」「カットだ! しのげぇっ!」
一塁ベンチからの絶叫を背に受けて、ラングマリがバットを引く。
槍の構えでもバントの構えでもない。
普通の打者がバッティング練習をするときのように、左手一本だけで打ちに行く気だ。
「こらえろ、ですって?」
壮絶な痛みに汗をたらしながら、それでも凄艶なる笑みで、
「必要ないわ!」
振った。
ボールはほんの一瞬バットにへばりつき、しかし次の瞬間、
「はあァ!」
ラングマリの気迫に押し負けたように、宙へ飛んだ。
【う、打ったァ! ボールはセカンド後方へ――!】
力ない打球が夜空に弧を描く。
重力に逆らうだけの神力は、もちろんもう宿っていない。
ただの小フライだ。
しかし。
【うわあああっと、これが微妙なところに飛んでゆく! 二塁手が背走しながら追う、追う、追うゥ――! たのむ、捕らないでくれぇ!】
五万人の決死の祈りの中、カーターがボールめがけて背走する。
その形相はまさに鬼だ。
怒涛の一直線と、地に落ちる放物線が交錯する。
内野土と外野芝のちょうど境目に降り立とうとするボールに、
【ダ、ダイビングキャッチィ!】
脚も折れよの勢いで突っ込んだその先、ボールはほんの一インチ、グラブをかすめ、
【お、落ちたァ!】
ドッと天地がひっくり返るような歓声が沸く。
転々とライト前へ転がってゆくボール。
そして、次の瞬間、本当に天地がひっくり返る。
【あっ、あああっ? サイゴウが! 一塁走者のサイゴウが――!】
三塁だ。
サードコーチャーの回す腕に導かれて、走者のサイゴウがベースを蹴っていた。
珠姫の投球動作の間に、すでにスタートを切っていたのだ。
「ぬおおおおおおお! これが男・西郷の男走りであるゥゥゥッ!」
でかい顔面を、さらにでかくする勢いで爆走するサイゴウ。
その巨体からは想像もつかないスピードで、ホームめがけて突撃してくる。
【これは一瞬のスキをつく好走塁だ! これぞ、常勝カーニバルスの真髄! さながらひとりノルマンディー上陸作戦!】
そうはさせじと突っ込んできたのは、右翼手のケフトンだ。
「なめんじゃねェ!」
芝生を転がるボールを拾い上げると、間髪入れず振りかぶり、自慢の強肩でホームへとスローイング、
「ぐっ?」
瞬間、バチン、と青い電気が走った。
サイゴウの打席でアンガスが受けたものと同じ――いや、それに比べればはるかに微小だが、それでも彼の指の感覚を狂わせるには十分だった。
【ああっ、逸れたァ! このバックホームは大きく一塁側へ悪送球ゥ――ッ!】
一塁手ゴメスのカットも間に合わない。
一塁線のさらにファウルライン側へ、絶望的なまでに大きく逸れた送球が飛んでゆく。
「くそったれ!」
ドビーはファウルゾーンへダッシュし、ヒザから滑り込んでそのボールを受け止めた。
だが、ランナーとは完全に逆方向だ。
ホームとは少なくとも五メートル以上離れてしまっている。
手を伸ばしてタッチに行ける距離ではない。
【同点だ! 同点のランナーが今ホームへと帰ってくる! 帰ってくる――!】
満場の歓声が聞こえる。
ホームへ突っ込んでくるサイゴウの足音も聞こえる。
ドビーは絶望の顔でホームへと振り向き――そして目を見開いた。
いるはずのない人間が、そこにいた。
半死人のような足取りで、ホームベースへとよろめき近づく、一人の選手。
半分ずれた帽子の下から、ぼろぼろになった長い白髪がこぼれ落ちる。
力のない紅い瞳が、ドビーへと向く。
――タマキ。
視線が合った瞬間、すべてがスローモーションになった。
音の消えた風景の中で、珠姫はゆっくりと、グラブを掲げた。
本能、としかいいようがない。
ドビーの右手はドビーの意志を離れ、珠姫めがけてボールを放り投げていた。
グラブの中におさまるボール。
その衝撃だけで、半死人の少女は倒れそうになる。
その彼女の肩の向こうから、巨体の男が凶暴すぎるスピードで突っ込んでくる。
珠姫はふらりとよろめくように反転し、頭から突っ込んでくるサイゴウと向かい合い、
激突。
木の葉のように吹き飛んだ。
ドビーが身をていしてそれを受け止める。
あまりの衝撃にもろともなぎ倒され、背中から地面に叩きつけられる。
そして――時間が流れを取り戻した。
「……タ」
言葉は途中で途切れた。
彼女の顔をのぞき込む前に、ドビーの視界はふさがれていた。
ふるふると震えながら、それでもその少女は、左手にはめられたグラブを天へと突きだそうとしていた。
その手首を、ドビーがつかんで支える。
主審が駆け寄り、目を皿のようにしてグラブを注視する。
十万個の瞳が、それに続く。
【……あ――】
グラウンドの、ベンチの、スタンドの人間すべてが、一人の例外もなく、呼吸を忘れた。
水を打つ静寂の中、さなぎが羽化するように、ゆっくりとグラブが開いてゆく。
永遠とも思える時間が、氷のように溶けてゆく。
そして、ドビーには見えた。
グラブに収まった、果てしなく限りなく白いキャンバスに、縫いこまれた赤い糸。
珠姫の、
ドビーの、
チームみんなの。
夢の結晶。
「アウトォ――!」
審判が宣告したときにはもう、アルゲニーズベンチはもぬけのカラだった。
選手が、コーチが、トレーナーが、一人残らずぐちゃぐちゃの泣き顔で駆け飛んでくる。
内外野の選手たちが放り投げた帽子とグラブが、セントルイスの夜空に花火を上げた。
力の限り珠姫を抱きしめるドビー、その上へ次々と人が飛びかかり積み重なり、たちまちのうちに歓喜の山が築かれる。
「やった! やったぞー!」「優勝だ! 俺たちが勝ったんだ!」「うわああぁ―――っ!」
ブルペンからも一斉に投手やブルペン捕手たちが飛び出してくる。
歓喜と感涙が、次々と折り重なってゆく。
四半世紀ため込んだ、それはピッツバーグの街そのものの喜びの声だった。
「タマキ! やったぞ、俺たちが優勝だ!」「タマキ! おい聞いてるかタマキ!」
男たちは涙を流しながら口々に、チームの英雄に声を投げ、
「……タマキ?」
珠姫は、答えなかった。
ドビーの腕の中。
力なく垂れ下がった左手から、ボールはこぼれ落ちていた。
その髪は漆黒に戻り、そのまぶたは眠るように閉じられていた。
ただ、口元だけが、かすかに笑っているように見えた。
ゆるやかに、やすらかに、永遠の夢を見るように――。




