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21th inning : I aM a piTchEr.

 ダイヤモンドでは、内野手たちも一様にヒザをつき、地面を、あるいは天を見上げていた。


 『絶望』を図鑑に載せるなら、挿絵は間違いなく今の自分たちの写真だろう。


 百六十二試合、最後まで全力で走り切った。

 全身全霊を傾けた。


 その果ての結果がこれだというのなら、自分たちは一体何のために戦ってきたのか――


【えっ?】


 最初に異変に気づいたのは、グラウンドを見下ろせる位置にいるアナウンサーだった。


【な、なんだ? 様子がおかしい? これは……?】


 遅れて観客たちも、状況に気づき、ざわつきはじめる。


 何より誰より、驚いたのはカーニバルスの面々だ。


 当然だろう。


 グラウンドに殺到しようとする彼らに対し、主審が仁王立ちで通せんぼをしていたのだから。


【な、なんでしょう? アンパイアが両手を広げて、選手たちに戻れと言っているようです! こ、これは一体?】


 歓喜の瞬間をぶった切られた選手たちは、ワケが分からない。


「おい、なんだなんだ! 通してくれよ!」「サムい真似すんなよ! シラけるだろうが!」


 文句をたれる選手たちの前で、主審は鉱物のようにカタい顔を厳格に引き締めて、今一度、両腕を斜め上に広げた。


 来るな、の仕草――いや、違う。


 これは、判定のジェスチャーだ。


 先ほどの打球に対してのジャッジメントを、もう一度繰り返しているのである。


 ホームランのジェスチャーではない。

 そう、これは――


【ファ…………ファウルぅぅぅぅぅぅぅぅ?】


 ええ―――――っ? とスタジアム中が絶叫した。


【な、なんと! アンパイアはファウルの判定をしています! し、しかししかし、ボールは完全にフェンスを越えていました! これは一体どういうことか! 分かりません、ワタクシにはまったく分からなぁいッ!】


 カーニバルス陣営から、ハミルトン監督がロケットのように飛び出してきた。


「おい、審判! どこに目をつけとる! どこからどう見てもスタンドインだろうが!」 

【ハミルトン監督、猛抗議! しかしこれは当然でありましょう! 繰り返しますがボールは完全に! フェンスを! 越えていました! しかもポール際ならともかく、バックスクリーンへの打球でファウルとは……このアンパイアは本当に免許を持っているのでしょうか!】


 監督の後からはコーチ陣、さらには選手たちも駆けつけて、ホームプレートはおしくらまんじゅうの様相を呈していた。

 もしテレビカメラと観衆の目がなかったなら、主審はとっくにブン殴られていただろう。


 殺気立つ面々を前に、主審は臆することなく、判定の理由を口にした。


「自打球だ」


 全員があっけにとられた。


 自打球とは、打者の打ったボールが、その打者の身体に直接当たることを指す。

 たとえば、真下に飛んだ打球が、打者の足に当たったときなどだ。


 この場合、その後ボールがどこに飛ぼうが、判定はたしかにファウルである――が。


「どこに打球が当たったというんだ! 球がラングマリの足にはね返って、スタンドを超えたとでもいうのか? ヤツがフットボールの選手に見えるのか、あんたはァ!」


 当然の怒りをぶちまけるハミルトン監督。


 対して、主審はつい、と一塁方向を指差した。


「……?」


 監督も選手たちも、つられてそちらの方向に目を向ける。


 ラングマリが、一塁ベース手前で膝をついていた。


 丸まった背中は、苦痛に震えていた。


「シスター!」


 選手たちが慌てて駆けつける。

 大逆転に浮かれて、誰も彼女の異変に気づいていなかった。


「く……」


 うめくシスターの右手からは、血が滴り落ちていた。

 小指の先から手首までが大きくえぐれ、まるで獰猛な獣にかみつかれたようだ。

 皮膚が破れ、中の肉が露出するさまに、大の男たちも思わず顔をしかめるしかない。


 ハミルトンは、空気を抜かれたような顔で審判へ振り返った。


「ど、どういうことなんだ……」


 審判は、自分の右手を叩いてみせた。


「手だ。さっきの打球は、飛んでゆく前に、ラングマリの右手に当たっていた。分かるか? あのドリルボールにバットが触れた瞬間から、これは『打球』とみなされる。それが、その後『手に当たった』のだから、これは自打球の条件を満たしている。その後どこに飛んでいこうと、判定はファウルだ」


 うずくまったラングマリの顔は、苦痛に歪んでいた。

 ミット越しですら、ドビーの手をえぐった魔球である。

 素手の彼女の手が負ったダメージは、推して知るべしだ。


 主審は場内マイクを使い、観客にことのなり行きを説明した。


【な、なんと……先ほどの打球は、バットではなく、ラングマリの拳によって飛ばされたものだということです……し、しかし、これは、なんという……】


 観客たちは声もなかった。

 一度手にした優勝を、かっさらわれたのだからブーイングの一つも出るべき場面だろう。

 しかし、彼らの顔にはただただ、呆然とした色があるだけだ。


 投手はバットを消滅させる魔球を投じ、打者はそれを拳一つでスタンドまで持っていく。


 この人智を超えた死闘に、ただただ圧倒されるしかないのだった。


「すげぇ、すげぇよ、こいつら……」「オレ、今日観に来れてよかった……」


 アルゲニーズの内野手たちはようやく顔を上げ、お互いを見やった。

 まさしく、地獄から生還した顔である。


「た……助かった……のか……?」「らしい、な……」


 そのときだ。


「タマキ!」


 カーターの悲鳴のような声に、全員が振り向いた。


 マウンドで珠姫がヒザをついていた。

 体を丸め、ひどく苦しげな息づかいだ。


「おい、タマキ!」「どうした、しっかりしろ!」


 投球の際、足をひねるか何かしたのか。

 そう思って駆けつけたドビーたちは、しかし、そんな呑気な事態ではなかったことに気づく。


 ――なんだ、これは。


 彼女の体は、木の枝のようにやせ細っていた。


 腕と足が、半分ほどの細さに。

 頬はこけ、首には筋が浮き、ユニフォームの襟と裾がたぶついている。

 何年もの闘病生活を経た患者のようだ。


 あまりのことに誰も言葉を発せない。

 人間の身体がこんな短時間で変化することなど、ありえるのだろうか。


「はぁっ、はっ、はぁっ、かはっ、はっ……!」


 珠姫のあえぎ方は尋常ではなかった。

 明らかに疲労ではない。

 呼吸器に異常をきたしている。


 原因を考えるより、まず医者だった。


「ドクターッ! ドクター、はやく来てくれ!」


 と、声をはりあげたドビーは、次いで腕をつかまれた。


「まだ……試合は、終わっ、てない、で、あルます……。なげ、投げさせて、くだサい……」


 死にゆく昆虫のような声だった。


「ふざけんじゃねぇ! そんな体で投げられるわけねぇだろうが! 誰か早くタンカを!」


 それでもなお、珠姫は手を離さない。

 まるでそこに自分の命がつながっているように。


「おね……がい……であルます……。どびー、サン……、どうカ……」

「……っ! っカヤロー、死ぬまで投げる気か! いいから黙って、」

「ワタシの、職場は……マウンドであルます」


 声を奪われた。


「ワタシは……ココに、はたらきに、きたのであルます……ワタシは、ピッチャーであルます」


 その言葉を忘れるはずがない。

 はじめて珠姫と出会ったとき。あの駐車場で聞いたセリフだ。


「ココに……めじゃあ・りぃぐの、マウンドに、立つため、に……ワタシは……来たので、あルます……。ここに立って、世界一に、なる、ため……生きて、いるので、あルます……」

「タマキ……」

「どびーサン……お願いで、あルます……どうか、投げさせて……くだ、サい……」


 ドビーは何も言えない。

 今にも消えそうなはずの彼女の瞳の光に、目を奪われていた。

 彼女がこんなにも強い決意で臨んでいたことに、どうして自分は気づけなかったのだろう。


「……投げさせてやってくれよ。ドビー」


 進み出てきたのは、一塁手のゴメスだった。


「さっき、負けたと思ったときさ……考えたんだ。この試合は、タマキで終わらなきゃいけないんだって。勝ち負けじゃない。タマキで始まったこのシーズンを、タマキ以外のヤツで終わらせちゃいけないんだって……」

「俺もそう思う」


 アンガスも続いた。


「今、俺たちがここにいるのは、タマキのおかげだよ。負け犬根性の染みついた俺たちに、勝つ喜びを教えてくれて。女に負けてられるか、って発奮させてくれて。コイツとなら、上を目指せる、って思わせてくれて……そんな俺らが、今さらコイツをマウンドから下ろすなんて、できるわけがねぇじゃねぇか」

「お前ら……」


 ウィルソンはただじっと腕を組み、カーターは涙を流していた。

 それでも、二人とも彼女が投げるのを止めようとはしなかった。


 ドビーはなおも声を出せず、ひたすらにうつむいた。


 ――と。


「くっ……」


 珠姫はやおら自らの足で立ち上がろうとした。


 ぐぐっと持ち上がった体は、しかし、当然のようによろめき、そのまま頭から地面へ、


「タマキ!」


 それを受け止めたのは――


「どびー……サン」


 両腕に収まった彼女の体は、信じられないくらいに軽かった。

 この少女は、これまでこんな細く小さな体で戦っていたのか、と今さらに気がついた。


「……分かったよ。タマキ」

「え……」

「投げろよ。受け止めてやるよ、どんなボールだって」

「どびーサン……」

「情けねぇよ。俺なんかじゃあ、お前を止められないんだな……」


 自分自身が痛みを負ったようにうつむくドビー。

 その頬を、タマキは優しく撫でた。


「そんなコト、言わないでくだサい。アナタは、強い人であルます」


 いつの間にか、ドビー以外の全員が、珠姫の体を支えていた。


 内野陣だけではない。

 外野手たちも、ベンチの監督とコーチも、ブルペンのスタッフたちも。


 アルゲニーズに関わるすべての人たちが、彼女を見守っていた。


 すべての人の手に支えられ――球姫は、再びマウンドに立った。

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