3rd inning : I aM a piTchEr.
ダウンタウンの高層ビル群の上を、羊のような雲がゆったりと流れてゆく。
ペンシルバニア州・ピッツバーグ。
かつて煙の町とうたわれ、公害のイメージが強かったこの地だが、公害対策が奏功し、今や全米一住みやすい街と称されるまでになった。
街中を流れるアルゲニー川のほとりは美しく整備され、市民たちがそれぞれのスタイルで散歩を楽しんでいる。
犬とたわむれながら駆けてゆく子供。
仲むつまじく手をつないで歩くカップル。
そして――今にも身投げしそうな顔でよろぼい歩く男。
「ゼツエン……絶縁……ぜ、ぜつ、えん……ぜ……つ……」
ドビーだった。
六.二フィート(一八八センチ)、二十〇ポンド(九五キロ)。
WWEのプロレスラーかと思うようなでかい体は、いまや見る影もなくしぼみ切っていた。
ドビー・ジョンソン、二十九才。
ピッツバーグ・アルゲニーズのレギュラー捕手である。
生き馬の目を抜くメジャーリーグで彼がレギュラーを張り続けられる理由は、ひとえにその打撃にある。
昨シーズンのホームランは打ちも打ったり三十二本。ポジション別の最優秀打者に贈る『シルバースラッガー賞』に、チームの捕手として史上はじめて選出された。
今シーズンは開幕から絶好調。まだ五月とはいえ、ホームラン数はリーグ単独二位だから立派なものだ。
つまり『超』とまではいかずとも、一流と呼んでさしつかえない選手なのだった。
一方チームのほうはというと、最後にワールドチャンピオンになったのが、実に四十年前。
地区優勝からも二十五年間遠ざかっていて、ここ数年はナ・リーグ中地区最下位が定位置の、早い話がドビーのワンマンチームである。
そういう意味で、アニーの指摘は実は正しい。
投打の要であるドビーが敗退行為に走れば、ただでさえボンクラ揃いのチームは崩壊する。ホームランを打つよりよっぽど簡単だ。
しかし、八百長はメジャー最大のご法度だ。
コトが明るみに出れば、ドビーの選手生命は一巻の終わり。永久追放は間違いない。
娘をとるか野球をとるか。
愛をとるか仕事をとるか。
彼の悩みは単純明快、かつ深遠だった。
「ううっ、神よ、俺は一体どうすりゃ…………ん?」
頭をかかえながら球場前にたどりついたところで、ふと妙なものが目にとまった。
選手が出入りする駐車場の入口で、二人の人間が何やら押し問答をしている。
片方は顔なじみの警備員の老人。
そしてもう片方は、見たことのない小柄な東洋人の女だ。
「ヘイ、チャーリー。どうした?」
「おお、ドビー、いいところに……うむ、ドビーかの、あぬし?」
痩せこけたドビーの姿を二度見する警備員。
自分の風体はよほど変わってしまっているらしい。
「……ちょっと悩み事があってな、気にしないでくれ。それより何してんだ」
「いや、この子が中に入れろと聞かんのでの。日本人だというんじゃが……こりゃ、ええ加減にせんとポリスを呼ぶぞ」
近づいてみれば、女のほうは遠目に見たよりもさらに小さかった。
猫背気味な姿勢も手伝って、黒髪のてっぺんは自分の胸元までしか届いていない。
丸っこい輪郭の小さな顔。
シュガーパインのようにもっさりと垂れ下がった前髪が両目をすっかり隠しており、不気味といえば不気味な感じだ。
――なんで水兵服を着てんだ、こいつ?
と彼女の格好が気にかかったが、今は深く関わる気分でもない。
「入り待ちだろ? いいよ、何か書くもんあったらよこしなよ」
入り待ちとは、チームのファンが今のドビーのように球場入りする選手を待ち受けることを指す。
これだけ早い時間帯に単騎乗り込んでくるとは、よほど熱心なようだ。
こういう手合いは急がば回れ。下手に追い払わず、サインの一枚も書いてやるのが一番の近道だとドビーは経験上知っている。……のだが。
「のオ。ワタシはふぁんではあルません」
ひどく聞き取りにくい英語で、女は返答した。
何十年前の教科書で習ったんだと思うような、バカ丁寧な言葉遣い。
「ワタシはココに、はたらきに、きたのであルます」
「は?」
「じゃーかーらー、スタッフの増員など聞いておらんというに」
さっきからこのやりとりを何度も繰り返しているらしい。
警備員の顔はあからさまな苛立ちに染まっていた。
「のオ、のオ。ワタシは、すたっふでは、あルません」
「じゃあなんだよ、チアガールか? あーなるほど、その格好はジャパニーズ・コスプレってやつか。ウチのチームもインターナショナルになったもんだな、ハッハッハ!」
「?? すムません、早口でよく聞こえなかったであルます。もう一度お願いするであルます」
「……いや、もういいや。おいチャーリー、売店に連絡入れてやれよ。売り子のバイトかなんかだろきっと」
「のぉ。ワタシの職場は、売店ではあルません。マウンドであルます」
「……なんだ? ひょっとして、グラウンドキーパーか?」
のオ、と首を振る女。
続いて出てきた言葉に、ドビーは警備員ともども耳を疑った。
「ピッチャーであルます」