14th inning : Where is here?
カレンダーを九月にめくった途端、ピッツバーグは一気に冬へと転がり落ちる。
秋の短いこの街では、紅葉は染まった途端に落ちてゆき、陽の沈み方すら早まったようだ。
冷えた夜気が身に染みる、午後十一時。
人気の途絶えた小さな公園。
ウィンドブレーカーを着込み、コンクリートの壁に向かう人物が一人――珠姫だ。
『ふっ!』
気合とともに右腕を振る――と、放たれた白球は「ふわり」と擬音のつきそうな弱々しさで、十メートル先の壁にぶつかった。
跳ね返って止まった場所は、自分と壁の半分にも満たないところだ。
『く……』
弱い。ボールが弱すぎる。
もちろん、変身していない身で、まともなボールが投げられるとは思っていない。
が、それを差し引いても、体力の低下はあまりに深刻だ。
無事退院はできたものの、病気の進行と妖力の枯渇が予想以上にひどい。
入院中、病気のことが医者にバレないよう、妖力を注ぎ込み続けたツケだった。
(もってあと一か月、じゃな……)
シーズンはもう終盤に入っている。
現在、アルゲニーズは首位カーニバルスと一・五ゲーム差の二位。
シーズンの最後には、直接対決三連戦が待っている。
ペナントの行方はそこで決まるだろう。
そして、それは同時にラングマリとの再戦の場ということになる。
それまでに、体がもつか。いや、もったとして勝てるのか。
前の対戦では、自分のフルパワーのボールが完璧に跳ね返されたというのに。
『くっ!』
迷いを振り払うように、もう一球を投じる。
が、力まかせの腕の振りにボールは応えてくれず、すっぽ抜けの投球が、壁の上部に跳ね返って大きく横に転がっていく。
「おいおい、どこ投げてんだ」
ボールを拾い上げた男の声に、珠姫はハッと顔を上げた。
アーミーパンツに薄手のジャンパー。
スキンヘッドにサングラスをかけた、ゴツい体格の黒人の男。
「どびーサン……」
「よう、骨折姫。いい夜だな」
女房役のキャッチャーは、頑丈そうな白い歯を見せて笑った。
「どうしてここに、であルます」
「そりゃお前、退院祝いにアパートに足運んでやったってのに、三日連続で空振り食らわされちゃあな」
「……探してくれた、のであルますか」
「そんなことより、こんなトコでコソコソ投げんな。病み上がりのピッチングを見られたくないんだろうが、そういうときゃトレーナーなりスタッフなりに相談しろ。アマチュアじゃねぇんだぞ」
「すムまセん……わ?」
珠姫のグラブに、ボールが突き刺さった。
ドビーが投げてよこしたのだ。
「せっかくだ、キャッチボールにつきあえよ」
自分のグラブを持参してきたらしい。
胸元で「カモン」と捕球の構えをとってみせる。
「……ありがとうござルます」
と、ボールを投げ返す珠姫。
よろよろと元気のないボールが相手のグラブに収まる。
それをまた、ドビーが返球する。
ぱす、バス、と繰り返されるキャッチボール。
月明かりの下、弧を描いて白球が行き来する。
「相変わらずのへろへろボールだな。アニーのほうがよっぽどましだぜ」
「え? 娘サンとキャッチボールできるのであルますか。復縁したのであルますか」
「うるせーな、もしできたらって話だよ」
「そういう妄想で話を進めないで欲しいであルます」
「あーもーうるせぇ」
ヤケクソ気味で腕を振るドビー。
が、投げ込まれるボールは、あくまでソフトだ。
キャッチボールの距離もごく短い。
彼なりに、病み上がりの珠姫を気遣っているのだろう。
感謝しつつ、珠姫はボールを投げ返す。
ドビーがそれを受け止める。
「こうしてお前のションベン球を受けてると、はじめてブルペンで受けたときのことを思い出すな」
「ずいぶん昔の話のようであルますね。たった四ヶ月前のことであルますが」
「まったく、リトルリーグから輸入されてきたのかと思ったぜ、あんときゃよ」
ドビーの投げる白球が、高く夜に溶け、珠姫のグラブに収まる。
「……あの頃は、こんな位置にいられるとは思わなかったな」
位置とはもちろん、チームの順位のことだ。
万年最下位のお荷物チームだったアルゲニーズが、九月のこの時期、二位にいること自体、四半世紀ぶり。
絶対的守護神である珠姫が離脱したときは、全米のスポーツマスコミが失速を予想したが、その後チームは驚異の粘りでカーニバルスに肉薄し続けている。
常勝カーニバルスの順当勝ちか、弱小アルゲニーズの逆転優勝か。
ナ・リーグ中地区の優勝争いは、今メジャーで最もホットな話題と言ってよかった。
「どびーサンもチームのみなさんも、すごいであルます。よく引き離されずに、ここまデ」
「おっ、ずいぶんと上から言ってくれるじゃねぇか。ワタシの留守中、大義である、ってか?」
「いエ、そんなつもりハ……わっ?」
やや強めのボールが来た。
ドビーはニヤリと口の端を引き上げた。
「女一人抜けて順位が落ちたんじゃあ、何言われるか分からねぇからな。男の意地ってやつだ」
「前向きであルますね」
「ま、いっときチームを負けさせようとした手前な」
「? 負けさせよう、ト?」
「だあぁっ! い、今のなし! 聞かなかったフリしろ! いいな!」
なぜか「口がすべった」という感じで、茹でダコ化するドビー。
小首をひねる珠姫に対し、「と、とにかくだ!」と指差し、
「俺たちは最後の三連戦まで食らいついてやる! そんとき、あのシスターをぶっ飛ばすにゃ、お前が必要なんだ! 必ず戻ってこいよ、タマキ!」
そう言って、強く激を入れてくる。
本当なら「はイ、任せてくだサい」と応える場面なのだろう。しかし。
「……タマキ?」
もらったボールを投げ返せないまま、珠姫はうつむいた。
見下ろす砂地は冷えていた。
「どうした。シスターに勝つ自信がねぇのか」
「……いエ」
突破口は、あるにはある。
入院中ずっと考え続けていた、対ラングマリの秘策。
「手は、あるであルます。すなわち――新しい魔球であルます」
おっ、とドビーは金壺眼を見開いた。
新しい遊び場を見つけた少年のような目だ。
「いいじゃねぇか、ニューボール。燃えるね。見せてみろよ、今」
予想通りというか、ウキウキとした様子で手招きしてみせる。
彼としても、『いかにラングマリを抑えるか』は頭の痛い課題だったのだろう。
しかし、「お願いしまス」とは言えない理由があるのだ。
「……この球は、捕る側にも危険があるのであルます。バッターを抑えられたとしても、どびーサンの体が……」
あるいは、彼に大ケガをさせてしまうかもしれない。
それも、選手生命にかかわるほどの重傷を。
そうなったら、自分はなんと詫びればいいのか。
「何言ってんだ、バカ」
と、ドビーはうつむく珠姫を笑い飛ばした。
「お前なぁ、これまで何回俺をブッ飛ばしてきたか覚えてるか? それこそ今更だぜ、相棒。そんなヤバい球なら、なおのこと今リハーサルしとかねぇとだろ」
白い歯を見せながら、それでも、その目はあくまで真剣だった。
断じて軽い気持ちで言っているのではない。
その場に腰を下ろし、「オラ来い」とミットを突き出してくる。
珠姫はしばし逡巡し、しかし、重々しくうなずいた。
迷いはある。
だが彼の言う通り、捕ってもらわないことには始まらないのだ。
「……行くであルます」
グラブを胸元に構え、全身の妖気を高める。
クセのある短髪がざわざわとうねり、伸び広がってゆく。
うなじを隠す程度だった長さは、腰に届くほどに。
カラスのような黒色は、それ自体発光しているような純白に。
振りかぶる両腕に合わせて妖気が高まり、近くにそそり立つ電灯がジジッと苦しげに点滅する。
ただならない気配に、ドビーの顔から笑みが吹き消える。
熱波とともに踏み出した珠姫の足が砂地を噛み、右腕が暗闇を切り裂き、そして、
バチン!
――と、電灯が爆ぜ割れた。
「ぐっ……!」
光の絶えた暗がりの下。
痛みにうずくまるドビーのミットからこぼれ落ちたのは、白いボールと、赤い滴だ。
「どびーサン!」
「来るな!」
駆け寄ろうとした珠姫を、怒声が制した。
その場に縫いつけられた白髪姫のグラブに、間髪入れずボールが投げ返される。
「……大げさな声出すなよ。皮が破れただけだ。もういっぺん投げて来い」
いい球じゃねぇか、と笑ってみせるドビーだが、その顔には脂汗がにじみ出ていた。
ミットにはボール大の穴が開き、返されたボールには赤い染みがこびりついている。
明らかに、皮が破れたどころではない。
傷は肉にまで達しているに違いなかった。
「どびーサン……」
未完成のボールで、かつ手加減もした。
それなのに、これほどの傷を負わせてしまう。
これを本気で投じたら、一体ドビーの体はどうなってしまうのか。
「……やめまショう、どびーサン」
「あ?」
珠姫は力なく両腕を下げた。
「ワタシが間違っていたであルます。自分のワガママのために、アナタを傷つけるなんテ」
自分はなんと愚かだったのだろう。
あの女に勝ちたい。
世界一の夢を叶えたい。
その気持ちに微塵も陰りはない。
だがそれはどこまでも自分一人の問題だ。
何の関係もない彼を巻き込んでいいはずがない。
「大丈夫であルます。これまでの球で、なんとかしてみせるであルます」
この戦いは、自分と安倍の娘だけのもの。
それで負けて死ぬのなら、自分の力が足りないというだけの話だ。
他の誰にも迷惑を――
「ふざけんなよ」
え、と顔を上げた先。
ドビーの顔が怒気に染まっていた。
サングラスを外した目が、貫くようにこちらをにらんでいる。
「お前、俺がドレイか何かに見えんのか?」
「えっ……?」
「お前にとって、俺はただの召使いか? お前にとってのキャッチャーってのは、自分の球を止めるだけの、ただのカベか?」
「そ、そんなコトは思ってないであルます。どうしたのであルますか、急に」
戸惑う珠姫に、ドビーは怒りの気を冷ますように大きく息を吐いた。
「いいか、タマ公。俺がお前のボールを捕るのも、今こうして血ィ流してんのも、断じてお前のためなんかじゃねぇ。俺自身のためだ」
「……」
「お前のバックを守ってる連中だって同じだ。断じてお前へのご奉仕でやってんじゃあねぇ。お前がチームを勝たせてくれる、そう信じてるからだ。それが自分の喜びになるからだ」
「どびーサン……」
「ワガママだと? 一人で背負ってるつもりになってんじゃねぇ。俺たちは、チームだろうが」
そんなことも分からねぇのか――ドビーの燃える瞳は、そう言っていた。
珠姫は黙り込んだ。
これまで自分は、この異国の男のことを、どこまで理解していたというのだろう。
この戦いは自分一人のもの。
そう考えていた。
しかし、それは思い上がりだった。
ドビーも、チームメイトたちも、そしてコーチもトレーナーも監督も、このチームに関わる全ての人が等しく戦っている。
この戦いは、皆のもの。
ピッツバーグ・アルゲニーズのものだ。
「それに、忘れたのかよ。俺たちはバッテリーだ。六十フィート六インチの……うおっ?」
言葉の途中で、今度はドビーがのけぞった。
珠姫が、彼めがけてボールを強く投げつけたのだ。
かろうじて受け止めたボールは、グラブの中でまだ回転していた。
「運命共同体、であルましたね」
と、口元を緩める珠姫。痛む左手に追い打ちをされて、ドビーは「コノヤロー」と歯噛みし、それでもニヤリと笑ってボールを投げ返した。
「そんだけ元気が出りゃ十分だろ。さぁ、もういっちょ来い!」
再び構える相棒に、珠姫は頷き、白球を高く頭上にかかげた。
この戦いはアルゲニーズのもの。
このチームに関わるすべての人たちのもの。
そして、自分と珠姫の夢を、彼らと分かち合うために、自分は戦うのだ。
運命の相手のグラブに向かい、珠姫は腕を振りぬいた。
すべての決着は、シーズンラスト、直接対決。
決戦の地、敵地・セントルイスで――




