13th inning : 「賭けをしましょう」
忘れえぬ記憶から、意識が戻る。
沈みかけた夕日が忍び込む病室。
自分とシスター・ラングマリだけが四角い世界の中にいる。
『全身の筋肉が衰えていく難病だそうね。それも、かなり進行の速い』
安倍の娘の魂を宿したシスター――ラングマリは面白がるような口調で言った。
『手足のしびれからはじまって、やがて歩くことも食べることもできなくなり、呼吸困難に陥る。どこまで進行しているか知らないけれど、少なくとも今、その体は野球どころではないはず。それを妖力によって無理矢理に動かしている……違う?』
『……』
『その弱った体をもたせるために、どれほどの力を使っているの? そんな体にしがみつく理由は知らないけど、貴女、このままだと妖力を使い果たして――死ぬわよ』
『ぬしに言われずとも、分かっておるわ』
噛みつかんばかりの形相で言い返す。
自分の命などどうでもいいが、『そんな体』と言われたことが癇にさわった。
ラングマリは影の差した天井を見上げ、ふぅ、とため息をついた。
『すべて覚悟の上。でも、理由を教えてはくれない、と。……まぁ、いいわ。もともと教えてくれるとも思っていなかったし』
どうやら、珠姫との約束の話までは、彼女も知らないようだ。
理由――もし無用な戦いを避けられるのなら、話してやらないでもない。
だが、少し考えて、やめた。
仮に話したとして、この女が『そうですか。納得しました』と引き下がるわけがない。
それどころか、滑稽な話だと鼻で笑い飛ばすに決まっている。
自分にとって、珠姫との約束は神聖なものだ。
それを笑いものにされたならば、自分はこの女に対して何をするか分からない。
『私もね……病気にかかっているの』
『なに?』
『長く永く生きていれば、誰でもかかる病気。『退屈』、という、ね』
組んだ足の上に頬杖をつき、毒花のような唇で語る。
『なにしろ九百年だもの。いくつも体を乗り替えて、およそ娯楽といえるものは全部やりつくしてきたわ。犯罪もね。私の心は干上がった井戸――これ以上、やることがないのよ』
『その果ての暇つぶしが、妾との戦いというわけか』
『笑っていいわよ。可愛いものでしょう? 貴女に比べたら。私と同じように、退屈しのぎで国まるごと滅ぼしてきた、貴女に比べたら、ね』
痛烈な皮肉に、返す言葉がなかった。
してやったりの顔で、ラングマリは笑ってみせる。
安倍の娘――この女の下の名は知らない。
なにしろあの時代、女がまともに名前を名乗れること自体がありえなかった。
分かるのは、自分を討伐した陰陽師・安倍泰成の息女ということだけだ。
しかし、自分を討伐したのは、まさしくこの女だった。
都でも、逃げのびた那須野の地でも、傷を負わされたのは彼女にだけ。
朝廷の討伐軍などおまけのようなものだった。
一種の天才なのだろう。
女が退魔術など習えるはずのない時代で、見よう見まねで父の術を覚えた。
そして、軽々と父を超えた。
しかも、自分が都から逃げ出すとき、一度見せただけの『移御魂』までも、自分のものにしてしまったという。
この才覚と神通力は、かつて中国で自分を倒した道士・太公望に匹敵するかもしれない。
そしてその力で、彼女は、再び自分を追いつめようとしている――
『ぬしのほうこそ、妾の問いに答えておらぬぞ』
『さて、なんだったかしら』
『なぜ野球で勝負をしかけてくる。決着をつけたいのなら、直接雌雄を決せばよかろう』
ラングマリは『へぇ』と首をもたげ、
『それは、今受けて立つ、と解釈していいのかしら』
空気の密度が変わった。
ベッドと椅子――二メートルもない間合いをはさみ、二人の視線がぶつかり合う。
ラングマリが組んだ足をほどく。
珠姫の握り拳が、電撃のような妖気をまとう。
空間そのものに亀裂が走るような、対峙。
『ふ……』
と、それを解いたのはラングマリのほうだった。
『ふふ、焦らないで、九尾。白黒をつけるのは大事なこと。でも、それだけじゃあ、世の中はつまらない。ワインも憎しみも、時を重ねるからこそ、かぐわしいの。私たちに必要なのは、理解と抱擁よ。お互いを絞め殺すような、ね』
『ぬしの言うことは訳が分からん』
『では、言いかえるわ。賭けをしましょう』
『賭け?』
『信じてくれなくてもかまわないけれど、あのピッチャー返しはワザとじゃないわ。あんな終わり方になるのは、私としても本意じゃなかった。野球でいう『打者の勝ち』の究極は、ホームランなのでしょう? だから、次の対戦で本当の決着をつけましょう』
そして、次に口にしたのは、耳を疑うような言葉だった。
『次の打席、私がホームランを打てば、貴女には魂ごと消滅してもらうわ。逆に打てなければ、私のほうが消えてなくなる。文字通り、命がけの勝負――面白いと思わない?』
馬鹿かと思った。
ここまで来て、なお野球の勝負にこだわるのか。
しかもそんな一方的な賭けを。
『そんな余興につきあうとでも思っておるのか?』
『つきあわせない、とでも思っているの?』
一蹴したつもりが、あっけなくつき返された。
眉根を寄せる珠姫に向かい、ラングマリは意外な行動をとった。
やおら胸のボタンを外し、ナース服の前襟を開いてみせたのだ。
ぎょっと目をむく珠姫――しかし、続いてその目は彼女の胸元に釘づけになる。
妙な模様がついていた。
鎖骨の下から胸の谷間にかけて、アリのような黒い斑点がびっしりと書き込まれている。
中央には書かれている文字は梵字だろうか。
何のまじないかと記憶を探ること、数秒――
『!』
珠姫はバッと自分の病院着の胸元を開いた。
同じ模様が、書かれていた。
『貴様……!』
『ふふ、ご名答。ぐっすりお休みの間に、書かせてもらったわ』
うかつだった。
この女がただ話をするためだけに、病院に忍び込むはずがなかったのだ。
『もちろん知っているわよね。『蟲紋呪』。貴女が都にいたとき、退屈しのぎで下人たちにやらせた『命賭け』の呪文よ』
蟲紋呪――互いに呪いを書き込み、強制的に賭けを守らせる呪縛だ。
負けたほうが対価を支払わなければ、アリの模様が霊子の蟲と化し、魂を喰らいつくす。
『移御魂』で別の身体に逃げても防げない。
互いの命を賭けた、おぞましい呪い――
『ヨーロッパにいたとき、魔女裁判に立ち会ってね。あらゆる拷問のやり方を習ったわ。火あぶり、水責め、皮剥ぎ、目つぶし……それでも根を上げない人間も中にはいた。そういうときに一番『きく』のは、本人に痛みを与えることじゃない。恋人、家族、宝石――その人間が最も大事にしているものを目の前で壊すこと……』
ラングマリの声には、恍惚の色すら混じっていた。
『答えてあげるわ、九尾。私が野球をするのはね、それが貴女のもっとも大切なものだから。妖力すべてを注ぎ込む、貴女の大事な大事な野球で、貴女を壊してあげる……。ふふっ……はぁっ、想像しただけで、もう……!』
自らに刻んだ呪いの紋章を抱き、ぶるぶると震えるラングマリ。
珠姫は烈火のような目を向けた。
『狂っておるわ、貴様……!』
『狂う……? ふふっ、何をいまさら。九百年生きた私が狂人なら、貴女は何?』
その怒りのまなざしすら、退屈をまぎらす良薬だというふうに、ラングマリは笑った。
『ではね。早い復帰を祈っているわ、『珠姫さん』。死ぬときは、ぜひ綺麗な悲鳴を聞かせてね。肥溜めに落ちたドブネズミみたいな』
ひらひらと手を振り、次いで、
「……ほえ? あれぇ~?」
きょとん、とメガネの奥の目を丸くした。
「あれ、あれれ~? わたし、なんでこんなとこに~? あっ、ミス・ヒメカワ~。目が覚めたんですかぁ~?」
そこにいるのは、ほんわか口調のナースだった。
彼女に憑いていたラングマリの魂が抜け出たのだ。
ホテルで眠らせているというシスターの体に戻ったのだろう。
「わぁ~、よかったぁ~。覚えてますかぁ~、あなた、試合中にケガをして頭に……あれ~? なんだか気分が悪そう~。大丈夫ですかぁ、ミス・ヒメカワ~?」
心配そうにのぞき込んでくるナースに、珠姫は拳を握りしめながら答えた。
「……なんでもあルません。この程度…………なんともないであルます」




