11th inning : 「さびしそうなこえ、してたから」
おのれ。おのれ。おのれ。
「いたぞ、九尾じゃ!」
「皆のもの、来よ、来よ!」
おのれ、おのれ、おのれ、おのれ、人間め。
「矢を絶やすな! 射かけい、射かけぇい!」
「上皇をたぶらかした妖じゃ! 討ち取らば褒美は望みのままぞ!」
こざかしい小虫どもめ。群れることしか知らぬ雑魚が……妾に盾つくか!
「ぐぇあっ!」
「な、なんという妖力じゃ! あれだけの手負いとは思えぬ!」
「父上! ここは私めにおまかせを!」
「下がっておれ! おなごが出しゃばるでないわ!」
「されど、あやつに傷を負わせたのは父上ではなく、私めにござります!」
「だまれ! 狐狩りに女の力を借りたとあってはこの泰成、都中の笑いものじゃ! 早う下が……ぐあぁっ!」
「父上!」
安倍の娘か……都では不覚を取ったな。
今度こそそのはらわた、引き裂いてくれる!
「九尾! よくも!」
来い!
「はあっ!」
がっ……!
「おおぉ! やった! 討ち取ったぞ!」
「九尾を、あの大妖怪を討ち果たしたのじゃ!」
ぐっ……は……! お……のれ……!
おのれ、おのれ、おのれ……人間め! よくもこの妾を!
この恨み、忘れはせぬ……毒の石となりて必ず蘇り、根絶やしにしてくれるわ!
「……和尚、この石は?」
「殺生石じゃ。九尾と呼ばれた化け狐の、なれの果てよ」
「九尾の狐……これが。古くは殷の紂王を狂わせ、悪逆非道の限りを尽くしたという……」
「気をつけよ。こやつの毒を吸い込めば、たちまち肺腑がただれ落ちるぞ」
「はっ。して和尚、私めに頼みというのは?」
「こやつを、封印してほしいのじゃ」
「封印? しかし、殺生石は和尚がすでに砕け散らせた後と聞きますが。これはその残骸にすぎぬのでは?」
「砕けたのは、ただの破片……爪や髪のようなものじゃ。わしごときの力では、こやつの本体まで砕くこと叶わなんだ。こうして妖気を抑えながら持ち帰るのが精一杯よ」
「なんと……。では、まだ九尾は生きておると」
「もし法力を持たぬ人間がこやつに近づけば、心身を乗っ取られるじゃろう。こやつはそうして何千年もの間、人から人へ乗り移り、生きながらえてきたのじゃ。かといって放っておけばやがて力を取り戻す……封印したまま、人目のつかぬところに置くより他にない」
「それで私めに、でございますか」
「そこもとは、代々、妖封じを生業にしておる家の生まれじゃ。しかも一度封じたものは、血族のものでなければ解くことはできぬ……」
「おっしゃるとおりにございます」
「頼めるか」
「承知つかまつりました。このお役目、子々孫々にわたり、全霊をもってつとめまする」
「頼んだぞ。……世の人々には、九尾の魂魄は砕かれて消えた、と伝えよう。いらぬ興味を持って石に近づくものが出ぬようにな」
「はっ」
おのれ、おのれ、おのれ、あの糞坊主め。
この妾を、こんな祖末な寺の中に閉じ込めおって。
それも、こんな隅の、小さな堂の中に。
誰の目にも触れさせず、力衰えるまで封じ続けようという肚か。こざかしい。
じゃが、この九尾の憎しみがこの程度で衰えると思うでないぞ。
愚かな人間が近づいてきたならば、『移御魂』で身体を乗っ取ってくれる。
ああ――楽しみじゃ。外に出れば、まずは誰を殺すか。
まずはあの坊主じゃ。
あの老いぼれの古ぼけた頭を噛み砕く。
その次に、妾を封じた坊主の弟子を殺す。
五体を引き裂き、臓物を引きずり出す。
陰陽師や武士どもも許さぬ。
草の根分けても探し出し、一族郎党皆殺しじゃ。
誰でもよい。
近づいてこい。
妾の新たな身体になりに来い。
復讐の糧になりに来い。
誰か……誰か…………
………………。
…………誰も、おらぬのか。
……もう、どれほど時間がたったか。
外の世界がどうなっておるのか、まるで分からぬ。
この堂の枠から見えるのは、朝から晩まで日の当たらぬ、小さな空地と茂みだけ。
誰も来ぬ。
誰もおらぬ。
坊主も弟子も陰陽師も武士たちも、みな死んだじゃろう。
……つまらぬ。
「本当にあるのか、与平よォ?」
「本当じゃ、本当じゃ。村のモンでもほとんど知らんがの」
……む?
「おお、たしかに。こんなところにお堂が」
……人が来た。待ち焦がれたぞ。
「おそろしく古いお堂じゃな。何百年も経っとるようじゃ」
「わしのお婆の、そのまたお婆のころから、ずっとここにあるそうじゃ」
これ、そこな者どもよ。
近う寄れ、取って食いはせぬ。
「しかし……何もないところじゃな。茂みをかき分けんと入ってこれんし」
「肝試しには使えんか」
「そうじゃのう。途中で迷われでもしたら、困りものじゃ」
「まあ、しょうがないの。別のところを探すか」
……行ってしもうた。
妾の声は、聞こえておらなんだか。
妾の声は……誰にも届かぬか。
「定吉ー。さだきちぃー」
「んー?」
う……む……?
「そっち、ボールあったかー?」
「んー、ちょっと待って……うわっ、なんだここ?」
童、か……。
「うわー、古い建物。こんなとこあったんだ」
「すげー。草ボーボーじゃん」
これ、そこな童どもよ。妾の声が聞こえるか。
「そういや、お寺の人が言ってたっけ。ここらへん、近づいちゃいけないって」
「ふーん……あいたっ、枝ひっかけた。こんなとこ、言われなくても誰もこないよ」
……。
「あ、ボールあった」
「よっし、続きやろうぜー。おれ、藤村なー」
「じゃ、おれ青バット大下ー」
「ばっか、どっちもバッターでどうすんだよ。沢村やれよー」
「誰それ」
「知らないの? 沢村栄治。戦争の前の人」
「知らない。茂雄、野球くわしいなー」
や……きゅう……?
「いくぜー、ごうそっきゅうー!」
「あっ、また! どこ投げてんだよー!」
「あはははーっ!」
……。
やきゅう……。
あの童ども、見たことのない格好をしておったな。
髪も、着物も、そして時代も変わった。
だというのに、妾だけが変わらぬ。
ああ――外に出たい。
出て、人間に取り憑いて……そして、どうする?
決まっておる。
暴れて、殺して、喰らって……
……そうなのか。本当にそうなのか。
憎しみは、恨みはまだこの身の内にあるか。
ある……が、それよりもずっと大きな何かが、この石の身体を埋め尽くしておる。
これは何じゃ。
憎しみではない。
恨みでもない。
満ちれば満ちるほど、空しくなってゆく、この気持ちは……
分からぬ。
妾はこの感情の名を知らぬ。教えてくれるものも……おらぬ……
「ねぇ」
……。
「ねぇってば。ねー」
……。
「ねぇ、いしさん。ねてるの?」
……なに?
「あ、おきてた。えへへ、おはよう」
娘……。ぬしは……ぬしは、妾の声が聞こえるのか?
「? うん。ずっとまえから、きこえてたよ?」
なんと……。
娘、ぬしは一体……。
「えっとね、えっとね。ここのおてら、わたしのおうちなの。おとうさんは、おぼうさんなの。すごいでしょー。えへへ」
……そうか。
あの坊主の弟子の、血筋のものか。
「おとうさんは、ここにきたらいけない、っていってたけど。きちゃった。いしさん、すっごく、さびしそうなこえ、してたから」
寂しい……?
妾が、か……?
「うん。かわいそうだなぁって。ねぇ、いしさん、ずっとここにいるの?」
ああ……ずっとじゃ。
ぬしも、変わった格好をしておるな。『さだきち』の友か?
「さだきち~? さだきち、さだきち……あ、さとうさんちの、さだきちおじいちゃんのこと? もういないよ~。こないだ、『ごくらく』ってところにいっちゃったんだって。おかあさんがいってた。すっごい、すっごいとおいところにあるんだって~」
……そうか。
「ねぇ、いしさん。あなたはおなまえ、なんていうの?」
名前、か。
忘れたの。
久しく呼ばれておらぬゆえ。
人は『白面』や『九尾』と呼んでおったが。
「きゅーびー? まよねーずなの?」
……何のことやら分からぬが、つまり、九本の尾を持つ者のことじゃ。
「お?」
しっぽ、じゃ。
「ふーん。それじゃあ、しっぽさんだけでやきゅうができるねぇ」
や、きゅう。
ぬしは、『やきゅう』を知っておるのか。
「そうだよー。わたしね、さだきちおじいちゃんがつくった、ちーむにいるの。すごいでしょ」
その『やきゅう』とは、なんじゃ。蹴鞠か?
「んーとね、んーとね。びゅーん、てなげてね、かーん、ってうつの」
……よく分からぬ。
もう少し詳しゅう教えてたも。
「んーとねー……あ! おとーさんがよんでるー! あわわー、いかなきゃ!」
あ、待て。
「ほえー?」
ぬし、名はなんという。
「な?」
名前じゃ。
ぬしの名前は、何じゃ。
「たまき! ひめかわ、たまき! えへへ!」
「たまき、か。また、話せるか?」
「うん! またねー、きゅーびちゃん!」
……ふ。
人の名を知りたいと思ったことなど、何百年ぶりじゃ。
どうかしておるわ、この九尾が。
たまき……か。




