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10th inning : Nobody is waiting for you.

 泥のような眠りから、意識が浮かび上がる。


 まぶたを透いて刺し入ってくる白い痛み。

 目を開ければ、ぼやけた視界に入ってきたのは、乳白色の天井だった。

 見渡せば、広めの個室に自分が寝ているベッドがひとつだけ。

 脇にはソファーとテレビが置いてある。


「ここは……?」


 珠姫は、ゆっくりと身を起こした。


 かけられていた毛布が、裏返って膝の上に落ちる。

 身を包むのはユニフォームではなく、天井と同じ柔らかな白の病院着だ。


 壁掛け時計の針は、午後五時を指していた。


「いたっ……! であルます」


 頭の内側に、鋭い痛みが走った。

 手を触れると、もっさりした黒髪の上に、包帯の感触があった。

 どうやら変身が解除されているようだ。


 一体何があったのだろう。

 ラングマリと対戦していたことは覚えているのだが、その後のことが思い出せない。


「あ~。ミス・ヒメカワ~」


 だしぬけに、やたら間延びした声。


 振り向くと、部屋の入り口に、ナース服を着た若い女が立っていた。


「気がついたんですねぇ~。わぁ~よかったぁ~。おはようございますぅ~」


 眠そうなタレ目を黒ブチメガネで包んだ、白人の女だ。

 語尾の伸びまくったノンビリ口調で、ふにゃりと微笑みながら部屋に入ってくる。


「はア……おはようござルます。あの、ここは……」

「あ~、起き上がったらダメですよぉ~。頭の骨にヒビが入っているんですからぁ~」

「え。ヒビ、であルますか?」

「はい~。えっとぉ、ここはピッツバーグ大学病院というところですぅ~。あなた、試合中にケガをして救急車で運ばれたんですよぉ~。覚えてますかぁ~?」

「試合中に……?」

「はい~。ボールが頭にぶつかってぇ~、そのまま二日も寝込んでたんですからぁ~。はい、安静にしていましょうねぇ~」


 と、ナースは珠姫の肩を支えながら、そっとベッドに寝かせた。


 ナースキャップからのぞく栗色の髪を見上げつつ、ぼんやりと記憶を探る。


「あ」


 そうだ。


 『狐砲』を放った後、ラングマリのピッチャー返しをよけきれず、自分は昏倒したのだ。

 途切れる意識の中で、ドビーらチームメイトの呼ぶ声とスタンドの悲鳴だけが聞こえていた。


 珠姫はがばりと身を起こした。


「あ! ちょっとぉ、起き上がったらダメですってばぁ~」

「試合は? 試合はどうなったのであルますか」

「ええと……負けてしまいましたぁ~。あなたが対戦したバッターはヒットになってぇ~、その後、代わりに出たピッチャーが打たれて、そのままぁ~」


 さらに彼女の言うことによれば、次の試合もラングマリが打ちまくり、首位攻防三連戦は負け越しで終わったという。


 ドッと力が抜けてしまった。


「負けた……であルますか」


 チームも、そして自分も。

 百貫球を、自分の最高のボールを出してなお、かなわなかったのか――


 毛布の上の拳に、力がこもる。ぎ、と奥歯が鳴る。


 相手がどうであろうと、真正面からぶつかり、そしてぶっ飛ばす。

 自分はそれしか知らないし、やらないし、要らない。

 そう思っていたのに。それを、真正面からはじき返された。

 たらればの余地もない、完全な力負けだ。


「キャッチャーの人が、すまなさそうにしてましたよぉ~。しばらく遠征に出るから、お見舞いにも行ってやれない、ってぇ~。とにかく今は、体を治すことだけ考えてくださいねぇ~。んん~、次の点滴交換はいつだったかしらぁ~」

「ワタシのケガは……いつ治るのであルますか」

「ええっとぉ、全治まで二か月の診断ですぅ~」

「二か月……」


 絶望的な数字だった。

 ケガが治っても、なまった体を戻すには時間がかかる。

 実戦登板となれば、よくてシーズン最終盤――いや、このまま今年は終わりということもありえる。


「く……」


 萎えた体を無理矢理引き起こし、ベッドを降りようとする。


「ああ~、ですからぁ、動いちゃダメですってばぁ~」

「離してくだサい。チームが戦っているのであルます。ワタシ一人、休んでいるわけにはいかないであルます」

「休まなきゃダメなんですよぉ~、頭にヒビがぁ~」

「ヒビなんて、ガムでも詰めればふさがるであルます」

「ええ~、食べ物を粗末にしちゃいけないですよぉ~」


 力づくで降りようとする珠姫を、抱き止めるように制止するナース。

 ベッドの端で、二人は押し合いへし合い、


「チームにはワタシが必要なのであルます。みなサンがワタシを待っているのであルます」

「誰も待ってなんていないですよぉ~、あなたなんてぇ~」

「なんてことを言うのであルますか。きっと待ってくれているであルます」

「待ってませんよぉ~」

「待っているであルます」

「絶対に待ってませんってばぁ~」

「絶対に待っているであルます」

『貴女みたいな化け物を、かしら?』


 ぎょっ、と体が硬直した。


 突如変貌したナースの口調と声色に。

 そして、発せられたその言葉が日本語であったことに。


 思わずナースの顔を見る――が、その前に、突然視界がひっくり返った。


 ベッドに押し倒されたのだ、と気づいたときには、乳白色の天井を隠す、ナースの白い顔があった。

 先ほどまでのノンビリした表情が吹き消えた、狂気をはらんだ笑み――


『ふふっ……』


 ナースの瞳の色は、どろりと濁った灰色に変わっていた。


『そんなに驚くことはないでしょう? 魂を他人に乗り移らせる『移御魂うつみたま』――もともとはあなたの術なのだから。……ねぇ、九尾きゅうび

「……!」


 考えるより先に、手が出ていた。


 振り払うように出した左の拳が、びゅん、と空を切る。

 身を引いてよけられたのだ。


 が、そのおかげで間合いができた。

 珠姫はベッドに跳ね上がって膝立ちの体勢になり、反撃に移ろうとして――止まった。


 眉間に武器を突きつけられていた。


 点滴を吊るすスタンドの棒だ。

 いつの間に手にしていたのか、槍のように構えられたそれは、LEDのように青白く発光し、ブゥ……ンとうなりを発していた。


『落ちついて、九尾。今日は話をしに来ただけよ』

「……」

『本当よぉ。もしその気なら、貴女が寝ている間に殺すことだってできた。そうでしょう?』


 珠姫はしばらくの間相手をにらみつけていたが、やがて握っていた拳を解いた。

 もちろん、すぐに動けるよう片膝の姿勢は保ったままだ。


 ナース、いや、ナースの体を乗っ取ったシスター・ラングマリは、スタンド棒を脇に置いた。


『やっぱり聖職者じゃないと力が出し切れないわね。白衣の天使というけれど、あんがい俗なのかしら』

「……」

『もっとも、今の貴女を串刺しにするくらいは簡単……下手なことは考えないほうがいいわよ』

「……シスターの次は、ナースであルますか。節操がなさすぎであルましょう」


 警戒しながら低く問う。


 『移御魂』――憑依する相手の人格・記憶を受け継ぎながら身体を操る術だ。

 病院に潜り込むため、シスターからナースの身体に乗り移ったのだろう。

 そして、そのシスターの身体ですら、彼女の本体ではないのだ。


 ラングマリは仕方なさそうに苦笑し、


『ねぇ、そろそろ日本語で話をしない? 他には誰もいないのだし。貴女もそのほうがしゃべりやすいでしょう?』


 珠姫は長く沈黙した。

 ラングマリはかたわらの椅子に腰かけ、言葉を待った。


 天井のクーラーの風が、くせだらけの黒髪を揺らす。

 時計の針が一秒ごとに舌打ちする。


 やがて、珠姫の唇が、ゆっくりと開いた。


『なぜ……』


 アメリカに来てから、はじめて口にする、日本語だった。


『なぜ、そこまでわらわにこだわるのじゃ。ぬしは』


 ラングマリは、くすくす、とおかしそうに笑った。


『そのしゃべり方、変わってないのね。どうりで日本のマスコミにも、英語で応えるはずだわ』

『話というのはそんなことか。なら、とっとと去ね』

『野暮ね。九百年ぶりの再会なのだから、もう少し会話を楽しみましょうよ』

『妾とぬしは、昔を懐かしむ間柄か? 安倍の娘よ』


 もう一度『ふふ』と笑うラングマリ。

 だが今度は、愉快そうな色は薄れているように見える。


『そう呼ばれるのも九百年ぶり、ね。その名を知っているのは、この世でもう貴女だけよ』

『よもや、ぬしがまだ生きておるとは思わなんだ。そうやって体を乗り換え乗り換え、命を長らえてきたというわけか』

『ええ。術を見せてくれた貴女には感謝しているわ』

『あのシスターの体は?』

『今はホテルで眠らせてあるわ。正気に戻られたときに面倒だし』

『そうではない。どこの誰の体かと訊いておるのじゃ』

『へぇ? 貴女が人間のことを気にかけるなんてね。心配しなくても、用が終われば元いた修道院に帰してあげるわよ。もちろんこのナースの体も、ね』


 珠姫は、敵意をあらわにしたまま、さきほどの質問を繰り返した。


『なぜじゃ。なぜ、そうまでして妾にまとわりつく。殺したければ、果し合いでも不意打ちでも仕掛ければよかろう。それをわざわざカーニバルスに潜り込み、野球の勝負を持ちかけてくる……まわりくどいことこの上ない。一体、何を考えておる?』


 対するラングマリは、心外だとでも言うように肩をすくめ、


『それはこちらのセリフだわ、九尾。貴女こそ、なぜこんなところにいるの? なぜ野球なんてしているの?』

『……』

『あなたのことは、テレビで見てすぐに気づいたわ。最初は信じられなかったけれども。話題の日本人女性投手、プリンセス・クノイチ……それがまさか、大妖怪・九尾の狐だなんて、ね』

『……』

『――その体、貴女を封じていた寺の娘のものだそうね』

『!』


 珠姫は、深い傷をえぐられたような顔をした。

 その痛みをたっぷりと楽しむ顔で、ラングマリは嗤う。


『ああ、その顔が見たかったの。見たかったのよ、宇宙の果てよりもこの世の終わりよりも』

『この下衆が……どこまで知っておる』

『百年ぶりに日本に戻って調べたわ。貴女の封印が解けていたこと。その体を乗っ取ったこと。それなのに暴れもせず殺しもせず、何をするかと思えばアメリカに来て、よりによってメジャーリーグで野球……興味を持つなというほうが無理でしょう?』


 いつの間にか、白い病室は夕日の赤に塗り替えられていた。


『教えてほしいのよ。九百年の間に、貴女に何があったのか。かつて貴女と戦ったものとして、それくらいは権利はあると思うけど』


 ラングマリはそこで言葉を切った。

 足を組み、珠姫の返事を待つ。 


(……理由……か)


 珠姫は、目の前の宿敵から、窓の外へと視線を移した。 

 長方形に切り取られたピッツバーグの街中に、ふぞろいのビル群が並んでいる。

 見ているだけで泣きたくなるような、夕空。

 視線は鈍色のビルを越え、紅色のうろこ雲を越え、やがて空の彼方へと向かう。


 海の向こう、日本へ。

 大妖怪・九尾の狐。

 その名で呼ばれていた、はるか昔へ。


 そして、この人間の体に取り憑くことになった、一年前のあの日の記憶へ――。

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