8th inning : Baseball is boring sport.
しかし、神に感謝している場合ではなかったのである。
【そ、そうだ! タマキのボールが……!】
メジャーの並み居る猛者たちをことごとく蹴散らしてきた、魔球・十貫球が。
(持っていかれた……!)
ドビーの握りこぶしに汗がにじむ。ぎりり、と奥歯が鳴る。
超常力には超常力。
シスターのサイキックパワーも、珠姫の魔球ならば、と思っていた。
しかし、それは何の根拠もない思い込みだった。
当たれば問答無用。
たとえ鉄球を投げつけようとも、あのバットは場外まで運んでしまうに違いない。
最初から、力で押し勝てる相手ではなかったのか……。
「ふふ……惜しい」
横倒しになっていたラングマリが、地面から身を起こす。
どうだ、と言わんばかりのその表情に、アルゲニーズの面々も言葉がない。
特にへっぽこぞろいの内野陣などは、半分魂が抜けた状態である。
「ダ、ダメだあ……タマキまで打たれるなんて……」
「やっぱりあの女は神の遣いなんだぁ……」
「勝てるわけないんだ、降参するしかないんだ……」
「出家しよ……」
グラウンドも、ベンチも、スタジアムも、戦慄と絶望に静まりかえる。
その中でただ一人だけ、例外がいた。
「タイム、であルます」
珠姫はいつもと変わらない無表情で、主審に向かって手を上げ、プレイの中断を要請した。
次の投球について話をしたいのか――そう察して、ドビーはマウンドへ足を運ぼうとするが、
「のオ」
それを手で制すると、魔球の姫君はバッターボックス脇のラングマリを指さした。
何の用かと怪訝に眉を寄せる彼女に向かい、英語で一言、
「それ、替えたほうがいいと思うであルます」
びきん、と。
珠姫の言葉を合図にしたように、ラングマリの持つバットにヒビが入った。
【おおぉっ?】
芯の位置――すなわち珠姫の投球が当たったところから始まったヒビは、見る間に大きさを増し、とうとう、バットの中ほどから先までが完全に砕け散ってしまった。
うおおおぉ! と、スタンドが驚嘆と歓喜に揺れた。
【イカスゥゥゥ! すげーぞタマキ! 打たれたと見せて、スカし顔のシスターの棒っきれを粉砕してやがった! どうだァ尼さん! これがアルゲニーズの守護神の底力よ!】
半分の長さになってしまったバットがスクリーンに大写しになり、意気消沈のスタジアムが一気に息を吹き返す。
そう。
完全に打ち返されたわけではない。相打ちだ。
ファウルになったのも、力で押し切れたから。
まだ、勝負は分からない。
「へぇ……」
得物を粉々にされたラングマリは、ショックを受けるでも怒るでもなく、血色の唇を妖艶に吊り上げて、ベンチに引き返してゆく。
「ヘイヘイヘーイ! ざまあみたかよシスターさん!」
「最初っから俺ァ信じてたね、タマキのことを!」
「次は折られないよう、電柱でも持ってこいよ! 無駄だろうけどなァ!」
「出家しない! 俺は出家しないぞ!」
【しょげかえってたアルゲニーズ内野陣も現金に復活! 正直こいつら、全員ブン殴ってやりてぇが、今は許す! さぁ、次も頼むぜ、タマキィ!】
「どびーサン」
マウンドからの声に、ドビーは振り返った。
声の主・珠姫はそれ以上何も言わない。
ただ、強く射抜くような紅の瞳を向けてくるだけ。
バッテリーを組んでほんの二か月足らず――しかし、ドビーは彼女の言いたいことを正確に理解した。
――そうだ。さっき決めたばっかりじゃねぇか。
相手がどうであろうと、真正面からぶつかり、そしてぶっ飛ばす。
この女はそれしか知らないし、やらないし、要らない。
そして、彼女には、十貫球を上回る切り札があるのだ。
「……まかせとけ」
己の胸を叩いてみせるドビーに、珠姫もうなずいて応えた。
やがて、ラングマリが新しいバットを携えて打席へと戻ってきた。
「第二ラウンドだな、シスター」
「あら、急に威勢が良くなりましたね」
「言っとくが、逃げるんだったら今のうちだぜ」
「なんて三下なセリフ。現実に聞いたのははじめてです」
「マジであんたのことを心配してるってことさ。俺だって女がケガすんのを見たかねぇ」
ふ、と口元だけで笑って、バッターボックスへ入るシスター。
足元をならすその所作には、恐れも迷いも見られない。
「本当にね……退屈なスポーツですよ。野球なんて」
「なに?」
「時間が長い。ルールがよく分からない。こんな球遊びに、どうしてこうも多くの人が熱狂するのか、私には理解できません」
薄笑いを浮かべながら語るシスターに、ドビーは顔をしかめる他ない。
なぜこの場面で、突然そんな話をはじめるのか。
少なくとも野球でメシを食っている自分にとって、気持ちのいい話でないのは確かだが。
「じゃあ、あんたは何のためにやってんだい。その退屈な野球をよ」
「何のために? ……ふふ、何のために、ですか。ふふっ、ふふふふふっ……ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
ぞくりとする。
そのイカれた笑い方に、ではない。
ラングマリの目はすでにドビーを見ていなかった。
どろりと蕩けた灰色の視線を向けるのは、マウンド上の白髪の魔球少女。
「長い長い……永い退屈を癒してくれる、この瞬間のためですよ」
ドビーの肌にイヤな汗がにじんだ。底のない沼の深みに片足を突っ込んだような実感がある。
ここまでスタジアムを翻弄して来た数々のクレイジーな行動は、実は、この女のほんの表層でしかないのではないか。
もっと根源的な、本質的なところで、この女はイカれている……。
――何者なんだ、この女は……。




