2nd inning : Show your love, daddy.
八か月ぶりに会う娘は、ずいぶんと大人びて見えた。
「ダディ! 会いたかった!」
アルゲニー川をのぞむオープンカフェに足を踏み入れた途端、アニーは弾けるように駆け寄って来た。
チョコレート色の滑らかな肌に、白いワンピースがよく映える。
ボードウォークに並び咲くパラソルの花から飛び出した、まるでモンシロチョウのようだとドビーは思った。
「大きくなったな、アニー。九歳の誕生日おめでとう」
プレゼントを渡すことは、弁護士から禁じられている。
娘のバースディに手ぶらでいることを恥じながら、ドビーは腰をかがめてアニーの頬に口づけた。
「ありがとう、ダディ。愛してるわ」
心優しい娘は、輝く笑顔でキスを返してくれた。
白人の妻との間に生まれた娘は、よほど神様にひいきされたらしい。
肩まで流れた美しい黒髪、クルミのように丸く大きな瞳、つんとおしゃまに立った鼻。
全てが記憶よりもずっと美しく育っている。この時期の子供の成長は魔法そのものだ。
丸テーブルに腰を落ち着ける。パラソルの端からこぼれた風が肌に染みた。五月のピッツバーグはまだ少し肌寒い。
「ホテルはダウンタウンのハンプトンだろう? 迎えに行ったのに」
「大丈夫よ。おととしまで住んでたんだもの、路地の猫の数まで覚えてるわ」
笑うえくぼが、出会ったころの妻にそっくりだ。
もっとも別れる前の何年間かは、笑顔などとんと見なかったわけだから、他に比べようもないのだが。
「新しいパパとは、どうだ?」
「オールグリーン。まったく良好よ、オールド・ダディ。銀行員のパパって素敵ね。毎日決まった時間におうちに帰って遊んでくれるし、週に一度はリトルトーキョーのスシ・ショップに連れて行ってくれるし。一年の半分を留守にしてた誰かさんとは大違い」
思わず息を詰まらせるドビー。
それを見て、アニーはころころと笑う。
「もう、ジョークよダディ。ダディのことも愛してるわ。メジャーリーガーが父親だなんて、とってもクールじゃない? クラスのみんなもうらやましいって」
そうか――と、ドビーは顔だけで笑い返した。
メジャーリーガーだろうと大統領だろうと、多感な年頃の娘が別れた父のことなど話のタネにするはずはない。
自分を心配させまいとする子供なりの気遣いが胸に痛かった。
銀行員の新しい父親を『ダディ』ではなく『パパ』と呼ぶのも、自分への義理立てのつもりだろう。
何度注意してもアニーはその呼び方を改めず、とうとうこちらが根負けする形になってしまった。
「私よりダディのことよ。今年で三十才でしょ、しっかりしなきゃダメよ。ちゃんとごはん食べてる? 体は毎日洗ってる? ステートパークでテント暮らしなんてしてないわよね?」
「あ、ああ。郊外にアパートメントを借りてる。ご飯はクラブハウスに行けば出るし、遠征先ではホテルか外食だから……シャワーだって、大体、毎日浴びてるぞ、うん」
「ほんとうに? ハーバード・リードは言ってるわ、全くの自由はヒツゼンテキにタイハイを意味するって。一人暮らしに甘えてジダラクになっちゃダメよ」
「……やけに難しい言葉を知ってるな、お前」
「最近よく本を読むの。ダディみたくキョウヨウのない人間になっちゃダメだって、マミーが」
「そ、そうか……。マミーの言うことはよく聞いておけよ……」
ドビーはスキンヘッドに滲んだ汗をぬぐいながら、苦々しく言った。
別れた妻が娘を連れてロサンゼルスに越してから、二年になる。
住み慣れたこの街から移り住むのは、小さい娘には大変な苦労だったろう。
九歳にしてはませた物言いも、大都会に適応する上の必然だったかもしれない。
元妻の再婚相手とは裁判で一度会ったきりだったが、いかにもLAの銀行員といった堅実そうな白人だった。
ポマードで撫でつけた金髪にブランド物のスーツがよく似合っていて、スキンヘッドにTシャツ・ジーンズの自分とは、稼ぎはともかく育ちが違うといった感じだ。
注文していたコーラとコーヒーが来た。ドビーはコーラのグラスをとり、
「しかしよくマミーが会うのを許したな。虫の居所がよかったのかな。ダイエットが成功したとか、ハハハ」
「許してないわよ。だってマミー、私がダディと会うこと知らないもの」
「ブッ!」
含みかけたコーラを噴き出した。
「わ。ダディ、きたない!」
「お、お前、マミーとは話がついてるって、電話で!」
「だってそうしないと、ダディ、会ってくれないじゃない。せっかくの誕生日だっていうのにパパのシュッチョウが重なるし、二人っきりでマミーとパーティーなんてことになったら、ケーキがサプリメントでデコレーションされちゃうわ。ウェッ」
「それじゃ、まさか銀行い……じゃなかったパパのほうにも」
「言ってません。ホテルで一日中ニンテンドーのゲームをしてることになってるわ」
離婚時の裁判で、娘と会えるのはシーズン中のロサンゼルス遠征のときのみ、それも年に三回だけと決められていた。
娘の方から「誕生日だし、週末だし、パパがピッツバーグへシュッチョウだし、それについてく」と連絡があったときは、妻が弁護士に内緒で気を利かせてくれたのかと思ったが、父母そろって一杯くわされたらしい。
賢い娘は、自分が妻への確認電話などしないことを読み切っていたのだろう。
ドビーは飲みかけのコーラをテーブルに置いて、席を立った。
「ダディ?」
「帰るんだ、アニー。ホテルまで送っていってやる」
手を引く父に、娘は綱引きでもするように抗った。
「いやっ! 今顔合わせたばっかりじゃない!」
「こんなところを新しいパパに見つかったらどうする」
「ならダディが守ってよ! それともダディは私と会うのがイヤなの?」
――そんなことあるもんか。
娘から電話を受けたときどれほど舞い上がったか、このまま連れ去ることができたらどんなに幸せか、一晩中でも語って聞かせたいと思いながらも、できるだけ厳しく言葉を紡ぐ。
「約束を守らない子は嫌いだ。もう会えなくなってもいいのか?」
むぅ、とふくれっ面を見せるアニー。小さな拳がワンピースの裾を握りしめ、それからふと、
「……じゃ、いいわよ。会えなくて」
「何?」
「もう会いたくないって言ってるの。ダディなんて……大っっっっ嫌い!」
頭の上に隕石が落ちた。
父が娘に「嫌い」と言われるのは一般的にはそう珍しいことではないが、ドビー・ジョンソンにとっては致命的な破壊力を持つ。
妻と別れてから、女遊びは一度もしたことがない。
ギャンブルにもタバコにも手を出さない。
酒は週に一度スコッチを舐めるくらい。
郊外のアパートメントでの男やもめを支えたのは、ひとえに娘への愛だった。
ポケットには常に愛娘の写真を忍ばせ、食事前にも就寝前にも神より先に娘への愛をささやく。もはや親バカというより娘中毒と言っていい。
その娘に、大がつくほど嫌いと言われたのだから、そのショックは推して知るべしである。
「キ……キライ……キライ……キラ……イ……」
魂の抜けたように立ちすくむドビーの背中に回り込み、アニーは「はいはい戻った戻った」とテーブルへと押し戻した。
向かい合った親子の関係はすっかり逆転していた。
「ぶええっ、アニー……俺のアニー……。頼むよ……嫌いにならないでおくれよぅ……」
テーブルの上に泣き崩れるドビー。
一度クリーンヒットを受けるともろい男だった。
一方、アニーは腕組みしながらふんぞり返る。
優位と見るや、かさにかかって押してくるのは、母親ゆずりだろう。
「それ無理。エーリッヒ・フロムは言ってるわ、愛するゆえに愛されるというのがセイジュクした愛だって。私たちのシンミツな関係は今この瞬間、ホウカイしたとセンゲンします」
「そ、そんな!」
泣きじゃくる父に、娘はチラリと横目を流し、ふといいことを思いついたというように、
「ダディ。許してほしい?」
「ほしい! 許してほしい!」
「私のいうこと、なんでも聞く?」
「聞く! なんでも聞く!」
マシュマロのような頬が、にんまりとつり上がった。
「今日、ナイトゲームでロジャースとやるのよね」
「? あ、ああ……」
唐突に切り替わった話題に、ドビーはゲジ眉をひそめた。
ロジャースとは言うまでもなく、ロサンゼルス・ロジャースのことを指す。
LAを本拠地とし、今シーズン、ナショナルリーグ西地区の首位を快走する強豪。
現在はここピッツバーグに乗り込んできての、三連戦のクライマックスだ。
「その試合で、私への愛をショウメイしてほしいの」
「――ホームランを打て、と?」
たちまちドビーの金壺眼は輝いた。
野球をはじめたきっかけは、病気の子供にせがまれて本塁打を打ったベーブルースの逸話に感動したことだ。
まるで伝説の再現じゃないかと、いやが上にも胸が高鳴る。
しかし、アニーは首を振り、
「違うわ。そんなのつまんない」
と、やおら懐から一枚のカードを取り出した。
それをのぞきこみ、ドビーは一転、血相を変えた。
「そ、それは!」
「そう。ロジャースの四番バッター、ケビン・バズワルドのベースボールカードよ」
指の間にはさんだカードを揺らしつつ、半眼で笑うアニー。
ベースボールカードとは、選手の顔写真が貼られた収集もしくはトレーディング用のカードのことで、その選手のファンならたいてい持っているものだ。
しかし、ドビーのチームのファンだったアニーがそれを持っているということはつまり――
「パパが彼の大ファンなの。それで私も好きになっちゃった。今日のお仕事が終わったら、試合を見に行くわ。あーあ、もしロジャースが負けちゃったらどうしよう。パパってば普段ストレスのたまってる分、負けると荒れるのよねー。そしたら私やマミーにとばっちりが来て、行きつく先はカテイホウカイ………………ダディのせいね」
話の筋が見えてきた。剃り上げた頭から冷たい汗が落ちてくる。
だから――と置いて、アニーの口がこう動いた。
「今日の試合、ロジャースに勝たせて」
ノー! とテーブルに身を躍らせ、ドビーは娘の口をふさいだ。
「んー! むぐー!」
「めったなことを言うんじゃない! ファンの誰かに聞かれたらどうな……あヅぁ!」
掌をかじられた。
もだえ苦しむ父を尻目に、アニーはハンカチで優雅に口を拭いた。
「んもー、ダディの声の方がよっぽど大きいわよ」
「ア、アニー、よく聞け。ダディはな、プロなんだぞ。プロってのは勝つのが仕事なんだ。ワザと負けるのは仕事のうちに入ってない。ダディの言ってること、分かるか?」
「分かってるわよ。だからこそ言ってるんじゃない。アーネスト・ヘミングウェイは言ってるわ、愛するときはそのためにギセイを払いたくなるものだって。それともダディは仕事をギセイにできないの? 私を愛してないの?」
ドビーはうう、と唸り、
「そもそも! する・しないの問題じゃない。できないんだ。野球はチームスポーツだ。俺一人がどうしたところで、勝つときは勝つ、負けるときは負ける。そういうもんだ」
「でも、ダディはキャッチャーなんでしょ。テレビで言ってたわよ、グラウンドで起こることは全部キャッチャーがコントロールできるって」
「いや、それは人によるぞ。自慢じゃないが、ダディは自分のチームのピッチャーの顔と名前もろくに一致しないんだ。配球はほとんどベンチ任せだし、ましてや試合を左右するなんてとてもとても。なんでキャッチャーなんかやってるんだろうなぁ、ハッハッハ! ……は」
アニーの瞳は軽蔑の色に染まっていた。
ドビーは広い肩をすぼめてストローを噛み、
「と、とにかくダメだ。ヤラセっていうのはメジャーで一番のルール違反なんだ。もしバレたらダディ、偉い人たちに怒られちゃうんだぞ。お尻ペンペンじゃすまない、きっとクビだ」
「そんなの知らない。家庭をコントロールできなかったんだから、せめて試合くらいコントロールしてよ」
「お、お前いくらなんでもその言い草は」
「返事はッ?」
ぐわっ、と噛みつく娘に一瞬妻の面影が見えて、ドビーは軽くチビった。
これが試合なら五回コールド寸前といったところだろう。
アニーは無糖のコーヒーを一息に飲み干すと、有無を言わさずサヨナラの一撃を撃ち放った。
「でなきゃ、ダディとはもうゼツエンだから!」