4th inning : It's free. Please be assured.
「あーん? 何ゴチャゴチャやってんだ、向こうのベンチは?」
ホームベースの後ろから三塁側を覗き込み、ドビーは眉をしかめた。
イニングは二回のオモテ、カーニバルスの攻撃の順だ。
すでにアルゲニーズ側の投球練習は終わり、打者を待つばかり。
なのに、次のバッターがいつまでたっても出てこない。
試合の進行が止まり、観客たちが文句の声を上げ始める。――と。
『カーニバルス、バッターの交代をお知らせします』
場内アナウンスに、アルゲニーズパークがどよめいた。
まだ試合は序盤の序盤、しかも打順は四番で、これが第一打席だというのに。
おいおい故障か、とドビーがマウンド上の先発・チェンと顔を見合わせたとき、ベンチから人影が出てきた。
場内のカメラがその人物の姿をとらえ、大型スクリーンに映し出す。
【な、な、な……なんだあ、ありゃあ?】
というアナウンサーの声は、観客全員の心の声だった。
無理もない。
三万人の観衆の誰一人として、『バットを携えた修道女』などというものは、目にしたことがないのだから。
「ちょ……こらこらこらこら! 一般の人は入っちゃいかーん!」
もちろんアンパイアも黙ってはいない。大慌てで彼女に駆け寄り押し止めにかかるが、
「あら、初耳。ピンチヒッターは『一般の人』に入るのですか?」
「な、何ィ?」
「ああ……そういえば、この格好では無理もありませんね。では失礼して」
と、シスター服の襟をぐっとつかむと、
「うわっ!」
目をおおう審判の前で、バッ! と脱ぎ捨てて見せた。
【WOW!】
一体どんな手品なのか。テーブルクロスを抜き取るように引きはがされた服の下から、カーニバルスのユニフォームが現れた。
アウェー用のカラーであるグレーの生地。
豊かに盛り上がった胸元には、チームのシンボルである赤い鳥が留まっている。
大型スクリーンが映し出す背中には『RANGMARY』という選手名と背番号66――
「これで問題ありませんね。では失礼、ハレルヤ」
と、打席に向かうシスターを、もはや審判は止められない。
「おいおいマジかよ……世も末だな、修道女がバット持参で球場入りとは」
ドビーはウンザリとした顔で、打席に歩み寄るシスター・ラングマリを出迎えた。
「あら、女性にユニフォームを着せたのはそちらが先なのでは?」
「かもしれねぇが、シスターにやらせるほどバチあたりじゃあねぇよ」
たしかに、とラングマリは薄く笑うと、ブロンドの髪にヘルメットをかぶせて打席に入った。
なんだか気味の悪い女だ。
こんな異様な状況なのに、まるで緊張の色が見られない。
それどころか、呑んでかかっている感すらある。
カーニバルスの思惑は分からないが、年間観客動員数が毎年三百万人を超えるメジャー屈指の人気チームが、まさか客寄せパンダとして女を呼ぶはずはあるまい。
何かしらのビックリ箱が用意されているに違いなかった。
――まったく、頼むから普通に野球させてくれよ。
【さァ、今、謎のシスターが打席に入った! 天下のカーニバルスが教会バックにコケおどしとは恐れ入ったが、今日の先発チェンは親父さんの代からの仏教徒だぜ! 連れてくんならダライ・ラマにしとけよ、お祭り野郎!】
ラングマリが右打席に入る――途端、カメラマン席からすさまじい数のフラッシュが弾けた。
とにもかくにも、これは百年を超えるメジャーの歴史で初めての、『女性選手の打席』なのだ。
歴史的な瞬間を逃すまいと、シャッターの嵐がバッターボックスを蹂躙する。
が、次なる光景に、カメラマンたちは思わず指を止めた。
【なんだァ……?】
ラングマリの構え――腰を落とし、投手に正対し、バットを水平に持ち上げた格好。
すなわち、バントである。
回の先頭で、ランナーはいない。
セーフティバント狙いとしたら、構えるのが早すぎる。
「おいおいおいおーい! 野球知ってんのか、シスターさんよ!」「なんならリトルリーグのコーチを紹介すんぜ、初級者クラスのなァ!」
スタンドからも嘲笑まじりのヤジが飛ぶ。
が、当のラングマリはといえば、信者の懺悔を聞く聖職者のような顔を、内野手たちに差し向けるだけ。
「どうしました、迷える子羊たちよ。何ら恐れることはありません。悩みがあるのなら、私に話してごらんなさい。さぁ――」
いや、悩ませてんのはアンタだよ、というツッコミも忘れ、守備陣は互いの顔を見合わせた。
「え、どうすりゃいいの、コレ……」「いや……前進守備じゃね?」「でもなぁ……」
そこへ喝を入れたのはドビーだった。
「おらぁっ、内野ァ! オタオタすんじゃあねぇ! 定位置に戻りやがれ!」
ヒエッと散らばる内野陣。
ドビーはチッと舌打ちしつつ、もう一度腰を落とした。
ラングマリが何を企んでいるにしろ、この場面、避けなければいけないのは、変に警戒してフォアボールを出してしまうことだ。
前進守備など敷いてピッチャーに無用な心労をかければ、相手の思うツボ。
万が一セーフティを決められたとしても、点差は三点だ。
あせることはない。
「プレイッ!」
主審のコールを受けて、マウンド上の投手、チェンがグラブを構えた。
(油断すんなよ、チェン。イロモノならうちのチームにも約一名いやがるからな。何をしてくるか分かんねぇぞ……)
目くばせすると、チェンは分かってる、というように口元を引き締めた。
【さぁ、シスターの実力やいかに? 笑わせてくれよォ!】
セットポジションから、ゆったりとしたサイドスローのフォームが動き出す。
チェンは左投げだ。右打者へのボールはいわゆるクロスファイヤーとなり、体に向かってくるような恐怖感がある。
女相手にビビらせるのは気が引けるが、これも勝負だ。
【チェン、一球目を――】
投げた。
うなりを上げるファストボールが、エゲつない角度で打者の胸元めがけて飛んでくる。
よし、とドビーがミットに力を込めたその瞬間――想像を超える現象が起こった。
ラングマリのバットが、ボワぁ……と光りだしたのである。
「な?」
まるでスターウォーズのライトセーバー。
シスターの手にある木の棒の、その根元から先端へ青白い光が伸びてゆき、青く輝くLED蛍光灯のようになる。
こつん、とボールのぶつかる乾いた音。
ドビーは一瞬意識をトリップさせ、
「! ボールはっ?」
高々と、ショートの真上へ。
【っとぉ! ラングマリこれはバント失敗! なァんでぇ、口ほどにもねーぜ!】
打ち上がった打球はヘロヘロとショート後方へ飛んでゆく。
メジャーの直球を当てただけでも大したものだが、結果的にはなんの変哲もない、正真正銘ただの内野フライだ。
(考えすぎだったか……?)
【っと、ショートのウィルソンがちょい下がる……意外と風に乗ってるか? レフトもゆっくりと前に出てくる!】
真芯に当たったのか、フライはなかなか落ちてこない。
左翼手のラッキーが自分が捕るとアピールしながら前進してくる――が。
【おっと、まだ伸びるか? 一度出たレフト、もういっぺん後ろに退がる……どんだけ高く上がってんだコレおい?】
それでもなお、ボールは落ちてこない。
バットに当たってからたっぷり十秒は経っているのに、夜空に浮かんだ白い点は、大きさを変えないままだ。
観客たちの視線の上、早送りの月の軌道のようにボールは弧を描く。
スタンドに、向かって。
――おい、待て。
ドビーはマスクを放り投げ、怒声を放った。
「ラッキー! 退がれ、もっとだッ!」
言われるまでもなく、左翼手はすでに背走をはじめていた。
定位置はとっくに通り過ぎ、フェンスは目の前に迫っている。それなのに。
【お……落ちない! ボールがまったく落ちてこない! おい待てウソだろ、ウソだろォ!】
フェンスにへばりついたラッキーの頭の上、なおも打球は高さを失わない。
あんぐりと口を開け放つ観客を見下ろしながら、白いボールは悠々と空を闊歩し――
そのまま、場外へと消えた。
【ホ……ホームラァァァン!】
瞬間、球場を包んだのは、悲鳴よりもブーイングよりも、ええ――っ? という目の前の出来事を否定する声だった。
【ウッソだろ、おい! なんとなんとラングマリ! バントで場外ホームラン! ゲームの裏ワザじゃねぇんだぞ、おいっ!】
騒然とする場内を尻目に、ラングマリは悠然と一塁へと歩み出す。
まるで最初からこの結果が分かっていたかのように――いや、分かっていたのだろう。
「マジか、おい……ジョーダンきついぜ……」
揺れるブロンドの後ろ髪を見送りながら、ドビーはがくりとヒザをついた。
いくらなんでも、ビックリ箱にもほどがある。
こんな結果、どう受け止めろというのか。
【騒然の場内! アンビリーバブルなんてもんじゃねェぞ、こりゃおい! ……と、というか、ありゃ俺の見間違いか? シスターが打ちにいく直前、バットが光った気がしたぞ! イエス様に誓って言うが俺ァドラッグなんかやっちゃいねーからな! 酒だって、しこたま酔って彼女の股ぐらにゲロっちまって以来、一滴も口にしてねーんだ! あ? その彼女? もちろんフラれたよバカヤロー!】
やがてホームに帰ってきたラングマリは、宇宙人を見る顔のドビーに、苦笑を漏らした。
「そんな顔で見ないでくださいな。水晶のドクロ、ストーン・ヘンジ、ナスカの地上絵……世の中、もっと珍しいものはあるでしょう?」
返すべき言葉は、一つしかなかった。
「何者なんだ、あんたは……」
謎のシスターは、宇宙人のように感情の見えない、薄い笑顔で答えた。
「申し遅れました。私はシスター・アレクサンドラ・ラングマリ。貴方たちにとり憑いた悪魔を祓いに参りました」




