15th inning : I am a Major Leaguer.
「グッド・ジョブ! タマキ!」
ロッカールームは勝利の興奮に沸いていた。
その中心は当然、珠姫である。
「いやー、まいった! とんでもないジャックポットだ、おめぇはよ!」
「あのバズワルドの顔を見たかよ! マミーに叱られたガキみたいだったぜ!」
「今度はブードゥーの神様でも呼び出してくれよ! ハッハッ!」
逆転本塁打を打ったカーターでさえ、自分の手柄を忘れてルーキーの快投を祝っている。
祝福の嵐に押しつぶされながら、珠姫は「おウ、のウ」などとおたつき、なされるがままだ
「タマキ。ちょっとこっち来い」
その腕を掴んで引き寄せたのは、ドビーだった。
包囲網から無理やりに引っ張り出し、周囲の「おいなんだよ独り占めすんなよドビー」「そうだよこのハゲ」「そうだよこのタコ」「帰れよハゲ」「帰れよタコ」等のブーイングを置き去りに、ロッカールームを脱出する。
扉を閉めれば、そこは無人の廊下だ。
照明は薄暗く、喚声の名残りは遠い。
ドビーは周りに人のいないことを確認し、一つ深呼吸をすると、いきなりこう命令した。
「お前、俺を殴れ」
もちろん、珠姫は目を丸くするだけだ。
「意味が分かりまセんが」
「いいんだよ、俺が分かってんだから。さぁやれ、右でも左でもガツンと一発」
「いえ、そう頬を突き出されても。何がなんだか」
「うるせぇな、これでチャラっつーことだよ。ほらカモン!」
「ますますワケが分からないであルます。理屈も通らないのに言うことは聞けないであルます」
「てめぇも案外ガンコだな」
「そちらこそ案外タコであルます」
だから俺はタコじゃねぇ、と続けばもう後は止まらない。
言い合いはあっという間に口論に発展した。
もちろんドビーは自分の中でケジメをつけるべくこういう行動に出たわけだが、気恥かしさから事情を口に出さないため、事態がややこしくなって仕方ない。
しまいに「殴らなきゃ殴るぞ」と本末転倒の発言まで飛び出したそのとき、
「ダディ」
蚊の鳴くような声だったが、聞き逃すはずはない。
振り向いた廊下の壁際、タンポポのようにアニーは身体をもたせかけていた。
ロジャースのシャツは脱ぎ捨てられ、ピンクのワンピースが目に眩しかった。
「係の人が通してくれたの。私のこと、覚えててくれて」
彼女のずっと後ろには、スーツ姿の銀行員がちょっと所在なさげに立っている。
こちらと目が合うと、複雑そうな笑顔を残して、壁の向こうに消えた。
アニーをクラブハウスの前まで連れてきてくれたのだろう。
見回せば、いつの間にか、珠姫まで姿を消していた。
灰色の廊下で、離れ離れになった父と娘は向かい合った。
何をどう切り出せばいいのか分からない。
ロジャースを勝たせて――その約束は破られたのだから。
「アニー……俺は」
「ごめんなさい」
頭を下げたのは、アニーのほうだった。
目を白黒させるドビーに向かい、
「パパがロジャースファンだっていうの、あれ、ウソなの」
「な、ナニ?」
「パパ、野球は全然見なくて、ルールもよく分からなくて。今日は私が無理言って連れてきてもらったの。ロジャースのTシャツとかも、球場のショップのビジターコーナーで」
「お前、それじゃ……」
「ダディを困らせるための、ウソ。ごめんなさい」
どっと疲れが出た。
いや、よく考えてみれば分かることだったのだ。
野球選手と別れた妻が、野球好きの人間と結婚するはずはないのだから。
「……しかし、バスワルドのカードは何だったんだ。突発的なウソにしちゃ、あんなの持ち歩いてるのはおかしいだろう」
ワンピースの懐から、小さな木槌と釘が出てきた。
「この人、アルゲニーズ戦ですごく打つんだもの。東洋の呪いで、釘を打ちつけたら体調が悪くなるとかいうのがあって、それ用に」
二年を経て、娘はけっこう暗い性格になっていた。
「……アニー。悪いことは言わない。そういうのはすぐにやめなさい」
「でもマミーも時々やってるわよ。ダディのカードで」
「…………分かった。マミーにはダディのほうから、よおぉぉ~く言っておくから、とにかく真似するのはやめなさい」
はぁい、とちょっと残念そうにうなずくアニー。
と、ふと真剣な目で見上げてくる。
「ねぇ、ダディ」
「ん?」
「最後は、勝つつもりで、やったのよね」
責めるでも怒るでもない。
すがるような口調だった。
ドビーは正直に答えた。
「ああ。勝ちに行った。勝ちたかった」
アニーは喉を突かれたような顔を見せ、それでも懸命にこらえた。
やっぱりこの子は賢い子だとドビーは思う。
「マミーは言ってたわ。ダディは野球と浮気したって。やっぱり本当だった」
まっすぐすぎる言葉が、ドビーの胸を穿った。
「どうしておうちに帰ってきてくれなかったの。私、待ってたのに。ダディが帰ってくるの、寝ないでずっと待ってたのに。さびしかったのに。他のおうちの子みたいに、キスして、ハグして、絵本を読んで、おやすみの前にアイラブユーって言ってくれるのを、ベッドの中で待ってたのに……」
涙交じりの声は、やがて嗚咽に変わった。
そこにいるのは気丈で聡明で、ちょっと生意気な少女ではない。
ただの、九才の女の子だ。
ドビーはしゃがみこんで、その肩に両手を乗せた。
二年の間にこんなに背は伸びたのに、どうして肩の小ささだけは変わらないのだろう。
「アニー。俺はメジャーリーガーだ」
小さな肩がびくりと震えた。
アニーは何かをこらえるように一度唇を噛みしめ、
「だから、私より野球を選んだの?」
「ノー」
二年前、去ってゆく妻にも娘にも想いを伝えられなかった。
うまく言葉にすることができなかったから。
けれども今なら言える。
いや、言わなければならないとドビーは思った。
「メジャーリーガーはな、ボールとバットで語るんだ。キスする代わりにバットを振って、ハグする代わりにボールを取る。アイラブユーの想いを込めてホームランを打つのさ。ダディはいつだって、お前のことを想いながらプレーしていたよ」
心からの言葉は、しかし、紡ぐごとに哀しくなった。
言うことにウソはない。
だけど――
「でも、ごめんな。きっと伝わらなかったな。俺はバカでハゲでタコだから、いつだって失敗してばかりだ」
寂しそうに笑う父に、アニーは首をふるふると振った。
「ううん……そんなことない。ママを止めるけど、私、いつもダディのことをテレビで見てたから。たくさんのホームランを見たから。あれは、ダディのアイラブユーだったのね」
クルミの目から、ぼろりと大粒の涙がこぼれた。
「でも、ダディ。ひとつだけ、ワガママ、言わせて。私……ダディの口からアイラブユーを聞きたい」
ドビーは強く娘を抱きしめた。
「アニー。愛してる。世界中の誰よりも」
「私もよ、ダディ……!」
父の肩で、アニーは声を上げて泣いた。
「明日からは打ってね。私、やっぱり強いダディが好き」
「ああ、打つさ。ロサンゼルスまで届くような、でっかいホームランだ」
静寂の支配する廊下で、親子はしばし抱き合った。
ふと、ドビーの肩を叩く手。
泣き顔を上げると、そこには珠姫のおだやかな顔があった。
「タマキ……ありがとうな。お前のおかげだ」
いつになく素直に礼を言うドビー。
それに対して珠姫は笑い返し――
その顔を、ブン殴った。
「ほゲェッ?」
完全な不意打ちにひとたまりもなく転がり、
「な、何しやがる!」
頬を押さえて起き上ったドビーに、珠姫はキョトンと、
「いえ、殴れ、と言われたものであルますから。その通りに」
「おま、さっきはイヤだっつってたじゃねぇか!」
「それがダすね。一人になって考えていたのであルますが、多少理屈に合わなかろうと、やはり先輩の言うことは聞いておかなければならないと思い直しまスて」
姿を消したのは、気を利かせたのではなく、黙考するためだったらしい。
一体どこまでズレているんだこいつは、とドビーは目まいを覚えた。
そしてアニーはというと、殴られた父を心配してくれるかと思いきや、
「パパ、弱い……」
「えええええっ?」
口元に手を添え、眉をひそめる彼女の顔が『ショック』から『幻滅』へと変貌していく様を、ドビーは確かに見た。
「あっ、ねぇ。あなた、最後に投げてた女の人よね? すっごくクールだったわよ」
「ありがとうございムす。アナタ、どびーサンの娘サンであルますか? 美人サンであルますね。お父サンに似なくてよかったであルますね」
「そうでしょ? よく言われるの」
ウフフフと微笑み合う初対面のはずの二人。
ドビーはうつむき、ぶるぶると体を震わせた。
「おや、どうしたであルますか、どびーサン。おトイレはあちらであルますよ」
「こ……」
「コ?」
「殺す!」
「しかしアレだなー。勝つのって気持ちいいよな。今日はシビれたよホント」
「だよな。ルーキーがあんだけ頑張ったんだし……俺、明日から気合い入れよっかな」
「なんだよおめーら、急にやる気になりやがって、単純なヤツらめ」
「いいだろ別に……ってかお前こそいきなりバーベルとか持ってんじゃねぇよ。誰より気合入ってんじゃねぇか」
「へへへ、まあまあ……っおごぉっ!」
「待てコラアアアアア!」
「おわっ、なんだぁ?」
「どうした、タマキ、ドビー!」
「待ちやがれてめぇ! ブチ殺してやる!」
「な、何であルますか! 命令を聞いたら今度は怒り出すとは、理不尽の極みであルますよ!」
「うるせぇ! もう二度とてめぇの球なんか捕らねぇからな!」
「なんと、であルます!」
「おい落ち着けお前ら! カーターが! カーターが下敷きに!」
「ええい、どけーっ!」
「の――っ!」




