13th inning : I CaMe HeRE tO bE tHe GreatEsT PitchEer iN tHe woRLD.
酔いどれ監督は、紙袋を丸めて放り捨てると、バランスを保っているのが奇跡そのものの千鳥足で、人垣の中に歩み出た。
「うお~い、お前らよぉ~っ、ケンカなんてやめろよぉ~っ、酒がマズくなんだろがよぉ~っ。人類平和で酒がウマいってなぁ、ウェッヘッヘッヘ」
雰囲気ブチ壊しのヘラヘラ顔で、珠姫とバズワルドに声をかける。
その息の酒臭さときたら、場の全員がウッと顔をしかめたほどだ。
が、当事者二人はまるで意に介さない。
というか、ピネイロの顔すら見ない。
「このメスザルはサルの分際で人間サマにケンカを売りやがった! 生かしちゃおけねぇ!」
「非礼を笑って見過ごせるほど、ワタシは寛容ではないであルます。ケンカ上等であルます」
やれやれ、と監督はアクビと同時にしゃっくりをかまし、
「お~いバズ公よォ。ウィック、そのへんにしとけよぉ? 女相手にすごんでもつまらんぜぇ」
「つまるもつまらんもねェ! 俺はこの黄色いゴミをグラウンドから排除したいだけだ!」
怒り心頭のバズワルドは、もはや相手を選ばない状態である。
それでもピネイロはヘラヘラ顔を崩さない。
「な~るほどぉ」などと言いながらコクコクうなずくと、次に、一同があぜんとすることを口にした。
「そんじゃあよぉ、この女を下げようや」
はァ? と場の全員がハモった。
『下げる』とはもちろん『降板させる』の意味だ。
そして『この女』とは珠姫のことだ。
試合終了まで残りワンストライク。
その場面で、彼女をマウンドから下ろそうと言うのだ。
「ちょ、何言いだすんですか監督!」「そうっスよ、今さら!」
詰め寄るアルゲニーズの面々に、監督はいかにも面倒くさそうに、
「だって、しょうがないだろうぉがよぉ~っ。このままやらせても収まんねぇだろがよぉ~っ。俺っちは平和主義だかんよぉ~っ、こっちから火種をしまってやりてぇわけよぉ~っ」
面々はこぞって閉口した。
理屈かもしれないが、あまりにやることが極端すぎる。
しかし、極論でも酔っぱらいでも、監督は監督。
彼が下げろと言えば下げるしかないのだ。
しかししかし、珠姫を下げてしまったら、一体誰がバズワルドを抑えるというのか。
「監督、早まらんでください」「監督やめてくださいよ」「監督を辞めてくださいよ、監督」
「うるせぇなぁ。大体よぉ、この女のボール、キャッチャーが捕れねぇじゃねぇかよぉ~っ。そんなん投げさせてどうすんだってんだよぉ~。なぁ、ドビー?」
「はっ?」
いまだにバズワルドのケツにすがりついていたドビーは、いきなり話を振られて、バネのように立ち上がった。
「な、なんで俺に聞くんだよ、監督?」
「だってお前の話だもんよぉ。まぁ、お前が捕れるってんなら考え直さねぇでもねぇけどよぉ、そりゃ無茶振りってもんだよなぁ、んん?」
見回してみれば、いつの間にか、群衆の視線はドビー一人に集中していた。
いや待て、なんで俺が決めるみたいな流れになってんだ、とドビーは困惑し、しかし、ハッと思い直した。
これは意外と妙案かもしれない。
ピネイロの言う通りに珠姫が下がれば、バズワルドを封じられる投手はもういない。
しかも監督命令なのだから、自分が疑いの目を向けられることもない。
こんなおいしい話があるだろうか。
「そ、そうだな……。不本意だがしょうがねぇ」
衆人の凝視の中、できるだけ無念そうに顔を作り、コホンと咳払いを一つ、
「こいつを下げ……」
と言いかけた口が、しかし、その途中で止まった。
ルビーの瞳が、こちらを見ていた。
「……」
にらむのではない。
すがるのでもない。
ただ、赤ん坊が母親を見るときのような、波立たぬ水面のような、珠姫の目。
ドビーは黙り込んだ。
怖気づいた、と言ってもいい。
おい、なんだ。なんでそんな目で俺を見る。
この俺に、一体何を伝えたいんだ。
そもそも――なんでこんなことになっているのだろう。
決まっている。
この女のせいだ。
こいつがバズワルドにケンカをふっかけたせいだ。
女でヨソモノのルーキーが、自分の三倍ほどもデカい本塁打王に向かってブラッシュボールを投げつけたせいだ。
天然記念物ものの大バカヤローだ。
何でそんなことをする?
このバカヤローは、なんだって、そんなバカなことを?
決まっている。
俺のためだ。
こいつは、バズワルドに馬鹿にされた、俺のために怒ったのだ。
女でヨソモノのルーキーが、今日初めて顔を合わせたばかりのキャッチャーのために、自分の三倍ほどもデカい本塁打王に向かってケンカを売ったのだ。
「……俺は……こいつ、を……」
団子状に集まった選手たちは、まだ自分の言葉を待っている。
その注視から逃げるように、ドビーは彼らの頭の向こう、スタンドに視線を飛ばす。
ヤジの飛び交う三塁側の観客席で、心配そうにこちらを見つめる少女の姿が見えた。
――アニー。
俺の最愛の娘。
あの子のためなら、命だって惜しくはない。
ましてや、約束を破る気など。
だけど今、珠姫をマウンドから下ろしたとして。
自分のために怒ってくれたこの少女を、裏切りながら、約束を果たしたとして。
自分は父として、男として、胸を張って娘の前に立つことができるのだろうか。
――くそっ。
ドビーは苦りきった顔を上げ、正面切って酔いどれ監督を見据えた。
「必要ねぇ」
「あ~ん?」
「下げる必要はねぇ、ってんだ。こいつのボールは、俺が捕る」
監督は唇を『W』の形にして、「へぇぇ~~」と、おちょくるように笑いを浴びせてきた。
「捕れんのかよぉ? お前がぁ? ホント~にぃぃぃぃ~~?」
もう、売り言葉に買い言葉だった。
「ドビー・ジョンソンに二言はねぇ。捕るつったら捕る。もちろんこの田舎モンの筋肉ダルマにゃ、一インチも前に飛ばさせやしねぇ」
途端、背後の空気が三十度は上昇した。
振り返れば、もはや人間の顔を保持していない、バズワルドの悪鬼の面があった。
「おいドビー……今のは俺の聞き違いか? その田舎モンってのは、まさか俺のことか?」
怖くない、と言えばこれほどのウソはない。
体格的には何インチも違わないはずの白クマ男は、しかし、いまや自分の二倍以上はあるように感じられた。
本物のホッキョクグマと相対しても、これほどの威圧感はないだろう。
マシンガンを突きつけられたほうがよっぽどマシだ。
それでも。
「他に誰がいるんだ、この白ブタ野郎。とっと打席に帰れよ」
「……て・め・え」
射殺す視線から、逃げるわけにはいかない。
コケにされたらケンカ上等。
まったく情けない話だ。
ルーキーの珠姫のほうが、よほどメジャーの流儀を分かっている。
ただ、一つだけ。彼女にはまだ理解していないことがある。
メジャーのケンカは、拳でやるのでも、マシンガンでやるのでもない。
「俺はメジャーリーガーだ。メジャーのケンカは、バットとボールでやるもんだ」
完全に自分を敵とみなしたバズワルドに、正直言おう、ガンを返すのが精一杯だった。
だから、そのとき珠姫がどんな顔をしているのか、知るよしもない。
ただ、バチバチとぶつかり合う視線の横。
酒気にまみれたニヤけ声が、こうぬかすのだけは聞き取ることができた。
「そ~かい。じゃっ、たのむわ♪」
「ブチのめしてやれよっ、ルーキー!」「ビビらず行け! バックは任せとけよ!」「あのクソヤローに吠えヅラかかせてやれ!」
輪なりになった内野陣が珠姫の体を次々にハタきながら、守備位置へと戻ってゆく。
全米一のヘタレ集団であるアルゲニーズの面々も、女に手を上げようとしたバズワルドの横暴さには、さすがに腹が立ったらしい。
どの顔にも常にない闘志がみなぎっていた。
マウンドに残ったのは、二人。
珠姫とドビーだ。
「くっそー、なんだかうまいこと踊らされた気がするぜ。とんだタヌキだ、あの酔っ払い」
まさか自分が敗退行為に走ろうとしたのを、見抜いていたんじゃなかろうか。
さすがにそこまでは考えすぎだとは思うが、念のため、今度からバーボンの瓶に睡眠薬を混ぜておこうと思う。
一方の珠姫といえば、平然とした様子でマウンドをならすだけ。
そのポーカーフェイスには、さっきの視線の残骸すら見当たらない。
「ヘイ、言っとくがな、タマキさんよ。俺ァ、感謝なんてしちゃいないからな。あんなことされなくたって、自分のケツくらい自分で拭けるんだよ。アレはあくまでお前が勝手に、」
「はイ。ワタシが勝手にしたことであルます。どびーサンは何も気にしなくていいであルます」
さらりと返されて、ぐっ、と喉を詰まらせた。
なんてクソ生意気な女だ。
「……あのバケモンに勝てると思うのか? 自慢のレーザービームはお空のてっぺんまで打ち返されちまったんだぜ。不意打ちのブラッシュボールだって、二度は通用しねぇ」
「勝てるであルます。アナタがいれば」
「お前な……」
「どびーサン」
説教を食わらそうと思った矢先、珠姫の声にさえぎられた。
いや。
気圧された。
彼女の、これまでで一番真剣な声と、強いまなざしに。
「ワタシがここにやって来たのは、世界一のピッチャーになるためであルます。『なりたい』のではなく『ならなければいけない』のであルます。だから、こんなところで負けるわけにはいかないのであルます」
こいつは、何者なのだろう。
表情も口調も静かでありながら、マグマを蓄えた大きな山のようなこの気迫。
たった一人で海を渡り、たった一人でマウンドに立つ、この少女は一体――。
「どびーサン。次は、ワタシの最高の球を投げるであルます。今まで誰も捕ることができなかったボールであルます。どうか――受け止めてくだサい」
今までの球でバズワルドを抑えられないのは、彼女自身が一番分かっているのだろう。
ドビーは唾を呑みこんだ。さっき『捕る』と言った言葉にウソはない。
しかし――
「どうだかな。俺はモントレーへのボールも捕れなかったんだぜ……それ以上のボールなんぞ投げられたって……」
いいエ、と首を振り、珠姫は思いがけない力強さで手を握ってきた。
「アナタは、ワタシを守ってくれたではないであルますか」
「……」
「ワタシはアナタを信じるであルます。ワタシたちは、バッテリーであルます。六十フィート六インチの運命共同体であルます。たとえアナタがアナタを信じられなくても、私は、アナタと、六十フィート六インチの運命を信じ抜くであルます」
一点の曇りもない、それはまさしく珠のようなまなざしだった。
ドビーは舌打ちとともに、握られた手を振り払った。
マウンドに背を向けながら、ぶっきらぼうに言い捨てた言葉は、ただ一言だった。
「好きにしろ」
珠姫は紅の目を薄く細めた。
出会ってから初めて目にする、彼女の笑顔だった。




