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短編集Ⅲ

アンダンテ

作者: 有里

 山内暁(やまうちあきら)新井峰(あらいたかし)と初めて顔を合わせたのは、ゆだちの多い時期だった。茜色の傘を差し出した男は物静かに、ただ、

「濡れますよ」

 とだけ言って、暁の隣を歩いた。目尻と口元に微かな皺がある横顔を盗み見ながら、暁は不思議な気持ちでいっぱいだった。

 男が新井峰という人物だと知ったのは、彼が暁を別荘へ送り届けた後、ささやかな小川を挟んだ向こう側にある平屋の家屋に入って行ったからだ。

 暁は毎年、夏のひと月を、軽井沢の別荘で過ごす。国道十八号線とバイパスの間にあるプリンス通りから一本裏道に入った所にある別荘は、暁の父親がゴルフをやる為だけに購入した別荘だった。二十畳もある広いウッドデッキは、晴山ゴルフ場に面しているのだ。

 暁は、自身と同じような別荘客が、ゴルフをして周る姿を眺めて過ごしたことがある。だが、ゴルフのことはてんで、分からなかった。スポーツといえば、父親が死んでから増設したテニスコートで、友人とテニスを楽しむ程度だった。それ以外は外へ出ることはなく、家じゅうの窓を開け放したまま、座り心地の良いレザーソファで、雑誌を捲ってみたり、うとうとまどろんでみたり、絵を描いてみたり、古いレコードに耳を傾けてみたり――思いのままに過ごしていた。休暇を終えて東京に戻れば、また、煩わしいだけの生活が待っている。

 着信を知らせる携帯電話の電源を切りたい思いを抑え、暁は煙草を銜えて窓辺に立った。いつの間にか空は暗くなり、一際冷たい風が吹き込んだかと思えば、大きな雨音が響く。飛沫が入り込むのも構わず、暁は木立と芝生の緑が濡れていくのを見詰めた。渇いた絵の具に、一筋一筋、水を垂らしていくようだった。その内、キャンバスは水で溢れて、全ての色味が混ざり合って、絵は滲むだろう。

 暁は幼い頃、綺麗な色を混ぜ合わせれば、それはそれは綺麗な色が出来るのだろうと信じていた。だが、全てを混ぜ合わせて出来る色は、面白味のない黒色ひとつだ。わくわくして絵の具を出して、落胆したことを覚えている。

 溶けかけた絵の中で、鮮明な白が、ゆらゆらとたゆたう――…人差し指と中指に熱を感じて、暁は慌てて煙草を灰皿へ押し付けた。艶やかな緑の合間を、向かいに住む男が傘も差さず、歩いている。雨はぽつりぽつりと弱まっていた。真白いシャツが張り付いて、細い体を浮かび上がらせている。――暁よりも一回りは年上だろうにしても、窪んだ胴回りや、ほっそりとした首筋は病的で、柔く、老けて見えた。

「……風邪を、ひきますよ」

 暁はほんの少し、声を張った。向かいの男は暁を見て、

「こんにちは」

 と笑っていた。

「傘を忘れてしまいました」

 弱く微笑む顔は、まるで雨に濡れることを楽しんでいるようだった。

 暁は新しい煙草に火を点けて、深く吸い込んだ。

「煙草を吸われるんですか」

「ええ」

「そうですか……。歩くと、気持ち良いものですよ」

 暁は何と答えれば良いものかと、男を見詰めた。男は軒先でハンカチを取り出し、額を拭っている。

「…そうですか、…」

 男は濡れたシャツの裾を絞って、玄関の鍵を開けていた。暁は窓を閉め、灰皿を持ってリビングへ移動した。雨はもう、止んでいた。

 それが、はじまりだった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 夏の早朝は、思いの外気持ちのいいものだと、暁は正直にそう思った。

 夜間に冷えた空気が、湿り気を帯び、足元に漂っている。だがそれも、すぐに消えてしまうだろう。明るい光に溢れる空は青々として、爽やかさの中に、確かに夏の気配を感じさせた。日が高く昇るにつれ、気温が上がっていく。

 十年前に比べると、軽井沢の夏も随分と“夏らしく”なった。気温が三十度を超えるなんて、暁は思ってもみなかった。信じられないことに今ではどこの別荘にも、クーラーが設置してある。昼間の日差しはじりじりと肌を焼くようで、ゴルフを楽しむ女性三人組は、暁が眺めている短時間の間にも、日焼け止めを三度も塗り直していた。

 南ケ丘別荘地の散策が日課になってから、暁は度々、隣近所の新井峰と顔を合わせる。何をするでもなく、ぶらぶらと小道を入ったり、足元の草花を眺めたり、背の高い木立の合間を通ったり。時には足を延ばして、旧軽井沢の方面へ立ち寄ったこともある。“ささやきの小径”や“幸福(ハッピー)(バレィ)”と呼ばれる散歩道の由縁や、多くの文学者が好んだ縁の地であること、宣教師ショー氏が訪れたことから避暑地としての軽井沢が誕生したことなど、彼の話はどれも知的で分かりやすく、飽きることはなかった。暁は初めて、この地の歴史を知ったのだった。周辺にある美術館を巡回するバスで、一日、美術館巡りをしたこともあった。

 何気ない言葉を交わす内、新井峰が暁よりも十五年上で、生まれも育ちも軽井沢であること、県の情報誌にコラムを持ち、一時期は新聞の連載小説を担当していたこと、時代小説を多く書く作家であること、事故の後遺症で左下肢にごく軽度の麻痺があることを知った。小説を執筆する以外は、よく、散歩にでかけているらしい。あちこちにある抜け道も裏道も、彼は誰よりも知っていた。

 新井峰は無駄な話はせず、暁の調子(ペース)を乱すことなく、心地良い距離感で接してくれる。それが彼の癖なのかは分からないが、一緒にいても息苦しくない相手だった。暁は久し振りに、いつの間にか自分が笑っていることに気付いた。

「地球、温暖化ですね」

 新井峰の自宅には、正面玄関横に小さなテラスがあり、木製のテーブルセットが置いてある。暁は自身の自慢のウッドデッキから見えるものとは違った景色を眺めながら、頬杖をついた。

「夏は限りなく暑くなって、暑くなって……冬はずっと寒くなって、異常気象がその内、異常ではなくなってしまう」

 暁が大袈裟に肩を竦めてみせれば、新井峰は作りたてのサンドウィッチをテーブルに置いて、暁の真似をするように小さく肩を竦めた。

 暁が冷たいものが良いと言ったから、グラスには冷えた麦茶が入っている。

「わたしは暑い夏というのも、嫌いじゃないですよ」

「ええ、でもそれは“軽井沢の夏”ではなくなってしまいませんか」

 風が、木々を揺らす。土のにおいと小川のにおいが、濃厚に漂う。木漏れ日が、光っている。

 暁は、だが“軽井沢の夏”というものは、どんなものだったか、と思った。

 新井峰は眩しげに、目を細めた。

「そうですね。昔はもっと、静けさの中にも品があって、中身の詰まった素朴な町だった気がします。…とは言え、今と昔を比べることほど、ナンセンスなことはないでしょう」

 駅前にアウトレットができ、旧軽井沢銀座を訪れる観光客は減った。店舗も入れ替わり立ち替わり、軽井沢にはなかったチェーン店もできた。観光客や別荘の客層にも、変化があった。人間が変われば、土地も変わる。

「うん、まあ……俺はあなたのように、ここに住んでいる訳ではないから、偉そうなことは言えないけれど。気取らなくても、素敵なところだったと思うな……」

 幼い頃のことは、あまり覚えてはいない。だが、暁にとって休暇を軽井沢で過ごすことは、夏の“きまり”であり、贅沢なことだった。それは今でも変わってはいない。

「でも、……気持ちいい風が吹いて、自然のにおいがして、こうしてのんびりお茶をする。結局――、根本的なところは変わらないのでしょう」

 暁は手を合わせてから、サンドウィッチをひとつ取った。新井峰は庭に生い茂る草木を眺めながら、微笑む。

「そうですね。わたしの生活も、さほど変わってはいません」

 目尻の皺が、深く、笑む。しみじみとした物言いに、暁は彼の横顔をじっと見詰めていた。どんなことに思いを馳せているのか、深く綺麗な瞳の色をしていると、暁はその時初めて思った。振り向いた彼と正面から視線を合わせて、暁は内心狼狽えた。真摯な、澄んだ眼差しから、目が離せない。微かに、彼の頬は強張っていた。

「……見ますか。滅多に乗らないけれど、いつも綺麗にしているんです」

 新井峰が裏手にある古いガレージを開け、暁は地下室のようにひやりとする車庫へ入った。電灯の白い光に照らし出されたのは、一台の車だ。それが目に入った瞬間、暁は子供のように興奮した。

 橙赤色のボディが滑らかに光り、優しげな曲線は見る者を惹きつけて止まない。丸目のヘッドライトは愛らしく、印象的である。――ハンドメイド・モデルと呼ばれる、初代117クーペだ。ナンバープレートの数字を見てまた、暁は微笑ましい気持ちになった。

「117、か。愛を感じますね」

 新井峰は壁際に立てかけてあったパイプイスを出して、車の前に腰を下ろした。膝に腕をついて、前屈みになったまま、暁を見上げ、眉を下げるように弱く笑う。

「親友の、形見なんですよ」

 自嘲的で寂しげな声に、暁は言葉を失った。

「もう二十年以上……。思えば随分、昔のことになってしまった。…」

 新井峰の声は、決して感情的ではない。淡々と、水が流れるように言葉を紡いでいる。だが、そこには情愛の念が滲みでているような気がした。聞くには憚られるような深い悲しみと諦めと、消えることのない、特別で密やかな情。

 磨き上げられた車体は、鮮やかで温かみのある色合いであるのに、暁にはどこか空虚さをも感じさせた。もしも車に人間と同じような感情があるのならば、この車は泣いて泣いて泣き疲れて、死んでしまった車だ。滅多に乗らないと言っていたが、きっと、乗れないのだ。いくらエンジンが快調に動いても、走れないのだ。彼の心、そのものだ。

 その“親友”は、どんな人だったのだろう――…暁は、聞くことはできないと思った。安直な好奇心で、暴いていい思い出ではないだろう。

 美しく悲しい橙赤色の車の前に佇んだまま、暁は何も言えなかった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 東京に戻ってから、暁は仕事に掛かりきりになっていた。

 暁の会社はもとは不動産会社だった。今では不動産事業の他に、ホテル事業や飲食事業、介護事業の四事業を経営している。その、代表取締役社長である。本来ならば、ひと月も休暇を取れるほどの人間ではないが、暁は自身が部下や周囲の人間に恵まれているといつも思う。その代わり夏が過ぎれば、自由な時間は一切無い。

 秘書が一日の予定を復唱している。暁が、毎度のように右から左へと聞き流していることに気付いているのだ。仕方なく了承の声を上げれば、ノンフレームの眼鏡をかけた知的な容貌が満足したように微笑んだ。暁の秘書を務める新関瑠美子は暁より八も年下だが、暁が怠けないよう時に厳しく、そして誰よりも優秀な秘書だった。

「ああ、そうだ――新関さん。辻村くんから連絡はなかった?」

「大岡出版の辻村編集長ですか? 今のところ、連絡はありませんが……電話があればすぐに繋ぎますか?」

「うん、いや…プライベートなことだから、どうしようかな…」

 暁が、友人でもあり出版社の編集長でもある辻村聡に電話を入れたのは、東京に帰ってすぐのことだった。新井峰という名をペンネームとして使っているか定かではなかったが、軽井沢に住む作家を知らないかと、暁は聞いてみたのだ。彼がどんな本を書くのか、読んでみたかった。辻村はまた後で連絡すると返答した。それからひと月近くになる。

 辻村から連絡があったのは、さらにひと月経った頃だった。

 メールに添付されたリストを順に見ただけでも、新井峰という名は見当たらなかった。欲を言えば、作家の本名や年齢、詳しい作品のリストも知りたかったが、辻村もそれは流石に勘弁してくれと言っていた。暁は数十名のリストの中から、まずは男性名と思われる作家とそうでなさそうな作家を分けていった。中には、軽井沢に別荘を持つ者や、移住した作家も含まれている。辻村には、長野県軽井沢町出身の、と付け加えるべきだったと暁は思った。

 最終的に目星を付けた人物を、インターネットで検索していく。もしも運良く写真や画像があれば、一目で分かるからだ。休憩時間や睡眠時間を削って、地道に一人ひとりを調べながら、暁は何だかおかしくなって、思わず笑いたくなるほどだった。まるで、好きな女の子を気にする高校生のようだった。

 疲れた目を解すように指で押さえながら、暁はふっと力を抜いて背凭れに寄り掛かる。デスクに置いた煙草を一本、銜え、火をつける。紫煙が、薄暗い部屋に漂う。

 ガレージで見た、泣き出しそうなくらい寂しげな顔を思い浮かべれば、暁は、締め付けられるような痛みと甘い痺れのような感情が、心の底に沈殿していく気がした。なぜだか、気になって仕方なかった。

「――社長、何を読み始めたんですか?」

 秘書の新関が、会議で使う書類を差し出しながら言った。暁のデスクに置いてある文庫本を、不思議そうに見ている。暁が熱心な読書家ではないことを、彼女は知っているのだ。

「この、小説。阿久津青山(あくつせいざん)っていう人の。新関さん、……知っている?」

 滑らかな革のブックカバーを外して、表紙を見せると、新関は何かを思い出したように頷く。

「作家の名前は知りませんでした。でもその本のタイトル、聞いたことがあります。何年か前にすごいブームになった話で、ドラマ化されたものですよ」

 暁は口を小さく開けたまま、

「へえ…」

 と感心してしまった。

 無言のまま、表紙に載っている阿久津青山という名を見詰める。彼は、三十年前に文学新人賞を受賞してデビューした作家である。江戸を舞台に、腕は立つが仕事を怠ける無精者同心・藤本源一郎と岡っ引き・熊吉の活躍を描いたシリーズ物が、一般的に知られている著書らしい。

 だが暁が読んでいるものは、その時代小説とは毛色の異なった、現代的な恋愛小説だ。性別も職業も生い立ちも様々な人間の感情が入り乱れる、十編の短編集だ。時代小説ばかりの著書の中で、唯一、現代を舞台にした小説だった。普段、小説を読むことのない暁は、短編集の方が読みやすいだろうと思ったからだ。

 そんな風に、ただ安易な気持ちで読み始めた暁だが、すっかり、夢中になっていた。優しい語り口で、著者の言葉の選び方が、暁は好きだと思った。青春のような酸っぱさと爽やかさが溢れる話、繊細で脆く、ひどく切ない話、春の日差しのように暖かく、笑える話――…愛の形も、まさしく十人十色で、同じものはひとつもない。

 文庫本の活字を目で追いながら、暁の耳には、新井峰の心地良い掠れ声が聞こえていた。体の奥底まで染み渡るように、文章が入り込んでいく。

 一日一話を目標に読み始め、暁はとうとう最後に収録されている一話を読み終えた。本を閉じ、目を伏せ、深く息を吐く。まるで、全力疾走をしたような心持ちだ。ふと時計を見れば、午前一時を過ぎている。今日は会議が長引いて帰宅するのも遅かったのだ。忘れかけていた疲労感が甦り、暁はベッドに仰向けになった。

 夜中でも、都会は明るい。窓の外の明かりで、薄ぼんやり、天井が見える。

 静まった部屋の中で、暁はただ、灰色の天井を見上げていた。頭の中では先程読み終わった本の内容が、ぐるぐると渦巻いている。目を瞑っても、映画のように映像が流れるだろう。本に収録されていた十編は、どれもこれもフィクションだ。それでももしかしたら、あの一話は、本当にあったことだったのかもしれないと、暁は漠然と感じていた。

 男ふたり、女ひとり、三人の幼馴染の話だった。ありきたりな繋がりでありながら、そうではなかった。それぞれが最後まで、振り向くことのない相手を想っていた、報われない恋の話だ。

 誰の目にも触れず、胸の内で守り続けた秘密が、ある一瞬、交差する――。偶然であって、必然のようで、三人が相手の中に垣間見た“それ”は、色鮮やかに咲いて、すぐさま散ってしまう花のようだった。

 古いガレージにある、決して古くはならない車と、似ている、と暁は思った。だが、彼らは“それ”を捨てることはできず、大事に大事に、胸に抱え続けていく。たとえ“それ”に傷付き、傷付けられても、渾々と湧き出る泉のように、降り積もる雪のように、“それ”は消えないのだ。甘くて苦い、愛だった。

 暁は寝返りを打ち、枕を引き寄せ、きつく目を瞑った。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ホームに降りた瞬間、肌が痛いと暁は思った。寒いよりも、痛い。

 会社からそのまま東京駅へ直行して、二十二時四分の最終の新幹線に飛び乗ったのだ。マフラーも手袋もなく、スーツにコートを羽織っただけの格好。鞄を持つ手が、悴んでいる。その手で切符を改札機に通し、灯りだけが煌々としている無人のエントランスに立つ。北口から南口へ、広々とした通路を冷え切った風が吹き去った。

 通路の中央に飾られた三メートルほどのクリスマスツリーを眺め、暁は身を竦ませながら、南口のペデストリアンデッキから階段を下りて、タクシー乗り場へ向かった。

 風があるからか、雲は流され、空は晴れ渡っていた。群青の空一面にちらちらと輝く星が散らばり、浮かび上がるような、柔らかな光が差している。空気が澄み切っていて、月の光がよく届くのだ。

「雪はまだ降らないんですか?」

「浅間はもう白くなってますけれど、この辺はまだこれからですよ」

 ミニバンの広い後部座席で、暁は別荘管理を任せている土屋優一へと問い掛けた。優一は白髪交じりの髪をかき上げて、

「でももう随分、寒いでしょう。今晩は零度いってますよ」

 とハンドルを切る。

「ええ、失敗しました。土屋さんが言ったように、もっと暖かい格好で来るべきでした」

 暁が、この時期に軽井沢へ来るのは初めてだった。

 まだ十二月に入ったばかりというのに、こんなにも冷え込んでいるとは思わず、驚いた。東京の気候とは比べ物にならない。別荘には、カーディガンなどちょっとした羽織り物も置いてあるが、ちゃんとした冬物を買わなければ駄目かもしれないと、暁はぼんやり考えていた。

 何せ、連休を取れると決まったのが、昨日の話。思わぬ休みに、暁が軽井沢へ行こうと思い立って、すぐに優一に連絡を入れ、別荘を使えるよう手配してもらった。冬場は、水道管や給水管などの凍結を防ぐために水抜きをしている。その為、通水作業をしておかなければ使えないのだ。

「そうだ、これ、皆さんで召し上がって下さい」

 真っ暗闇の中を、ヘッドライトの白い灯りが照らし出している。

 ようやく、暁にもどの辺りを走っているか分かる道に入ったところで、暁は助手席へ紙袋を置いた。会社の近くにあるチョコレート菓子専門店で買った詰め合わせの菓子だ。時間が遅いからか、東京駅の売店はどこも閉まっていて、昼に前以て買っておいて良かったと思ったものだ。

「気を遣わないでくださいよ」

「いや、俺も食べたくて、ほら、自分の分もつい買ってしまったんです」

 困ったように笑う優一に暁はおどけて笑った。

 別荘の中は、掃除も行き届き、どの部屋も暖房がついていて、すっかり暖められていた。熱い湯に浸かり、暁はようやく安堵した。

 ゆったりと腰元まである長いカーディガンを羽織って、リビングのソファに腰を下ろす。季節が違うだけで、見慣れた部屋でさえも新しく思えるような気がして、暁は辺りを見渡して笑った。

 キャビネットからレコードを取り出し、かける。父親のコレクションの中で、暁が気に入っている女性ジャズシンガーのものだ。ソウルフルで、濃厚な歌声だった。

 ハーフロックにしたウィスキーを飲みながら、暁はそっとカーテンを開けた。向かい側にある平屋は、黒い影のように佇んで見えた。テラスに繋がっている大きな窓から、カーテン越しに、ぼんやりと小さな灯りが見えるような気がして、暁はじっと、その灯りを見詰めていた。ふいに、その灯りが揺らぎ、影ができた。――暁は、窓を開けた。冷たい空気が流れ込む。

「風邪を、ひきますよ」

 夜のしじまを、柔らかく低い声が伝う。

 本を読みながら思い浮かべていた声を直に聞いて、暁は信じられない思いで、窓辺に立つ新井峰の姿を見詰めていた。この距離では暗がりで、表情までは分からない。向こうからも、暁の顔は見えないだろう。それでも暁は笑みを浮かべ、彼へと笑い掛けた。こうして会えたことが、嬉しかった。

「あなたの本を、読みました」

 視線を、感じる。真っ直ぐで、嘘偽りのない、正直な眼差し。彼は暁の言葉に、驚きと微かな疑問を感じている。

「まだ、あの車には乗れませんか」

 あの幼馴染の三人は、密やかな愛を持って、生きている。たとえ結ばれなくても、そこには希望があった。彼らの胸の内の愛は、彼らを導き、照らし続けている――。暁は、それを書いた彼ならば、と思った。

「たったひとつ、本を読んだだけで、わたしを理解したつもりですか」

 伝わるのは、強い不快感だ。

 新井峰は窓に手を掛けたまま、暁を睨み付けている。冷たい空気に、素っ気無い声が響く。暁は素直に首を横に振った。

「いいえ、分からない。でも、あなたは寂しい人だ。切っ掛けが欲しかったんだ。だから俺に声を掛けた。俺をガレージに入れた。だから――」

 まるで、文学的だ。思いながら、窓の桟についた手に、力がこもる。

「あなたがあの車に乗れるようになるまで、傍にいます」

 そうして、夏のあの日のように隅々まで満ち足りた、他愛無い日々を過ごしたい。

 暁は、新井峰が息を呑む気配をきいた。逃げ出したくて、逃げ出せない、そんな気分だ。きっと、眉を下げて弱々しく困った顔をしているだろうと、思う。

 矢継ぎ早に言葉を掛けようとして、暁はぐっとそれを呑み込んだ。冬の澄んだ空気を深く吸い、息をつく。窓辺で向かい合ったまま、暁は、一瞬が無限のように感じた。

「君は、勝手な人だ。…」

 暫くして暗がりに、微かにあきれ果てたような、どうしようもなく優しい声が響いた。

 暁は、彼が気恥かしげに笑みを浮かべているように見えた。



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