秀夫の章 その五
秀夫の章 その五
終業式が終わり、夏休みとなった。クラスメートたちは我さきにと、教室を出て行く。
みな、思い思いの夏休みを過ごすのだろう。僕もこの夏休みは、思い出に残ることになると思う。
誰に強制されるでもなく、僕は自分の意思で、体を作るつもりだ。
いつものように、教室でカメラ雑誌を広げていると、白鳥さんが現れた。
他に誰もいない教室の中を僕の方へ歩み寄ってくる。
「いよいよだね。まずは、合宿免許なのでしょ? 準備はできてるの?」
「うん。必要な物は、明日用意する予定だよ」
僕の後まで、やってきて雑誌を覗き込む。
「また、カメラの記事なんてみて。おばさまに、無駄使いはダメだと昨日怒られたばかりなのに」
「いや、見てるだけ。ホントだよ。レンズとかカメラは、しばらく我慢するよ。まあ、眺めてるだけならタダだし」
白鳥さんは、僕の顔の真横に顔を持ってきて、横目で見る。
「本当? 怪しいなあ」
「ほ、本当だって。車だって買うの止めて、母さんの車に手動装置付けることにしたぐらいなんだから」
白鳥さんは、元の姿勢に戻り、僕の両肩に手を置く。
「わたしが、BMWに乗って! って言ったらどうする? なんならアウディでもいいわ」
BMW? たしかすごく高価な車だ。でも、白鳥さんがそれがいいって言うなら、それにしよう。
「う、うん。じゃあ、帰りにパンフレット貰いに行くよ」
白鳥さんは、肩をぽーんと叩く。
「冗談よ。冗談。山野くんは、すぐ真に受けるんだから。私が、そんな性悪女に見える?」
性悪になんて、見えるわけがない。僕には、君は女神に見える。
「意地悪だなあ。そうそう、ちょっとテニスコートに行きたいんだけど」
「いいわよ。行きましょう」
白鳥さんが、僕の車椅子を押し、テニスコートに入った。
コートへの門をくぐると、顧問の井上先生が、駆け寄ってきた。
「山野ー! この野郎! やっと来やがって! 退院したら真っ先に、ここにこんかー! 待ってたんだぞ、儂はー!」
井上先生は、ぐはははと豪快に笑う。
暖かく迎えてくれた井上先生とは、対照的に、かつての部活仲間たちが、何しに来たのかと訝しい目で僕を見る。
でも、そんな視線を気にしてられない。僕はやるべきことをやるだけだ。
「井上先生、お願いがあるんです。2週間後、8月の頭ぐらいから、練習後に1時間でいいんですコートを貸してもらえないでしょうか?」
井上先生は、目を見開き驚いた顔をする。
「山野、お前何言ってんだ?」
「勝手なことを言ってるのはわかってます。本当ならどこかコートを借りればいいんですが、お金がその……」
山野先生は、僕を厳しい目で見る。
「儂は、テニス部員が練習後に来て、どうするんだ? と言ってるんだ! お前はここの部員だ。退部したと儂は思っとらんよ。
いつでも好きな時にきて、好きなだけ使え! 今日からだって、全く構わん」
ありがとう。井上先生。僕は胸が熱くなり、涙を流すまいと。歯を食いしばる。僕は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます! お言葉に甘えさせていただきます!」
「ぐはははは。またお前のプレーが観れるかと思うと、儂はわくわくしてきたぞ。おっ、そうだった。お前に見せたいものがある」
井上先生は、突然校舎の方へと駆けていった。
前から突然行動する人だったけど、1年経っても全く変わってない。
僕がテニス部員たちの練習を眺めていると、神崎が近付いて来た。
「山野、コートを使うって? 見ての通り、部員が多くてさ。いきなりこられて、使うとか言われると迷惑なんだけどさあ」
1年前は、山野くん、山野くんと僕に擦り寄って来てたやつが、なんだこの上から目線は?
僕は少しイラつきながらも、努めて落ち着いた口調で話した。
「いや、何もずっと使わせてくれとかじゃないんだ。みんなが終わった後にちょっと使わせてくれるだけでいいんだよ。
みんなが練習している時は、僕は壁打ちしてるし、邪魔はしないよ」
神崎は、腕を組み馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
こいつ、こんなに嫌な奴だったのか。顔を見てるだけで、ムカムカしてくる。
「ボールだってタダじゃないしさあ。お前がユース代表だったのは、昔のことだろ? そんな変なのに乗って、ちょろちょろされると目障りなんだよなあ。それともなにか? 障害者で努力してる自分をアピールしたいわけ?
なんか、痛々しくて嫌なんだよねー。俺そういうのさあ」
くっ。この野郎! 大人しくしとけば付け上がりやがって! 僕は怒鳴りたい 気持ちを深呼吸することで、何とか抑える。
「そんな意地悪しないでくれよ。元ダブルスのパートナーだろ? サーブだって、僕が教えてあげたじゃないか?
お願いだよ。みんなの邪魔はしないって約束するからさ」
神崎は、僕がしゃべっている間も、チラチラと白鳥さんを見る。
「ふーん。そんなに、ここで練習したいんだ? かつてのユース代表も落ちたもんだねえ。1年前だったら、練習場所に困ることなんてなかったのに。
まっ、僕も鬼じゃないよ。交換条件をだそう。麗華さんに付きまとうの止めてくれない?
麗華さんは、優しいから言わないけど、迷惑してると思うんだよ。なんといっても、僕たちは受験生だからね。どうだい?」
黙って成り行きを見ていた白鳥さんが、神崎の前まで歩みでる。
「何なのそれは? 私は、自分の意思で山野くんと一緒にいるわ。あなたにつべこべ言われる筋合いはないわよ!」
神崎は、眉毛をさげとろーんとした顔になる。
「わかってますよ。麗華さん。あなたの気持ちは。優しいあなたがかわいそうな障害者に、冷たいことなんて言えっこない。
大丈夫です。僕がこの愚か者に、身をわきまえるように言って聞かせますから」
白鳥さんは、神崎に食いつかんばかりの勢いで、反論する。
「私が、じ・ぶ・ん・の・い・し・でって言ってるでしょ?! 何をいってるのあなたは! こんな風に変なことしたらね、あなたを嫌いになりこそすれ、好きになることなんてぜ~たいにないわよ! いい加減にして!!」
神崎は、白鳥さんの言葉に耳をかさず、僕を見下ろしてくる。
「さあ、どうなんだ? 山野はどう思ってるんだよ。お前なんかが、麗華さんと一緒にいていいなんて思ってないだろ?
素直に、もう付きまといませんと言えよ。そうしたら、コートを何時間でも好きなだけ使わせてやるからさ」
僕のイライラは、頂点に達した。こんな奴に頭を下げることなんて、絶対にするものか!
僕は白鳥さんの横まで移動した。
「白鳥さん、ちょっと屈んでくれる?」
白鳥さんは、合点がいかない顔をしたが、屈んで僕の目線と一緒になってくれた。
僕は白鳥さんの肩に手を回し、白鳥さんの顔にほっぺたをくっつける。
「へっ。お前なんかに、頼んだりするかよ。お前の愛しの麗華様と俺はこんなことできる仲なんだよ。
どうだよ? 羨ましいかよ? お前なんかに絶対できない真似だぞ!!」
神崎は、目を白黒させ、奇声をあげる。
「きーーーーー!!!! お前なんかに!! お前なんかに絶対コートは使わせないからな!!! キャプテンの僕が決めたんだ!!! お前は消えろ! 消えてしまえ!!」
僕が白鳥さんから手を放し、神崎を睨んでいると、クラスメートの石飛が神崎の後にきて、ケツを蹴り上げた。
「痛っ!! な、何するんだ?! 石飛! お前は2年のくせして、キャプテンの僕に!!」
石飛は、耳を小指でほじりながら、明後日の方角を向く。
「はーん? 俺にタコで負けるような奴の言うことは聞けねえな。それとも何か? 腕力で俺にいう事聞かせるか? 俺、テニスよりそっちの方が、得意なんだけどよ」
180CM超で、筋肉質の石飛に凄まれて、神崎はまぶたをピクピクさせながら、引き下がった。
「石飛……。助かったよ。ありがとう」
「はぁ? 俺はただムカつく奴に蹴りを入れただけさ。礼を言われるようなことはしてねえ」
石飛はそう言うと、元いたコートに戻っていく。
僕は白鳥さんに頭を下げる。
「白鳥さんごめん。いきなり、失礼なことをしてしまって」
「大丈夫よ。謝らないで。もう少しで私、神崎くんをひっぱたいていたところだったんだから」
僕が顔を上げると、白鳥さんはニコリと笑ってくれた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、僕も気が楽だよ」
「確かに、突然でびっくりしたけどね。今度からあんなことするときは、前もって言ってね」
今になって、なんてことをしてしまったんだろうと恥ずかしくなってくる。
それにしても、白鳥さんの頬はすべすべしていたなあ。
僕が、恥ずかしくて顔を赤らめていると、井上先生が帰ってきた。パソコンを手に持っている。
「待たせたな。山野、これを見てくれ! お前は絶対テニスをまたやると思って、手に入れていたDVDだ」
井上先生からノートパソコンを受け取り、DVDを再生すると、
車椅子テニスのトレーニング方法というタイトルが、表示された。
「先生、これ……」
「ぐはははは。お前は車椅子になろうが、なんだろうがショットは問題ないはずだ。問題になるなら、車椅子の操作、そうだろう?」
「ありがとうございます!! そうなんです! 僕もそう思ってたんです!」
「お前の気迫溢れるプレーが見れないと、なんか寂しくてなあ。コートに戻ってきてくれて、儂はうれしいぞ」
先生の言葉に、僕は胸が熱くなる。先生、見ていてください。僕は全力でテニスに取り組みます。
「先生! 今日は競技用の車椅子がないので、動きはできないですが、サーブ練習だけでもさせていただいていいでしょうか?」
「当たり前だ! バケツの1杯でも2杯でも好きなだけサーブしろ!」
「はい!」
僕が、白鳥さんと端の空いているコートに向かうと、石飛がバケツ一杯の球を持ってきてくれた。
「石飛、ありがとな」
「あーん? 俺はただ、ラケットとボールをここに置きにきただけだぜ?」
「うん。わかったよ。とにかくありがとな」
僕は、ラケットを手に持つ。くるりと一回転させてから、コンチネンタルグリップで握り、ボールを手にとる。
上を見上げて、ボールを打つ地点に三角錐をイメージする。
ボールを一回つき、トスをあげる。
〝シュコーン!〝
渇いた音と、なんともいえない感覚を右手に感じる。
僕は戻ってきたんだ。コートに戻ってきたんだ。
ボールをまた掴み、トスを上げる。今度は回転を少なめにして、8割方の力でサーブを打つ。
ボールは、左に少し曲がり、コートに落ちる。
「すごいじゃない! 山野くん!! さすがだわ!」
白鳥さんは褒めてくれるが、僕の1年前のサーブにはほど遠い。
僕は健常者のころ、180KMのサーブを打っていた。いまは、いいとこ120~130KMだ。
やっぱり、下半身が使えないと速度がでない。
僕は間隔をおかずに、サーブを打つ。
スライスサーブに始まり、リバースサーブ、スピンサーブ、フラットサーブ。
自分が打てるサーブを試していく。時にネットにかかり、時にサービスラインを超える。
車椅子だと、やはり打点が低い。速度を上げようと、フラット気味に打つと、
どうしてもフォルトになってしまう。
僕は、自分の武器であったツイストサーブを打とうと、思い切って後にのけぞる。
途端に、車椅子のキャスターがあがり、僕は驚いて前に体重を移そうとするが、とき既に遅し、僕は後にこけ、右膝が僕の顔面に落ちた。
「きゃっ! ちょっと、大丈夫?!」
白鳥さんが、助け起こしてくれる。
「いやー、やっぱ普通の車椅子で、練習するのは無理があるね。転倒防止のキャスターが競技用の車椅子についているわけがわかったよ」
「もう! そう思ってるんだったら、無茶しないでよ。怪我したらどうするの?」
「あはは。ごめんごめん。今日は、これぐらいにして、あとは合宿免許センターから帰ってからにするよ。あ、そうだ。竹畠くんにメールしないと」
竹畠くんの車椅子をもらいたいこと、車の免許を取りにいくことをメールすると、竹畠くんはすごく喜んでくれた。
やるぞ! 僕は竹畠くんに、僕の全力プレーを見てもらうんだ!
13時過ぎになり、携帯が鳴った。
車椅子屋さんが、校門のところに来ているという電話だった。
車椅子屋さんに、ハンドバイクを調整してもらって、早速、僕はハンドバイクを漕いだ。ぐんぐんとスピードが出る。
スピードメーターは、25KMを指している。車椅子になって、こんなスピードを体験できるなんて!
子供のようにはしゃいで、ハンドバイクを漕ぐ僕を見て、白鳥さんはロードバイクを持ってきた。
「じゃあ、軽く行ってみる? 百道浜ぐらいまで」
「うん。行ってみよう!」
僕たちは、学校から百道浜目指して出発した。
歩道の段差では、スピードが落ちるものの、ハンドバイクでは12~3KMがコンスタントに出せる。
腕も張ってきて、いい感じだ。これなら、僕が思っていた通りのトレーニングが出来そうだ。
息が少し上がり、腕が熱を帯びてきた頃に、百道浜についた。
海風が、火照った身体に心地よい。
白鳥さんもベンチに座り、顔をあげて目を瞑っている。
ああ、真っ白い顔の綺麗さといったらない。
さっきは、この顔に頬をつけてしまったんだ。くー。もう一回、頬ずりさせてくれないだろうか。
「もう、すっかり夏ねえ。汗をいっぱいかいちゃった」
「僕も汗だくだよ。カッターシャツをこんなに汗だくにしちゃって、母さんにまた文句いわれそうだ」
「あはは。そうね。おばさまなら、言いそうだわ」
白鳥さんは、顎に指をやり、そうだと言って、僕を見た。
「昨日ね、おばさま私の胸を触るのよ。私、びっくりしちゃった」
母さん、あなたは何て羨ましいことをしてるんですか。今日は、その手を握らせてください。
「ご、ごめんね。変な母親で」
「ううん。なんか、普通のお母さんって、こんな感じだろうなって思っちゃった。私のお母さん、私を19歳の時に産んだから、まだ37歳なんだ。見た目も若いし、なんかお母さんっていうより、お姉さんって感じ」
「へー。白鳥さんのお母さんなら、美人なんだろうねえ」
白鳥さんは、いたずらっぽく笑う。何度見ても、この顔はいい。いつものクールな顔ももちろんいいけど、この顔は可愛すぎる。
「何それ? お世辞いってるの? そんなこと言っても、何もでてこないわよ?」
「そっかー。残念だなあ。レンズとか買ってくれると思ったのに。お世辞いって損しちゃたよ」
「ふーんだ。私モテるんだからね。今月だって、ラブレター10通はもらってるんだから」
そりゃ、そうだろうね。こんなに美人なんだもん。
「ははは。そうだろうね。そう思うよ」
「あー、その顔は信じてない! ホントなんだからね」
だから、本当だと思ってるって。こんなに君が好きなんだもん。そう思ってるに決まってるじゃん。
「さて、じゃあ家の方まで帰る? 疲れてない? 大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。行こうか」
福重までは、百道から7KM程あった。ちょうど、学校から11KMきたことになる。
僕の住んでいる市営団地まであと少しというところまで、来たとき白鳥さんが、ふと口を開いた。
「ね、私の家にくる? 西の丘だから、坂を登らないといけないけど」
白鳥さんの家?! 行くよ! 行くに決まってるだろ!
「いいでしょう。その挑戦受けましょう」
「じゃ、決まりね」
福重の交差点から、左に曲がらず真っ直ぐに、進む。
しばらくいくと、緩やかな下り坂が続く。
坂を下ると、気持ちいい風が頬をなでる。ハンドバイクはホントに気持ちいい。車椅子になって、こんなに軽快に街を走れるなんて、夢みたいだ。
しかし、その気持ちもすぐに180度変わった。
目の前に、1KM程坂が続いている。坂を登り出すと、僕の腕や肩はパンパンに張り、息が切れてくる。
「大丈夫? 休み休みでいいんだよ?」
「大丈夫だって! こんなのなんてことない」
1KM程の坂をのぼりきり、ぜはぜはと息を切らせた僕はごきゅごきゅと、お茶を飲む。
「本当に大丈夫? ここから、坂きつくなるんだよ?」
「何いってんのさ。白鳥さんが上れて僕が上れないわけないでしょ?」
「そう? まあ、こっからきつくなるんだけどね」
左に大きく曲がりながら、坂を上っていく。ちょっとした下り坂をおり、交差点に差し掛かり、白鳥さんは左へ曲がる。
僕は呆気に取られた。まるで壁のような坂が眼前に続いていたからだ。
「じゃ、ゆっくり来てよ。私、ちょっと先に上ってるから」
白鳥さんは、立ち漕ぎでぐんぐんと坂を上っていく。
すげー。この坂を毎日上ってるんだ。白鳥さんのヒップがつんと上に上がっている理由がよくわかる。
僕も白鳥さんに続けとばかり、漕ぎ出すがハンドバイクの前輪が空転して、上ることができない。
僕は、車椅子の後輪を掴み、坂を上る。
途端に、前腕や三頭筋が、悲鳴をあげ出す。
これは、マジできつい。ひー。どこまで上ればいいんだ。
ぜはぜはと息を切らせながら、そのまま10分も上っていると、白鳥さんが駆けてきた。
水色のワンピースに着替えている。ノースリーブで、白鳥さんの細くて白い二の腕が、顕になっている。
眩しい。眩しすぎるよ。白鳥さん! こんな姿、神崎は見たことないだろ。ざまあみろ!
白鳥さんは、僕の後に回ると、押してくれる。
「いいよ。白鳥さん。トレーニングなんだからさ」
「無理しないの。今日だって、筋肉痛なんでしょ?」
白鳥さんは、何でもお見通しなんだな。素直に従うことにしよう。
「ごめんね。ホントは、もうギブアップ寸前なんだ。腕がプルプル痙攣してる」
白鳥さんは、はぁはぁと息を切らせながら、西の丘の頂上付近まで押してくれた。
建っている家は、どれも豪邸だ。白鳥さんは、こんな立派な家に住んでいるんだろうか?
白鳥さんが、門をあけた家はものすごい豪邸だった。
僕はあまりの豪華さに、ぽかーんと口を開けてしまう。
「なんて顔してんのよ? いい男が台無しだぞ。さ、入って」
段差に僕はキャスターを引っ掛け、後から白鳥さんに押してもらう。
僕は玄関で、バッグから出した雑巾で、タイヤとキャスターを拭き、上がらせてもらう。
「お邪魔しまーす」
廊下を進み、リビングに入る。すごく広い。僕の家の5倍はある。僕の家は、 リビングとダイニングで、確か12畳。
ここは、軽く見て5倍はある。ということは、60畳か。なんつう、広さなんですか……。
「すごいねえ……」
「あんまりキョロキョロしないで。恥ずかしいわ。私の部屋、2階なの。案内できなくてごめんなさいね」
ああ~。それは残念だ。白鳥さんが寝ているベッドとか見たかったのに。きっと、部屋はすごくいい匂いがするんだろうなあ。
その時、玄関が開く音がして、足音がこちらに近付いて来た。
「麗華、帰ってたの。あら、いらっしゃい」
これが、白鳥さんのお母さん?!
どうみても、お姉さんにしか見えない。白鳥さんのお母さんは、すごく色っぽい。
なんというか大人の色香が漂っている。それに、白鳥さんそっくりだ。
白鳥さんも、年を重ねたらこんな風になるんだろうなあ。
「お邪魔してます」
「よく来てくれたわね。この子、友達なんて家に連れてきたことないのよ。私に似てこんなに美人だっていうのに。ふふふ」
「もう! お母さん、変なこと言わないで!」
「だって、麗華は今まで、ボーイフレンドの一人も連れてきたことないじゃないの。年頃だっていうのに、彼氏の一人もいないのかと思って、母さん心配しちゃったわ」
白鳥さんは、お母さんの背中をぐいぐいと押す。
「もう! いいから、あっちに行ってて!」
「はいはい。お邪魔虫は言われなくても消えますよ~」
お母さんは、一旦ドアの向こうに消えたかと思うと、ドアからすっと顔だけ出した。
「私が消えたと思って、キスなんかしちゃだめよ。わかった?」
白鳥さんが、顔を真っ赤にして怒る。
「いいから、早く向こうに行ってってば!」
「はいはい。わかったわよ」
白鳥さんは、ホッペを膨らましている。
こんな白鳥さんもどこか可愛いらしい。
「でも、白鳥さんってすごい家に住んでるんだね。びっくりしたよ」
「うん。父が買ってくれたの。生活費も出してくれてるし。おかげで、生活には困ってないわ」
「さすが、大物政治家だよね」
白鳥さんは、ニコリと笑顔を見せてくれる。何度見ても、笑顔が素敵だ。
「でも、羨ましいわあ。山野くんは、2週間後には自動車免許持ってるわけでしょ? 私も車に自由に乗れるようになりたいわ」
「まあ、障害者の特権ってやつ? 白鳥さんは、学校卒業するまで我慢しなよ」
「ふーんだ。そんなこと言う人は、仮免にいっぱい落ちればいいんだわ」
すねた白鳥さんも可愛い。この表情を撮りたいけど、撮らせてくんないだろうなあ。
「あはは。まあ、そうならないように頑張るよ。ところで、白鳥さんは、どこを受けるか決まった?」
「大学はどこでもいいんだけどね。南西大学の推薦受けようと思ってるわ。あそこなら、自転車で行けるし」
よかった。白鳥さんの成績なら、早稲田、慶応が狙えるって聞いてたから、県外の大学に行くんじゃないかって、心配してたんだ。南西大学なら、卒業後も会えそうだ。
今の成績じゃ無理だけど、僕も勉強すれば南西大学になら、可能性がないわけではない。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「じゃあ、紅茶もらえる?」
「はい。少々お待ちください」
白鳥さんが、キッチンの方へと歩いて行く。いいなあ。私服姿の白鳥さんは。
それにしても、豪華な家だ。冷蔵庫なんて、僕の家の倍はある。キッチンも対面キッチンで、えらく広い。
こんな風に広いと、車椅子の僕でも動きやすいだろうなあ。
大きなリビングの窓から外を眺める。窓の外には、ウッドデッキが広がっている。
「ねえ、外に出てもいい?」
「いいわよー」
外に出ると、市内が一望できた。すごく眺めがいい。右側に視線を移すと、僕が住んでいる市営団地が見える。
住んでいるとわからないけど、屋上は黒く汚れていて、薄汚い。
なんとなく、住んでいる家の差が、僕と白鳥さんの差であるような気がして、僕はため息をつく。
僕が、母さんから渡してもらったお金を使っても、この家のような豪邸は建てることができないだろう。
彼女とは元々住む世界が違うのだ。
都市高速を走る車の列を眺めていると、紅茶のいい匂いと共に、白鳥さんがやってきた。
「口に合うかわからないけど、どうぞ」
ウッドデッキに置いてあるテーブルに、白鳥さんはそういってティーカップを置いてくれた。
「ありがとう」
「レモンいる?」
「ううん」
白鳥さんは、輪切りにしたレモンを自分のカップに落とし、砂糖を一包カップに入れる。
スプーンを回す、白鳥さんを眺めていると、白鳥さんは首を傾げる。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「え? いや、ハンドバイクで疲れちゃったのかな。あはは」
まさか、君に見とれていたとは言えない。
僕は、カップを手にとり一口飲む。
「あつっ! あちー。びっくりしたー」
「うふふふ。慌てんぼさんね」
「それにしても、いい眺めだねえ。毎日こんな風景が見れるなんて羨ましいよ」
「夜景がね、すごく綺麗なんだ。私、こうして時々、ぼーっとして眺めてるの。
1時間でも2時間でも飽きないわ」
「ふーん。写真に撮ってみたいなあ。ここからだと、僕ん家も見えるんだね。なんだか薄汚れて、汚いけど」
僕は自分の住んでいる市営住宅を指差す。
「なんかさあ、僕と白鳥さんは、住んでる世界が違うんだねー。白鳥さんは、上流階級って感じ」
「そんなことないよ。何も変わらないわ」
白鳥さんは、少し乱暴にスプーンをくるくるとかき混ぜる。
「えー? だってさあ、この豪邸でしょ? そこにある車なんて、ベンツじゃん。僕の母さんの車は、国産の軽だよ。ははは」
白鳥さんが、乱暴にテーカップをがちゃんとテーブルに置いて、僕は驚いた。
「そんな風に言わないで! 私と山野くんは、何も変わらないわ!」
「ご、ごめん。気に触ったなら謝るよ」
白鳥さんは、あっという顔をして、視線を下に向ける。
「私の方こそ、ごめんなさい。でも、山野くんは大切な友達だと思ってるわ。私が住んでいる家が豪華なのは親がお金を持っているだけ。
私がすごいわけでもなんでもないの。住む世界が違うとか言わないで。ね? お願い」
「う、うん。わかったよ」
「さ、紅茶飲んで冷めちゃうわ」
僕は、ニコリと笑ってから、口角を上げる。
「いいのいいの。僕、猫舌だから。ぬるいぐらいにならないと飲めないんだ。まっ、お嬢様にはこんな気持ちわからないでしょうけどね」
白鳥さんが、ホッペを膨らませる。
くー。その柔らかそうな白いホッペをつついてみたい。
「もう! また、からかうんだから。山野くんなんて、舌火傷しちゃえばいいんだわ」
僕は一口紅茶を含み、おおげさに声をあげる。
「あちー、あちちち」
白鳥さんが、驚いて席を立つ。
「ちょっと、大丈夫?! 火傷した? ねえ!」
白鳥さんが、心配して僕の肩に触れてくる。
やった。ラッキーだ。へへ。
「嘘デース。そんなわけないって。はははは」
「もう! ホントに許さないんだからね!」
白鳥さんは、怒って背を向ける。
僕は、楽しいひと時を夕方まですごした。
自宅に帰り、僕はすぐにプロティンを開け、300CCの水に溶かして飲む。
まずい。変な匂いと、粉っぽい食感が最悪だ。でも、筋肉を作るためには必要なことだ。
僕は顔をしかめながら、喉に流し込んだ。
それから、ジャージ姿に着替え、ハンドバイクで西市民体育館へと向かう。
窓口で、障害者手帳を見せると、無料でトレーニング室が使えることになった。お金がかかるとばかり思っていたのに、助かった。
僕は、20時の閉館まで、トレーニングに汗を流した。