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麗華の章 その四

麗華の章 その四


 私は、深呼吸してざわついた心を落ち着かせて、2年3組の教室に入る。

 努めて笑顔で、山野くんに話しかける。


「さあ、行こうか? 先生、今日もよろしく頼むよ」


「はい。じゃあ、行きましょう」


 いつものように、山野くんの車椅子を押して、大堀公園に向かう。

 大堀公園についたとき、私は決心した。

 ありのままのことを、山野くんに話そう。

 自分の口から、愛人の子であることを話そう。

 それで、嫌われるなら仕方ない。

 私が、ボートに乗ることを提案すると、山野くんは承諾してくれた。

 二人で、ボートに乗り、山野くんが漕いで、池の中央に向かう。

 風が心地よい。空は澄んでいて、すごく高い。


「いいねー。気持ちいい~。私、ボートにずっと乗ってみたかったんだ。乗る機会がなくって」


「へー。そうなんだー。あっ、そういえば僕も初めてかも。っていうか、こんな風に女の子と二人でってないなあ」


 本当だろうか? 怪しいなあ。

 山野くんには、追っかけがたくさんいた。追っかけの一人が、デートした! と教室で騒いでいるのを聞いたこともある。

 それを考えると、山野くんの言葉にには真実味がない。本当のことをいうのは、照れくさいのだろう。


「本当? 山野くん、一時期ちやほやされてたでしょ? 私しってるんだから」


 山野くんが焦った顔をして、否定する。

 そんなに、無理に否定しなくてもいいのに。私は、ただの友人なのだから。


「な、なにいってんだよ? あの頃はテニス漬けで、そんなこと考える時間なかったよ」


「ふーん。どうだかねー」


「そ、そういう白鳥さんは、どうなんだよ? なんかすごくモテてるみたいだけど……」


 モテる? そうかな。人の弱みにつけこもうとする神崎くんや、自分の自慢話しかしない若林くんにいいよられてもねー。


「そう見える?」


「うん。この間だって、若林と親しげだったし」


 あれ? 私のことが気になってるのかな? ふふ。からかってみよう。


「ご想像にお任せします」


「えー、ずるいよ。何だよそれー」


 よし、そろそろ頃合だ。私は、ふーっと息を吐き、山野くんに秘密を打ち明けることにした。


「ね、山野くん」


「うん、何?」


「今から言うことは誰にも言わないでくれる?」


「あのさ、私が愛人っていったら驚く?」


 愛人という言葉に、山野くんは戸惑いの表情を見せる。

 そうよね。普通。


「うそうそ。今のはね。本当は、私は愛人の子なの」


「え? 愛人の子? それってどういう意味?」


 これで、山野くんとの友情は終わるかもしれない。

 でも、どこか引け目を感じたまま、山野くんと付き合っていくのは嫌だ。

 思っているままに、伝えよう。


「私の父はね、国会議員の浦田太郎。聞いたことあるでしょ? 何期目かの国政

選挙の時、選挙カーのウグイス嬢のアルバイトで入った母を、父が見初めたってわけ。最初、月に一、二度やってくる父のことを、私は母のおじさんだとばかり思ってたの。それが自分の父親って知ったときは、びっくりしたわ。だって、父はいま67歳なのよ? 私の祖父って言われた方がまだ現実味があるわ」


「なんで、そんなことを僕に教えてくれるの?」


 それは、あなたを大切な友達と思っているから。

 対等な立場で、付き合いたいと思っているから。

 私は、山野くんの手を取った。

 山野くん、ありのままの私を受け入れて。そんな願いを胸に秘めながら。


「なんでだろうね? 私もわからない。でも、何故だか山野くんに聞いて欲しかったんだ。

 大好きなお母さんが、他人の旦那さんを惑わしてるんだよ? 奥さんが居る場所に戻んないといけないお父さんなのに、私は、離婚してずっと一緒にいてほしいって願ってるんだ。私は最低だよ」


 私の胸から、いままでずっと抑えていた、苦しみや悲しみが溢れてくる。

 頬を涙が伝う。


「私、私ね、愛人の子ってことをずっと引け目に感じてたんだと思う。だから、他人との間に壁を作って、一人でも平気って虚勢を張ってたんだと思う。優等生な自分を作り上げていたんだと思う。本当の私は、こんな弱くて、最低なのにね」


 山野くんは、ふっと笑って、力強く手を握り返してくれる。


「白鳥さん、僕ね、僕も弱い人間なんだ。でも、痛みを知っているからこそ、人に優しくなれるんだと思うよ。いろんな経験をするからこそ、成長できるんだと思う。僕は知っての通り、子供をかばって車に跳ねられたよ。病院のベッドで寝てる時、ずっと思ってたんだ。

 なんであの時、あそこを通ったんだろう。なんであの時、とびだしてしまったんだろう。見殺しにすればよかったのにって。

 そして、父さんがお金をもって、女の人と駆け落ちしたときは、こんな思いをするなら、事故で死んでしまってた方がマシだって思ったよ。

 死ぬことで、母さんや琢磨やさやかに、とんでもない苦しみを与えてしまうってわかってるのにね。

 だけど、どうしてもその考えは消せなかった。つい最近まで、毎日頭に浮かんできてたんだ。死のうと思ってナイフを握りしめた時もあった」


 彼のその時の苦悩は、どれほどの物だったんだろうか。この人は、私が想像もできないような苦しみを乗り越えて、来ているんだ。なんて、強いんだろう。


「でもね、気付いたんだ。やっと最近になって気付いたんだ。障害者になったことや、父さんが駆け落ちしたこと、テニスができなくなったことをいつまでも引きずってちゃダメだって。辛い思い出を完全に忘れ去ってしまうことは、無理だけど、だったら楽しい思い出で塗り替えてしまおうって。

 辛いことよりも、もっともっと楽しいことを探して、人生楽しんでやろうって。そうすることが、僕のことを本当に考えてくれている人たちに対する恩返しだって気付いたんだよ」


 この人の言葉は、なんて、力強いんだろう。そして、なんて優しいんだろう。

 ああ、もっと山野くんを知りたい。山野くんに触れたい。私は、自然と山野くんの頬に触れてしまった。

 私の胸は高鳴る。山野くんの緊張感も伝わってくる。

 私は山野くんに近付いてしまう。いけない。私、山野くんにキスしたいって思ってる。

 彼を抱きしめたいって思ってる。友達なのに。大切な友達なのに。

 でも、でも、自分が抑えられそうにない。

 私がもう少しで、キスをしてしまいそうになった時、山野くんの携帯が鳴った。

 私は驚いて、元のように座り直した。

 危なかった。携帯が鳴らなかったら、私はキスをしていた。

 友達の山野くんにキスをしようとするなんて。

 いったい、私は、どうしてしまったんだろう。

 ドキドキと高鳴る胸は、心臓から出てきてしまいそうだ。

 山野くんに、キスしようとしたのは、バレただろうか? 私は、平静を装いながら、山野くんの様子を伺う。

 どうやら、バレていないらしい。私は、ほっとして、普段通りの態度で山野くんに接した。

 

 それから、私たちは車椅子の採寸をするために、九大病院へ向かった。

 山野くんが言うには、車椅子屋さんは、適当な人らしい。

 以前、注文通りのものがこないと、山野くんから話してもらったことがある。

 車椅子という特殊な製品であるため、競合することが少ないんだろうか?

 車椅子の採寸が終わると、車椅子屋さんが、山野くんに会わせたい人がいるという。

 現れた男の子は、竹畠くんと名乗った。

 年の頃は、私たちと同じぐらい。頭はツルツルで、片足が欠損している。

 おそらく、骨肉腫なのだろう。

 しかし、彼は重病であることを感じさせない明るい雰囲気を持っている。

 竹畠くんに強引に誘われる形で、私と山野くんは車椅子テニスを見学に行くことになった。

 初めて競技用の車椅子に乗る山野くんは、思うように動けずに手こずっているようだ。

 山野くんの顔から、悔しさがにじみ出ている。

 その顔を見ていると、切なくなってくる。

 山野くんは、じっと上手い人の動きを目で追っている。

 私にはわかる。山野くんは、テニスをまた始める気だ。彼の目がそう言っている。

 竹畠くんに、学校まで送ってもらい、私は自転車を取ってきて、山野くんがいつも乗るバス停まで一緒に歩いていると、ポツリと山野くんがつぶやく。


「あんなに元気に見えるのに、余命数ヵ月なんて。なんかショックだ……。白鳥さん、僕どうするべきだろう? どうするのが一番いいんだろう?」


 やるんでしょ? 車椅子テニスを。竹畠くんのために。

 あなたは、そういう人。人のために全力で頑張れる人。私もできる限りのサポートするわ。


「山野くん、もう答えはでてるんじゃない? あなたがやりたいようにやればいいのよ。私は応援するわ」


「そうだ。そうだよね。俺、やるよ。もう一度、テニスをやってみる。反吐を吐くまで体をいじめてみるよ。それが彼のためになるかなんて、わからないけど、僕はそうしたい」


 やっぱりね。そう言うと、思ってたわ。

 彼のテニスをやるという言葉を聞くと、私の気持ちは晴れやかになる。

 彼がテニスをする決心をしたことが、うれしくて仕方がない。

 しかし、彼はとんでもないことを言い出した。

 彼の家は、学校から10KMは離れているというのに、バスに乗らず自分で帰るというのだ。

 私が止めても、彼の意思は固く、気持ちを変えるつもりはないらしい。

 私も伴走することを提案すると、彼はそれを拒もうとする。


「それは遠慮するよ。遅くなったら、僕が白鳥さんのお母さんに怒られちゃうよ」


 ここまできて、それはないんじゃないの? 人の気も知らないで。

 歩道の段差や、斜めに傾いた場所を漕いで帰るという山野くんが心配なんだぞ。

 今日は、母は出張にいっていて、帰らない。遅くなっても平気だ。

 私は、帰されないように、食い下がる。


「大丈夫よ。ちゃんとさっき、遅くなるってメールしといたから。私にも付き合わせて、ね? いいでしょ?」


 山野くんのほうが折れてくれた。よかった。これで一緒に帰れる。


「じゃあ、お願いしようかな。本当に大丈夫?」


「大丈夫だって。塾のときはいつも22時過ぎに帰るんだから」


「そっかー。白鳥さんは受験生だもんね」


 最近は、勉強に集中できないことが多いんだけどね。それは言わない方がいいかな。

 山野くんは、片側2車線の幹線道路よこにある、幅2M程の歩道を進む。

 反対方向から来る自転車が彼に気付かず、ぶつかってこようとしたり、

 歩道に車が駐車していたりして、彼の行く手を塞ぐ。

 普段なにげなく通り過ぎているこの道が、彼にとってこんなに通りにくいなんて初めてしった。

 山野くんは、坂が来るたびに辛そうな顔をする。

 私が押そうか? といっても、それを頑なに拒否する。

 強情っパリなんだから。少しは頼ってくれたらいいのに。

 トラックが、真っ黒い排気ガスを出しながら、走りさっていく。あんなの整備不良で、捕まえてくれたらいいのに。

 山野くんは、休むことなく2時間は漕ぎ続けている。

 彼が一漕ぎするたびに、少しずつ彼の住んでいるところに近付いていく。

 彼のシャツはじっとりと濡れている。

 頑張って、山野くんもう少しよ。私は心の中で、応援する。

 私たちは、都市高速がはるか頭上を横切り、交差点の角にある学校の校舎ほどの大きさがあるパチンコ店の真横までやってきた。

 パチンコ店の、いつもは眩しいだけで、品のない目障りな光が、今日ばかりは山野くんを励ましてくれているように見える。

 ついに来たんだ。彼の住んでいる市営団地はあと少しだ。

 私は嬉しくなって、山野くんの肩を叩く。


「山野くん! 着いたよ。福重に!」


「ほえ?」


 山野くんの顔は疲れ切っている。ご苦労さま。本当によく頑張ったね。

 ここまで来たら、もう大丈夫。私も家に帰ってシャワーを浴びようかな。


「喉渇いたね。僕ん家に寄っていって、ジュースでも飲みなよ」


 突然の申し出に、常々、山野くんの部屋が見たいと思っていた私は、うんと返事しかけたが、思い直した。もう、22時を回っている。さすがにこの時間に、お邪魔するのは悪い。


「え? いいよ。遅いから家の人に迷惑かけるよ」


「ここまで付き合ってもらったんだ。帰りは母さんに車で送ってもらうよ。さ、来て!」


 何だか、山野くんに押し切られる形で、私は山野くんのお家にいくことになった。

 山野くんが、鉄製の玄関ドアを開け、中に入る。

 中から、山野くんのお母さんの声が聞こえる。

 私は、少し緊張しつつ、中に入る。


「まあ! いらっしゃい! さぁさ、どうぞ。上がって!」


 お母さんは、私を見るなり、立ち上がって、鼻先まで近付いてくる。

 距離が近くて、私はちょっと腰が引けてしまった。

 お母さんは、私の顔をタオルでゴシゴシと拭く。こんな風にされたのは、幼稚園の時以来だ。なんだか、恥ずかしい。


「こんな美人さんが台無しよ。秀夫~、ダメじゃないの。こんな綺麗な子を変なことに突き合わせちゃ」


「いや、変なことって、学校からここまで帰ってきただけだよ」


「あんた、また馬鹿なことして。だから、こんなに遅くなったの? 女の子になんかあったらあんたどうする気よ?」


 お母さんの言葉に、山野くんがシュンとして、下を向く。そうだぞ、無茶ばかりして。少しは反省なさい。


「う、うん……」


「二人共、ご飯は? それとも親御さん、心配してあるかしら? 早く帰った方がいい?」


 お母さんは、山野くんを叱る間も、私の顔をタオルで拭きまくる。もうやめてー。


「いえ、母は、今日当直ですから。遅くなっても平気です」


「そう? じゃあ、ご飯食べていきなさい! ね? そうしなさい。その前にお風呂入ってきて。ね? さっぱりしたほうがいいわよ」


「え? いやそれは……」


 私の言葉には、耳をかさずお母さんは、私をお風呂場に連れて行く。

 脱衣所に着くなり、私の服をどんどんと脱がす。恥ずかしいよー。


「下着、買ってくるから。サイズはいくつかしら、まあ! ウエストが細いのねえ。羨ましいわ! ブラのサイズは? そう?! そうなのー。

へー。最近の子は発育いいのね~」

とうとう、下着まで脱がされてしまって、私はお風呂場に入った。


 洗い場には、シャワーチェアーが置いてあり、壁には2箇所、手すりがついている。

 ここで山野くんは、いつも体を洗ってるんだ。いま、私は山野くんの家でお風呂に入ってるんだ。

 お風呂場を山野くんが、覗きに来たりしたらどうしよう。私は、よく足が綺麗と褒められる。

 自分でもスタイルは、いい方だと思う。どういう角度から見られた方がいいだろうか? 山野くんが、その引き戸を開けるとして、こうがいいかな?

 え? 私、見られたいと思ってる? 山野くんに? バカバカ。何考えてんのよ。

 私は妄想を振り払おうと、頭からお湯をかぶり、体を洗う。

 だいぶ落ち着いて来た時に、突然引き戸が開けられた。

 びっくりして、胸を隠す私に、お母さんがにこやかに話しかけてくる。


「下着買ってきたから、これつけてねー」


「すみません。お金は後で払いますから」


「いいの、いいの。若い子は、遠慮しちゃだめよ。スウェット持ってくるから、

もうちょっと待ってね。秀夫に下着姿をサービスしてくれてもいいけど。あははは」


 し、下着姿? 山野くんも見たいと思っているだろうか? 見せたら喜んでくれるだろうか? 私は、頭を振って、妙な考えを振り払う。

 お風呂に浸かっていると、また引き戸が開けられた。


「私ので、悪いけど、パジャマ替わりに来てね。サイズ大きいかもしれないけど」


「あ、ありがとうございます」


 お母さんに、私が変な想像をしているのがバレている気がして、私はいつもより、甲高い声で答えてしまう。

 何、変なことばかり考えてるんだろう? きっと、疲れているのね。

 最近、寝不足だったから。

 お風呂から上がり、髪を髪留めで止めて、アップする。

 私がリビングへ戻ると、山野くんが入れ替わりで、脱衣所に入った。


「すみません。遅くに押しかけてきたのに、先に入らせていただいて」


「いいのいいの。白鳥さんみたいな美人さんなら、いつでも大歓迎よ。ね、ご飯の支度手伝ってくれる?」


「はい!」


 食事の用意が整うと、山野くんがお風呂から上がってきた。

 まるで、カラスの行水だわ。ちゃんと洗ったのかしら。

 山野くんも席につき、3人で食事をする。

 いつも夕食は、一人でとることが多い。3人で食事するなど久しぶりのことだ。

 山野くんのお母さんは、私を質問攻めにする。でも、悪い気はしない。なんだか、楽しい。

 時間も忘れて、会話を楽しんでいると、時刻は23時半を回っていた。

 さすがに、そろそろ帰らなければならないだろう。


「そろそろ、遅いですしお暇しますね」


 山野くんのお母さんは、私の言葉を受けて、泊まっていきなさいと言ってくれた。


「今日は、お母さんいらっしゃらないんでしょ? 泊まっていきなさいよ。西の丘ですぐといっても、危ないわよ」


 私も泊まりたいのは、やまやまのことだけど、さすがにそれは気が引ける。

 突然来て、寝床まで用意してもらうのは、図々しすぎる。


「うん! それがいいよ! そうしなよ? 明日は終業式だから、荷物もないでしょ? 予習復習もないでしょ?

 今から帰って何かあるといけない。最近は物騒だ。この間も、その先でひったくりがあったとかなかったとか。

 きっとここ10年でないはずがないよ。そうに違いない。

 そうだ。最近は、治安が悪くなったよ。ね? 母さん、最近治安が悪くなったよね? 危ないよね? ね?」


「そうよー。そうなのよー。ここ最近、特に凶悪事件が頻発してるのよー。帰ったら危ないわ。泊まっていきなさい」


 二人して、泊まっていけの大合唱だ。いいなあ。なんか、山野くんの家は賑やかで。

 図々しいとは思いつつも、私は泊まらせてもらうことにした。


「そうですか。では、お邪魔じゃなければ、泊まらせてください」


「じゃ、どこで寝る? 白鳥さんは、いつもベッド? ベッドは僕のしかないから、僕ので寝る? 僕床に布団しくから」


「こら。あんたはまた出来もしないことを。褥瘡にでもなったらどうするの?」


「平気だよ。僕、不全だし。左はちょこっと動くんだから」


「そんなこと言って。入院中にかかとに褥瘡作って、大変だったの忘れたの?」

褥瘡? 初めて聞く言葉だ。脊損固有の病気か何かなのだろうか?


「その褥瘡というのになると、入院とかしないといけなくなるんですか?」


「ええ、そうなの。ひどい人になると、半年とか一年とか入院になるらしいのよ。病院の先生にも注意するように言われて、最初の内は、毎日私がお尻をチェックしてたのよ。でも、最近恥ずかしがって見せてくれないのよ」


 お尻? ああ、聞いたことがある。脊損になると、痛いという感覚がなく、お尻の肉が落ちているために、坐骨と座面に皮膚が圧迫され、壊死してしまうということを。


「もう! 変なこと言わないでよ!」


「長い時間、車椅子に座ったままだと良くないですよね?」


「ええ、そうよ。先生にも時々、車椅子上でプッシュアップして、除圧する方がいいって言われてるもの。脊損になるとお尻の肉がごそーっと無くなっちゃうでしょ? だから、余計できやすいみたいなの。硬いところに座ったりするのも気を付けるように言われてるわ」


 なんてことだろう。今日は、彼は一日中、車椅子に座っている。

 しかも、昼間は私とボートに乗った。クッションも何もない固いボートに座っていた!


「山野くん! なぜそんな重要なことを言わないんだ! 知っていれば二人でボートに乗ろうなんて言わなかった!」


「え、いや、僕不全だから、そんなには……」


 無茶をするにもほどがある。私は怒りがこみ上げてくる。


「何言ってるんだ! せっかく復学したというのに、入院して、また休学することになったらどうするつもりなんだ!」。


「ご、ごめんなさい」


 私が山野くんを叱っていると、山野くんのお母さんが突然手を握ってきた。

 びっくりして、山野くんのお母さんを見る。その顔は、興味深々といった表情をしている。


「なになに? ボートって何? 二人はどこまでいってるの? ねえ? 教えて?」


「え? いや、付き合ってるとかそんなことは……」


「じゃあ、まだ付き合ってないの? でも、秀夫のこと嫌いなわけじゃないわよね? 嫌いだったら家まで来たりしないものね?

ね? 秀夫にも可能性ある? ねえ、ある?」


 私は、答えに困る。

 山野くんは、大切な友人だ。それは確かなのだけれども、最近、私はおかしい。

 昼間は、山野くんにキスしそうになるし、さっきだって変な妄想をしてしまった。

 もしかして、私は……。


「いや、その、なんていうか、大切な友達っていうか……」


 その時、山野くんと目があった。嫌だ、私ったら。本人のいる前で、何を言おうとしているの?!


「もう! 本人がいる前で、何言わすんですか! 帰ります! 家に帰らせていただきます!」


 照れ隠しに、私がそう強くいうが、お母さんは、愉快そうに笑う。


「あらあら。冗談よ。もう、可愛いいんだから」


 お母さんが、私の顎を撫でてくる。ひえー。止めてください。恥ずかしいよー。

 山野くんが、突然口を開いた。


「母さん、免許取りたいんだ。車も欲しい。ハンドバイクっていうのも買いたいんだ。予備の車椅子買ったばかりで悪いけど、買わせてもらえないかな?」


 すごく真剣な表情だ。山野くん。私も山野くんのお母さんにお願いするよ。

 お母さん、どうか断らないでください。

 山野くんのお母さんも、私から手を放し、山野くんに向き直った。


「秀夫、免許に車って大金がいるわね。なんでいるの?」


「母さん、僕テニスがやりたいんだ。車椅子テニスをやりたいんだ。競技用の車椅子がもらえることになった。高価な車椅子をくれる人に対して、いい加減な気持ちでテニスなんてできない。車が必要なんだ。お願いだ。僕の我侭を聞いて欲しい」


 山野くんのお母さんは、すっと立ち上がり、別室へ行ってしまった。

 山野くんが、残念そうな顔をしている。

 山野くん、あきらめないで。私も一緒にお願いするから。

 私が、山野くんに話しかけようとしていると、お母さんが戻ってきた。机に、通帳を置く。


「母さん、これ?」


「あなたのお金よ。好きに使いなさい」


 通帳をめくる山野くんの顔色が変わる。何? どういうことなの? 


「こんな大金……」


「秀夫、母さんね、必要以上にあなたがお金を使わないように通帳を管理してたわ。あんたほっとくと、高価なレンズいっぱい買っちゃうそうだったし。

でもね、あなたが本気になってやりたいことのためには、自由に使っていいと思うし、使うべきだわ。

今度のことには、母さん何も言わないわ。この通帳から好きなだけ使いなさい」


 ああ、なんて素敵なお母さんなのだろう。

 山野くんが、こんなに真っ直ぐに育った意味がわかる気がする。

 このお母さんに育てられたのなら、変な人になるわけがない。


「母さん、ありがとう。俺やるよ。自分にできることを全部やってみる」


「ふふ。あんたの燃えてる姿を久しぶりにみたわ。やってご覧なさい。思うように」


「うん! まずは合宿免許で免許とるよ。そして、車は競技用の車椅子が入る中古を買って、ハンドバイクを買うよ。それから、EF 70-200mm F4L ISとEF 17-40mm F4Lを手始めに、EF 70-300mm F4-5.6L ISでしょ? L単も欲しいし、機材が多くなるから防湿庫を買い増して……。

あ、そうだ! 星空もとってみたいから、赤道儀でしょ? カーボン三脚も欲しいし、そうなると、雲台もいいのにしないといけない。動きものようにEOS 70Dも欲しいなあ。くー、もうたまんない!」


 ちょっと、山野くんダメでしょ。そんな風にお金を使ったら。大切なお金なんだから。

 お母さんが、山野くんのホッペを引っ張る。

 山野くんが変な顔してる。あははは。調子に乗るからだわ。でも、よかったね。山野くん。これで、テニスできるね。


「あんたは、言ってるそばからもう! 無駄なことには使うなって言ってるでしょ? わかった?」


「ごめん、ごめんなさい。レンズは諦めますー。車いすテニスだけに集中しますー。許してーお願いー」


 いいなあ。山野くんとお母さんは、仲いいんだね。


「ありがとうね、母さん。僕、さっそく車いす屋さんに、ハンドバイクを買いたいって言ってみるよ」


「そのハンドバイクっていうのは、何なの?」


「うん。車椅子の前に付ける手漕ぎの自転車なんだ。実は、今日、車椅子テニスをしてみたんだけど、まったく動けなかったんだ。少しでも振られると、どうにもならなかった。僕は腰の力とか残ってないから、腕の筋力をあげて動けるようになりたいんだ。通学時間も無駄にしたくないから、二学期からは、ハンドバイクで通学しようと思うんだ」


 え? あの3輪で通学する気? 今日だって、何回か転びそうになったというのに。


「本気かい? 道が傾いているところが、何箇所もあったじゃないか。転倒でもしたらどうする気なんだい!」


 言っても無駄か。山野くん一回こうと決めたら、自分の意見を変えない。

 今日だって、学校から車椅子を漕いで帰ってきた。止めるだけ、無駄ね。

 だったら、だったらせめて、私に見守らせて。お願い。


「私が言っても、聞いてはくれそうにないね……。だったら、私は山野くんが通学するのに付き合うよ。山野くんが、危険な目に合わないように、サポートするよ」


「いや、いつも迎えにきてもらうのは、悪いし……」


 もう! 何言ってるのよ! 絶対ついていくんだからね。


「ん? 君は、我侭を言うだけ言って、人の意見は全く聞かないというのかい?」


 お母さんが、フォローしてくれる。


「ほら、こうまで言ってくれてるんだから、素直に甘えさせてもらいなさい」


「う、うん。白鳥さん、ごめんね。迷惑かけるけど、よろしく」


 よかった。これで、二学期から通学も一緒だわ。

 私が山野くんと一緒に入れる時間がもう残り少ない。なるべく一緒にいたいの。


「カメラを教えてもらった、お返しを私もしないとね。これで、貸し借りなしよ」


 私の言葉に、山野くんは少し恥ずかしそうにしながらも、頷いてくれた。

 山野くんが、車椅子屋さんにメールを送る。すぐさま返信がきて、

 それをみた、山野くんの顔がほころぶ。


「あるって! 中古があるって! 明日にでもハンドバイクが手に入るかもしれないよ!」


 え? ホントに? 夏休みに、サイクリングに行けるじゃないの!

 やった! 楽しみだわ!

 お母さんが、山野くんの肩をぽんと叩いた。


「買っちゃいなさい! 今すぐに!」


「やったね。山野くん! 夏休み中もトレーニングできるじゃないか!」


 私たちは喜びあった。


 時刻も遅いということで、私はお母さんの部屋でねることになった。

 布団をしき、私がブラを外していると、お母さんが、胸を触ってきた。


「きゃっ!」


 私は、びっくりして胸を隠す。


「おっきいのねー。羨ましいわー。若いから張りもあるし」


「ちょ、ちょっと何するんですか?!」


「いいじゃないの。女同士なんだし」


 私は恥ずかしくて、顔が火照ってしまう。

 お母さんが、少し動いただけで、また触られる様な気がして、びくんと体が反応してしまう。


「あははは。可愛いのね。大丈夫よ。もう触らないわ。ね、ちょっとお話しない?」


「は、はい」


 私は、ドキドキしながらも、布団に横になる。

 いきなり、触るんだもん。びっくりしちゃったわ。


「あなた、三年生よね? 秀夫とはどうやって知り合ったの?」


「はい。彼がカメラが上手なので、習おうと思って、私の方からお願いしたんです」


 お母さんは、持ってきていた梅酒を一口飲むと、グラスを少しあげて、私に飲む?と聞いてくる。私が首を振ると、すっと目線を落とす。


「あの子ね、1年前までは、カメラに触ったこともなかったのよ。それが、あんな大きな賞を撮るなんてねー。

 あの子の集中力には、我が子ながら頭が下がるわ。カメラを教えたのはね、私の弟なの。

 事故で、車椅子になって落ち込んでいるあの子に、弟がカメラをくれてね。

 退院したあと、家でじっとしているあの子を外に無理に引っ張り出して、撮影に行ってたわ。

 最初は、いやいや付いていってたみたいなんだけど、そのうち取り付かれたようにカメラに興味を持ち出してね。

 弟が都合つかないときは、私も運転手として、いろんな場所に引っ張り回されたわ。

 3月もしないうちに10年以上カメラを趣味にしている弟が舌を巻くような写真撮りだしてね、

 秀夫は写真の才能がある! って弟が言うもんだから、賞にだしてみたってわけ」


 山野くんは、辛い時期を、お母さんや、おじさんに、支えてもらったんだね。

 よかったね。山野くん。優しい人たちが側にいてくれて。


「そんな短期間で、上達するのはすごいですね。学校の写真部員でも、佳作がやっとで、大賞なんて、取ったことある人いませんから」


 お母さんが、にこりと笑う。


「うふふふ。白鳥さんみたいに綺麗な子に、褒めてもらえるなんて、あの子は幸せね。ね、下の名前はなんていうの?」


「麗華です」


「字は?」


「うるわしいに、はなと書きます」


「あなたのイメージにぴったりな名前ね。素敵だわ」


「ありがとうございます」


「あの子ね、友達作るの上手じゃないのよねー。友達なんて、琢磨くんとさやかちゃんしかいないんだから。それに、女気もぜーんぜんなし。前にね、あの子きゃーきゃー言われてる時があって、女の子が家に来たりしたこともあったの。

そしたら、あの子、『女に興味はない。誰とも付き合う気はない』っていって追い返すのよ。たいしてかっこよくもないくせに、何様って感じよねー。うふうふふ」


 ほっとすると同時に、〝女に興味はない〝という言葉が、私の胸に突き刺さる。

 私がもし付き合ってと言ったら、山野くんは私から離れてしまうのだろうか?

 いや、私は友人として山野くんのことを知りたいだけ。

 付き合いたいなんて思ってない……。

 なぜだろう。胸が苦しい。今は、どう思っているのか彼の口から直接聞きたい。

 お母さんは、何事か話しているが、私の耳には入ってこない。

 山野くんが今も女性に興味がないのか、私もそういう対象として、見てもらえないのか、このことばかりが、頭をぐるぐると回る。


「ちょっと、トイレに行ってきますね」


 私は部屋をでて、リビング隣の山野くんの部屋のふすまのそばに立つ。

 怖い。胸がドキドキする。

 もし、彼の口からさっきのセリフが出たら、どうしたらいいんだろう。

 え? 私は何を考えているの? 山野くんは大切な友達。

 そう、友達なのに。

 私は、意を決して、ふすまを開けてみた。

 きしきしと何かの音がする。

 思い切って、声をかけてみる。


「山野くん、起きてるの?」


 電気がつけられ、ベッドの上で上体を起こしている山野くんが現れる。

 私は、この時はっきりと気付いた。

 ここのところ、胸に抱えていたモヤモヤが一気に消えた。

 私は、好きなのだ。山野くんを愛しているのだ。


「う、うん。何だか寝付けなくて」


 私は、そのまま部屋に入るとふすまを閉める。

 意識しすぎて、山野くんの顔がまともにみれない。


「ちょっと、お話してもいい?」


「うん。僕は構わないけど、白鳥さんは眠くないの? もう1時過ぎてるよ」


 私は、山野くんのベッドに背中を預けるようにして、座った。

 これなら、自然だ。


「私、受験生なのよ? いつも2時まで勉強してるわ」


「今日はごめんね。勉強の時間取っちゃって」


 私は、あなたといたいの。いつも一緒に。

 この気持ちを伝えたら、山野くんは何ていうだろう。


「ううん。今日は、私もいい経験させてもらったわ。学校の勉強より、ずっと貴重なことを学んだ気がする。この写真綺麗ね。なんか、絵画みたい」


 山野くんの部屋の壁には、写真がたくさん飾ってある。どの写真もすごく綺麗。


「ああ、それはね佐賀の三船山公園の紅葉だよ。おじさんに連れて行ってもらったんだけど、綺麗だったなあ」


「ふーん。あ、これは七ッ釜ね。私、行ったことあるわ。こっちは、どこから撮ったの? これ市内だよね?」


「それはね、米の山展望台から撮った夜景だよ。綺麗なんだー。冬行ったから、ものすご寒かったけどね」


 いいなあ。二人でこの夜景が見れたら、ロマンチックだろうなあ。


「どれも素敵な写真ね。免許取れたら、もっともっと色々なところに行けそうね」


「うん。それも楽しみだよ。テニスの試合が終わったら、あちこち撮りにいくつもり」


「いいなあ。ね、その時は私も誘ってね」


 断らないよね? 山野くん。でも、私が山野くんのこと好きってわかったら、

その願いはかなわないかもしれない。


「うん。勉強に邪魔にならない程度にね」


「ふーんだ。私、こう見えても成績いいのよ? 知らないでしょ?」


 意地悪。私は、勉強なんかより、あなたといたいのに。


「し、知ってるよ。さやかから、聞いたもん」


 下の名前で呼んでもらえるなんて、青柳さんがうらやましい。

 私も、麗華って呼んでくれないかな。


「本当に? 私、青柳さんと話をしたことなんてほとんどないわよ?」


「ほ、本当さ。そ、そんなことより、白鳥さんは、どの大学受けるの?」


「実は、まだ決めかねているのよねえ。九大を受験するか、推薦で他の大学にいくのか」


「九大かあ。すごいねー」


「大学は、どこでもいいの。法律のことを学べれば。どの大学だって、教養過程に民法とかあるもの」


「ふーん。弁護士とかになりたいの?」


 そうなんだ。弁護士になって、山野くんみたいに事故のあとで、困っている人たちを助けたいのよ。


「うん。そうなの。女の子で、弁護士になりたいなんて、変かな?」


「そんなことないよー。目標が決まってて、立派だよ。僕なんて、何もないからなあ。ずっとプロのテニスプレイヤーになるって思ってたんだけど、1年前の事故で、何になったらいいのかわからなくなっちゃった。あはは」


 そうだよね。山野くんは、将来の目標が無くなっちゃったんだよね。


「いや、もう本当に気にしてないよ。なんでかな。ずっとモヤモヤしてたものが、すっと晴れたような気がするんだ」


「そか。ちょっと、安心した」


 私は立ち上がって、部屋の隅においてあるトロフィーや楯をみる。

 すごい数だ。大小様々なものが所狭しと並べてある。


「それにしても、すごい数ねえ」


「うん。小学生の頃から大会には出まくってたからね。負けちゃうと、父さんのシゴキが待ってたから、そりゃもう必死で頑張ったよ。

 でも、いつの頃からかな。自分でも勝ちたいって思うようになってた。優勝したときに、観客の人たちから浴びる拍手が気持ちいいと思うようになったんだ。 きつい練習してる時も、その場面を想像すると何か頑張れちゃってたんだよなあ。僕って単純だから」


 すごいねえ。山野くんは。あんなきつい練習、普通はできないよ。

 私は、壁に立てかけてあったラケットを手に取る。

 やはり男の子だ。グリップ3は、私には太すぎる。


「私もね、少しテニスをかじったことあるんだ」


「え? そうなの?」


「うん。父がテニスが趣味って聞いたからね。同じことをしてみたくて、勉強を頑張るって約束で、何年か習わせてもらったの」


「へー。大会とかには出たの?」


「ううん。練習だけよ。それも、中学の時からは自転車に夢中になっちゃって、テニスの方は自然と辞めちゃった」


「白鳥さんが乗ってる自転車、速そうだもんね」


「うん。すごくスピード出るんだよ。最高速度は、40KM以上はでるかな?」


「うわー。すごいんだね」


 えへへ。すごいでしょ。熊本まで自転車でいったことあるんだから。

 ハンドバイクがきたら、山野くんと遠出したいな。


「最初は、テニスと一緒で、父の趣味っていうからはじめたの。私、父から直接聞いたんじゃなくて、テレビの番組で知ったのよ。おかしいでしょ?」


「あはは。それすごいね」


 私は、山野くんの隣に腰掛ける。

 一段と胸の鼓動が早くなる。彼に抱きついてしまいたくなる衝動を私は必死に抑える。


「でね、ロードレーサーに乗ってみると、遠くまで行けるの。普通の自転車は持ってたけど、全然違っててね。20KM以上の速度でずーっと走れちゃうから、100KM先とかでもいけちゃうんだ」


「100KMっていうと、北九州とかかな。すごいや」


 彼は、私に微笑んでくれる。今この瞬間だけは、彼の笑顔を私は独り占めにしている。


「私ね、いつも海を見にいくんだ。海岸線を走るとホントに気持ちいいんだよ。ね、ハンドバイクが来たら一緒に行ってみない?」


 山野くんがうんうんと頷いてくれる。ああ、彼のこの笑顔を失わせたくない。

彼の笑顔が消えるのが、私は怖い。


「うふふ。楽しみね。二見ヶ浦まで走ると、ここから40KMぐらいだから、往復で80KMぐらいかな? 水筒と飴は持っていこうね。脱水になったり、低血糖で倒れたりすると危ないから」


 私の冗談に、山野くんが驚く。

 冗談が言い合える友人。今のこの関係を私は大事にしたい。


「うそうそ。びっくりした? 初めからそんな距離行かせるわけないって」


「やだなあ。脅かさないでよ。とんだ鬼コーチかと思ったよ。ははは」


 触れたい。彼に。私は、山野くんの手を取る。

 あくまで自然に。友人が約束をする時に、手を握るのはおかしいだろうか?

 でも、こうでもしないと私の気持ちは抑えられない。


「いきなりこんな無茶して。ハンドバイクが来たからって、いきなり遠くに行こうとしたらダメだからね。約束だよ」


 山野くんが顔を赤くして照れている。本当は、その顔に触れたい。

 私は、危うく山野くんの顔を掴んでしまそうになるのを何とか我慢して、鼻をつついた。

 山野くんは、キョトンとした顔をしている。

 私は、立ち上がり山野くんに背を向ける。


「じゃ、遅いからもう寝るわ。おやすみなさい」


「お、おやすみ」


 ふすまを閉じ、山野くんのお母さんの部屋へと戻る。

 お母さんは、すーすーと寝息を立てている。

 私は、ドキドキしてなかなか寝付けなかった。


 翌日の朝。

 早めに目覚めた私が、制服に着替えていると、山野くんのお母さんが起きてきた。


「おはようございます」


「おはよう。麗華ちゃん。待っててね、ご飯すぐ用意するわ」


「あ、いえお構いなく。一旦、家に戻りますから」


 山野くんのお母さんは、いたずらっぽく笑う。


「そんなこというと、秀夫にバストのサイズばらしちゃうから」


 このお母さんなら、本当にやりかねない。私は慌てて、手を振って止める。


「止めてください。そんなこと!」


「だったら、着替えたら戻ってきなさい。いい?」


 このお母さんには、かなわない。私は一旦家に戻り、ブラウスを着替えてから、山野くんの家に戻った。


 私が戻ってすぐに、山野くんがあくびをしながら、部屋をでてきた。

寝癖がついている。かわいらしい。


「おはよう。ふふ。すごい顔。寝癖ついてるよ」


「おはよう。着替えてきたの?」


「うん。一旦家に戻って、着替えてきたの。おばさまが、朝食も一緒にって言ってくださったから、またずうずうしく押しかけちゃった」


 山野くんには、可愛い女の子として見られたい。私は、少し大袈裟にペロリと舌を出す。上手くできているだろうか?


「ほら、あんたも早く顔ぐらい洗ってきなさい。麗華ちゃん、待っててくれてるんだから」


 山野くんが顔を洗いに洗面台に行く。

 バシャバシャと、顔を洗う音がする。

 彼は、あんなふうに毎日顔を洗ってから、学校に来ているんだろう。

 生活の一端が見れて、私は何だかうれしくなる。


「いただきまーす」


 ご飯を食べていると、なんだか山野くんの視線を感じる。

 自意識過剰だろうか?

 チラリと、山野くんの方を見ると、目があった。

 山野くんは、首を振ってなんでもないよという仕草をした。

 山野くんの用意を待って、二人して一緒に玄関から出た。


 まだ、7月なのに朝から気温が高い。

 アブラゼミが、ミン、ミンと鳴いている。

 二人ならんで、バス停まで歩く。


「ハンドバイクは、今日届くのかい?」


「うん。珍しく今回は、学校まで持ってきてくれるって。午後1で持ってくるそうだから、終業式が終わってちょっと待たないといけないよ」


 私は、少し前かがみになって、山野くんと目線を合わせる。

 綺麗な目をしている。今、彼の目は私だけを見つめている。


「ね、私にも乗せてくれる? 一回乗ってみたいんだ」


「うん。いいよ。もちろんさ。好きなだけ乗っていいよ」


 今この時間を大切にしよう。彼の友人でいる今この時を。


「もっとも、昨日の山野くんみたいに、くたくたになるまで乗る気はないよ。昨日の、山野くん最後の方は傑作だったよ。顔なんて、排ガスで汚れててさ」


「もう! それを言うなら白鳥さんもじゃないか! 顔が排ガスまみれで、美人が台無しだったよ」


 美人? 私の胸は途端に高鳴る。クラスの誰に言われても、何も感じない言葉が、山野くんの口から出た途端に、違うものに変わる。


「山野くんは、私のことを普段は、美人と思ってくれてるの?」


 もう一度聞きたい。山野くんの口から。

 恥ずかしがって言ってくれない彼に、私は冗談めいて催促する。


「ん? どうなの? 美人と思ってるなら、そうはっきりいっていいんだよ?」


「えー、えー、お嬢様は、町一番の美人でございますよー。もっぱらの噂ですだ」


 山野くんは、ふざけてちゃんと言ってくれない。ちゃんと言って欲しいのに。

 バス停の近くまで行くと、吉村くんと青柳さんの姿が見えた。

 この三人の絆には、私は入れない。私はなんとなく、疎外感を感じてしまう。

 二人が私を見て、驚いた顔をする。

 私は、なんとなく居づらくなり、私は自転車に跨る。

 山野くんに言葉をかけてから、ペダルを漕いだ。

 バス停が、緩やかな坂の上にあったこともあり、カーボン製のホイールを履いた私のロードレーサーは、大した抵抗を感じさせずに、加速していく。

 昨日は、本当に夢のような一日だった。こんな日が毎日続いたらいいのに。

 早く、終業式が終わらないかな。

 私は、また山野くんと会える時間になるのを、別れたばかりだというのに、

 もう待ち望んでいる。そんな自分が愚かに思えて仕方ない。

 私は苦笑しつつ、学校への道を急いだ。

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