秀夫の章 その四
秀夫の章 その四
"キーン、コーン、カーンコーン"
終礼が鳴る。終業式を明日に控え、いよいよ夏休みということで、クラスメートたちが教室を出る足もいつもより軽やかだけれど、
数人は、教室でそわそわしながら待っている。。
チャイムが鳴ってからちょうど、5分後。白鳥さんは現れた。
彼女が入ってくると同時に、教室に残っていたクラスメートは、ぱっと明るい表情を見せる。
彼女は、白く細い足を動かして、僕の方へと真っ直ぐに歩いてくる。
今ではすっかり見慣れた光景だが、やはりその美しさに、ため息が出てしまう。
「さあ、行こうか? 先生、今日もよろしく頼むよ」
「はい。じゃあ、行きましょう」
琢磨とさやかの僕の車椅子を押して、校門から出る役目は、このところ白鳥麗華に変わっていた。
最初は、車椅子の僕と白鳥麗華という組み合わせに、驚きの表情を見せていた生徒たちも、僕が白鳥さんに、カメラを教えているという噂が広まると、特に変な顔はしないようになった。
車椅子の僕は、アンパイだと思われているらしい。まあ、そりゃそうだけど。
いつものように、大堀公園に向かう。
「いい天気ねえ。空が高いわぁ」
「そうだね~」
最初は緊張して、敬語を使っていた僕も、この頃は普通に話せるようになってきた。
それに伴って、彼女も校内の口調とは違い、砕けた言葉を使ってくれる。
「ね、アレ乗ってみない?」
白鳥さんが指差す方を見ると、手漕ぎボートが水面に浮かんでいた。
僕に乗ることができるだろうか? いや、せっかくの誘いだ。行ってみるだけ行ってみよう。
無理なら、乗らなければいいだけの話だ。
「いいよ。車椅子になって乗ったことないけど」
「よし、決まり!」
白鳥さんは、車椅子を押す速度を早め、駆け足でボート乗り場へと向かう。
頬に当たる風が心地よい。いいなあ女の子と付き合うってきっとこういう感じだ。
ボート乗り場のおじさんは、僕を見ると少し躊躇した様子を見せたが、船着場まで行かせてくれた。
「どげんすれば、いいんかね?」
「じゃあ、ボートを押さえていてもらえますか?」
僕は車椅子から降りて、桟橋に直接座り足をボートの方へと投げ出す。
背もたれがないせいで、僕の体はひどく不安定だ。
手を少しでも浮かすと、そちら側に途端に体が倒れてしまう。
桟橋から、ボートまでのたった数十センチの距離が、実際よりもずっと広いような気がして、移るのが怖い。
やっぱ止めとこうかな。そんな考えが頭を一瞬よぎったが、すぐにその考えを打ち消す。
白鳥さんが心配そうな顔をして、前後をうろうろと動き回る。
「山野くん、私はどうすればいい?」
「えっと、じゃあこの車椅子を後から押さえてて。これで体安定させるから」
僕は車椅子の前フレームに体を預け、ふっと息を吐いてからボートへと手をかけた。
この体勢からは、もう行くしかない。僕は手をぱっと横にずらし、お尻を浮かせて、ボートへと移る。やった成功だ。僕の体はボートに座った状態になった。
白鳥さんもボートに移り、僕はボートを漕ぎだした。
しばらく漕いで、池中央付近で、ボートを止める。
水面がきらきらと輝き、彼女の顔を照らす。
「いいねー。気持ちいい~。私、ボートにずっと乗ってみたかったんだ。乗る機会がなくって」
「へー。そうなんだー。あっ、そういえば僕も初めてかも。っていうか、こんな風に女の子と二人でってないなあ」
白鳥さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「本当? 山野くん、一時期ちやほやされてたでしょ? 私しってるんだから」
僕は慌てて、手を振って否定する。
「な、なにいってんだよ? あの頃はテニス漬けで、そんなこと考える時間なかったよ」
「ふーん。どうだかねー」
「そ、そういう白鳥さんは、どうなんだよ? なんかすごくモテてるみたいだけど……」
もし、彼氏いるよ。遠距離なんだ。とか言われたら、僕はどうしたらいいんだろう。
そうは、思いつつも気になって仕方がない。
「そう見える?」
「うん。この間だって、若林と親しげだったし」
白鳥麗華は、指を顎にあてて、目線を上にあげる。うーんと言ったかと思うと、僕をみて、ウインクした。
きっと、今日は年一番のラッキーデーだ。蟹座は、最高の運気に違いない。
「ご想像にお任せします」
「えー、ずるいよ。何だよそれー」
僕が不満を口にすると、彼女は少し寂しげな表情を見せた。
「ね、山野くん」
「うん、何?」
「今から言うことは誰にも言わないでくれる?」
彼女の真剣な表情をみて、僕は一瞬たじろいだが、すぐにコクりと頷く。
「あのさ、私が愛人っていったら驚く?」
え? 何を言ってるんだ? 愛人? お金をもらって、えっちなことを白鳥さんがしてるっていうのか?
僕は口をポカンと開けるのが精一杯で、言葉を出すことができない。
「うそうそ。今のはね。本当は、私は愛人の子なの」
「え? 愛人の子? それってどういう意味?」
白鳥さんは、ボートに両手をついて、上体を反らし空を見上げる。
「私の父はね、国会議員の浦田太郎。聞いたことあるでしょ?」
浦田太郎。よく耳にする名だ。ニュース番組なんかで流れているのも見たことがある。
豪腕だとか、選挙の神様だとか言われている人だ。たしか、民事党の幹事長かなにかしていた。
「何期目かの国政選挙の時、選挙カーのウグイス嬢のアルバイトで入った母を、父が見初めたってわけ。最初、月に一、二度やってくる父のことを、私は母のおじさんだとばかり思ってたの。それが自分の父親って知ったときは、びっくりしたわ。だって、父はいま67歳なのよ? 私の祖父って言われた方がまだ現実味があるわ」
「なんで、そんなことを僕に教えてくれるの?」
白鳥さんは、僕の手を掴んだ。柔らかく暖かい感触が、僕の手を包み込む。
「なんでだろうね? 私もわからない。でも、何故だか山野くんに聞いて欲しかったんだ。大好きなお母さんが、他人の旦那さんを惑わしてるんだよ? 奥さんが居るもとに戻んないといけないお父さんなのに、私は、離婚してずっと一緒にいてほしいって願ってるんだ。私は最低だよ」
白鳥さんの目から、すーっと一筋の涙が流れた。僕は彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。
「私、私ね、愛人の子ってことをずっと引け目に感じてたんだと思う。だから、他人との間に壁を作って、一人でも平気って虚勢を張ってたんだと思う。優等生な自分を作り上げていたんだと思う。本当の私は、こんな弱くて、最低なのにね」
彼女の痛めた心の傷が、僕には見えた気がした。
「白鳥さん、僕ね、僕も弱い人間なんだ。でも、痛みを知っているからこそ、人に優しくなれるんだと思うよ。
いろんな経験をするからこそ、成長できるんだと思う。
僕は知っての通り、子供かばって車に跳ねられたよ。病院のベッドで寝てる時、ずっと思ってたんだ。
なんであの時、あそこを通ったんだろう。なんであの時、とびだしてしまったんだろう。見殺しにすればよかったのにって。
そして、父さんがお金をもって、女の人と駆け落ちしたときは、こんな思いをするなら、事故で死んでしまってた方がマシだって思ったよ。
死ぬことで、母さんや琢磨やさやかに、とんでもない苦しみを与えてしまうってわかってるのにね。
だけど、どうしてもその考えは消せなかった。つい最近まで、毎日頭に浮かんできてたんだ。死のうと思ってナイフを握りしめた時もあった」
白鳥さんは、真っ赤になった目で、僕をじっと見る。彼女の心が軽くなるなら僕はどんなことだってしてあげたい。
「でもね、気付いたんだ。やっと最近になって気付いたんだ。障害者になったことや、父さんが駆け落ちしたこと、テニスができなくなったことをいつまでも引きずってちゃダメだって。辛い思い出を完全に忘れ去ってしまうことは、無理だけど、だったら楽しい思い出で塗り替えてしまおうって。
辛いことよりも、もっともっと楽しいことを探して、人生楽しんでやろうって。
そうすることが、僕のことを本当に考えてくれている人たちに対する恩返しだって気付いたんだよ」
白鳥さんは、僕をじっと見つめ何も言わずに頬に触れてきた。
暖かく柔らかい感触に、僕は自然と目を閉じた。あれ? 何か変だ。白鳥さんの顔が近付いてきている。
え? もしかして、キ、キス?! 僕は身を硬くして、今から訪れるかもしれない至福のときを待つ。
いまかいまかと待っていると、不意に携帯が鳴った。
驚いて、僕がびくんとなり、目を開けると白鳥さんは、元のように座っていた。
キスされると思ったのは、僕の勘違いだったみたいだ。
昼間から妄想してしまうとは、僕の想像力もたくましい。
「ごめんね。母さんからだ。ちょっと出るね。はい、もしもし。どうしたの? え? 病院? あ、しまった忘れてたよ!」
そうだった。今日は、予備の車椅子を作るために、病院にいって車椅子屋さんと会う約束をしてるんだった。
この車椅子屋さんはいい加減な人で、車椅子を作るというのに客を自分の都合に合わせるようにさせる。
前回作った時も、車椅子のフレームカラーをイエローと言ったのにブルーに塗装された車椅子を持ってきたときは、唖然としてしまった。
しかし、フルオーダーという特殊な車椅子は、どこでも気軽に買えるというわけではない。
そのことが、殿様商売を成り立たせている要因なのだろう。まったく腹立たしい。
「白鳥さん、実は今から箱崎の九大病院に行かないといけないんだ。車椅子屋さんと約束してるの忘れててさ。話の途中なのにごめんね」
「いや、構わないよ。山野くんと話せて今日は本当によかった」
言葉とは裏腹に、白鳥さんはそっぽを向いて、あからさまに不満といった表情を見せる。
やばい。怒らせてしまったみたいだ。
「いや、用っていっても大したことないんだけどさ。やっぱ明日にしてもらおうかな」
白鳥さんから、笑みが溢れている。あれ? こんな感情がわかりやすい人にいつなったんだろう。
「詮索するようで悪いが、聞いいてもいいかな?」
「うん。なに?」
「どんな用なんだい?」
「うん。車椅子の予備を作った方がいいって母さんが言い出して、病院に来てるっていう車椅子屋さんに、採寸してもらうんだ。
本当は学校か、家まで来て欲しいだけど、なんか理由つけてなかなか来てくれなくって」
「それは重大な案件じゃないか! 知人とかでないなら、私も付いていってもいいかい?」
白鳥さんは、何やら身を乗り出している。付いて来てくれれば、白鳥さんと一緒に入れる時間が増えるということだ。
僕はすぐにOKの返事をした。
「う、うん!」
「じゃあ、船長さん帰港願います!」
「アイアイサー!」
僕らは船着場に戻り、地下鉄駅へと向かった。
エレベータをおり、改札まで行くと券売機で白鳥さんが、切符を買おうとしている。
「箱崎まででいいのかな?」
僕は白鳥さんが、お金を投入するよりも先に、小銭を券売機に入れた。
「付いてきてもらうんだから、僕が払うよ」
子供料金のボタンを押す僕を、白鳥さんは怪訝な顔で見る。
「そう言った真似は感心しないな。ちゃんと正規料金を払うべきだ」
僕は、得意気に胸を張る。
「いいんだよ。僕は障害等級1級の重度障害者。付き添いの人も半額になるんだ」
白鳥さんは、キョトンとした顔をする。
「そっかー。付き添いの人までそういうのがあるんだ。知らなったよ」
「じゃ、行こう」
改札で、僕は福祉乗車券を見せ、白鳥さんの切符を渡す。
「どちらまでですか?」
「箱崎です」
「お手伝いは、必要ありますか?」
「いえ、付き添いがいますから」
改札を抜け、ホームへと降りるエレベータに向かう僕を白鳥さんは、感心する。
「なるほど。ああいうことを聞かれるわけだな。山野くんといると色々と勉強になる」
「うん。まあ、地下鉄はバリアフリーが進んでるからね。最初はスロープだしてもらってたんだけど、電車とホームの隙間はそんなにないし、段差もないから途中から断るようにしてるんだ」
少しの時間、ホームで待つと、電車がやってきた。
僕はキャスターを上げ、車椅子をウイリーさせた状態で電車に乗り込む。
「慣れたものだね。そんな芸当ができるんだ」
「うん。これができないと車椅子一人で外は動けないからね。病院じゃ15CMの
段差をあがることまでやらされたよ」
「ふーん。リハビリは、やはりきついのかい?」
「そうだね。肉体よりも精神的にきつかったね。リハビリってさ、動かなくなった足を動かすようにするなんてことは、ほとんどしないんだ。
手の力だけで、車椅子から便器に移る練習とか、床から車椅子に乗る練習とかさ。自分がもう一生歩けないんだっていうのを突きつけられると、やっぱきつかったね」
白鳥さんは、気まずそうに視線を下に向ける。
「ごめん。つい、無遠慮に聞いてしまった」
「気にしないでよ。なんとも思ってないから。それにしても、白鳥さん公園のときと口調が違うね」
「人目があるとどうしてもね。砕けた口調でしゃべるように努力するよ」
「いやいや、無理にそんなことしなくてもいいよ。しゃべりたいようにしゃべっ
たらいいんじゃないかな」
「ふふ。そうだね。山野くんの言う通りだ」
箱崎駅で電車を降り、九大病院まで白鳥さんが押してくれる。
「道が斜めに傾いていると動かしにくいね。こういう道、一人だと大変じゃない?」
「うん。坂とか道が傾いていると動きにくいね」
「そうか。そうだろうね」
風が吹くたびに、白鳥さんの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。この人はなんだって、こんなにいい匂いをさせるんだろうか。
家に持って帰りたいぐらいだ。家に持って帰る? 何を僕は日中の往来で考えてるんだろう。
「ん? どうしたの? 急に黙って」
「う、ううん。あ、あそこが入口だよ」
入院病棟の前の喫煙所で、車椅子の人がタバコを吸っているのがみえる。間違いない。あれは適当な車椅子屋さんだ。
僕を見つけると、元気のいい挨拶をしてくる。挨拶だけは、元気いいんだよなあ。この人。
「コンチワ! なに、可愛い子連れて? 彼女?」
僕は頭に血が登るのをはっきりと感じた。きっと耳まで赤くなっているに違いない。
「ち、違いますよ! 何言ってるんですか?! 同じ学校の友達です」
「ふーん。じゃあ、採寸しようか。車椅子は何買うか決めた?」
「はい。いまOXのGWXに乗ってるんで、今度はMRにしようと思います」
「はーい。毎度有り!」
車椅子屋さんは、僕の車椅子をメジャーで測る。前は、キャスターの大きさとかフレームの色とか間違ってたけど、今度はちゃんとしてくれるだろうか。
採寸が終わると、車椅子屋さんが携帯を取り出した。
「どうもー、山田ですー。言ってた子、来たよ。降りてこられる? そう。じゃあ、待ってるから」
電話を切ると、車椅子屋さんは、ニコリと笑う。
「山野くんさあ、実は君に会いたいって子がいるんだよ。会ってもらってもいいかな?」
会ってもらってもいいかな? って今電話してたじゃないか。普通は返事を聞いてから電話するものだろうに。
僕が頷くと、車椅子屋さんはタバコに火を点けた。
「車椅子っていろんな種類があるんだね。山野くんの車椅子も病院で見るような奴と違って、何かかっこいいと思ってたけど」
「うん。脊損だとずっと車椅子に乗ってるからさ、自分の身体に合わせて作らないときついんだ。これなんて、25万ぐらいするんだよ」
白鳥さんは、まじまじと車椅子を見る。
「確かに、塗装など綺麗だ。曲げも綺麗だね。私は自転車が趣味だから、いい部品かそうじゃないかはわかるよ」
そういえば、白鳥さんは何かかっこいい自転車に乗っていた。僕が歩けるなら一緒にサイクリングに行くのに。
しばらく待つと、中から車椅子に乗った若い人が出てきた。年の頃は僕と同じぐらいだろうか。
坊主頭で、片足がない。
「初めまして。僕は竹畠。よろしくね! お、こっちの彼女はえらい美人だね」
白鳥さんを褒められて、なんだか僕も嬉しくなる。
「山野です」
「初めまして、白鳥です」
「ごめんね、いきなりで。実は僕と同い年の山野くんに会いたくてさ」
竹畠くんは、イタズラッぽい笑顔を見せる。
「テニスすごい上手いんでしょ? ユースの代表だったぐらいだから。ユースの大会では何位だったの?」
テニスのことを言われて、僕の心は少し痛む。テニスをしてたのは、昔のこと。もうテニスで汗を流すことはできない。
「ベスト4まで行きました……」
「ベスト4?! 世界でベスト4? すごいじゃん! なんで車椅子テニスしないのさ! 絶対強くなれるのに! ね、今から時間ある?」
「え? ありますけど……」
竹畠くんは、どんどんと門の方へと漕いでいってしまう。
駐車場の方へ入る前に、こちらを振り返る。
「なにしてんの? 早くおいでよ。そっちの彼女の早く!」
僕はキョトンとして、白鳥さんを見る。
彼女が頷くのを確認して、僕たちは竹畠くんの後を追った。
駐車場に止めてあるFITの座席に、竹畠くんはすでに座っている。
「これ、君の?」
「うん、そうだよ! 車椅子だと車がないとさ。ほら乗って、乗って」
僕が助手席に移ると、竹畠くんは自分の車椅子をたたみ、助手席後に投げ入れる。
自分で運転するときは、こんな風にいれるんだ。参考になる。
白鳥さんが、僕の車椅子をラゲッジスペースにいれ、運転席後に乗り込んだところで、竹畠くんは車を発進させた。
右手でハンドルを握り、左手でハンドル横にあるレバーをしきりにに動かす。
「それって、手動装置?」
「うん。そうだよ。引くとアクセルで、押すとブレーキ。山野くんは、誕生日い
つ? 18歳になったらすぐ取った方がいいよ。行動範囲が変わるから」
確かに、車があればスロープ付きのバスを待つために、早めに行く必要もないし、ラッシュ時に乗ることを躊躇しないでいい。
でも、母さんが許してくれるだろうか。
白鳥さんが身を乗り出して聞く。
「その手動装置というのは、どんな車にもつくものなのかい?」
「うん、車種別にあるみたいだよ。まあ、長さ調節してるだけだろうけどさ。こんなパイプが25万もするんだよ。信じられる?」
竹畠くんは、すごく元気がある。僕はその勢いに圧倒されてしまう。竹畠くんは、バックミラー越しに白鳥さんを見る。
「白鳥さんは、山野くんの何? 彼女?」
白鳥さんは、今どんな表情をしてるんだろう。怖くてそっちが見れない。
「え? 私たちは同じ学校の、と、友達だよ。そう、カメラ仲間さ」
「そうなの? 付き合ってないんだ。なんかさっき最初に見たとき、納まりいいなあって思ったんだけどね。じゃあ、僕が彼氏に立候補しちゃおうかなあ」
僕は、竹畠くんの言葉に驚きを隠せないでいると、竹畠くんは横目でいたずらっぽく笑う。
「冗談、冗談。取ったりしないって」
そのまま、竹畠くんの話を聞いているうちに、車は博多の森競技場についた。
僕も昔、ここで試合をしたことがある。
「さ、白鳥さん降りて」
白鳥さんが、降りると竹畠くんは、座席を倒し、後部座席に置いていた車椅子を外に出す。
スムーズだ。これぐらいできたら、車の乗り降りも苦にならないだろう。
竹畠くんの先導で、僕たちはテニスコートに向かった。
僕は、徐々に見えてきた光景に驚いた。
車椅子に乗っている人たちが、信じられないようなスピードで動き、球を打っている。
打球音、球のスピード、これはテニスだ。紛れもないテニスだ。
僕がリハビリ中にみたものとは、似ても似つかない本物のテニスだ。
「こんちわー。渡辺さん、僕の車椅子もってきてくれてます?」
「おー! 竹畠! 外出許可でたんかよ!」
ラリーをしていた4人が竹畠君のもとに集まり、わいわいと話しかけている。
みな、乗っている車椅子が特殊だ。タイヤがハの時になっていてサイズも大きい。
「ほら、山野くん、白鳥さんこっち来て! ほら、早く!」
僕が竹畠くんに言われて近付くと、4人は僕をじっと見た。
「これが話してた山野くんですよ! 今日からクラブの一員です! そっちは白鳥さん、マネージャ候補かな?」
は? 竹畠くんは何を言ってるんだろう? 僕は入るなんて一言もいってない。それに、車椅子テニスをやってる場所に行くなんて、聞かされてもいなかったのに。
競技用の車椅子に乗ってる一人が、ふんと鼻を鳴らし僕を見下すような態度を取る。
僕はなぜかカチンと来た。
竹畠くんは、そんな僕には構わずコート脇に置いてあった、一台の競技用車椅子のもとに向かう。
「山野くん、こっちこっち。これに乗ってみて!」
「え? ああ、うん」
競技用車椅子のタイヤは大きい。僕の車椅子は24インチだけど、そのふた回りは大きい。それに背もたれがすごく低い。
キャスターも、前に二つあるだけじゃなく、後ろにもフレームが突き出ていて一つ付いている。
「さ、乗って乗って」
言われるままに、僕はその競技用の車椅子に乗った。
座面が高く、普段の僕より7~8CMは高いようだ。普段は、白鳥さんの胸に目線がきているけど、いまは肩ぐらいまであるかも。
「ここと、ここと、ここのベルトしばって。そう、まずは足を固定して。最後に腰のベルト」
竹畠くんに言われたベルクロのベルトを止め、足首とももを縛り付ける。最後に腰についているラチェットベルトを締めた。
「いいねー。ちょっと横幅が広いかもだけど、ベルトで縛れば関係ないね。漕いでご覧よ」
僕がコート横のコンクリート製の通路で漕いで見ると、車椅子はすーっと抵抗もなく進む。
なんだこの感覚は? すごく軽い。
「ターンしてみて」
手でハンドリムを掴み、ターンしてみる。くりんと急に回って、僕はがくんと横に倒れそうになった。
「うーん。腹筋とか背筋残ってる? 僕は切断だから背もたれ低くしてんだよねー。もうちょっとあげたほうが良さそうだ」
竹畠くんが、工具を取り出し車椅子を調整してくれていると、ラリーしていた一人が近付いて来た。
さっき、僕を変な目で見ていた人だ。
「こいよ新入り。見てないで、ラリーしようぜ」
他の人たちが、ぼそぼそと小声でいうのが聞こえる。
「あちゃー。渡辺の悪い癖がでたよ」
「いかんねー。若い子いじめちゃ」
いじめる? 5歳からラケットを振って、ユースの代表までなった僕を? テニスで勝てるもんならやってみろ!
僕は内心メラメラと燃え上がる闘志を気付かれないようにして、競技用車椅子に乗り換える。
「ちょっと、渡辺さん! 山野くん、車椅子テニスするの今日が初めてなんですから!」
「あーん? ユースだとかだったんだろ? 俺程度の奴とやるのになんか問題あるんかよ? いいから、こいよ新入り」
やってやる。何故なのか僕にもわからないが、テニス時代にいつも感じていた心が沸き立つ感じがいま起こっている。
やれる。やれるさ。同じ車椅子なんだ。僕がテニスで負けるわけがない。
相手の球だしを、フォアで打つ。
〝パコーン〝
という音と共に、球は相手コートへと飛んで行く。これだ。この感覚だ。
僕はうれしさに、身悶えしそうになる。相手は、正確にフォアに返してくる。
僕も相手のフォアに返す。
なんだ、車椅子になっても、テニスはできるじゃないか。
あれ? だんだんと相手の球が、離れたところに飛んでくる。
ダメだ。僕は動くことができない。
ラケットを右手持っているというのに、どうやって動けばいいというんだ。
渡辺が、ネットまで進んできて、僕に手招きをする。
「あのな。ラケット持つ手の腹で漕ぐんだよ。こうだ。こう。やってみろどん亀」
どん亀?! 100Mを11秒台で走ってた僕をどん亀だと? ふざけんなこのオヤジ!
しかし、僕の怒りと正反対に、車椅子はいうことを聞いてくれず、
僕はまともにラリーの相手すらできず、コート脇に引き下がった。
悔しい。テニスで負けたことが悔しい。同じ車椅子だっていうのに、なぜこうも動きに差があるんだ!
僕が唇をかんで、渡辺を見ていると、竹畠くんが話しかけてきた。
「どうだった? 普通の車椅子と感覚が違うだろ?」
「どうだったもなにも見たまんまだよ……。手も足もでなかった」
「あはは。当たり前だよ。渡辺さんは、2年前までメインだったんだから。ここんとこ仕事忙しくて、試合にでてなかったからランキングなくなってるけど、
元日本5位だよ」
「教えてくれ、あの人みたいに動くためには、どうしたらいい? どうしたらあんなふうに車椅子を動かせる?」
「山野くんは、脊損で腹筋とかないんだよね? だったら、手の力を強くするしかないよ。まあ、鍛えても僕みたいな切断には動きはどうしても負けると思うけど」
「あの、渡辺って人は?」
「切断だよ。ひざ下の。等級は4級だね」
「そうか」
僕はそれから、1時間、渡辺の動きをじっと見つめた。
白鳥さんと会話していると、いつの間にか竹畠くんが、向こうの方で車椅子の男性と話している。
その車椅子も特殊で、長いフレームにちょっと小ぶりの前輪がついている。
竹畠くんが、僕の方を指し示し、何事かその男性に告げると、その男性はこちらに向かってきた。
胸の前で、何やら手を動かしている。この動きは、まるで自転車だ。
男性は、僕の前までくると、ブレーキをかけた。
「君が、新入りの山野くん? ナベにこっぴどくやられたみたいね。俺は、森下よろしく」
「山野です。よろしくお願いします」
白鳥さんが、興味ぶかげに、男性に近付く。
「これは、手で漕ぐ自転車ですか? なるほど。普通の車椅子に前輪だけつけるわけか」
「お嬢さん、興味あるの? これはハンドバイクっていって、手漕ぎの自転車だよ。これは、アダプタータイプっていって、常用の車椅子に取り付けるタイプ。あと、フレームが長くて、一体型のレースタイプってのもあるよ」
「これは、ギアは内装なんですね。ブレーキはリム一つか。ふーん。どれぐらいの距離いけるものですか?」
「レースタイプだと、かなり長い距離走れるけど、これは近所回る感じだね。体力があれば長距離いけないこともないけど。
ママチャリと同じぐらいって思ってもらったらいいよ」
白鳥さんは、本当に自転車が好きなんだなあ。
待てよ。このハンドバイクっていうのがあったら、白鳥さんと一緒にサイクリング行けるんじゃないのか?
そうだよ! 行けるよ! これがあれば!
僕は森下さんに、聞いてみた。
「これっていくらぐらいするんですか?」
「えっと、40万弱だったと思うよ」
車椅子を買ったばかりだというのに、そんな高価なものを買うことを、母さんが許してくれるわけない。
僕はがっくりと肩を落とした。
19時を回ったところで、竹畠くんが僕たちを学校まで送ってくれることになった。車中、竹畠くんが軽い調子で言う。
「あの車椅子上げるよ。今度病院に取りにきて」
競技用の車椅子なんて、安いものじゃない。簡単にもらっていいものではないだろう。
「え? いや、悪いよ。あれ、高いだろ?」
「えーっと、ホイールをスピナジーにしたから、35万ぐらいだったかな? まだ作って1年経ってないから、綺麗でしょ? もらってよ」
「いや、そんな初めてあって、車椅子あげますって言われて、もらえないよ」
竹畠くんの雰囲気が変わった。今までの明るい口調であるように聞こえるようだが、どこか違う。どうしたんだろうか。
「あのさ、俺がなんで車椅子になったかわかる? ヒントはこの頭」
後部座席の白鳥さんが、答える。
「骨肉腫だね」
「そうそう。ご名答。白鳥さんは、鋭いね。俺さ、高1で骨肉腫になってさ、足切断したんだ。山野くんみたいに強くなかったけど、元々テニスしててね。車椅子テニスがあるっていうんで、あのクラブに入れてもらったってわけ。でもさ、神様って意地悪なんだよね。
俺、肺に転移してんのよ。再発はこれで3回目。余命あと数ヵ月ってとこ」
余命数ヵ月? この元気そうな竹畠くんは、もうすぐ死ぬというのか? 僕は言葉をなくし、驚いて竹畠くんを見る。
「だからさ、もらって欲しいんだ。同い年の山野くんに。俺のかわりにさ、テニス楽しんで欲しいんだ」
竹畠くんは、僕にニコリと微笑みかける。
なんて言えばいいんだろう。この場にふさわしい言葉が見つからない。
「ま、僕の勝手なお願いだから。嫌だったらいいんだ。病室に車椅子置いているから、その気になったらいつでも取りにきてよ。
たぶん、僕は死ぬまで病院にいるからさ。あれ? 暗くなっちゃったね。ごめんね」
竹畠くんは、学校に着くまで明るい態度で、面白おかしく話をしてくれたけど、僕の耳には入ってこなかった。
学校に着き、白鳥さんが自転車を取ってきて、バス停まで一緒に歩く。
「あんなに元気に見えるのに、余命数ヵ月なんて。なんかショックだ……。白鳥さん、僕どうするべきだろう? どうするのが一番いいんだろう?」
白鳥さんは、にこりと微笑む。
「山野くん、もう答えはでてるんじゃない? あなたがやりたいようにやればいいのよ。私は応援するわ」
「そうだ。そうだよね。俺、やるよ。もう一度、テニスをやってみる。反吐を吐くまで体をいじめてみるよ。
それが彼のためになるかなんて、わからないけど、僕はそうしたい」
白鳥さんは、スマホの画面を僕に向ける。
「そう言うと思ったわ。11月に大会があるみたいよ。これ目指してみたら?」
車椅子テニス九州大会。日程は、11月16~17日とある。あと4ヶ月ない。
「白鳥さん、俺、車椅子漕いで帰るよ」
「え? 山野くんの家、福重でしょ? 10KM近くあるわよ」
「うん。もうね、じっとしてられないんだ。一分だって無駄にしたくない! 白鳥さんは、帰ってよ。遅くなるといけないし」
白鳥さんは、やれやれといった感じで、ため息をつく。
「山野くんも男の子ね。いいわ。私が伴走してあげる」
え? ほんと? ここからだと、2時間以上かかりそうだけど。嬉しい気持ちを僕の理性が押さえ込む。
ダメだ。女の子をそんな遅くまで、付き合わせるなんて。
「それは遠慮するよ。遅くなったら、僕が白鳥さんのお母さんに怒られちゃうよ」
「大丈夫よ。ちゃんとさっき、遅くなるってメールしといたから。私にも付き合わせて、ね? いいでしょ?」
白鳥さんに上目遣いでお願いされて、断るだけの強さを僕は持ち合わせていない。
「じゃあ、お願いしようかな。本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。塾のときはいつも22時過ぎに帰るんだから」
「そっかー。白鳥さんは受験生だもんね」
そうなんだ。彼女は、来年の3月には、大堀高校を卒業してしまう。こうして、彼女と一緒にいられる時間は、あとわずかしかない。
「じゃあ、行くね」
僕は上半身を倒しこんで力を入れて漕ぐ。でも、デコボコした舗装だとキャスターが引っかかり上手くスピードが乗らない。
白鳥さんは、サイクルコンピュータの画面をちらちらと見る。
「山野くん、すごいじゃないか12KMも出ているよ」
くっ。こんなに力を入れてるのに、たった12KMなんて。なんて遅いんだ。もどかしくて仕方がない。
10分も経たない内に、腕は張り息が上がってくる。くそ情けない。なんてひ弱になってるんだ。たかが1年、サボっただけじゃないか。
僕の様子を見て、白鳥さんが心配そうに聞いてくる。
「大丈夫かい? 無理しないで休み休み行こう」
ダメだ。ここで、気持ちが負けちゃダメだ。好きな子に同情されるようじゃダメなんだ。
たかだか10KM、やってやれないことはないはずだ。
僕はさらに、速度をあげずんずんと進む。傾いた歩道や坂が僕の腕を容赦なく痛めつける。
前腕の張りがひどくなり、だんだんと握力がなくなってくる。
汗が体中から吹き出て、顔がぬるぬるとして気持ち悪い。
くそ。負けねえぞ。今までだって散々きつい練習に耐えてきたんだ。
雪が降る中の、素振り1000本に比べたらなんてことない。
真夏の振り回し10分に比べたらなんてことないんだ。
豆が潰れても、僕はラケットを放さなかった。
反吐を吐いても、僕は練習を続けたんだ。
それに比べれば、なんてことない。なんてことないぞ!
僕の人差し指や、手の平の皮はめくれたが、僕は漕ぎ続けた。
最初は、休憩を勧めていた白鳥さんも、僕には何も声をかけなくなった。
不思議だ。幹線道路横の歩道を進んでいるというのに、車の音が少しもしない。
僕の呼吸音と、白鳥さんのペダルを漕ぐ音だけが聞こえてくる。
どのぐらい時間が経ったろうか。肩をぽんぽんと叩かれて僕は我に返った。
「山野くん! 着いたよ。福重に!」
「ほえ?」
僕が見上げると、そこには整った顔立ちを、排ガスで汚した白鳥麗華がいた。
そうだ。白鳥さんは、僕に付き合ってゆっくりと帰ってくれたんだ。
時計を確認すると、時刻は22時をまわっていた。
学校から家まで、2時間半かかった計算になる。
「喉渇いたね。僕ん家に寄っていって、ジュースでも飲みなよ」
「え? いいよ。遅いから家の人に迷惑かけるよ」
「ここまで付き合ってもらったんだ。帰りは母さんに車で送ってもらうよ。さ、来て!」
どうして、こんなに自然に誘えたのかは、わからない。
竹畠くんに会って、彼の積極性を分けてもらえたのかもしれない。
玄関を開け、中に入ると母さんが待っていた。
「遅かったわねえ。何処行ってたの?」
母さんは、僕の後に白鳥さんを見つけると、テーブルの湯呑を倒した。
「まあ! いらっしゃい! さぁさ、どうぞ。上がって!」
母さんの勢いに、驚きつつも白鳥さんは、あがってきた。
ああ、夢みたいだ。白鳥さんを家に連れてこれるなんて。
「母さん、風呂沸いてる? もうドロドロ」
母さんは、汗だくの僕と、白鳥さんを見比べる。
「まあ、二人共こんなに汚れて」
母さんは、白鳥さんの顔を遠慮なしにタオルで拭く。
「こんな美人さんが台無しよ。秀夫~、ダメじゃないの。こんな綺麗な子を変なことに突き合わせちゃ」
「いや、変なことって、学校からここまで帰ってきただけだよ」
「あんた、また馬鹿なことして。だから、こんなに遅くなったの? 女の子になんかあったらあんたどうする気よ?」
それを言われると、なんとも言い返す言葉に困る。
「う、うん……」
「二人共、ご飯は? それとも親御さん、心配してあるかしら? 早く帰った方がいい?」
白鳥さんは、母さんの容赦ないタオル攻撃に、目を瞑って耐えている。
ホントに、白鳥さんが家に来てくれてるんだ。美少女が苦痛に耐えている顔もいい。
「いえ、母は、今日当直ですから。遅くなっても平気です」
「そう? じゃあ、ご飯食べていきなさい! ね? そうしなさい。その前にお風呂入ってきて。ね? さっぱりしたほうがいいわよ」
「え? いやそれは……」
そう言いながら、母さんは白鳥さんに有無を言わせず、バスルームの方へと押しやる。
バスルームのドアがバタンと閉じ、中から二人のやり取りが聞こえる。
「下着、買ってくるから。サイズはいくつかしら、まあ! ウエストが細いのねえ。羨ましいわ! ブラのサイズは? そう?! そうなのー。
へー。最近の子は発育いいのね~」
今ばかりは、声の大きな母さんに感謝だ。僕はバスルームから聞こえる母さんの声に集中し、白鳥さんのすべらかな肢体を想像する。
不意にドアが開き、母さんが出てきた。ドアを凝視していた僕は焦りながら、目を逸らす。
「秀夫、母さんちょっとコンビニ行ってくるから。母さんがいないからって、お風呂覗いちゃだめよ。いい?」
「の、覗くわけないだろ? 変なこと言わないでよ」
「じゃ、ちょっと行ってくるわね」
母さんが、慌ただしく玄関から出ていき、足音が遠のいていく。
風呂場からお湯をザーッと流す音が、聞こえてくる。
今この瞬間、白鳥さんが紛れもなく、我が家でお風呂に入っているのだ。
しかも、全裸で。風呂に入っているなら当たり前か。
僕の鼻息は自然と荒くなる。いかんいかん。落ち着け僕。
頭を落ち着かせようと、キッチンの水道で顔を洗う。
皮が向けたところに、絆創膏を貼ろうと救急箱を開けていると、カポーンと洗面器を置く音が聞こえてきた。今この瞬間も、白鳥さんは体を洗っているのだ。
いかん、落ち着くんだ。これじゃ、変態じゃないか。
僕は、喉がカラカラになっていたことを思い出し、途中で買っていた3本目のペットボトルを開ける。
これで、3本目ということは、ここに来るまでに1Lを飲んでいることになる。
ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら、半分ほどを一気に飲むけど、喉の渇きは無くならない。
僕は大きく息をすって心を落ち着けてから、自分の部屋に戻った。
ブロアーと、清掃用の布でカメラを掃除する。カメラを防湿庫に直し、特にやることもないのに、パソコンのスイッチを入れる。
いつにもまして、立ち上がりが遅いような気がして、僕は意味もなくマウスを何度もクリックする。
「あー、もう!」
何でか、独り言が出てしまう。僕はベッドに横になり、枕に顔を押し付ける。
ああ、もうこれじゃ拷問と一緒だ。好きな人が、壁一枚隔てたところで、お風呂に入っているなんて。
僕がもぞもぞとベッドで身悶えていると、母さんが帰ってきた。
母さんは、バスルームの方へと入っていく。
ガラリと、バスルームの引き戸が開けられる音がする。
『下着買ってきたから、これつけてねー。いいの、いいの。若い子は、遠慮しちゃだめよ。スウェット持ってくるから、
もうちょっと待ってね。秀夫に下着姿をサービスしてくれてもいいけど。あははは』
母さんが、ダイニングの方へと戻ってくる。
「母さん! 何変なこと言ってんだよ! もう!」
「まあ、怖い。青春ねえ」
母さんは、いたずらっぽく笑うとタンスから服を取り出し、バスルームの方へと入っていった。
また、ガラリとバスルームの引き戸が開けられる音がする。
母さんは今、間違いなく白鳥さんの裸を見ている。くそー。母さんの目がカメラになってたらいいのに。
僕がベッドでバタバタと暴れていると、母さんがダイニングに戻ってきて、僕を白い目で見る。
「秀夫……。興奮するのは、わかるけど、それじゃ変態よ」
僕はすぐさま跳ね起き、車椅子に移った。
テーブルの方へと移動し、脱衣所に続くドアをチラチラと見る。
母さんが、頭を小突いてくる。
「だから、それじゃ嫌われるわよって言ってんの!」
「う、うん……」
僕が母さんが注いでくれた麦茶を飲んでいると、脱衣所のドアが開き、白鳥さんがおずおずと出てきた。
母さんが着古したピンクスウェットの上下を身につけている。襟元なんてびろびろに伸びている。
もう! 白鳥さんになんて服着せるんだ!
でも、湯上りで桜色に頬を染めた白鳥さんは、なんとも色っぽい。この人は、本当に何を着ていても絵になる。
「ほら、秀夫。ぼさーっと見とれてないで、あんたもさっさとお風呂に入りなさい。汗臭いと嫌われるわよ」
母さんの言葉に、僕はびくりと驚きすぐさま、脱衣所に向かった。
もしかして、一緒に帰っていた時も汗臭かっただろうか。
改めて、自分の姿を見る。制服のカッターシャツがじっとりと濡れている。汗をかく左上半身だけでなく、
汗をかかない右にまで、染みてきている。
僕は急いで、服を脱ぎ汚れ物を入れるかごに投げ入れる。
風呂場の引き戸を開けようとしたとき、洗濯機の上にたたんである制服一式が目に入った。
僕は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
これは、ついさっきまで白鳥さんが、着ていた服だ。おそらく、その下には下着も置いてあるに違いない。
僕は頭をブルブルと振り、欲望を押さえ込んで、風呂場に入った。
さらっと汗を流し、5分もせずに風呂から上がると、食事の用意ができていた。
「すみません。遅くに押しかけて、食事までご馳走になるなんて」
白鳥さんが、ペコリと頭を下げる。
「いいのよー。気にしないでホントに! この子が、さやかちゃん以外の女の子連れてくるのなんか初めてのことなんだから!
それも、こんなに可愛い子連れてくるなんて。お腹を痛めてこの子を産んだかいがあったわ」
「いえ、そんな……」
白鳥さんが、返答に困っている。それに、このままベラベラと喋らせると母さんは、何を言い出すかわからない。阻止せねば。
「もう、いいだろ? 早く食べようよ」
「はいはい。じゃ、いただきましょう」
『いただきます』
母さんは、止めるのも聞かず、それからも食事中ずっと白鳥さんを質問責めした。
最初は止めていた僕も、実は聞いてみたいこともあって、途中からは聞き役になっていた。
気付けば、時刻は23時半を回っている。
「そろそろ、遅いですしお暇しますね」
白鳥さんが、時計をみてこう切り出す。
ああ、ずっと家に居てくれたらいいのに。せめて、今日は泊まっていったらいいのに。でも、そんなことダメに決まってる。
その時、母さんがこの日最大の、そして最高の一言を言った。
「今日は、お母さんいらっしゃらないんでしょ? 泊まっていきなさいよ。西の丘ですぐといっても、危ないわよ」
母さん! なんて素敵なことを言うんだ! ありがとう!
僕は白鳥さんが、断りの言葉を告げる前に、たたみかける。
「うん! それがいいよ! そうしなよ? 明日は終業式だから、荷物もないでしょ? 予習復習もないでしょ?
今から帰って何かあるといけない。最近は物騒だ。この間も、その先でひったくりがあったとかなかったとか。
きっとここ10年でないはずがないよ。そうに違いない。
そうだ。最近は、治安が悪くなったよ。ね? 母さん、最近治安が悪くなったよね? 危ないよね? ね?」
「そうよー。そうなのよー。ここ最近、特に凶悪事件が頻発してるのよー。帰ったら危ないわ。泊まっていきなさい」
母さん、ナイスアシストだ。あんた、ホントに最高の母親だよ。
困った顔をしていた白鳥さんが、笑顔を見せてくれる。
「そうですか。では、お邪魔じゃなければ、泊まらせてください」
母さんは、僕の方に流し目を送ってくる。
母さん、来年の母の日は忘れずにカーネーションを送るよ。
「じゃ、どこで寝る? 白鳥さんは、いつもベッド? ベッドは僕のしかないから、僕ので寝る? 僕床に布団しくから」
「こら。あんたはまた出来もしないことを。褥瘡にでもなったらどうするの?」
脊損だと、感覚がないため知らぬ間に、床ずれのようになることがある。
褥瘡になると、治るまで何ヶ月もかかってやっかいだ。
「平気だよ。僕、不全だし。左はちょこっと動くんだから」
「そんなこと言って。入院中にかかとに褥瘡作って、大変だったの忘れたの?」
白鳥さんが、会話に入ってくる。
「その褥瘡というのになると、入院とかしないといけなくなるんですか?」
「ええ、そうなの。ひどい人になると、半年とか一年とか入院になるらしいのよ。病院の先生にも注意するように言われて、最初の内は、毎日私がお尻をチェックしてたのよ。でも、最近恥ずかしがって見せてくれないのよ」
また、母さんは余計なことを! 白鳥さんにそんな話するんじゃない!
「もう! 変なこと言わないでよ!」
あれ? いつの間にか白鳥さんが真剣な顔になっている。しまった。下ネタで怒ったんじゃないだろうか。
「長い時間、車椅子に座ったままだと良くないですよね?」
「ええ、そうよ。先生にも時々、車椅子上でプッシュアップして、除圧する方がいいって言われてるもの。脊損になるとお尻の肉がごそーっと無くなっちゃうでしょ? だから、余計できやすいみたいなの。硬いところに座ったりするのも気を付けるように言われてるわ」
白鳥さんの顔から、笑顔が全く消えた。僕を怒ったような目で見る。
なんで? 下ネタを言ったのは母さんなのに。
「山野くん! なぜそんな重要なことを言わないんだ! 知っていれば二人でボートに乗ろうなんて言わなかった!」
僕は、驚いて口をあんぐりと開けてしまう。
「え、いや、僕不全だから、そんなには……」
「何言ってるんだ! せっかく復学したというのに、入院して、また休学することになったらどうするつもりなんだ!」
白鳥さんの迫力に僕は何も言い返せない。謝るのが精一杯だ。
「ご、ごめんなさい」
母さんが、突然白鳥さんの手を握る。
「なになに? ボートって何? 二人はどこまでいってるの? ねえ? 教えて?」
「え? いや、付き合ってるとかそんなことは……」
「じゃあ、まだ付き合ってないの? でも、秀夫のこと嫌いなわけじゃないわよね? 嫌いだったら家まで来たりしないものね? ね? 秀夫にも可能性ある? ねえ、ある?」
うおおお! 母さん、あんたやっぱり最高の母親だよ! なんていい質問するんだよ!
僕はゴクリと唾を飲み込み、白鳥さんの次の言葉を待つ。
「いや、その、なんていうか、大切な友達っていうか……」
白鳥さんが、僕の視線に気付き、顔を真っ赤にする。
「もう! 本人がいる前で、何言わすんですか! 帰ります! 家に帰らせていただきます!」
「あらあら。冗談よ。もう、可愛いいんだから」
僕は友達か……。まあ、そうだよなー。僕のテンションは潮が引くように下がっていく。
ははは。なんか、期待しすぎちゃったかも。そうだよな。こんな綺麗な子と友達になれただけでも、みんなが羨ましく思うことだ。これ以上望んだら、バチが当たってしまう。
僕は頭に登っていた血が、すっかり下がると帰り道に考えていたことを口にした。
「母さん、免許取りたいんだ。車も欲しい。ハンドバイクっていうのも買いたいんだ。予備の車椅子買ったばかりで悪いけど、買わせてもらえないかな?」
きっと、母さんは、うんと言ってくれないだろう。新しい車椅子は25万する。その上にきて、免許や車、ハンドバイクなんて高価なもの買わせてくれるわけがない。母さんは、僕を真っ直ぐに見る。
「秀夫、免許に車って大金がいるわね。なんでいるの?」
「母さん、僕テニスがやりたいんだ。車椅子テニスをやりたいんだ。競技用の車椅子がもらえることになった。高価な車椅子をくれる人に対して、いい加減な気持ちでテニスなんてできない。車が必要なんだ。お願いだ。僕の我侭を聞いて欲しい」
母さんは、ゆっくりと席を立つと自室へと行ってしまった。
ダメだ。やはり、母さんは許してくれない。
僕が下を向いて、唇をかんでいると、母さんが戻ってきて机に何かおいた。
通帳? 僕の名前が書いてある。
「母さん、これ?」
「あなたのお金よ。好きに使いなさい」
僕は通帳をパラパラとめくってみる。丸がいち、にい、さん、しい……。ご、五千万?
「こんな大金……」
「秀夫、母さんね、必要以上にあなたがお金を使わないように通帳を管理してたわ。あんたほっとくと、高価なレンズいっぱい買っちゃうそうだったし。
でもね、あなたが本気になってやりたいことのためには、自由に使っていいと思うし、使うべきだわ。
今度のことには、母さん何も言わないわ。この通帳から好きなだけ使いなさい」
母さん、ありがとう。僕はやるよ。本気になって、やってみる。見ててくれ、僕の本気を。
「母さん、ありがとう。俺やるよ。自分にできることを全部やってみる」
「ふふ。あんたの燃えてる姿を久しぶりにみたわ。やってご覧なさい。思うように」
「うん! まずは合宿免許で免許とるよ。そして、車は競技用の車椅子が入る中古を買って、ハンドバイクを買うよ。それから、EF 70-200mm F4L ISとEF 17-40mm F4Lを手始めに、EF 70-300mm F4-5.6L ISでしょ? L単も欲しいし、機材が多くなるから防湿庫を買い増して……。あ、そうだ! 星空もとってみたいから、赤道儀でしょ? カーボン三脚も欲しいし、そうなると、雲台もいいのにしないといけない。動きものようにEOS 70Dも欲しいなあ。くー、もうたまんない!」
母さんが、僕のほっぺを引っ張る。痛い! そんなに引っ張ったら、伸びちゃう!
「あんたは、言ってるそばからもう! 無駄なことには使うなって言ってるでしょ? わかった?」
「ごめん、ごめんなさい。レンズは諦めますー。車いすテニスだけに集中しますー。許してーお願いー」
母さんが、手を放し僕はホッペをさする。白鳥さんが、くすりと笑っている。
「ありがとうね、母さん。僕、さっそく車いす屋さんに、ハンドバイクを買いたいって言ってみるよ」
「そのハンドバイクっていうのは、何なの?」
「うん。車椅子の前に付ける手漕ぎの自転車なんだ。実は、今日、車椅子テニスをしてみたんだけど、まったく動けなかったんだ。少しでも振られると、どうにもならなかった。僕は腰の力とか残ってないから、腕の筋力をあげて動けるようになりたいんだ。通学時間も無駄にしたくないから、二学期からは、ハンドバイクで通学しようと思うんだ」
白鳥さんが、顔色を変える。
「本気かい? 道が傾いているところが、何箇所もあったじゃないか。転倒でもしたらどうする気なんだい!」
僕は、白鳥さんをじっと見る。僕を心配してくれていることが痛いほどわかる。
でも、わかって欲しいんだ。僕は、竹畠くんのため、そして僕のために、全力で頑張りたいんだ。
僕 がやろうとしていることは、無茶かもしれない。無謀かもしれない。
でも、それをやり遂げられたとき、僕はきっと障害を受け入れることができるんだ。
僕が先に進むためには、これは絶対に必要なことなんだ。やらなければならないことなんだ!
白鳥さんは、しばらく僕を見たあと、ふと寂しい顔をした。
「私が言っても、聞いてはくれそうにないね……。だったら、私は山野くんが通学するのに付き合うよ。
山野くんが、危険な目に合わないように、サポートするよ」
「いや、いつも迎えにきてもらうのは、悪いし……」
白鳥さんは、片眉をあげる。
「ん? 君は、我侭を言うだけ言って、人の意見は全く聞かないというのかい?」
母さんが、僕の腕をぽんと叩く。
「ほら、こうまで言ってくれてるんだから、素直に甘えさせてもらいなさい」
「う、うん。白鳥さん、ごめんね。迷惑かけるけど、よろしく」
白鳥さんは、ニコリと笑う。
「カメラを教えてもらった、お返しを私もしないとね。これで、貸し借りなしよ」
白鳥さんは、片目をつむり、人差し指をピンと立てる。
可愛い。なんて可愛い仕草なんだ。僕は、顔を赤らめてしまう。
ありがとう。白鳥さん。僕、頑張るよ。
僕は、すぐに車椅子屋さんにメールを送る。
明日、返事がくればいいと思っていたのに、すぐに車椅子屋さんから返事がきた。
〝ちょうど、中古があるよ! 20万でどう?〝
「あるって! 中古があるって! 明日にでもハンドバイクが手に入るかもしれないよ!」
母さんも、白鳥さんも少し驚いたあと、喜んでくれる。
「買っちゃいなさい! 今すぐに!」
「やったね。山野くん! 夏休み中もトレーニングできるじゃないか!」
僕は二人に、微笑みを返し、車椅子屋さんにメールを送信した。
僕は部屋に戻り、母さんと白鳥さんは母さんの部屋へ入った。
今日は、本当にいろんなことがあった。
僕は、合宿免許の申し込みをWEBから済ませる。
腕のあちこちが、痛い。特に肘付近に刺すような痛みが走る。
急にやりすぎただろうか? いや、あと4ヶ月しかないんだ。竹畠くんに、僕の試合している姿を見てもらうのは、そこがラストチャンスなんだ。多少の無茶は、しないとダメなんだ。
僕は、ほこりをかぶっていたグリッパーをタンスの奥から引っ張り出し、ベッドに横になって、グリッパーを握る。
キシキシと、グリッパーは音を立てる。今日は、寝てしまうまで、握り続けよう。
電気を消して、20分ぐらいした頃だろうか。ふすまがすっと開く気配がして、暗闇の中、声が聞こえた。
「山野くん、起きてるの?」
ベッドから、体を起こし、僕が電気をつけると、白鳥さんが部屋を覗いていた。
「う、うん。何だか寝付けなくて」
白鳥さんは、部屋に入ると、ふすまを閉めた。
「ちょっと、お話してもいい?」
「うん。僕は構わないけど、白鳥さんは眠くないの? もう1時過ぎてるよ」
白鳥さんは、ふふっと笑いながらベッドに背を預けるようにして座る。
「私、受験生なのよ? いつも2時まで勉強してるわ」
「今日はごめんね。勉強の時間取っちゃって」
「ううん。今日は、私もいい経験させてもらったわ。学校の勉強より、ずっと貴重なことを学んだ気がする。この写真綺麗ね。なんか、絵画みたい」
白鳥さんは、壁に貼り付けてあるA4でプリントした写真を見ていう。人に写真を褒めてもらうとやっぱりうれしい。それが、白鳥さんならなおさらのことだ。
「ああ、それはね佐賀の三船山公園の紅葉だよ。おじさんに連れて行ってもらったんだけど、綺麗だったなあ」
「ふーん。あ、これは七ッ釜ね。私、行ったことあるわ。こっちは、どこから撮ったの? これ市内だよね?」
「それはね、米の山展望台から撮った夜景だよ。綺麗なんだー。冬行ったから、ものすご寒かったけどね」
白鳥さんは、僕の方を振り向き、にこりと笑う。
「どれも素敵な写真ね。免許取れたら、もっともっと色々なところに行けそうね」
「うん。それも楽しみだよ。テニスの試合が終わったら、あちこち撮りにいくつもり」
「いいなあ。ね、その時は私も誘ってね」
白鳥さんは、そう言って首を少し傾げる。
そんな顔されちゃうと、僕は平静を保てそうにない。可愛すぎる。
「うん。勉強に邪魔にならない程度にね」
「ふーんだ。私、こう見えても成績いいのよ? 知らないでしょ?」
何を言ってるんだ?! そんな賢そうな顔してるくせに。
白鳥さんから、石鹸の香りがしてくる。ああ、ずっと今の瞬間が続けばいいのに。
「し、知ってるよ。さやかから、聞いたもん」
僕は嘘をついた。さやかから、白鳥さんの話を聞いたことなんてない。
「本当に? 私、青柳さんと話をしたことなんてほとんどないわよ?」
「ほ、本当さ。そ、そんなことより、白鳥さんは、どの大学受けるの?」
白鳥さんは、顎に手をあてて、うーんと考えている。
「実は、まだ決めかねているのよねえ。九大を受験するか、推薦で他の大学にいくのか」
九大か。やっぱり頭がいい。僕なんかとは、できが違う。
「九大かあ。すごいねー」
「大学は、どこでもいいの。法律のことを学べれば。どの大学だって、教養過程に民法とかあるもの」
「ふーん。弁護士とかになりたいの?」
僕は、法廷で凛々しく弁論する白鳥さんを想像する。
「うん。そうなの。女の子で、弁護士になりたいなんて、変かな?」
「そんなことないよー。目標が決まってて、立派だよ。僕なんて、何もないからなあ。ずっとプロのテニスプレイヤーになるって思ってたんだけど、1年前の事故で、何になったらいいのかわからなくなっちゃった。あはは」
僕が自嘲気味に笑うと、白鳥さんは申し訳なさそうな顔をする。
「いや、もう本当に気にしてないよ。なんでかな。ずっとモヤモヤしてたものが、すっと晴れたような気がするんだ」
「そか。ちょっと、安心した」
白鳥さんは、すっと立ち上がると、部屋の隅にごちゃごちゃと置いているトロフィーや賞状を眺める。
「それにしても、すごい数ねえ」
「うん。小学生の頃から大会には出まくってたからね。負けちゃうと、父さんのシゴキが待ってたから、そりゃもう必死で頑張ったよ。
でも、いつの頃からかな。自分でも勝ちたいって思うようになってた。優勝したときに、観客の人たちから浴びる拍手が気持ちいいと思うようになったんだ。きつい練習してる時も、その場面を想像すると何か頑張れちゃってたんだよなあ。僕って単純だから」
白鳥さんは、壁に立てかけてあるラケットを手に取る。
「私もね、少しテニスをかじったことあるんだ」
「え? そうなの?」
白鳥さんは、ラケットを構え、軽く振る。なんだか、様になっている。
「うん。父がテニスが趣味って聞いたからね。同じことをしてみたくて、勉強を頑張るって約束で、何年か習わせてもらったの」
「へー。大会とかには出たの?」
「ううん。練習だけよ。それも、中学の時からは自転車に夢中になっちゃって、テニスの方は自然と辞めちゃった」
そうだよな。白鳥さんを試合会場でみたことなんてなかったし、こんな美人な子が出ていたら、きっと話題になったに違いない。
「白鳥さんが乗ってる自転車、速そうだもんね」
「うん。すごくスピード出るんだよ。最高速度は、40KM以上はでるかな?」
「うわー。すごいんだね」
「最初は、テニスと一緒で、父の趣味っていうからはじめたの。私、父から直接聞いたんじゃなくて、テレビの番組で知ったのよ。おかしいでしょ?」
「あはは。それすごいね」
白鳥さんは、ベッドに腰掛けている僕の横に同じように腰掛ける。
ふわっと、彼女から甘い香りが漂ってくる。
「でね、ロードレーサーに乗ってみると、遠くまで行けるの。普通の自転車は持ってたけど、全然違っててね。
20KM以上の速度でずーっと走れちゃうから、100KM先とかでもいけちゃうんだ」
「100KMっていうと、北九州とかかな。すごいや」
白鳥さんは、ラケットをくるくると回しながら、微笑む。
僕が手を伸ばせば、届く距離にいる。抱きしめたい衝動に僕は駆られる。
「私ね、いつも海を見にいくんだ。海岸線を走るとホントに気持ちいいんだよ。ね、ハンドバイクが来たら一緒に行ってみない?」
これだ! 僕が狙っていたのはこれなんだ! 白鳥さんと気持ちよく風を感じて走る。白鳥さんと時間を共有できて、しかもトレーニングができるんだ! 僕はうんうんと力強く頷く。
「うふふ。楽しみね。二見ヶ浦まで走ると、ここから40KMぐらいだから、往復で80KMぐらいかな? 水筒と飴は持っていこうね。脱水になったり、低血糖で倒れたりすると危ないから」
は、八十キロといま、おっしゃいました? ニコリと笑う白鳥さんに僕は愕然とした。
「うそうそ。びっくりした? 初めからそんな距離行かせるわけないって」
いたずらっぽく笑う白鳥さんは、可愛くて仕方がない。手で触れたい。嫌われるだろうか?
「やだなあ。脅かさないでよ。とんだ鬼コーチかと思ったよ。ははは」
白鳥さんは、僕の手を取った。僕の心臓はバクバクと音を立てて、鼓動を早める。今にも口から飛び出てきそうだ。
絆創膏を指でなぞられる。こそばゆくて、触れられたところに電気が走るようにぴりっとする。
「いきなりこんな無茶して。ハンドバイクが来たからって、いきなり遠くに行こうとしたらダメだからね。約束だよ」
白鳥さんは、僕の鼻をちょんとつついた。
僕が驚いて目をパチクリさせていると、白鳥さんは立ち上がって、ふすまの方へと行きくるりと振り向いた。
「じゃ、遅いからもう寝るわ。おやすみなさい」
「お、おやすみ」
ぱたんとふすまが閉じられても、僕はしばらく動けず、電気を消して再び横になってからも、白鳥さんの顔がちらついてなかなか寝付けなかった。
翌日の朝。
僕がぼーっとしながら、ダイニングに向かうと白鳥さんは、すでに制服をきてテーブルについていた。
あれ? ブラウスの色が昨日と違う。今日はピンク色だ。白鳥さんは何色でも似合う。
「おはよう。ふふ。すごい顔。寝癖ついてるよ」
「おはよう。着替えてきたの?」
「うん。一旦家に戻って、着替えてきたの。おばさまが、朝食も一緒にって言ってくださったから、またずうずうしく押しかけちゃった」
白鳥さんは、いたずらっぽく舌をぺろっと出す。くー。朝から白鳥さんのそんな顔が見れるなんて、なんてついてるんだ。
若林や神崎は、こんな顔見たことないだろう。うらやましいか? ざまあみろ!
「ほら、あんたも早く顔ぐらい洗ってきなさい。麗華ちゃん、待っててくれてるんだから」
れ、麗華ちゃん?! 母さん、あなたはなんて羨ましい呼び方をしてるんですか?! ホント尊敬するよ。たった一晩で、そんなに気安く呼べるなんて。
僕が洗面台で、顔を洗い歯を磨いて、テーブルに戻ると、味噌汁と納豆が並べてあった。
「いただきまーす」
僕は食べながら、チラチラと白鳥さんを見る。
背筋をピンと伸ばし、脇を締めて箸を動かす。うーん。なんだろうこの気品は。
僕のクラスで、こんな女子は一人もいない。同じ女の子だというのに、育ちでこうも違うものだろうか。
僕の視線に気付いた白鳥さんが、首を傾げて何? といった顔をする。
僕は首を振って、何もないという仕草をして、視線を味噌汁に落とした。
用意を済ませ、白鳥さんと一緒に玄関を出る。
なんだか、不思議な気分だ。こうして、家を一緒に出ることができるなんて。
白鳥さんが、自転車置き場から、自転車を取ってきて、二人でバス停まで並んで歩く。
「ハンドバイクは、今日届くのかい?」
「うん。珍しく今回は、学校まで持ってきてくれるって。午後1で持ってくるそうだから、終業式が終わってちょっと待たないといけないよ」
白鳥さんは前かがみになって、僕と視線の高さを合わせてくる。
長い髪が、さらりと下に伸び、朝日に照らされてキラキラと輝く。
「ね、私にも乗せてくれる? 一回乗ってみたいんだ」
「うん。いいよ。もちろんさ。好きなだけ乗っていいよ」
白鳥さんは、笑顔を見せるといたずらっぽい口調になる。
「もっとも、昨日の山野くんみたいに、くたくたになるまで乗る気はないよ。昨日の、山野くん最後の方は傑作だったよ。顔なんて、排ガスで汚れててさ」
「もう! それを言うなら白鳥さんもじゃないか! 顔が排ガスまみれで、美人が台無しだったよ」
僕はもっともらしくそう言い返したが、本当は嘘だ。排ガスがつこうが、泥がつこうが白鳥さんの美しさは変わらない。
「山野くんは、私のことを普段は、美人と思ってくれてるの?」
白鳥さんが、顔を近付けてくる。僕はどきりとさせられて、目を逸らす。
「ん? どうなの? 美人と思ってるなら、そうはっきりいっていいんだよ?」
思ってるに決まってるじゃないか! 並んで歩いているだけで、僕の胸はこんなにときめいているというのに。
でも、その気持ちを言ってしまったら、今の関係が壊れてしまいそうで、僕は言い出す勇気がない。
「えー、えー、お嬢様は、町一番の美人でございますよー。もっぱらの噂ですだ」
僕はおちゃらけて、答えをはぐらかす。
白鳥さん、君は美しい。僕が今まで出会った誰よりも。そして、君が好きだ。僕の頭は君のことでいっぱいだ。
僕は、頭でそんなことを考えながら、バス停までの数百メートルを、白鳥さんと進んだ。
バス停には、琢磨とさやかがいた。
僕を見つけて手を挙げてくる。
「おー! ヒデ! え? なんで白鳥さんが?!」
白鳥さんを見つけた琢磨の顔が、驚きの表情を見せる。
さやかも、驚いた目で白鳥さんを見る。
白鳥さんは、二人の視線に少し寂しい顔をして、自転車にすっと跨った。
「では、私は先に学校へ行くよ。また、あとで」
「う、うん。放課後にね!」
白鳥さんは、あっと言う間に見えなくなる。
その後姿を見送っていた僕を、琢磨がヘッドロックしてくる。
「ヒデ! どういうことだよ? いつの間に、そんなに仲良くなってんだよ? いえ! 全部吐いてしまえ!」
「痛い、痛い、そんなことしなくても言うって」
僕は、聞きたがる二人をわざと焦らすように、意味もなく車椅子の後にかけているデイバッグを直す。
「もう、ヒデくん焦らさないで教えてよ! バス来ちゃったら、話聞けないじゃん!」
僕はなんとなく、優越感に浸って、得意気に話す。
「昨日さ、いつものように二人で写真撮りにいったんだ。そしたら、車椅子屋さんから電話がかかってきて、急に、箱崎行かないといけなくなったんだ。
白鳥さんもついてきてくれて、車椅子の採寸したら、流れ上、車いすテニスの見学に行ってね。
学校まで送ってもらったあと、家まで車いす漕いで帰ることにしたんだ。白鳥さんは危ないからって言って、ずっと付き添ってくれて、家についたら母さんが、遅いから泊まっていきなさいっていって、僕の家に泊まったんだよ。さ、何か他に質問があるかね君達?」
琢磨が僕の背中をパンパンと叩く。
「このー! 上手いことやりやがって! マジで付き合えるんじゃねえの? お前、学園のマドンナ白鳥麗華と付き合うっていったら、学校の大半の男、敵にまわすぞ! うひひひ!」
「ヒデくん、テニスやる気になったんだね」
さやかが、満面の笑みで、僕を見る。
僕は大きく頷いた。
「やっぱりテニスが好きなんだよ。昨日、ラケットでちょっと打ったら、この感触が僕には必要だって気付いたんだ。11月に大会があるから、徹底的に鍛え直してみる」
琢磨が、怪訝な顔をする。
「ヒデ、お前がテニスをするのは、両手を上げて賛成するけどよ。何もいきなり11月の大会に出る必要はないんじゃねえの? お前、ずっと運動してなくて、筋肉落ちてんじゃん」
「うんまあ、大会っていってもお遊びで出るんだよ。前みたいに勝負にこだわるわけじゃないから、鍛えるっていっても、もちろん無理のない範囲でさ」
琢磨は、ニコリと笑う。
「そうか。そうならいいけどさ。お前、前はむちゃくちゃやってただろ? 夏のお前の練習見たときは、俺の方が吐きそうなぐらいだったし。まあ、お前なら車いすテニスでも、すぐに強くなるさ。頑張れよ」
「ヒデくん、大会のとき、私たちも応援に行くからね。頑張ってね」
「うん。ありがとう。頑張るよ。明後日からは、その準備段階として、合宿免許で車の免許取りにいくんだ。車は母さんの車に、手動装置付けてもらうことにした」
「え? すごいじゃない! 車の免許取るなんて。取ったら乗せてね!」
「ああ、いいよー」
なーんて、気楽にOKしてるけど、最初に乗せるのは、白鳥さんに決めている。
さやかといえども、女の子だ。ご遠慮願おう。
話に一区切り付き、テレビ番組の話題に移ったとき、スロープ付きバスが到着した。