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秀夫の章 その七

秀夫の章 その七


 それからの2週間。

 合宿免許センターでは、特に問題もなく、僕は卒業試験までストレートで、課程を終えた。

 母さんに迎えに来てもらった僕は、そのまま花畑の免許試験場へ行き、無事、普通自動車免許を取得することができた。


「母さん、取れたよ! ほら、免許証!」


「やったわね。帰り運転してみる?」


「うん。そうだね!」


 車に乗り込む時になって気付いた。最初に助手席に座るのは、やはり白鳥さんがいい。


「母さん、やっぱ家までは、母さんが運転して。交通量が多いと怖いしさ。僕、家の周りをちょろちょろ回ってみるよ」


「そう? じゃあ、乗りなさい」


 自宅までの道で、他の車を眺めながら思う。今日からは、僕も自由に車に乗ることができるんだ。

 紅葉を撮りにいくことも、夜桜を撮りにいくことも、時間を気にせずに自分のペースで、行くことができる。

 僕は、自分が少し大人になれたような気がした。

 母さんは、免許を歴20年以上ということで、運転がうまい。

 前は気付かなかったけど、止まるタイミングや、曲がるときの見切りなんかも安全で、スムーズだ。

 僕が車に乗っているときは、交通弱者ではない。加害者になることだってあり得る。

 僕もこういう風にならないといけないんだ。僕は気を引き締めつつも、白鳥さんへメールを送る。

 自然と顔が緩んでしまう。


「なあに? 嬉しそうな顔して。母さん、わかってるんだから。麗華ちゃんをドライブに誘う気でしょ?」


「ち、違うよ。白鳥さんは、受験生で忙しいんだから。僕はただ、免許が取れたって報告しただけさ」


「はいはい。そういうことにしときましょ。この車は、今日からあんたが自由に使っていいからね。

 もともと母さん、あんまり乗ってなかったし、保険の条件もあんたが運転していいように年齢条件はずしてるわ。事故なんか起こさないように、慎重にね」


「うん。母さん、ありがとう」


 団地の駐車場に着くと、白鳥さんから返事が返ってきた。


 〝すごいじゃない! 乗せて欲しいな〝

 やった! やったぞ! 僕が喜びに打ち震えていると、母さんが僕の荷物をおろしながら笑う。


「あんたは、ホントにわかりやすいわね。荷物は母さん、持って行くから、あんたはそのまま行っていいわよ。くれぐれも気を付けてね」


 僕は、白鳥さんに迎えに行くとメールして、運転席へと移る。

 車椅子のマットを後部座席に入れ、車椅子の座面を上に引き、車椅子を畳む。

 続いて、ブレーキを外して、前のフレームを掴み、そのまま体を倒す勢いを利用して、車椅子を社内に引っ張り入れ、後部座席と助手席の間に、車椅子を入れ込む。

 合宿免許センターで、何回も練習したおかげで、車椅子を積み込むスピードは、かなり上がっていた。 

 やればできるもんだな。

 西の丘の頂上付近にある白鳥さんの家の前まで行くと、白鳥さんが門をくぐってでてきた。

 白いノースリーブのブラウスに、ピンクのスカートを身につけている。

 長い髪は、アップにされている。笑顔が眩しい。

 2週間ぶりに会う白鳥さんは、最高だ。もう、このまま何処かに連れ去ってしまいたい。


「うわー。本当に運転してきたんだね。驚きだわ」


「さ、乗って乗って」


 白鳥さんが助手席の方へ回って、車に乗り込んでくる。

 社内に白鳥さんの甘い匂いが充満する。いい。最高だ。免許を取って本当によかった。

 白鳥さんは、笑顔を僕に向けてくる。くそー。抱きしめたいよ。いますぐに。


「免許みせて」


 僕は得意気に、財布から免許を取り出す。


「じゃーん。運転免許にございます!」


「へー。いいなあ。私も卒業したらすぐ取ろうっと。じゃあ、今日はどこに連れて行ってくれるの? 運転手さん」


 僕は行き先を決めていた。免許を取ったら、竹畠くんのところに行こうと決めていたんだ。


「うん。九大病院に行きたいんだけど、いい?」


「竹畠くんのところね? じゃあ、行きましょう! 出発進行!」


「アイアイサー!」


 僕は車を発進させた。

 

 202号線を原の交差点まで進み、左折して早良口を目指す。

 運転している僕を見て、白鳥さんが感心する。


「上手じゃないの。乗ってて、もっと怖いかと思ってたわ」


「まあ、才能ってやつ? 運動神経がいいからね。プロのドライバーになっちゃおうかなあ。あははは」


 僕が冗談を言うと、白鳥さんがくすりと笑ってくれる。

 いいなあ。この感じ。車内という閉鎖された空間がまたいい。


「竹畠くんとは、連絡取り合ってたんでしょ? どんなだって?」


「うん。メールでやり取りしてるよ。3D放射線とかいうので、ガンを焼いたり、抗がん剤を使ってるんだって。年内は、生き延びたいって言ってたよ……」


 メールでも、竹畠くんは、絵文字とか使って楽しげに書いてくれるけど、余命のことに触れられると、元気そうな竹畠くんが、あと数カ月でこの世からいなくなるという事実を突きつけられているようで、僕の心はどうしても沈んでしまう。

 でも、僕にできることは何もない。せめて、彼のくれる車椅子で、精一杯車椅子テニスをしよう。

 途中で、お見舞いにケーキを買い、九大病院の入院病棟へ向かう。

 

 受付で、竹畠くんの病室を聞き、そこに近付いたとき、ぞっとする声を聞いた。


『うげえぇえええ。おぇええええ。げほっ。げほっ。おぇええええ』


 その声は、竹畠くんの病室がある方から聞こえてくる。

 もしかして、この声は竹畠くん?

 苦悶の声は、廊下に鳴り響いている。僕と白鳥さんは、このまま行くべきかどうか迷い、あと数メートルで病室というところで、動けなくなった。

 不意にドアが開けられ、タオルで目頭を押さえた中年の女性が、病室から出てきた。

 おそらく、竹畠くんのお母さんだ。


「あなたは、山野くんでしょ? お見舞いに来てくれたのね。ありがとう。さ、どうぞ入って」


 お母さんに、誘導され僕と白鳥さんは、重い気持ちのまま病室に入った。

 竹畠くんは、ベッドに横になっていた。頭だけじゃなく、眉毛までなくなり、頬の肉はげっそりと落ち、顔に生気がまったくない。

 腕も胸もものすごく痩せている。骨と皮だけだ。

 僕は、何といっていいのか言葉が見つからなかった。

 竹畠くんは、お母さんに手をあげる。お母さんは、ストローの挿してある水筒を竹畠くんの口近くまで持っていく。

 竹畠くんは、少し口に水分を含むと、飲み込みにくそうに、喉を動かしてから、口を開いた。


「ごめんね。びっくりしたでしょ? いま、抗がん剤を入れてる週なんだ。副作用で、僕の体はボロボロってわけ。ダイエットにはいいんだけどさあ。あははは」


 僕は苦笑いを返すことしかできない。言え、なにか励ますことを。でも、なんて言えばいいのかわからない。

 大丈夫だよ。治るよ。なんて、嘘をつくことは僕にはできない。どんな言葉がここで一番ふさわしいんだ。


「そんなに悲しそうな顔しないでよ? もう、僕の命は長くないって自分でもわかってるんだから」


 竹畠くんは、ガリガリに痩せた顔で、笑顔を作る。

 どうして、君は笑えるんだ? なぜこの状況で笑うことができるんだ? 僕は今にも泣き出してしまいそうだというのに。

 竹畠くんは、壁にかけられている革のジャンパーを指差す。


「あれ、かっこいいだろ?」


「う、うん。かっこいいね……」


「そうだろ? あれね、ショットっていうメーカーのライダースで、定価10万するんだよ」


 僕は顔を引きつらせつつも、笑顔を作る。


「そ、そうなんだー。高いんだね」


「うん。僕ね、昔からライダース欲しかったんだ。母さんに無理言って、買って来てもらった。でもね、僕はまだ袖に手も通してないよ」


 竹畠くんの真意がわからず、僕は答えに困る。余命数ヵ月なのに、なんで着てみないのか?


「どうして? せっかく買ってもらったのに」


「僕ね、年は越せないって医者から言われてる。年内いっぱい持てばいい方だってさ。僕は、どうやらガンには勝てそうにないんだけど、負けっぱなしって悔しいだろ? だからさ、今年一杯生きることができたら、元旦にあのライダースを着てやろうとおもうんだ。僕とガンとの最後の勝負ってわけさ」


 僕はハンマーで頭を打たれたような衝撃を受けた。僕と同い年の竹畠くんは、死を受け入れてなお、戦いを止めていない。

 ガンに最後まで抵抗する気でいるんだ。眉毛までなくなり、あんなに苦しい声を出しているのに、最後まで戦おうとしているんだ。

 少し前まで、歩けなくなったことで落ち込んでいた僕は、彼に比べてなんて小さいんだろう。


「おっと、そうそう。母さん、車椅子、車椅子! 山野くんに渡して!」


 お母さんが、病室の隅に置いてあった競技用車椅子を僕の方へ持ってくる。


「この前、乗ったとき、背もたれが低かったでしょ? 山田さんにお願いして、上げてもらったんだ。横幅はどうしようもないけど、まあ2CMぐらいだから、大丈夫だろうしね。これ使って、テニス頑張ってよ」


 言え、お礼を。でも、今口を開けたら、泣き出してしまいそうだ。

 いや、言うんだ。僕の言葉で、竹畠くんの寿命が少しでも伸びるなら、言わなければならないだ。

 僕は言葉を震えさせながら、力を込めて竹畠くんに精一杯の思いを伝えた。


「た、竹畠くん。僕は君に約束するよ。これから、11月の九州大会まで、最大限の努力をする! そして、優勝してみせる。優勝して、そのトロフィーを君に渡すよ。絶対だ。絶対に、優勝する! だから、君もガンに負けないと約束してくれ! あのライダースを着るまで、生き続けてくれ!」


 目に涙を溜める僕に、竹畠くんはニコリと笑って、右手を差し出した。


「うん。約束だ。僕は来年まで生きるよ。でもいいの? 優勝するなんて言って。いまは統一ランキングになってるから、クラス3でも、ランキング消えてる上の方の人がでるよ。今度の九州大会では、元メインの渡辺さんがでるしさ。簡単じゃないよ」


 僕は竹畠くんの右手を力強く握った。


「簡単じゃないから、やる意味があるんだろ?」


「うん。そうだね。結果報告楽しみにしてるよ」


 白鳥さんに競技用の車椅子を押してもらって、エレベータホールに行くと、竹畠くんのお母さんが追いかけてきた。

 深々と僕に頭をさげる。


「ありがとう。あの子のあなたを見る目、生き生きしてたわ。

 あの子ね、あなたが出てた番組を今も繰り返しみてるのよ。その度に言うの。同い年で、世界を相手に戦っている奴がいるって。僕も負けてられないって。あなたが、事故にあって歩けなくなった時は、あの子もすごいしょげててね。

 でも、あなたからまたテニスをしてくれるって聞いた時は、自分のことのように喜んでてね。やっぱりすごいやつだって。

 あなたにテニス車を使ってもらえて光栄だって言ってたわ。テニス、あの子の分も頑張ってね」


 僕はエレベータに乗り込むと、白鳥さんがいるというのに涙を止めることができなかった。

 僕に涙がこんなにあったのかと思うほど、ぼたぼたと涙が落ちた。

 僕はやる。自分ができる限りのことを全部やってみる。竹畠くんと次会うときに、胸を張れるように。

 競技用の車椅子を車に積み込み、車を発進させる。

 白鳥さんが、寂しそうにポツリと言った。


「竹畠くん、状態が悪そうだったね」


「うん……。僕やるよ。九州大会まで思う限りのことをやってみる。それが彼の思いに答える僕にできる唯一のことだと思う」


 白鳥さんは、僕の肩をパーンと叩く。

 僕はびっくりして、白鳥さんを見る。


「なによその顔は! 元気だしなさい! 優勝を目指すんでしょ!」


「そうだね! 今からガンガンやるよ! 早速学校に行ってもいい?」


「私は、最初からそのつもりよ。サボったりしたら許さないんだから」


 ありがとう。白鳥さん。励ましてくれて。

 僕は、学校へと車を走らせた。


 駐車場に車を止め、白鳥さんに競技用の車椅子を押してもらって、テニスコートへと向かう。

 井上先生が、笑顔で迎えてくれる。


「おー、山野! 今か今かと儂は待っとったぞ! 免許の方はうまくいったのか?」


「こんにちは、先生。無事取れました」


 井上先生は、私服姿の白鳥さんを見る。


「白鳥も一緒か。いいなあ。華やかで。お前たちいつも一緒だけど、付き合ってるのか? ん? どうだ? 内緒にするから言ってみろ?」


 井上先生の大きな声は、6面あるコートのどこにいても聞こえるはずだ。

 そんな変な質問に答えられるはずがない。というか、付き合ってもいないけど……。

 白鳥さんが、白い顔を赤くして、批難する。


「先生! 変なこと言わないでください! 私と山野くんは仲のいい友達なんですから。気まずくなったらどうするんですか?」


 やっぱり、友達だよなー。そりゃそうだ。

 僕は、少し落ち込みながら、井上先生の承諾をもらって、端のコートに移動する。

 僕が競技用の車椅子に乗り換え、準備運動をしていると、白鳥さんはどこかに行ってしまった。

 ちょっと、寂しい気がしたが、ここまで付いてきてくれただけでも、ありがたいことだ。

 勉強道具をもってきてたみたいだから、きっと図書室で勉強でもするのだろう。

 僕はDVDで観た、トレーニング方法にしたがって、まずはコートの周りを回る。

 常用の車椅子と違って、一漕ぎの伸びがすごくある。ちょっと漕いだだけで、車椅子は数メートル、すーっと進む。

 上体を倒し、僕はスピードを上げる。スピードを上げるとやはりきつい。

 タイヤのインチサイズが大きく、車体が折り畳めない分だけ、僕の力が逃げずに動力へと変わるが、腰の力がないぶん、腕に負担がかかってしまう。

 コートの周りを10周すると、腕はかなり張ってきた。僕はテーピングを指に巻き、皮がむけないようにしてから、今度は、左右へ車椅子を連続で振る。上体が、倒れそうになるのを腕力で支える。

 50回も繰り返すと、僕の息は完全に上がってきた。

 僕が腕を伸ばし、体を捻っていると、ラケットケースと球の入ったバケツを持った石飛がやってきた。

 そのラケットケースは、僕が部室に置きっぱなしに、してたやつだ。

 石飛は無言でラケットケースを置くと、椅子を僕の2Mほどまえに置き、座る。


「い、石飛、練習手伝ってくれるのか?」


「あーん? 別にー。ただ、なんとなくボールを左右に出したいなあって思ってるだけさ。あんたがそれをどうしようが俺には関係ないね」


 僕はくすりと笑った。なんとも素直じゃないやつだ。でも、すごくありがたい。


「もしかして、あのDVD観たのか?」


「さあねえ。どうだろ。やるのやらないの? やんないなら、向こうにいって自分の練習するぜ?」


 石飛は、ニヤリと笑う。


「やるに決まってんだろうが!」


 僕は石飛の正面に行く。


「よし、行くぜ。そら」


 石飛は、僕の左右に球をぽーんと投げる。

 僕は、ワンバウンドの内に球に触り、逆側に投げられた球に向かう。

 最初の内は、追いつけていたが、だんだんと遅れ出す。


「ほらほら、もっと漕げ! それとも止めて家に帰るかあ?」


「やってやらぁ! もっと来い!」


 僕は歯を食いしばり、左右に出されるボールに喰らいつく。

 バケツの球が無くなり、僕が肩で息をしていると、ぽんぽんと石飛に肩を叩かれた。


「ちょっと休憩な。休んでな」


 石飛が球を拾い出すので、僕が動こうとすると、石飛は手を上げて制止する。


「あんたさあ。無茶やればいいってもんじゃないって。ちゃんと休憩とらないと、腕が壊れるぜ。

 この短い間に、体が一回り大きくなってんじゃんか。どうせ、筋トレをめちゃくちゃやってんだろう?

 無茶が好きなあんたがやりそうなこった。コート場では、俺のいう事聞けって。大会前に故障しちゃなんにもなんないだろう?」


「う、うん。ありがとう……」


 石飛の言うことを聞いて、僕がドリンクを飲んでいると、球を拾い終えた石飛がやってきて、僕の腕をマッサージしだした。


「ほら、こんなに張ってる! ちゃんと、ケアしないとダメだろうが」


「はい。ごめんなさい」


「ま、そんなあんた、嫌いじゃないぜ」


 石飛が僕に笑いかける。コイツって、クラスじゃ話してるのほとんど聞いたことないのに、こんなに話す奴だったんだ。

 しばらくすると、女子部員の一人が近付いて来て、石飛の頭を叩いた。


「いてっ! 何しやがる!」


 その女子部員は、腕組みをして、片膝を付いている石飛を見下ろす。


「なに言ってんのよ! あんた、それが先輩に対する態度? 敬意を持ちなさいよ。敬意を!」


 石飛は、何も言い返せず顔を赤くしている。

 そうか。この子のことが、石飛は好きなんだ。かわいいとこ、あるじゃないか。


「はい。山野先輩!」


 その女子部員は、僕に水筒を差し出してくれた。


「え? あ、ありがとう」


「私、松野ゆいです! ゆいって呼んでくださいね! もうね、山野先輩に会いたくて堪らなかったんですよ! この学校を選んだのだって、山野先輩がいるからだしー、何回もクラスに見にいったんですからー。

 でもなんか、先輩落ち込んでたから、ああー、これは余計なことしちゃいけないなあって見守ってたんですよー。

 あ、そうそう。先輩に食べてもらおうと、クッキー焼いてきてるんです! 持ってきますね!」


 機関銃のように早く口で、まくしたてると、松野ゆいは部室に走っていく。

 なんて、騒がしい子なんだ。可愛らしいけど。

 石飛は、彼女の背中を口をとんがらせて、見ている。


「石飛、彼女のこと好きなの?」


 石飛は、耳まで赤くして、僕の顔を驚きの目で見る。


「はーん? 好きなんだね。で、彼女に頭が上がらないってわけか」


「あんた、エスパーか? なんでわかるんだよ?! 誰にもいったことないってのに!」


 もろわかりだっつうの。

 まあ、いいや。練習に付き合ってくれてるんだ。少しは協力しよう。


「石飛、彼女の焼いたクッキー欲しいか?」


 石飛は、頭を縦に何度も振る。よほど欲しいらしい。


「わかったよ。練習付き合ってくれたからさ、クッキーはお前にやるよ。その代わり、時々でいいんだ。今日みたいに練習付き合ってくれると助かるんだが」


 石飛は、僕の腕をがしりと掴み首を縦に振る。


「あんた、見かけによらずいい人だな! 俺は全力でサポートするぜ! 毎日でも付き合ってやる!! 血反吐吐くまでしごいてやるよ!」


 いや、お前さっきやり過ぎるなって言ってたじゃないかよ。

 石飛の手が僕の手を握りつぶそうとしていた時、白鳥さんが戻ってきた。

 丈の長いTシャツに、スパッツ姿。手にはラケットを持っている。

 白鳥さんがコートにやってくると、男子部員たちは、顔を赤らめて目で追っている。

 綺麗だ。なんでこの人は、こうも絵になるんだろう。

 いや、待て。ラケットを持ってるってことは、やるつもりなのか?


「お待たせー。ごめんね。ちょっと捕まってて。さ、練習手伝うわよー」


 白鳥さんは、ブンブンとラケットを振る。


「白鳥さん、練習を手伝うって、勉強は?」


 白鳥さんは、平然と答える。


「やるわよ。帰ってから」


「え? 悪いよー。受験生なんだし、勉強しててよ」


「あー、そういうこと言うんだ。そんなこと言うなら、山野くんが私をいやらしい目で見てたって、みんなに言っちゃおうっと」


 白鳥さんが、叫ぼうとするのを僕は焦りながら止めた。


「わかった。わかったから、止めてよ! でも、白鳥さんテニス上手いの?」


 白鳥さんは、ふふーんと得意気に球を取ると、トスを上げた。

 あれ? 様になってる。


〝シュコーン!〝


 スピードの乗ったサーブがコートに突き刺さる。上手い。これはかなりやってる。

 前にちょっとやってたって言ってたけど、ちょっとどころじゃないじゃないか。


「お分かりかしら? さあ、バンバン球出しするわよ! さあ、ラケットを持って、コートに入りなさい!」


 何やら、白鳥さんが燃えている。僕も字は違うけど、そんな白鳥さんに萌えている。いかんいかん。僕は何を考えているんだ。

 大きな包を持った松野ゆいが戻ってきた。

 白鳥さんを目を細めて見る。


「部外者が入ってきてるように、見えるんですけどー」


 白鳥さんは、松野さんの方へと歩み寄る。


「部外者とは、ご挨拶ね。私は、生徒会長よ。部活動の様子を見にきて、何が悪いのかしら?」


 白鳥さんが、高圧的だ。何やら彼女を見る目が鋭い。


「ふん。何言ってんのか意味がわかりませんねー。ここは、テニスコートです。テニス部員以外の方は、許可なく入ってもらいたくないわね」


 松野さんの顔付きが鋭くなく。今にも二人は取っ組み合いの喧嘩を初めてしまわないかと、僕はハラハラする。


「許可なら、井上先生にもらってるわ。自由にコートを使っていいって、井上先生がおっしゃったのを聞いてなかったのかしら」


「それは、山野先輩に対してでしょ? あなたに言ったわけじゃないわ!」


「私は、山野くんの練習を手伝うために来てるのよ? それとも何かしら、あなたは山野くんの練習を邪魔したいわけ?」


「きーっ! ああいえば、こういう! 私なんて、山野先輩にクッキー焼いてきたんだから! 山野先輩だって、若い子の方がいいに決まってるわ!

 私のことは、ゆいって呼んでくれてるんだからね」


 いや、待て。そんなこと言った覚えはないぞ。うわっ。石飛まで僕を怖い目で見てる。

 取らないって。僕は白鳥さん一筋なんだから。

 白鳥さんが、僕の方をキッと睨む。

 僕は手を上げて、否定する。


「いや、言ってないよ。僕はそんなこと。会うのだって、今日が初めてなんだから」


 怖い。こんな怖い白鳥さんを見るのは、初めてだ。僕は変な汗をかいた。


「ほら、ご覧なさい。山野くんがああ言ってるわ。変なクッキーなんて山野くんにたべさせないで頂戴。お腹壊したらどうするつもりなの?」


 松野さんが、僕の首に手を回して顔をくっつけてくる。


「ふーんだ。そんなことないようだっ! 先輩、あーんして。あーん」


 うわっ。白鳥さんから怒りのオーラが見える。

 白鳥さんは、松山さんの腕を僕から引き離す。


「止めなさいよ! 山野くんが嫌がってるでしょ?」


「やー、怖いー。年増の嫉妬はみっともなーい」


「な、なんですって?! なんて嫌味な子なの?」


「へーんだ。悔しかったら、あなたも先輩にクッキー焼いてきたらいいじゃないの。どうせ勉強ばっかで、料理なんてしたことないんでしょうけど」


「それぐらい私でも出来るわよ! いいわよ。クッキーでもケーキでも焼いてきてやろうじゃないの!」


「じゃあ、1週間後、山野先輩にどっちが美味しいか、判定してもらうっていうのはどう?」


「望むところよ! あとで、謝っても遅いんだからね!」


「ふん。どっちが謝ることになるんでしょうね? じゃ、先輩このクッキー後で食べてくださいね。わたし練習にもどりますから」


 松野さんが、行ってしまっても、白鳥さんはぶるぶると震えている。

 やばい、何か言うと逆鱗に触れてしまいそうだ。

 僕は松野さんが置いていった包をそっと手に取った。

 途端に、白鳥さんが鬼の形相で、僕を睨む。

 僕は恐怖の余り、身を固くした。


「や~ま~の~く~ん! まさか、それ食べる気じゃないでしょうね!!」


「いや、違うよ。これは、石飛にやるってさっき、約束したんだ。なあ、石飛、約束したよなあ」


 石飛は、白鳥さんの迫力に尻込みしつつ、うんうんと頷く。


「なんだ。そうだったんだ。早く言ってくれなきゃ。じゃあ、私、買い物するから今日は帰るね。また明日ね」


 白鳥さんが、スタスタと行ってしまう。

 僕は驚いて、後を追う。


「し、白鳥さん、送っていくよ。今日は自転車じゃないだろ?」


「バスで帰るわ。一刻も早く行動しないと! あんな小娘に負けるわけにはいかないわ!」


 うわっ。白鳥さんの目が燃えている。

 僕は引き下がり、白鳥さんを見送った。

 でも、明日は白鳥さんの手作りクッキーが食べれるんだ! やったすごいぞ!

 僕は陽が落ちるまで、練習に励んだ。


 競技用の車椅子を部室に置かしてもらい、僕は帰宅してハンドバイクに乗った。

 練習で酷使した筋肉は、すぐに悲鳴をあげ出す。

 僕は、なるべく平地を選び、ときに歩くように緩く、ときに全速力で漕ぐことを交互に繰り返す。

 ハートレートモニターが、警告音を出す。

 いいんだ。筋トレは無茶が基本だ。僕は腕が痙攣しだすまで、ハンドバイクを漕ぎ続け、家に帰った。

 部屋に入ると、すぐさまプロテインを飲む。


「あんた、また汗まみれになって。運動もいいけど、ほどほどにしなさいよ」


「うん。母さん、ご飯。今日は丼で食べるから!」


 おかずを平らげ、どんぶり飯を空にして、僕はさらにおかわりする。


「ちょっと、どうしたの? そんなに食べて大丈夫なの?」


「母さん、僕は竹畠くんに約束したんだ。全力を尽くすって。体を作るために、無理にでも食べないとダメなんだ」


 どんぶりご飯に、たまごを落とし、口に入れていると、食べたものが逆流してきた。

 すっぱい胃酸が、喉を焼く。僕は口を手で押さえ、口まで戻ってきたものを再度無理矢理飲み込む。


「あんたえらい疲れてるじゃないの。大丈夫なの?」


「う、うん。大丈夫だよ。お風呂入るね」


 僕はフラフラになりながら、風呂に入った。


「秀夫ー、そろそろ上がりなさいよー」


 母さんに声をかけられて、はっと気付いた。いつの間にか、僕は風呂の中で寝てしまっていたらしい。

 風呂からでると、頭がふらふらする。上せてしまったらしい。

 風呂から上がって、携帯を見ると琢磨からメールが着ていた。

 メールに返信すると、コンビニでも行かないかとの誘いがきた。

 僕は体が火照っていたこともあって、誘いに乗ることにした。


 神社まで行くと、琢磨とさやかが待っていた。


「おっす。ヒデ、免許取ったらしいじゃん。みして、みして」


 僕が得意気に、免許を取り出すとさやかが、それを奪いように取った。


「すごー! ヒデくん、ホントに免許取ったんだね。いいなあ」


「ふふん。まあな。車も母さんのを自由に使っていいってさ。いいだろ?」


 琢磨が僕の肩をぽんぽんと叩く。


「そういや、お前テニス部でやらかしたんだって? 聞いたぜー」


 テニス部でやらかした? 何かしただろうか?

 僕がきょとんとしていると、さやかが額をつついてくる。


「白鳥さんにテニス部員の前で、キスしたっていうじゃないの? ヒデくんがそんな大胆な人って知らなかったわ」


 は? キス? 僕が? どこでそんな話になってるんだ? 意味がわかんないぞ!


「してないよ! なんだよキスって!」


 僕が顔を赤らめて、否定すると琢磨が、腕を組んで笑う。


「いやー、やるねえ。ヒデは、やっぱ男だよ。なんか、神崎も殴ったって? 俺の女に手を出すなって言ったんだろ?」


 どうやら、終業式の日の話が尾ひれが付いて広まっているらしい。

困ったもんだ。


「いやあのさ、テニス部にいってコート貸してくれっていいにいったらさ、神崎の奴がムカつくこというから、白鳥さんを抱き寄せたんだよ。あいつ、白鳥さんにご執心だからさ。神崎を殴ったのは、僕じゃなくて、2年の石飛。

 あ、殴ったんじゃなくて、ケツを蹴り上げてたな」


 僕が顎に手をやり、首を捻っていると琢磨がヘッドロックをしてきた。

 痛い痛い。筋肉痛に響く。


「このー! やるじゃんかよ! お前、白鳥麗華と付き合ってんの? いいじゃん! いいじゃん!」


「いててて! 痛いって! 落ち着け、タク!」


 琢磨は、僕を放したあとも、にやにやして頭を叩いてくる。

 さやかが、興味深々といった風で、顔を近付けてくる。


「ヒデくん、早く教えてよ? どうなの? 白鳥さんと付き合ってるの?」


 僕は、一つため息を付いてから、話を始めた。


「わかったよ。言うよ。お前らになら、言ってもいいだろ。まずな、お前らが思ってるような仲にはなってない。つまり、付き合ってない」


 さやかと、琢磨が残念という顔をする。


「話は、最後まで聞いてくれ。でもな、すごく仲良くなった。一緒にいる時間が長いし、毎日メールしてる。

 お互いの悩みを打ち明けあったりもした。僕は彼女のことが好きだし、彼女も僕のことを好いてくれていると思う」


 琢磨が、腕を突き上げ、僕の肩をバンバンと叩く。


「やったじゃねえか! そりゃ付き合ってんのと一緒じゃん!」


「タク! 話は最後まで聞けって。僕が彼女を好きっていうのは、もちろん恋愛の対象としてさ。彼女を抱きしめたいと思うし、彼女にキスしたいって思ってる。でも、でもさ、彼女が僕を好きでいてくれるっていうのは、僕が好きって想う気持ちと違うんだよ」


「ヒデくん、彼女が好きでいてくれるって感じるんでしょ? だったら、好きって告白したらいいじゃない。

 好きな気持ちが、ヒデくんと違うなんて、そんなのわかんないよ」


「さやか、わかるんだ。彼女を知れば知るほど、その違いがわかるんだよ。彼女はね、心に傷を抱えてるんだ。

 だから、他人との間に壁を作って、人と距離を取ってたんだ。僕が彼女が気を許せる初めての友達なんだよ。

 僕のことを大切にしたいって思ってくれてるんだ。僕のために何か手助けしたいって思ってくれてるんだ。

 さやか、その気持ちは、さやかが僕のことを思ってくれている気持ちと一緒なんだよ。

 僕が、お前と付き合いたいっていったら、お前はどんな気持ちになる?

 大切な友達って思ってた異性が、恋人になってくれっていったら、お前どうするよ?

 彼女は優しいよ。僕を傷つけないように、きっと悩むに違いない。受験生の彼女にそんな負担かけていいわけがないだろう?

 僕は、愛してるよ。こんなに人を好きになったことなんて、初めてさ。寝ても覚めても彼女のことを考えているよ。

 彼女の笑顔を見たとき、幸せを感じるよ。彼女に話しかけられた時、暖かい気持ちになるんだよ。

 そんな彼女に、辛い思いをさせていいわけがないだろう?

 自分の気持ちを押し付けて、自己満足するような真似して、いいわけがないだろうが!!」


 さやかは、下を向き、唇を噛む。琢磨は、腕を組んで天を見上げる。

 琢磨は、ふーっと息を吐いてニコリと笑った。


「わーったよ。お前の気持ちは。全くお前は不器用だなあ。なんで、こう軽く考えれないのかねえ?

 まっ、それがヒデのいいところでも、あるんだけどよ。まあ、いいや。俺らは応援してっから、お前のやりたいようにやれよ」


「ヒデくんの気持ちは、わかったわ。私、同じクラスだし、新学期になったら彼女と気軽に話せるようになってみる。

 そして、それとなくヒデくんをどう思ってるか聞いてみるよ。それなら、いいでしょう?」


 さやかは、僕を怒られた子犬のような目で見る。

 ありがとう。二人共僕のこと心配してくれて。

 でも、僕はもう大丈夫だよ。僕は、白鳥さんと竹畠くんから、勇気をもらったんだ。


「うん。ありがとうな。色々と心配してもらって。僕はいい友達を持てて、幸せだよ」


「また、お前はジジくさいこと言いやがって。まあ、彼女ではないけどいい友達なんだろ? 仲良くしてりゃ、そのうち彼女になってくれっかもしれないって。

希望を捨てんじゃねえぞ。な?」


「うん。まあ、期待しすぎないようにするけど、最後の希望は捨てないようにするよ。白鳥さんに、彼氏がいないのは確かだしさ」


「あ~あ。せっかくダブルデート出来ると思ったのになあ。サンシャインプールとか行きたかったのに」


 ん? 待てよ。サンシャインプール? プールって言ったら、水着だよな。

 白鳥さんの水着姿? うおー! 見たい! 見たいぞ! 

 友達だって、プールに行くよな! 行くよ! 行かないわけがない!


「お、おいヒデ、お前どうしたんだよ? なんか、張り切ってねえ?」


「さやか! お前、最高だよ! なんていいこと言うんだよ! 夏だよ! 夏休みにプール行かなくてどうするんだよ!

 なんで、そんなことに気がつかなかったんだ。あー、僕は馬鹿だ。大馬鹿者だよ。夏はプールで、ドライブだろが!」


「ちょ、ちょっとヒデくん、なんでいきなりテンション高いのよ? さっきのシリアスさはどこいったの?」


「よし! そうと決まれば、電話だ電話! お前ら、お盆大丈夫だよな? 予定ないよな?」


 琢磨とさやかが、頷くのを確認しながら、僕は白鳥さんに電話をかけた。


『はい。どうしたの? 山野くん。こんな時間に電話なんて珍しいじゃない。いつもはメールなのに』


「あのさ、夏はプールでドライブなんだよ! 大丈夫? 予定ある?」


『え? プールとドライブがどうしたの?』


「だからさ、夏はプールでドライブの海の中道だって!」


 さやかが、僕から携帯を奪い取る。


「ごめんなさいね。ヒデくん、興奮しちゃってて。あのね、私とタッくんとヒデくんの3人でサンシャインプールにお盆行こうってことになったんだけど、

よかったら、白鳥さんも行かないかな?」


 おおー、さやかそれだよ。僕が言いたかったのは! 返事は返事は、なんて?

 僕が興奮して、さやかの周りをうろうろしていると、さやかは僕に落ち着けというジェスチャーをする。

 これが、落ち着いていられるか! 水着だぞ! 白鳥さんの水着だぞ!


「あ、本当。そう。じゃあ、ヒデくんに替わるわね」


 僕はさやかから、携帯を受け取ると、耳を当てた。


「もしもし! どう? 行くの行かないの?」


『大丈夫だよ。お盆に予定はないから。夏期講習も休みだしね』


「本当に?」


『うん。本当だよ。あ、水着がないから、予備校の後に買いにいってくるよ。じゃ、また明日ね。予備校に行く前に、そっちによるよ。一緒に学校まで行こう』


「う、うん!」


『おやすみ』


「おやすみー」


 電話を切り、僕はガッツポーズする。続けて、琢磨が向けた手の平に、ハイタッチする。

 そのままの興奮状態で、家に帰ったが疲れていた僕は、すぐに眠りについた。

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