秀夫の章 その一
秀夫の章 その一
"キーン、コーン、カーンコーン"
授業の終わりを告げる鐘の音が、スピーカーから流れた。
教室にいた生徒たちは、一斉に立ち上がり、わいわいと騒ぎながら、ある者は部活動へ、ある者は帰宅するべく廊下へと出て行く。
そんなクラスメート達を尻目に、僕は車椅子の下からカメラ雑誌を取り出し、ページをパラパラとめくる。
人が多いと、車椅子に乗った僕は、壁に囲まれたような状態になって、中々進むことができない。
無理に行っても、人に当たって、嫌な顔をされるのがオチだ。
だから、教室にくるのは誰よりも早く、教室から出るのは誰よりも遅くということを心掛けている。
「長老、何読んでんのよ?」
留年した僕をいつもからかってくる小田が、意地悪い顔をして言ってくる。
僕は心底、こいつが嫌いだ。そっとしておいて欲しいのに、何かと絡んでくる。
僕はちらりと小田を見ると、視線をまた雑誌に戻す。
小田の薄汚れた手が雑誌を隠す。
「おいおい。人が話しかけてやってんのに、何だその態度は? ええ?」
いつの間にか、小田の取り巻き数人が机を囲んでいる。
「何だよ。関係ないだろ?」
小田は、僕の肩を押してくる。くそ、足さえ動けばこんな奴ぶん殴ってやるのに。
「ああ? 障害者でダブリの癖になんだその態度は? ええ、おい。僕ちゃんよ」
僕は小田を睨む。立ち上がって殴り倒したい。でも、車椅子の僕ではそんな芸当は到底無理だ。
睨むのが精一杯の抵抗。我ながら情けない。
不意に、小田が押されて、前のめりになった。小田は怒りの表情を浮かべて後を振り返る。
「だれだ? 蹴ったのは!」
「邪魔だ。どけよ」
声の主は、テニス部の後輩、石飛だ。いや、正確には元後輩か。テニスができなくなった僕がテニス部員であるはずもない。
180CMはある石飛に一瞥されると、小田はそれまでの傲慢な態度を引っ込めて、さっと道をあけた。
「ふん。くだらねえことしやがって」
石飛が教室から出ていくのを待って、小田は舌打した。強いものには逆らわない主義らしい。本当にクズだ。
「ちょっと体がでかいと思って、のぼせやがって。しらけちまった。帰ろうぜ」
小田とその取り巻きたちは、ぞろぞろと教室を出て行った。
やっと、静かな時間が過ごせる。僕はほっと胸を撫で下ろす。
それから、十数分も経っただろうか。レンズは純正がいいけど、高いなあと口をへの字に曲げていると
いつの間にか教室に入ってきていた幼馴染の吉村琢磨に話しかけられた。
部室にいって、着替えて来たのだろう。琢磨は、サッカー部の練習用ユニフォームに着替えている。
「何見てんだよ? またレンズかぁ。もう、いっぱい持ってるじゃんよ」
「いろいろ違うんだよ。秋の航空祭までに新しいの欲しいんだ」
「うげっ。これなんて、10万以上するじゃん! 信じらんねえ」
琢磨はお手上げのポーズをして、首を振る。
「レンズで写りは変わるんだよ。いいレンズは空気感が違うんだ」
「ふーん」
僕は言葉に力を込めるが、サッカー命の琢磨は特に興味もなさそうに曖昧な返事をする。
「まっ、また俺の華麗なシュートを撮影してくれたら何でもいいけどさ」
「うん。また試合の時に撮りに行くよ」
その時、教室にひとりの女生徒が顔を見せた。
ショートカットの髪型で前髪を髪留めで留めている。同じく幼馴染の青柳さやかだ。さやかも、陸上部のジャージに着替えている。
「ヒデくん。駅まで押していくわよ」
「え? いいよ。自分で行けるから」
「いいから。ホラ、たっくんも一緒に行きましょ」
さやかは、そういうと車椅子の押し手を握りバックさせる。
「もう強引だなぁ」
「何言ってんのよ。私みたいにかわいい子に押してもらえて光栄でしょ?」
「はいはい」
琢磨とさやかとは、小学校の時から一緒だ。同じ町内に住んでいるということで、仲良くなった。
中学生になった頃は、僕は学校の部活には所属せず父さんがコーチをしていたテニス倶楽部に行っていて、二人はサッカー部と陸上部に入ったため、時間は合わなくなったけれど、付き合いは変わらなかった。
高1の終わりに、僕が交通事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となってからは、二人は何かと面倒を見てくれる。
1階の正面玄関までの廊下を3人で行く。僕がこの春に復学してから、何度となくあった状況だ。
正面から来た、廊下を並んで歩く生徒達が車椅子の僕を見て、脇によった。
僕は、頭をぺこりと下げる。
「すみません」
脇にのいた生徒の一人が、琢磨に話しかける。
「琢磨ー。お勤めご苦労だなあ」
「はははは。そんな大層なもんじゃねえよ」
廊下を曲がり、正面玄関のスロープ前に行くと、日本史の境先生が靴をはこうとしていた。
「境先生、ヒデくんが通れません」
さやかが、冗談ぽく言うと、先生は僕の方をみてさっと横にどいた。
「おっ、気がつかなくて、すまんな」
僕は、頭をぺこりと下げる。
「すみません」
正面玄関から出て、校門までの砂利が引いてある十数メートルを行く。
"ジャリジャリジャリ"
車椅子のキャスターが埋まるのを防ぐため、力のある琢磨が車椅子をウィリーさせた状態にして押す。
「タクマ、すまんな」
「気にすんなよ。困った時はお互い様だっつうの」
下校していく生徒たちが、僕をチラリと見ながら、追い抜いていく。
さやかが、僕を見下ろしながら言う。
「ねえ、ヒデくん。もうすぐ夏休みじゃない? 休みになったら、3人でプールに行こうよ」
「いいよ……」
「なんでよー。ヒデくんプール好きだったじゃないの?」
「いいよ。今は泳げないし……」
「大丈夫よ。私とタッくんが浮き輪に乗せてあげるから。ねえ、タッくん?」
「だな。行こうぜヒデ」
僕は気まずくて、下を向く。動かなくなった足は、ガリガリに痩せている。そんな足を人目に晒したくはない。
「いいって。写真撮りにいきたいし」
「どうしてー? 楽しいわよ。たまには体動かさないと」
「そうだぜ。ヒデ。脊損でプール入るのは内臓にもいいらしいぜ」
僕はフレームをぐいっと引き、車椅子の前方に自分の重心を移動させた。
不意の動きに、琢磨は押し手を放し、車椅子のキャスターは地面についた。
「おい。ヒデ、急にそんなんしたら危ねえよ」
僕の心の底に溜まっているドロドロとしたヘドロが、かき混ぜられ心を濁していく。
言いようのない悲しみや怒りがごちゃまぜになって、僕の心をかき乱す。
なんとか平静を保とうと、じっと上体を倒したまま動けない僕に、さやかが声をかけてくる。
「ちょっと、ヒデくん大丈夫?」
止めてくれ。お願いだ。僕の心はパンクしてしまいそうだ。
さやかが、僕の肩に触れた。
僕の中で、溜まっていたどす黒い何かが、パチンと音を立ててはじけた。
「止めろよ……」
「え?」
「止めろって言ってんだよ!!」
だめだ。こんなこと言いたくない。でもでも……。
突如として、声を荒げた僕に、さやかと琢磨は戸惑いの表情を見せる。
「友達ごっこはもうたくさんだって言ってんだよ!」
「おい、ヒデお前何言ってん……」
「うるせー!!
お前らがいないと、俺はダメなのか? お前らがいないと、俺は帰ることすらできないのか?
お前ら腹の中で笑ってんだろ? 歩けなくなった俺を笑ってんだろ?
テニスができなくなった俺を笑ってんだろう!!」
「ヒデくん、何言ってるの? そんなわけないじゃない。私たち友達でしょ?」
「お前らに俺の気持ちがわかるのかよ?
毎日、毎日、晒し者にされてる俺の気持ちがよ!!
プールに行こうだ? 骨と皮だけになった俺の足をそんなに晒してえのかよ!!
お前らだけで行けばいいだろ? お前ら付き合ってんだろうがよ!
それとも何か? 私はいい人です。かわいそうな障害者を連れてきてあげてますって、
宣伝したいのかよ!!」
さやかは、手で顔を覆い涙をこぼす。
琢磨が、僕の胸ぐらをつかんだ。殴ってくれ。いっそ、そうしてくれ。その方が楽になれる。
「殴れよ。殴ればいいだろ。どうせ俺は反撃できないんだ。障害者の俺を好きなだけ、ぶちのめせばいいだろ?」
「ヒデ、何すねてんのか知らないけどな、今の言葉は許さないぞ。謝れよ。さやかに謝れ!」
僕は琢磨をしばらく睨んだあと、校門のほうへ目を移し、そのまま車椅子を漕いだ。
キャスターが砂利の中に埋まりながらも、校門からでて舗装された歩道に移ると、車椅子はスピードをます。
くそっ、くそっ、くそっ!
このざらざらした嫌な気分は何なんだ。本当は僕だってわかってる。あの二人がそんな奴らじゃないってことは。
ちくしょう! 僕は嫌な奴だ。なんて嫌な奴なんだ!
でも、ダメなんだ。二人にやさしくしてもらう度に、自分の無力さを感じてしまうんだ。
僕はもう駄目なんだ。何かをしてもらうだけ、与えてもらうだけでは対等になんかなれない。
校内の底辺なんかじゃない。僕は社会の底辺なんだ。
ちくしょう! なんで僕の足は動かないんだ。なんで僕はこんなものに乗らないと移動さえできないんだ……。
腕がパンパンに張り、汗がじっとりとシャツを濡らすまで一心腐乱に車椅子を漕ぐと、
いつの間にか外周2KMの大きな池がある大堀公園に来ていた。帰りの方向と逆だ。なんて僕は馬鹿なんだろう。
でも、汗と一緒に、欝蒼とした気分も少しはマシになってきた。
僕は大きく深呼吸すると車椅子のアンダーネットに置いていたカメラバッグから、デジタル一眼カメラを取り出した。
逆付けにしていたレンズフードを付け直し、キャップを取ってカメラを構える。
"ピッ"
オートフォーカスの音を響かせ、シャッターを切る。
モニターには、大濠公園の中心にある小島と青々と雲一つない青空が映し出される。
僕みたいなクズが撮っても、綺麗に見えるのは何でだろう。そんな自虐的な考えを浮かべながら、
カメラバッグから、PLフィルターを取り出そうとしていると、不意に後から話しかけられた。
「君、すごいカメラだな」
振り向くと、そこには女生徒が一人立っていた。
栗色で軽めにカールされた髪は肩まで伸び、ふわふわと揺れている。透き通るような白い手足がスラリと伸び、まるでモデルのようだ。切れ長の瞳も栗色で、その目で僕を見ている。
薄い緑の半袖シャツに、黄色のネクタイ。チェックのスカート姿。光を背に立つ姿は、
僕にはまるで女神のように見えた。
「え? ええ、まあ……」
この顔は知っている。いや、大堀高校に通う者なら、知らないものはいない。
生徒会長にして、学校一の美女、白鳥麗華その人だ。
白鳥麗華は、僕の横まで歩み寄ると、ひょいと腰をかがめカメラを覗き込む。
バラの香りのような甘い匂いが、鼻腔をくすぐる。顔が火照ってくるのがわかる。
「私の家にも父のカメラがあるのだが、これはまた随分と違うな。レンズもカメラも大きい」
どぎまぎと下を向く僕に、白鳥麗華はおやっという顔をした。
「これは、失礼した。名乗らずにいきなり妙なこと聞いてしまったな。私は、3年の白鳥麗華だ。よろしく」
そういって、白鳥麗華は右手を差し出す。
僕は右手を上げながら、名乗ろうとした。
「えっと、僕は2年の……」
「知ってるよ。2年の山野秀夫くんだろう?」
なんで名前を? という疑問を車椅子だからなという自虐的な考えがすぐに打ち消す。
「先月、君の作品が入選していたからな。名前を覚えていたのだ」
入選? ああ、この前の新聞社主催の写真展のことか。僕は勧められて、どうせだめだろうと何の気なしに出してみたのだが、予想に反して、入選し自分でも驚いたものだ。
「わたしは写真のことはわからないが、君の写真は素晴らしかった」
「いえ、そんな……」
「謙遜することはない。素晴らしい作品だった。あんな作品を撮れるとは、君はどこか人と違う感性を持っているのだろうな」
これは、夢だろうか? 車椅子になって僕をチヤホヤしてくれていた連中は皆去っていったというのに、あの学園のマドンナ白鳥麗華が話しかけてくるとは。こんなチャンス、もう二度とないんではないだろうか?
ふと、その時僕の頭に大胆な考えが浮かんだ。せっかくカメラを持っているんだ。撮らせてもらえないだろうか。
僕は、恐る恐る聞いてみる。
「あ、あの、よかったら写真撮らせてもらえませんか?」
白鳥麗華がきょとんとしている。しまった。言わなきゃよかった。変な奴だと思われたんじゃないか。
言い訳だ。言い訳。何か、適当に言わないと。
「ポートレイトも撮ってみたいなあって常々思ってまして。風景写真だけじゃなく。ダメです?」
「ああ、私にモデルになれと言っているのだな? 構わんよ。好きなだけ撮ってくれ」
「ああ、いえ、いいんです。そりゃダメですよね……。え? 今なんと?」
「撮ってもらって構わないよ。私でよければ」
え? 今、OKした? 撮っていいの?! 僕は驚きと共に、飛び上がりたい程うれしかったが、その気持ちを押さえ込み平静を装って、シャッターを切った。
初めは、学内で憧れの的である白鳥麗華を1ショット撮れればいいとミーハーな気分での申し出だった。
しかし、ファインダー越しに白鳥麗華を見た瞬間に、その美しさに魅せられた。
清楚で可憐な雰囲気を漂わせたかと思えば、次の瞬間には妖艶な表情を見せる。
猫の目のようにめまぐるしく表情を変える被写体に、僕は夢中でシャッターを切った。
"ピピピッ"
『バッテリーを充電してください』
警告音と共にモニターに表示される画面を見て、僕は我に返った。知らない内に500ショットは撮っていたらしい。
気が付けば、時間は30分も経っている。
「あ、すいません。夢中になっちゃって」
「私の方こそ君と話せてよかった」
白鳥麗華は、軽く手を上げてから背を向け、街路樹に立てかけてあったスポーツタイプの自転車からヘルメットとグローブを取り身につけている。
「あ、あの、プリントしてお持ちしますから!」
白鳥麗華は、ニコリと笑うと颯爽と自転車にまたがる。
丈の短いスカートから、白い太ももが覗き、僕は目のやり場に困った。
「はしたないと思っているのかな? 大丈夫だよ。ほら」
そう言って、白鳥麗華は、スカートをめくった。
驚く僕の目にはいったのは、スカートの下に履かれたスパッツだった。
「では、失礼する」
白鳥麗華は、颯爽と漕ぎ出すとあっと言う間に見えなくなった。
綺麗だ。なんて綺麗なんだろう。あんな人と付き合えたら、どんなにかうれしいだろう。
でも、それは夢のまた夢。障害者の自分に彼女なんてできるわけがない。
EF24-105mmF4L IS にレンズキャップをはめ、フードを逆に付け直していると、携帯が鳴った。
琢磨からのメールだ。
まずい。そういえば、二人にひどいことを言ってしまったんだった。
メールを見るのも、なんとなく気が重い。
『さやかにちゃんと謝れよ』
琢磨からのメールに僕は、謝罪の言葉を並べ、送信する。
僕は一号線の地下鉄に乗り、バスに乗るという普段とは違うルートで、帰宅した。
帰宅して、着替えたあとレンズをマクロレンズに替え、近所の神社に向かった。
この神社の前を通って、さやかは帰宅するためだ。
特に目的がある被写体があるわけでもなく、僕は無意味に木々を撮る。
何といって謝ればいいだろう。今から数時間後には訪れるその瞬間を思うと僕の心はずーんと重くなる。
こんな時もEOS 6Dは、綺麗な絵を画面に表示してくれる。
陽も落ち、時刻が20時を回る頃、神社の前をさやかが通りかかった。
僕の姿をみて、その足を止める。
僕は気まずく尻込みする自分にムチを入れ、さやかの前まで移動した。
「あ、あのさ。ごめんな今日……」
「い、いいのよ。私の方こそごめん。ヒデくんの気持ちも考えないで」
さやかがニコリと笑ってくれたおかげで、僕の気持ちはすっと軽くなる。
「ほんとごめんな。自分が情けなくてさ。お前やタクマが俺のこと心配してくれてるのは、痛いほどわかってるのに、いらいらしちゃって。事故ってから1年も経ってるっていうのにさ」
「そんなことないよ。こんな短い期間で学校に戻ってきたヒデくんはすごいと思うよ。私やタッくんは、ヒデくんが好きなのよ。だから、遠慮なく頼って。お願い」
さやかのやさしい言葉に、胸が熱くなる。我慢していたのに、僕はぽろぽろと涙をこぼす。
男っていうのに情けない。涙を拭っていると、さやかがそっと抱きしめてくれた。
止めようと思っても、涙はとめどなく流れ、僕はしゃくり上げ、嗚咽を漏らしてしまう。
「うわあああぁぁぁぁ!」
さやかは、何も言わず優しく頭を撫でてくれる。
僕の心は少しずつ軽くなっていく。
「俺、俺さ。なんであの時、違う道を通らなかったんだ。
なんで事故の時死ななかったんだって繰り返し思ってるんだ。
なんで歩けなくなって生きてんだって。
俺がテニスできなくなったせいで、父さんは出て行ったんだ。俺のせいで俺のせいで!」
さやかは、ギュッと強く僕の頭を抱きしめる。柔らかい胸が僕の顔に当たる。
「ヒデくん。ヒデくんのせいなんかじゃない。ヒデくんのせいなんかじゃないんだよ。
自分をそんなに責めないで。ヒデくんのおかげで、あの子は助かったんだよ。
ヒデくんが助けないと死んでたんだよ。
ヒデくんは立派だよ。本当に立派……」
僕が見上がげると、さやかも涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。僕みたいなやつのために、こんなに泣いてくれる友人に、僕はなんてことを言ってしまったんだろう。
「さやか……」
「ヒデくん、辛い時はいつだって、抱きしめてあげる。好きなだけ泣いたっていいんだよ。
でも、お願いだから死んだ方がよかったなんて言わないで。
おばさんやタッくんや私はヒデくんが生きてくれていて、どんなにうれしかったか」
僕は涙をパーカーの袖で拭い、無理に笑顔を作った。
さやかは、ニコリと笑うと右手を差し出した。
「はい。じゃあ仲直りしましょ」
「うん」
握手しながら、僕はなんだか照れてしまって顔を背ける。
「なによ? 何照れてるの?」
「いや、だってさぁ」
「ふふふ。前はいっつも手を繋いで学校行ってたじゃない」
「そりゃ、小学校低学年の頃じゃないか。大昔だよ!」
顔を赤らめて否定する僕に、さやかはからかう様に言う。
「そう? そんな昔でもないと思うけどなあ。ヒデくんが、私に好きって言ったのもついこの間でしょ?」
「ぐっ……。それは小学校4年の時だろうが!」
「いいじゃない。細かいことはどうでも。さっ、行きましょ」
「え? どこにだよ?」
さやかは、僕の鼻先まで顔を近付けてくる。
「お詫びに何かおごってくれるんでしょ?」
僕はドキリとしているのを悟られないように、平静を装う。
「わかったよ。プリンだろ? おごるよ」
「そうそう! わかってんじゃないの。ヒデくんは!」
僕はさやかと駅前のケーキ屋さんへ向かった。
自宅に戻ると、母さんはまだ帰っていなかった。
会社勤めの母さんは、いつも帰りが遅い。本当は僕を轢いた相手からの賠償金と、僕にかけられていた保険金、障害年金なんかで、働かなくてもいいと思うけど、母さんは、僕の将来のためにと、それらのお金には手をつけていない。
父さんは、1億円ほどの賠償金が出ると、6千万円を持ってどこかにいってしまった。
プロのテニスプレーヤーにならせるために、手塩にかけて育てたのに、欠陥品となった僕には用無しなんだそうだ。
半分じゃなくて、1千万円多いのは、僕をコーチした代金と置き手紙に書いてあった。
それに、テニススクールの生徒とずっと不倫をしていたらしい。母さんより、若い女の人がいいそうだ。
もう父さんとは、会うことはないと思う。
僕は、EOS 6Dをカメラバッグから取り出し、パソコンに画像を取り込む。
パソコンの画面に、白鳥麗華の美しい顔が次々と表示される。
綺麗だ。うっとりと見惚れてしまう。
L版サイズで数枚をプリントしていると、母さんが帰ってきた。
「ただいまー。あら、まだご飯食べてなかったの?」
「うん。今から食べようとしてたとこ」
僕はソファーから、車椅子に移りプリントされた写真を母さんに、見つからないように鞄へ直す。
「今日は、どんなの撮ったの? 母さんに見せてよ」
そう言って、母さんは僕の方へ近付いてくる。
まずい。白鳥麗華の写真を見られたら、何を言われるかわからない。
僕は平静を装いつつ、なんとか見られまいと抵抗を試みる。
「今日のは、なんてことない写真だよ。あんまり大したことないから」
母さんは、構わず僕のカバンを開ける。
作戦失敗だ。どうしよう……。
「あら? 綺麗な子ね」
母さんの目が、玩具を与えられた子供のように、輝きだす。
「なになに? この子、彼女? ねえ、どうなの?」
母さんの勢いに、僕は圧倒されつつ、テーブルの方へと逃げる。
「ち、違うよ。彼女とかそんなんじゃない。ポートレートも撮ってみようと思って、今日撮らせてもらったんだ」
「ふーん。そう。怪しいわね。この子三年生じゃない。同じクラスってわけじゃないんでしょう?」
母さんは、そう言ってニヤリと笑う。
何か、うまいこと言い訳しないと。僕は脳細胞を総動員して、言い訳を考える。
「テ、テニス部の子だよ。前からモデルを頼んでたんだ。写りがいい被写体の方が、いいでしょ? どうせ撮るなら」
「テニス部? そう。まだテニス部の子達と、付き合いあるんだ?」
「う、うん。そりゃね。タクとさやかだけしか友達いないわけじゃないよ」
「まあ、そりゃそうか。あんたねー、せっかくかっこよく産んであげたんだから、彼女ぐらい作りなさいよ。前はキャーキャー言われてたじゃないの」
母さんの言葉に、途端に僕の心は重くなる。女子に人気があると錯覚していたのは、僕がユースの代表に選ばれたから。僕がテニスが強かったから。
テニスができなくなった今、女子には見向きもされない。
僕の様子が変わったのを見て、母さんは口調を変えた。
「ねえ、秀夫。車椅子テニスっていうのがあるじゃない? 日本って強いんだってよ。やってみたりしないの?」
入院中、テニスをやっているからと聞いて病院の体育館にいったことがある。
それは、僕を落胆させる光景だった。あれはテニスじゃない。ただの球遊びだ。
それを見たとき、僕が好きだったスピードとパワーを感じれるテニスは、車椅子ではできないのだと悟った。
「いや、今は写真でいいよ。テニスはもう懲り懲りさ」
「そうね。5歳から嫌っていう程、ラケット振ってたものね。さ、じゃあ御飯にしましょうか」
母さんは、上着をハンガーにかけると、味噌汁を温めなおす。
「でも、母さん少し安心したわ。秀夫が夢中になれるものが見つかって。高価なレンズを買おうとするのは困りものだけどね」
「だって、レンズで写りが、違うんだよ。やっぱ欲しいもの」
カメラを勧めてくれたのは、母さんの弟のノブおじさんだ。退院してから半年間、学校に戻るまで時間があった僕は、ノブおじさんからもらったEOS Kiss X3で、写真を撮りまくった。
本に載っている撮り方を片っ端から試し、半年の内に4万ショット以上を撮った。
もともと、中古だったこともあり、EOS Kiss X3は壊れてしまったけれど、賞を取ったこともあって、母さんが新しいカメラを買うことを許してくれた。
今は、EOS 6Dが僕の相棒だ。レンズキットのEF24-105mmF4LIS、中古で買ったEF70-300mm F4-5.6IS、同じく中古のタムロン SP AF 90mm F2.8 Di MACRO の3本のレンズで撮っている。
本当は、超広角レンズが欲しいし、写りのいいL単も欲しい。
でも、無駄使いはダメっていう母さんに、レンズはなかなか買わせてもらえない。
母さんは、こんな身体になった僕を見捨てずにいてくれるんだ。文句なんて言えるはずない。
ご飯をよそっている母さんが、僕の視線に気付いて何? という風に首を傾げる。
僕は、首を横に振って何でもないという仕草をして、ご飯を食べだした。
食事を終え、ベッドで横になりながら写真を眺める。
涼しい顔をして、遠くを見つめる瞳。綺麗だ。本当に。
写真を見ていると、白鳥麗華とのやり取りが頭に浮かんでくる。僕の名前を知っていた。
鈴が鳴るような声で、僕の名前を口にした。
もしかして、僕に気があったりして。そんな考えが頭に浮かんだけど、視界にある動かない足がその考えを打ち消す。
僕は、少し動く左足を動かしてみる。足首を動かすと、足全体がぶるぶると痙攣する。
僕の怪我は、胸椎の3番脱臼骨折で不完全麻痺。左足は動くには動くけど感覚はなく、右足は動かないけど鈍いなりに感覚がある。
なんでも、僕のような状態をブラウンセカール症候群というらしい。
あんな綺麗な子と付き合えたらいいけど、それは無理な注文だ。
それはわかっている。でも、写真を渡すときにまた会話できると思うと、僕の胸は変に期待してしまって、高鳴る。
彼氏にしてもらうのは、無理でも友達ならどうだろう。学年は違えど、同じ学校なんだ。それならおかしくない。
よし、明日写真を渡しに行くときに、思い切って言ってみよう。
電気を消したあとも、この日はなかなか寝付けなかった。