6
修司は花瓶を手に徹也の部屋の前まで戻った。
達彦に頼まれたのは寝室に花を持っていって欲しいということだった。庭先から適当な花を摘んで活けていってくれればいいと言われた。
庭先にはいくつか花が植えられていたが、見頃になっているのは少なく、迷った挙げ句観賞用に育てられているらしい淡い紫の東菊を摘んで花瓶に活けた。
ノックすると先刻のように促す声が戻る。
声を掛けて入ると、修司は少し徹也に頭を下げた。
「……さっきは、すみませんでした」
「いや、私が無神経すぎた」
徹也は視線を一瞬逸らしたが、すぐに視線を花の方へ移した。
「それは……」
「伯父さんに、頼まれて」
「……修司が、摘んできたのか?」
「はい」
「そうか……変わらないな」
窓辺に花瓶を置きながら修司は徹也を見る。
見るのが初めてと思えるほど優しい顔をしていた。
(……違う。この表情、知ってる)
「変わらないって……どういう、意味ですか」
「修司は覚えていないか。まだ小さかったからな」
懐かしそうに徹也は笑う。
その頬に落ちる影を見て修司はぎくりとした。明らかにやつれている。厳格で冷酷な印象しかなかった祖父の顔とは違いすぎる。
修司は目線を逸らす。
「以前も修司はその花を私の為に摘んできてくれた。……疲労で倒れたのを心配して駆けつけた都と一緒に修司はこの家に来ていた」
(……思い、出した)
本当に記憶に残るか残らないかの本当に小さい頃の話だ。あの時は母と家にいて、電話がかかってきて、そのまま一緒に連れて行かれたのだ。幼い都志子も一緒だったが、淳司がいた記憶はない。その理由は覚えていないが、修司は母と都志子と一緒にこの家に来ていた。
その時、徹也は今と同じようにベッドで横たわっていた。
そのころは少し怖いと思いながらも別に徹也に苦手意識はなかった。ただ、やつれた様子が心配で彼を覗き込んでいた。彼自身か、それとも他の誰かだったのか記憶が曖昧だったが散歩でもしておいでと言われ、庭に出て行った記憶がある。
そう、その時もこの花が、咲いていたのだ。
「……あの時、庭師の人に、東菊は貴方が好きな花と、教えてもらったんです」
それで少しは元気になればと思っていた。
「東菊か……それは別称だな。その花は都忘れだよ」
「都……忘れ」
「都が結婚する時に種を撒いていった花だ。……花言葉は別れ。私はずっとそう思っていたが……」
「?」
言葉を詰まらせたのを聞いて修司は怪訝そうに振り返った。
徹也は目を閉じていた。
泣いてしまう気がして修司は狼狽する。だが、出てきた声は涙に震えてなどいないしっかりした声だった。
「……しばしの憩い、というそうだ」
目を開いて彼は笑う。
「修司は意図もせずに持ってきたんだろうな。だが、私は嬉しかった。或いは子供達より愛おしくなったかも知れない」
「………!」
思いがけない告白に修司は絶句する。
「私は、修司が好きだよ。修司がどんなに私を嫌って………」
言いかけて徹也は修司の顔をみて目を見開く。
そして吹き出した。
「……なんて、顔だ」
言われなくても自分が凄い顔をしているのが分かる。
顔が熱く、目元も熱い。
「す、すみません」
言った声も震えている。ちゃんと声にも鳴っていなかったような気がした。
この人のことが嫌いなはずだった。自分にしては珍しいくらいに激昂し、彼を否定し、拒絶して、挙げ句罵った。
なのに、好きだと言われて嬉しかったのだ。
この人は自分を「都の息子」としてしか見ていないと思ったから。きっと母と同じように自分を見てくれないのだと思っていたから。
……自分はこの人に愛されるはずがないと思っていたから。
修司は立っていられなくなってその場にしゃがみ込んだ。
「……しょうがない子だ」
頭に、暖かい手が振ってくる。
小さい頃から頭を撫でてくれる大人は少なかった。高校生にもなって、こんなの情けないと思う。
けれど、そのぬくもりが嬉しかった。
「……小早川の、跡継ぎの、話ですが」
「ああ」
修司は下を向いたまま言う。
「お受け、できません」
少し沈黙があった。
「……こう聞いて、また怒るかもしれないが、あの家は修司にとって辛くはないのかね?」
「大丈夫です。家族のこと……好き、です」
上手くいかないかもしれない。
けれどこのままで投げ出すつもりなんかない。
「それに、俺は、着物が好きです」
「……着物が?」
「あの高校に進学したのも、半分は、そのためです。やりたいことが、あるんです」
「そうか」
修司を撫でながら、彼が笑ったのが分かった。
見上げると、彼は優しい笑みを浮かべていた。
「私は考えすぎていたようだ。跡継ぎの話は気にしなくてもいい。余計なことをして済まなかった」
「いえ……少し、嬉しかったです」
ここへ来るまでの気の重さに比べ、とても楽になったと思う。
手紙ですまさず、会いに来て良かったと思った。
「………優しい顔をして笑うんだな」
「……」
笑っていたのに気付かず、修司は顔に触れた。
「前にあった時は暗い顔をしていた。全部心の奥底に仕舞い込んでいるような……。だから、こちらへ来られるようにしようと思っていたんだ。……杞憂、だったな」
「……高校に」
言うと、彼が顔を上げる。
「優しい人たちがいるんです。……喋るの下手で、ちゃんと笑えないような俺でも、一緒に居てくれる人や心配してくれる人、ゆっくりうち解けてくれた後輩や………いつも笑いかけてくれる後輩が」
寮の仲間も、生徒会の仲間も、皆優しい。
猫を撫でていると寄ってくる後輩達も、皆大切な仲間だった。家族とは違う、それでも家族にも似ている優しい人たち。
彼らがいたから修司は今日、ここに来ることが出来たのだろう。
傷ついてしまったとしてもあの場所に帰れば優しい気持ちになれるから。それを知っているから修司は安心してここにこれた。
そして、そのおかげでこの人の優しさも知ることが出来た。
「……いい高校に入ったんだな」
徹也に言われ、修司は心から微笑んだ。
都忘れの花の香りがふわりと香った。