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「修司君はそんな顔で笑うんだね」
「……そんな顔?」
「小さい頃から何度も会っているけれど、修司君が笑う顔を殆ど見たことが無かったな」
「そうですか」
多分そうだろうと思う。
修司はこの家に居るのは苦痛なのだ。笑わないでいるつもりなんてないのだが、どうやって笑っていいのかも分からない。べつにそれはいつものことなのだ。表情を上手く作れない事は自分が一番よく知っている。
「年齢よりもずっと大人びている子供だったからね。修司君が声を出して笑っている所なんて今のが初めてだ」
言って達彦は修司に近づく。
お盆を持っていないところを見ると置いてきたのだろう。修司はばつが悪くて少し目線を逸らした。
「すみません、その……感情的になってしまって」
「いや、いいんだ。こっちが無神経すぎたんだ。鷹取の家の問題にこちらが口出すべきではないからね。それよりも、修司君があんな風に言えるのなら、少しほっとしたよ。ああ……ごめん、立ち聞きするつもりは無かったのだけどね」
入りにくかったのだろう。
大体あんな大声を上げて、立ち聞きすることを咎めたとしても全く説得力というのがない。
「ほっと……したんですか?」
「君は押し込めるタイプだ。或いは感情という面で発達をやめてしまったかとさえも思っていた位だ」
「無感情だと……よく言われます」
「無表情、だろう。君は表現するのが苦手なだけで人一倍に色々なことを考える。考えすぎて、反応するタイミングを失ってしまう、結局考えがまとまらず、表情を作れない」
「……」
「ほら、その表情だ」
指摘されて、どんな表情をしているのかと顔を押さえた。
ふと、達彦が優しい表情を浮かべる。
「……君を見ていると昔の私を見ている気分になるよ」
そんなことはないだろうと、修司は達彦を見る。
母のアルバムに映る達彦は明るい印象の少年だった。活発でこそなさそうだったが、人の輪の中にいればムードメーカーになりそうな印象の人だった。
達彦と自分が似ているかと聞かれれば、誰もがいいえと答えるはずだ。
くすり、と達彦は笑う。
「昔の私の無表情は笑顔だったんだよ」
「?」
「笑うことで誤魔化していただけ。君の無表情と、私の笑顔は同じ所にあるんだ」
「何故、ですか?」
言ってから言葉が足りないことに気付く。
だが、達彦は全部分かっているという風に頷いた。
「不器用、なんだろうね。それに父に‘自慢の息子’としてくっついていた私の回りには常に大人ばかりだった。ちょっと年相応の事を言えばまだ子供だと馬鹿にされ、ちょっと口を挟めば大人の話に口を挟むなと言われた。そのうち、怖くてまともに話せなくなったよ」
それは修司にも言えることだった。
子供だと言われるのが苦痛だった訳ではない。実際自分は子供であったし、言われたところで腹が立たなかった。ただ、決まって母は嫌な顔をする。彼女の求める完璧な‘修司’に子供らしさなど要らなかったのだ。そして、大人の話に口出す‘小利口さ’も要らなかった。だから修司はただ黙っている事にしたのだ。聞かれたことだけに答えるだけの‘利口な子供’で居続けた。
「父にとってはね、私たち兄妹は‘優秀’でありさえすればそれで良かったんだ。修司君が言ったように父は振り向いたこと何て一度もなかった。愛しているとさえ言って貰った記憶がない。母は父しか見ていなかったか私たちが優秀でないと父が嫌な顔をするのに怯えていた。……あの父のせいで全てが狂ったんだ」
裕福な家庭で育った故の、歯車の狂い。
それは今もなお続いている。
「私は父が嫌いだったよ。克依だけだったかもしれない。この家の中で、あの父でも純粋に尊敬して付いていたのは」
「でも、克依叔父さんは……」
「そう。ずっと昔に死んでしまった」
その時のことは修司も良く覚えている。
事故死、という扱いだったが、子供ながらに違うのだろうと思っていた。成長した今でも確かめたことがないが、あの葬儀の様子から普通の事故ではなかったのが推測出来た。
それよりも印象的だったのは電話口で固まったまま動かなくなった母と、驚きながらも母を宥め、母の代わりに電話で対応していた父親の姿。今思えばあの時の二人が一番夫婦らしい姿だったのかも知れない。
「克依が居なくなってからだったよ。父が少し変わったんだ。仕事一筋だった父が、突然何を思ったのかおもちゃを買ってきたんだ。四十近くになった私にだよ。馬鹿なことをして……と思ったけれど、少し嬉しかった」
修司は頷く。
それは分かる気がする。
「そうしてようやく気付いたんだ」
「気付いた?」
「うん、父は別に私たちをどうでもいいなんて思っていなかったんだって」
「………」
「多分どう接していいのか分からなかったのだろうね。私が大人な振りをしていたからおもちゃなんて興味がないと思っていたのかも知れない。まして小早川という財閥を仕切る人だ。忙しくて構っている暇もない。いざ構えるという時もどうしていいのか分からない。そして仕事に逃げた」
修司は言葉を失う。
そんな悪循環を繰り返してきたのだろうか。
先刻、怒鳴ってしまったことを修司は後悔をする。あの人の事を何も見ずに言ってしまった。本当は分かっていたはずだ。苦しい感情がない人間なんていない。徹也がそんな風になってしまった原因だってどこかにあったはずだと言うことを。
分かっていたはずなのに、止められなかった。
自分の感情が、恐ろしく冷酷なように感じた。
「今思えばね、先刻の修司君のように感情をぶつけていればと思う」
「お祖父様に……ですか?」
「そう、何でもいい。感情をぶつけていれば良かったって思う。そうすればきっと何か変わっていた」
「あんなのは…、言葉の、暴力です」
「それでもいいんだよ。少なくとも私と父の間ではそれが必要だった。だから君があんな風に言葉を出せると知って、少しほっとしたんだ。……それに、君が誰のために怒ったのかも分かってしまったから」
笑われて修司は困り果てた。
誰のため、なのだろうか。
自分でも良く分からなかった。都の事で腹を立てていたのは本当だ。祖父が一度でも母を振り返っていればあんな風にはならなかったと思う。それを隆司郎と俊江の不倫が原因だというような言われ方をされて怒りがこみ上げた。
「……」
気が付いて修司は口元を押さえた。
達彦が笑う。
「君は、俊江さんの事が好きなんだね」