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ぞくり、と背筋が冷えた。
悪い物でも食べてしまったかのように胸が苦しくなった。
徹也の言葉に怒ったからではない。ただ、それは自分も何度も疑ったことだったのだ。
都は車の運転中交通事故で亡くなった。
単独事故であり、即死だった。現場は山沿いの道であり、その日は霧もあって視界が悪かったという。普段から事故の多かった場所のため、その状況であの母が慎重にならない訳がなかった。それを速度オーバーで運転し、事故を起こした。
父親の女性関係で多少鬱っぽくなっていた母が、自殺を図ったと考えても不思議ではなかった。実際つい最近までその可能性を疑っていたのだ。
だが、今は違うとはっきり思う。
「自殺ではありません」
「そう、言い切れるか?」
「自殺ではありません」
あの時、母の側には修司はいなかったのだから。
だから、自殺ではないと思ったのだ。
「何故、今更事故の話を?」
「修司は……俊江さんと、そりが合わないと聞いた」
なるほど、と思った。
だから事故の話を持ち出したのだ。
隆司郎は話してはいないだろうが、恐らく気付いている。もし都が自殺だったとしたら、その原因になっているのが俊江の存在だと言うことに。
そして一番母親の近くで見てきた修司が知っていると判断したのだ。
その上でのこの発言は、居づらい鷹取家を出て、小早川家に来ないかという誘い。
修司は表情を引き締める。
「少しぎくしゃくしているのは本当です。けれど仲が悪い訳ではありません」
「だが、遠くの寮のある高校を選んだのは家に居づらかったのではないか?」
「そんなことはありません」
本当は、俊江と距離を置きたかったというのがある。だが、別にそのためだけに進学した訳ではない。その先の進学を考えてあの学校を選んだのだ。
「そんなことも、あるだろう。家族が増えるというのはどんなときもデリケートな問題だ。君は分別の付く年頃であったし、新しい母と言われても受け入れられなかったのではないか?」
「………そんなことは、貴方に言われる問題じゃない!」
大声を聞いて、徹也は目を丸くした。
一番驚いたのは叫んだ本人だった。
こうして人を突き放すような言葉を言うのには慣れていない。自分の言葉に自分が抉られてしまいそうだった。
だが、一度吐き出した言葉は止まらなかった。
「貴方は、一度だって振り返らなかった。母が、どんな気持ちで克依叔父さんを見ていたのか分からない貴方が! ……本当にデリケートな問題だと理解しているとでも言うんですか? 母を見なかった貴方がっ!」
自分でも支離滅裂な事を言ってると思った。
苦しかった。
吐き出してしまわなければ自分の感情が重すぎて潰れてしまいそうだった。生まれて初めて目の前の人間を殺せるとさえ思った。嫌い所の話ではなく、この人のことを憎いと感じている自分がいることを初めて知った。
何も見てこなかったこの人が言える問題ではない。
何も知らないくせに、俊江や隆司郎を遠回しに悪く言ったのも許せなかった。
修司は荒い息を整えながら、更に吐き出した。
「貴方が一度でも振り向いていれば……母は、あんなにも傷つかずに済んだのに」
都は完璧主義者だった。
それは自分自身に留まらず修司にも完璧を求めてきた。それが何故だか気付いたのは、鷹取の家を尋ねてきた叔父に会ってからだ。
都の弟である克依は優しい人だった。実際は弟ではなく従弟であったが、育児放棄した親の代わりに徹也が引き取ったのだという。そんな過去が有りながらも彼は曲がらずに育った。克依は優秀な人間だった。それが恐らく狂う原因となったのだ。
母は克依に修司を紹介する時に‘出来の悪い子供’と言った。‘こんな息子は父にも母にも見せられない’と言ったのだ。
幼い修司は母の言葉を聞いて理解した。
母は少なからず克依に劣等感を抱いていたのだ。義理の弟である彼は優秀で、人望もある。そんな弟を憎むことが出来ず、表面では穏やかに振る舞っていたが、心の奥底では彼にコンプレックスを感じていたのだ。
完璧であるように。
兄弟の中で修司だけがそうされたのも今では理解できる。少しでも失敗すれば手をあげた母が、修司を叩いた時叩かれた修司よりもよほど痛そうな顔をしていたのも理解できる。
修司は、鷹取の兄弟の中で一番都に似ていたのだから。
「母は貴方達に愛されたかった。克依叔父さんよりも、ずっと愛していると言ってほしかった」
修司は母が怖かった。
今も母は怖い。
今まではそれが虐待にも似た厳しい躾という苦い記憶のせいだと思っていた。
だが、文化祭の写真を見て気付いた。
「そんなことも分からない貴方に、俊江さんのことを、悪く言う資格なんか……ない」
修司は顔を覆った。
知らないうちに涙が出ていた。
母にとって自分は、母の分身であった。
母が怖かったのは自分を見ていなかったからだ。母の瞳に映っていた修司は、幼い頃の都だった。
父が浮気をして、母がますます苛烈になったのは捌け口として修司がいたからではない。
完璧じゃないから、愛してもらえないのだと、彼女は本気でそう思っていたのだと思う。
「修司……」
修司は出来るだけ気持ちを落ち着かせて問いかける。
「あなたは、俺に何をさせたいんですか……?」