スイレン
自分の人生の中でも特に好きなアニメ作品をモチーフにして書きました。
よろしければ読んでください!
◇
僕はずっと思っていた。
いつか自分は特別な人間だと言われるような事件が起こると……。いつか自分には才能があると認められる何かが見つかると……。
帰りのホームルームで進路希望のプリントが配られた。第1から第3希望まである空欄を見つめていると、数学のテストで苦手な問題が出て、つい後回しにしてしまいたくなるような、そんな苦い気分になっていった。
小さな頃に頭の中で想い描いていたような、囚われのお姫様を救い勇猛果敢に敵に挑んでいく騎士のようになりたい、そんな夢を書いても良い年齢はとっくに追い越していた……。
そんな理想的な夢ではなく具体的な将来の夢を叶えるための進路を決めなさい。
先生はそう言っていたが僕はまだ数か月後の未来さえわからない……。
ため息はすっと出てくるのに将来の夢はそんな簡単には出てこなかった。
ぼんやりとした進路からは目を背けて学校からの帰り道を歩いていた。といっても真っすぐ家に帰る訳ではなく、いつもの場所に立ち寄るつもりで歩いていた。
そこは僕のお気に入りの場所だった。静かで人の来ない無人駅は一人で本を読むのに最適だった。
駅舎の外観は小さめの木造の建物で、赤色の切妻屋根に覆われていてる。改札を抜けて中に入ると電車三両分くらいの長さで線路二本分の幅くらいの広さのホームがある。
ホームの中央には四本の白色の柱が色褪せた青色のトタン屋根を支えている。その下には大人が三人ほど座れる古い木製のベンチがある。反対側のホームも同じ造りだ。
いつものように改札を抜けてホームに向った。けれど今日は先客がいた。
◇
女性がベンチに座っていた。少なくとも僕よりは年上に見えた。
「この駅、電車は来ませんよ」
思わず声をかけてしまった。それに気づいた彼女は僕のほうを見てどうしてか驚いていた。
「えっと、この駅は数年前に廃止されていて、もう電車は通っていないんです」
僕はすかさず廃駅になったことを説明をした。彼女は頷いて微笑んでいた。
「大丈夫、たぶん私は……から」
彼女の微笑む姿に思わず目を奪われて、僕は彼女の大丈夫しか聞き取れなかった。
背中まで伸びた長い髪はカラスの濡羽色のように青黒く艶めいていて、黒い喪服のようなワンピースを身に纒い、足元には黒色のブーツを履いている。
全身が黒色に包まれているからか、はみ出ている彼女の顔や首元、手はやけに白く見えた。
ここらでは見かけない人であるのは一目瞭然だった。
「あの、どうしてここに?もしかして誰かと待ち合わせとかですか?」
なんとなくそんな気がして彼女に尋ねてみた。
「どうしてそう思ったの?」
逆に質問を返されてしまい、戸惑ってしまった。
「えっと、電車が来ない駅にわざわざいるってことは、誰か人を待っているのかなと、おも、いました」
なんだか現代文の授業中に適当に教科書を眺めていたら急に先生に指名されて、不安げに朗読をすることになったような、たどたどしい返事になった。
彼女はクスッと口元に手をあてていた。
「ごめんなさい。ふふっ。なんだか、あなたが可愛く見えて」
彼女は僕の返事がツボに入ったようで笑いをこらえていた。
「可愛いくじゃなくて可笑しく、じゃないですか?それで、誰かを待っているんですか?」
可愛いと言われたことが恥ずかしくて少しムッとしながら、彼女に問い返した。
「そうね……。待っているといえば、待っているのかもしれない、かな」
あいまいな返事をした彼女の表情は、どうしてか困っているようだった。
「あの、昔ここら辺に住んでいたんですか?」
僕は彼女に別の質問をした。
彼女は再び困ったようにしていた。
「どうだろう、昔住んでいたような気もする、かな」
またあいまいな返事をされた。
質問するたびに彼女を困らせてしまっている、僕のほうが可笑しく思えた。
こっちはモヤモヤしたまま口角をへの字にしているのだ……。
「それじゃあ、どこから来たんですか?ここら辺では見かけたことがありませんけど」
今度は、返事をはぐらかされないように選択肢を固めた。つもりだった……。
「ここじゃない、どこか、かな」
質問を受けたとき、やはり彼女は困った表情をしていた。
そしてあいまいな返事。僕は完膚なきまでにはぐらかされた……。
宙に浮くみたいにつかみどころがない返事と黒一色の格好、冷たさを感じる肌の白さ、そして美貌も相まって、まるで彼女が幽霊のような怪しげな存在に見えてきて思わず口に出ていた。
「あの、もしかして幽霊とかじゃないですよね?」
背中に冷や汗を感じながら彼女に尋ねた。
当然、彼女は驚いた顔をして僕を見ていた。
彼女は意識が止まったかのように呆然としていた。
次第に目を閉じていき、眠ったようにも見える状態だった。
僕は黙ったまま立ち尽くしていた。
彼女に対する気持ちは恐怖よりも不安の方が大きくなっていった。
その不安はやがて心配に変わり、僕は彼女の方へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
僕は彼女の隣に座り、腕をつかむ。
ちゃんと腕の感触があったことに安堵した。
僕の呼びかけに気付いた彼女が意識を取り戻したかのようにハッと顔を向ける。
「ようやく、思い出した……」
彼女はどこか懐かしそうな顔で僕を見つめていた。
まるで憑き物が取れたように彼女は微笑んでいた。
「ねぇ、また私に質問してくれない?」
何か聞いてほしそうな口ぶりで僕にそう問いかける彼女は、優しそうな目つきで僕を見つめていた。
その目を見て、今度は絶対に返事をはぐらかさないと僕も確信した。
「名前を教えてくれませんか?」
必死に考えた結果、初対面なら名前を聞くのがベターだと思って質問すると、彼女はつりあがった大きな目を見開いてポカンとしていた。よほど驚いたらしい。
彼女は何をそんなに思案しているのか目を閉じていた。そんなに悩むようなことだろうか……。
僕はそんな彼女の姿にやはり見惚れていた。背筋を伸ばして手を膝に置いて座っている姿は遠目でも目を奪わるほどに美しかったが、近くで見た彼女は美麗という言葉が当てはまるほどに美しく綺麗な顔をしていた。
整った眉に綺麗な目鼻立ち、そして薄く赤い唇。どのパーツもバランスよく配置されていて、非の打ち所がない、そんな印象だった。
僕はこんなに綺麗な人を初めて近くで見た。だから彼女を凝視してしまうのだろうか。ようやく彼女は名前を思い出したのか、口を開いた。
「私の名前はスイレンだよ」
スイレンは、どこか楽し気な口調でそう名乗った。
「本当に名前なの?あだ名とかじゃなくて?」
僕が疑いの目を向けると、スイレンはなぜだか懐かしむような表情をしていた。
「とりあえず、今はこの名前で私を呼んでくれないかな?」
スイレンは色白の両手を重ねて拝むような仕草をしていた。
「わかった……スイレンって呼ぶよ」
僕はしぶしぶ納得した。しかし完全には納得が出来なかったので、仕返しに敬語をやめることにした。
「ありがとう。物わかりが良い子だね。なら次はあなたの名前を聞いてもいいかな?年齢は?中学生3年生?それとも高校生1年生くらいかな?」
今度はスイレンが僕に名前を聞き返す。あと年齢も気になるみたいだ。嘘をつこうとも思ったが、正直に本名を答えることにした。なんだか今のスイレンを見ていると嘘をついたらダメな気がしたから。
「僕の名前は北見蓮。高校1年生」
4月にクラスメイトの前でした自己紹介の時みたいな気恥ずかしさを感じながら名前と学年を答えた。スイレンは柔らかい笑みを浮かべて拍手をしていた。
「どういう字を書くの?」
スイレンがそう尋ねたので、僕はノートとペンを取り出して名前を書いて見せる。スイレンはそれを見て驚いていた。
「凄いよ、レン君!蓮と睡蓮の花って似てるもんね。それに私の名前とも少し似てるね。私たちの出会いって、もしかしたら運命かもね」
スイレンはまるで子どものように嬉しそうにはしゃいだ様子だった。その姿を見ると僕もなんだか悪い気はしなかった。
それにスイレンが言った“運命”という言葉に僕もずっと待っていた何かが訪れるかもと、そんな予感があった。
「ねえ、レン君は蓮と睡蓮の花言葉を知ってる?」
いきなりスイレンがそんなことを聞いてきた。ちょっとは知っているが、自信がないので知らないふりをする。
「知らないけど、それがどうかしたの?」
スイレンは笑って、自慢げに鼻をならしていた。
「そっか、それなら仕方がないからお姉さんが教えてあげる!」
見た目は綺麗な大人の女性なのに急に意気揚々と喋るスイレンの姿が妙に面白かった。そのままスイレンは続ける。
「まず蓮はね、神聖、清らかな心、救済、雄弁、沈着。なんかヒーローみたいだよね。次に睡蓮は、信頼、優しさ、純粋、甘美。こっちはお姫様みたいだよね。……私たちもそうなれたらいいのにね」
寂しげな口調でスイレンは呟いた。しかしその悲し気な微笑から嘆きにも聞こえた。僕にはスイレンの言葉が注射を打たれたようにチクリと刺さった。言葉の針は僕の胸の中にまで寂しさを運んできた。それは今僕が悩んでいることと似ていた。だから僕は胸の内にあった悩みをスイレンに話したくなって、今自分が最も悩んでいることへのアドバイスを求めて聞いた。
「スイレンは、将来の夢ってどうやって決めたらいいと思う?」
スイレンは一度僕のほうを見てから正面を向いた。どこか遠くを見つめているようだった。一息ついて再び僕の方に向き直す。
「レン君は何が好きなの?」
「小説を読むのが好きかな。ファンタジーをよく読んでる。他ジャンルの作品も読むけど」
スイレンは「なるほど」と頷いた。
「それなら小説に関わるような職業を目指すとかでもいいんじゃないかな?例えば、文系の大学に進学して出版関係に就くとか、それこそ作家になるとか。どちらにしろ大学には通ったほうが良いかもね」
思ったよりまともなアドバイスをされたので、正直僕は驚いた。
彼女には申し訳ないけれど……。
「でも好きなことを仕事にするのって、辛くなるって聞くけど」
そんなニュースを見た気がしたので、聞いてみた。
「それなら間接的に関係する仕事を探せばいいんじゃない?例えば印刷会社や本屋さんとか。あくまで例えばだけど。私のおすすめは一度でもいいから小説を書いてみるなんだけど、どうかな?」
別の視点からも具体的なことを答えてくれた彼女は、真剣に僕の悩みに向き合ってくれていた。
「凄い、やっぱりスイレンは大人だ。とても参考になるよ」
スイレンは、嬉しそうに微笑んでいた。
「レン君はまだ高校1年生でしょ?色んなことに挑戦するといいよ。失敗しても何度でも挑戦すればいい。きっとそれが今後の人生にも活かされるよ……ごめんね、偉そうなこと言ったね、私もまだ若いのに……」
スイレンは落ち込んだように自嘲していた。
「そういえば、スイレンって何歳なの?」
今さらかもだけどスイレンが何歳なのか気になった。嘘をつかれても確かめようはないけど。
「女性に年齢を聞くとは、なかなかやってくれるね」
「別に無理して答えなくてもいいけど」
僕が遠慮しようとすると、なぜかスイレンは少し顔をしかめていた。
「25歳よ……世間では20代はまだ若いうちに入るの!!」
少しムッとしながら年齢を教えてくれた。口ぶりから嘘ではないようだった。
「そんな気にするような年齢じゃないと思うけど。見た目も若いし」
「レン君は優しいね。お世辞でも嬉しいよ。ありがとね」
スイレンは穏やかに微笑んでいた。
その顔を見ると安心してしまっている僕がいた。
「違う、本心だよ。こんな綺麗な人を初めて見た。お世辞じゃないから」
僕の言葉にスイレンはまた目を大きく開けて驚き、そして声を出して笑った。
「あはははは、ありがとう。告白でもしてくれたの、かな?」
スイレンは冗談だと思っていた。だから僕は「そうだよ」と返事をした。スイレンは困惑した表情を浮かべていた。
「こら、大人をからかっちゃダメよ?」
スイレンは苦笑していたが、僕はスイレンの目を真っすぐに見た。
「ごめんね……レン君の気持ちには答えられないの」
スイレンは悲しそうな表情で答えた。そう答えるのを分かっていた。なぜならスイレンは……。
母は25歳の若さで病気により亡くなった。当時僕は2歳だと聞いた。母との最後の思い出は本の読み聞かせだった。あの時の母の姿と声はかすかに覚えていた。
去年、偶然、昔のアルバムを見つけた。見てみると綺麗な人が写真に映っていた。父に尋ねるとそれは母だった。写真の中の母はまるでスイレンのように美麗で穏やかに微笑でいた。
「誰かを待ってるの?」
僕はもう一度スイレンに最初と同じ質問をした。
「どうしてそう思ったの?」
「そんな気がしたんだ。待ってると言ってたから。その人には会えた?」
たぶんスイレンは始めから気付いていた。
「会えたと思う?」
「……うん」
僕は頷いて、立ち上がりスイレンに向かって叫んだ。
「母さん‼」
スイレンも立ち上がった。僕たちは向かい合う。
母親と息子として。14年ぶりの再会だった。
まるで夢のような出来事だけど、でも確かに母の姿と声は今この場所に僕の目の前にあった。
「会いに来たよ……蓮君」
そう言いスイレンは、いや母は僕を抱きしめた。本を読み聞かせてくれた声と姿があの頃のように近くなった。
「ずっと会いたかった……」
耳元で囁く母の声を記憶をなぞるように聞いて僕は泣いた。目の前にいる母の感触を確かめるように強く抱きしめた。
しばらく僕と母の間には互いの泣き声が響いていた。それ以外の音は何も聞こえなかった。
泣きつくした僕たちは、ベンチに座り、母と子として向き合っていた。僕は母に尋ねた。
「どうして、名前を聞いた時あんなに悩んでいたの?だって、あの時にはもう僕だって気付いてたんでしょ?」
「サプライズなんてのもありかと思ってね。だって本名を言ったらすぐわかっちゃうじゃない?それで色々考えてたらスイレンが浮かんだの。昔スイレンって呼ばれてたのを思い出したの」
母は可笑しそうに笑って話していた。
「僕も名前を言われた時はまだ気づかなかった。年齢を聞いた時も同じ年齢の似てるだけの人だって思ってだけど、母さんの反応をみて、もしかしてって、思った。でもどうしてスイレンってあだ名だったの?」
僕が不思議そうな顔をして答えると母は学生時代を懐かしむように微笑んでいた。
「私の旧姓は香水 蓮季なの。だから水と蓮でスイレン。蓮と睡蓮も掛けてたみたい」
母はそう言いベンチに置いたままのペンを持ってノートに自分の名前を書いた。その字はお手本のような達筆だった。
「だから僕の名前は蓮なんだね」
思わずそう呟いてしまった。母は「そうよ」と僕の頭を撫でた。久しぶりの母の手つきはとてもくすぐったくて、柔らかくて、温かかった。
母は手を僕の頭の上に置いたまま撫で続ける。恥ずかしいけど、僕はそれがそれほど嫌じゃなかった。今はその手の感触を堪能したかった。
「蓮くん大きくなったね。今身長は何センチなの?」
「158センチ。クラスじゃ一番小さいよ。でもあと10センチは伸びる予定だよ」
立ち上がり母と背比べをした。
「私と同じくらいだね。でもお父さんは大きいから、きっと蓮君も大きくなるよ」
「そうだといいけど」
僕が苦笑すると母は「絶対、大きくなるよ」と励ましてくれた。僕たちはまたベンチに座った。
「ご飯はどうしているの?」
母は父のことも物凄く心配そうにしていた。
「二人で当番制にして料理をしてるんだ。だから安心してよ。といっても僕も父さんも簡単なものばかりだけど。でも健康のことも考えて一汁二菜は作っているよ」
それを聞いた母は安心したように笑っていた。
「料理が出来るなんて凄いね。こんな立派に成長して、母さん本当に嬉しいな」
母が喜んでいたので僕も嬉しかった。
「蓮君はどれくらい本を読むの?」
「年間に100冊くらいかな。小さな時からずっと本ばかり読んでた。それに母さんが本の読み聞かせをしてくれたことを覚えてる」
母は驚きと嬉しさが混じったような反応をしていた。それから僕が赤ちゃんの時の話をしてくれた。
「蓮君には赤ちゃんの時から絵本や母さんが好きな小説を読み聞かせてたの。いつも何かを読んでほしそうにねだってた。母さん大変だったな。でも今は読書が好きになってくれて嬉しいな。蓮君と小説の話いっぱいしたかったな……」
母は本来あるはずだった未来を羨むように嘆いた。だから僕は初めて読んだ小説の話を母にする。
「僕が初めて読んだ小説は、母さんが残してくれたものなんだよ。囚われのお姫様を勇猛果敢な騎士が困難に立ち向かって最後には見事にお姫様を救う物語。
僕はその騎士にずっと憧れている。それくらい大好きなんだ」
母は嬉しそうに頷き微笑みながら話を聞いてくれた。
「あの小説を読んでくれたんだね。あの小説はね、私が子どもの時に初めて読んだ小説なんだよ。それに蓮君に一番読み聞かせをしたのもその小説なんだよ。だから蓮君が最初に読んだ小説が、母さんの一番思い出に残ってる小説で嬉しいな」
僕は母の話を聞いて心の底から驚いた。初めて自分で読んだ小説が母との思い出の中にあったことに。そして母も同じだったことに。それは僕にとって最高に嬉しいことだった。
「あの小説は僕と母さんをずっと繋いでくれてたんだね」
母は今日一番の笑顔を見せてくれた。
それから僕と母は空白の時間を埋めるように、たくさん小説の話をした。僕が読んだもの、母が読んだもの、二人が読んだもの。
話題が尽きることはなく、僕たちは夢中で語り合った。僕のノートのページには母が読んだ本の作品が母の字で刻まれていた。
空が黄金色と茜色のグラデーションに染まる。10月の少し冷たい秋色を纏った風が頬を撫でる。それは何かを報せる予鈴のようだった。この時間がもうすぐ終わることを報せているような、そんな予感がした。
「母さん、まだ行かないよね?」
僕は幼い子どもが母にねだるようで、その顔を見た母は穏やかに微笑んでいた。
「私に残された時間はあと少しみたい……」
母は申し訳なさそうに寂し気に呟いた。
「せっかく会えたのに。すぐに別れるなんて嫌だよ!ずっと一緒にいてよ!一緒に家に帰ろうよ!」
僕はさらに駄々をこねるように叫んでいた。母は僕を優しい眼差しで見つめる。
「蓮君、私はね、もうこの世にはいないの。だから蓮君と一緒にいられないし、一緒に帰れないの」
「それなら、僕が母さんについていくよ!」
僕は心から叫んだ。わがままと言われても構わなかった。
「ダメ、お父さんがいるでしょ。それに母さんは、蓮君にはもっとこれからたくさんのことを経験して生きていってほしいんだよ」
幼い子どもを優しく諭すようにして母は穏やかに微笑んでいた。
「嫌だ……そんなの、母さんがいないのに、無理だよ……。なんで、なんで死んじゃったんだよ!」
僕はもうそう叫ぶしかなかった。穏やかに微笑んでいた母の表情はだんだん曇り、ジワリと目元には水滴が浮かびあがり、ポツポツと涙がこぼれていた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
母は何度もそう呟いた。まるで懺悔でもしているかのように。僕は自分の発言を後悔した。母だって望んで亡くなった訳じゃないのに。
「ごめんなさい。母さんだって、本当は生きていたかったはずなのに……僕は今、母さんを傷つけた。母さん謝らないでよ……僕が悪いんだ、ごめん」
僕は母の正面に座り、両手を握った。母の手は僕より小さくて、冷たかった。
「ごめんね……たくさん苦労をかけて、大変だったよね。でもこんなに優しく育ってくれたんだね。さっきの言葉はつい言っちゃたんだよね。きっと蓮君は人の痛みがわかるんだよね。母さんのことをこんなに思いやってくれて嬉しいな。ごめんね、寂しい思いばかりさせてしまって」
母は僕を優しく見つめて、優しいと褒めた。僕は母を優しく抱きしめた。
「母さんのおかげだよ。今僕がこうしていられるのは母さんがいたから、色んなものを残してくれたから、僕は今ここにいるんだ。だから産んでくれてありがとう!本を読み聞かせてくれてありがとう!」
精一杯の感謝の気持ちを母に伝えた。この思いを直接母に届けたかった。
「私のほうこそ、産まれてきてくれてありがとう!ずっと忘れないでいてくれてありがとう!成長した蓮君に会えて、いっぱいお話して、ありがとうって言って貰えて……嬉しいな」
母の優しいその声をずっと忘れないように僕は母を抱きしめたまま目を閉じて耳を澄まして聞いていた。
僕たちはまたベンチに座り語り合う。
「母さん、僕、必ず小説を書くよ」
これが母との最後の会話になるような気がしたので決意表明をした。
「やった!嬉しいな」
母は大袈裟なくらい喜んでくれた。
「完成したら母さんに読み聞かせするから、楽しみにしててよ」
僕も笑顔で母にそう答える。
「あの時と入れ替わってるね。そうだよね、蓮君はもう赤ちゃんじゃないもんね」
母は可笑しそうに微笑み、僕の頭の上に手を乗せた。また優しく撫でてくれた。
「もっと撫でてよ」
僕は子どもみたいそう呟いた。今はただ母に甘えたいた子どもでいたかった。
母は優しく微笑みながら「よしよし」と言って何度も頭を撫でてくれた。僕は無邪気に笑った。
僕も母もお互いに失った時間分を取り戻すように寄り添いあった。
「蓮君と出会えて本当に良かった。産まれた時も、そして今日も」
その慈愛にあふれた思いは母の手と口から僕の頭と耳、そして胸の中に優しい感触とともに伝わった。
「僕も今日、母さんと出会えて本当に良かった」
互いに真っすぐ見つめ合う。母の笑顔はとても嬉しそうで、そしてとても綺麗だった。
僕たちの目の前には薄っすらと月明かりが射していた。
まるで月からお姫様の迎えがきた、そんな風に見えた。
「もう行かないと……」
そう言い母は立ち上がった。僕も立ち上がる。最後に僕たちは再び対峙する。
「月に帰るの?」
僕が尋ねると母は頷き微笑んだ。
「「それって、かぐや姫みたいだね」」
声が重なり僕たちはまた笑う。
「昔からお姫様に憧れてたの。残念ながら帰るのは月じゃないけどね」
母は冗談交じりに返事をする。
「それなら、僕はヒーローの役とかかな?」
おどけたように言うと母は「そうだよ」と言ってくれた。
「僕はお姫様を救えたかな?」
母の目を見つめながら僕は尋ねた。
「大丈夫だよ。私は特別な人に今日出会えた。大好きで愛しい自慢の息子に。私のヒーローに」
母は嬉しそうに笑った。
「なら夢は叶ったね」
僕の言葉を聞いた母はまるで少女のように笑った。
「蓮君の書く小説楽しみに待ってるね。大丈夫、きっと蓮君には才能があるよ!今日はありがとう。お父さんにもよろしくね」
月明かりに照らされた母の姿が薄くなっていく。
「上手にできるかはわからないけど、絶対書くから。それに母さんに言われたように色んなことにも挑戦する。だから……」
母は優しい眼差しで僕を見つめていた。母の体は色を失うように透けていく。
「ありがとう。蓮君、今日は出会えて本当に嬉しかったよ。もう母さんはこの世にはいないけど、蓮君のことはずっと思っているから。空から見てるから。母さんのこと忘れないでね」
「忘れないよ!忘れるわけないよ!今日のことだって、昔のことだって、絶対忘れない!だから安心してよ!」
僕はありったけの声で叫ぶ。母は穏やかに微笑み、足元からゆっくりと消えていった。そして……。
「さようなら。バイバイ。元気でね。蓮君……」
その声とともに母は僕の目の前から跡形もなく消えた。僕はひとり月明りの下で静かに佇んでいた。
僕は家に帰った。仏壇の前に座り、線香をあげ、母を想う。10月25日。今日は母の命日だった。
睡蓮の花言葉にはもう一つ意味があった。それは、【滅亡】。
たぶん母はあえて僕に言わなかったのだ。もう亡くなっている母がスイレンと名乗ったのは皮肉も込めてあったのかもしれない。
今日、母と出会ったのは運命だったのだろうか。遺影の中の母はとても美麗で黒い服を着ていて、穏やかに微笑んでいた。
それから帰ってきた父に今日の出来事を話した。
父は嬉しそうに母と同じ穏やかな微笑みで話を聞いてくれた。
――あれから半年ほど経って、僕は高校2年生になった。
仏壇の前で進路希望のプリントを手にして遺影の中の母に見せる。
とりあえずは文系の大学への進学を目標にすることを告げる。そして完成した小説を母に読み聞かせる。どんな表情で聞いているだろうか。きっと優しく微笑んでくれているだろうか。
どんな困難にも立ち向かう勇猛果敢なヒーローと美しいお姫様の少しだけ悲しい物語を。
母に読み聞かせをした後、窓を開けて、夜空に浮かぶ満月を見上げた。無人駅のホームで出会った母の姿を思い出す。きっと、ずっと忘れることはないだろう。
あの日の母との奇跡の再会を……。
最後まで読んでいただけて嬉しいです。
ありがとうございました。
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よろしくお願いします。




