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王家200年の嘘を守ったつもりの愚かな人たちへ  作者: 月雅


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第8話「二つの鷲」

工房に入ると、私の作業台の上に一枚の紋章が置かれていた。


構造線だけが引かれた、未彩色の図案。鷲の翼の骨格が、正確な対称性で紙の上に広がっている。線の太さ、筆圧の均一さ、交差点の処理。ヴァイスさんの手だとわかる。


彩色用の筆が、図案の横に揃えて置かれていた。あの貂毛の三本。私の専用の筆。


言葉はなかった。ヴァイスさんは奥の作業台で別の修復作業を進めている。背中がこちらを向いている。朝の冷えた工房に、膠の匂いと、微かに温い空気が漂っていた。作業台の端に、湯気の立つ杯が一つ。


色を見てくれ。


声に出されてはいない。けれど構造線と筆の配置が、それを言っていた。


私は外套を椅子に掛け、作業台の前に立ったまま、図案を見下ろした。これは古紋章の断片から構造を起こし直した復元図だった。あの修復記録の中にあった、封印前の鷲の翼。ヴァイスさんが構造線を読み取り、完全な図案として引き直している。


長い沈黙だった。工房の外で鳥が鳴いた。窓から差す冬の朝の光が、紙の表面を白く照らしている。


椅子を引いた。座った。筆を手に取った。


穂先が指の腹に触れた瞬間、数週間ぶりの感触が戻ってきた。柔らかく、しなやかで、私の手に馴染む重さ。ヴァイスさんが自分の給金で揃えた筆。


絵具皿に筆を浸した。拡大鏡を構え、鷲の翼の根元から彩色を始める。


構造線の上を色が走る。私の目が、この図案のどこに何色が必要かを読み取る。鷲の羽根の一枚一枚に、魔力の流路に沿った配色が求められる。元の図案の色彩情報は修復記録の断片と、残留顔料の分析から推定するしかない。前世のデザイン経験が、色の復元を導いた。


ヴァイスさんの筆音が止まった。


振り向かなかった。けれど気配が近づくのがわかった。エプロンの革が擦れる音。数歩。私の作業台の横で、足音が止まる。


「ここの翼の付け根は、構造線が三層になっている。表層の色が乗る前に——」


「わかります。下の層から順に彩色します」


遮ったわけではない。彼の言葉の続きが見えたから、先に応えた。ヴァイスさんが息を吐いた。驚きではなく、確認するような短い呼気だった。


隣に座った。作業台を挟まず、同じ紋章の前に。肩の間は拳一つ分。彼の体温が、工房の冷気の中でわずかに伝わった。


ヴァイスさんが構造線の一部を指で示した。鷲の左翼の第三羽根。あの場所。私が卒業制作で指摘した、二度のずれがあった場所。


復元図には、その線がない。


ずれのない、本来の輪郭線が引かれている。対称軸に沿った正確な角度。封印線が加えられる前の、あるべき姿。


「——この翼は、こうだったんですね」


声が掠れた。喉の奥が狭くなっている。卒業式の壇上で指し示した線。あの一本が存在しない図案が、目の前にある。私が見たものは正しかった。その証拠が、ヴァイスさんの構造線と私の色によって、今この作業台の上に立ち現れようとしている。


「色を塗ってくれ」


ヴァイスさんの声が低い。いつもより、少しだけ遅い。言葉を選んでいるのではなく、声に載せる重さを量っているような間だった。


筆を動かした。羽根の根元から先端へ。深い藍色が、金に移行する境界。ヴァイスさんが見分けられない色の層を、私が塗る。塗り終えると、彼が次の構造線を補強する。その繰り返しが、かつてと同じリズムで動き始めた。


けれど同じではなかった。


以前の共同作業には、まだ距離があった。雇用主と職人。技術者同士の分業。今、この紋章の上で交わる二人の手は、互いの欠落を知った上で組み合わさっている。彼は色を知らず、私は色を見る。私は五年前の真実を知らず、彼はそれを抱えて沈黙してきた。


「あなたが構造を読んで、私が色を見る」


筆を止めずに言った。ヴァイスさんの手も止まらなかった。


「それで一枚の紋章が完成する。ずっとそうでした。これからも、そうです」


ヴァイスさんの筆先が、紙の上で一瞬だけ震えた。構造線に影響はない。手首の奥、指の根元だけが揺れていた。


復元が完了したのは、午後の光が傾き始めた頃だった。


作業台の上に、二枚の紋章図案が並んでいる。左が、復元した封印前の鷲。右が、現行の王家紋章の模写。


二羽の鷲が、紙の上で向き合っていた。


左翼の輪郭が異なる。封印前の図案には、あの一本がない。構造線の対称性が完全に保たれ、魔力の流路に阻害がない。現行の紋章にはそれがある。二度のずれ。後から加えられた封印線。


「これを、ダム主任に見せます」


「ああ」


ヴァイスさんが頷いた。二枚の紋章に視線を落としたまま、彼の目は動かなかった。


「紋章鑑定会議の開催を、エーリヒに要請する。俺からも話を通す」


静かな声だった。けれどそこに含まれる覚悟の輪郭を、私は聞き取っていた。鑑定会議で証言するということは、元宮廷画家としての過去を公にするということだ。


「ヴァイスさん。あなたが証言すれば、ブレンハイムから——」


「わかっている」


短い遮断。けれど拒絶ではなかった。顔を上げたヴァイスさんの灰青の目が、私を見ていた。感情が乗った時には逸らすはずのその目が、今は外れなかった。


「五年分の黙り代は、俺が払う」


リーゼルが紋章院への報告書を封筒に入れている間、ダム主任鑑定官への使いを頼んだ。エーリヒは二枚の図案を見れば、鑑定会議の意味を理解するはずだった。


リーゼルが出ていった後、工房には二人だけが残った。冬の日が傾いて、窓からの光が橙色に変わり始めている。


「フォーゲル」


ヴァイスさんが私の名を呼んだ。いつもの呼び方。けれど声の温度が違った。


「カスパルの推薦状を、エーリヒが読み上げたことがあるだろう」


紋章院でダム主任鑑定官が言った言葉を思い出した。あの日は引き渡し要請の説明を受けた日で、推薦状の内容には触れられなかった。私は首を横に振った。


「あの推薦状に、俺はこう書いた。——この者の目は、私が見落としたものを見る」


指先が震えた。筆を持っていたら線が乱れていた。


「ヴァイスさん——」


「最初からわかっていた。おまえの手を見た日から」


ヴァイスさんの手が、作業台の上を滑った。復元された鷲の紋章の横。私の手がある場所の、すぐ隣で止まった。


「俺に見えない色を、おまえの目で見てくれ」


指先が触れた。ヴァイスさんの手のひらが私の手の甲に重なった。膠とインクの匂いが染みついた、筆胼胝のある手。硬くて、温かくて、微かに震えていた。


呼吸を忘れた。工房の音が遠のいた。窓からの光が二人の手の上に落ちて、復元された鷲の翼の金色と溶け合った。


この鷲は、二百年ぶりに本来の翼を取り戻した。ヴァイスさんが構造を描き、私が色を見て、二人の手で正しい姿に戻した。


あの人が書いた推薦状の一行が、私と出会った日からそこにあった。この人は最初から、私の目を信じていた。


手の甲に残る体温を、振り払わなかった。

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