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王家200年の嘘を守ったつもりの愚かな人たちへ  作者: 月雅


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第7話「飲み物の温度」

工房の窓から見える冬の朝。作業台の上に、湯気の薄れかけた飲み物が一杯。


私はその杯を見つめたまま、外套を脱いで椅子に掛けた。陶器の縁に、指で触れそうになって、手を引いた。


ヴァイスさんの作業台には既に構造線の途中の紋章が広げられている。彼は奥の棚で顔料の瓶を並べ直していた。背中がこちらを向いている。昨日もそうだった。一昨日も。あの日から、私たちは同じ工房にいながら、視線が交わらない。


筆を取った。手元の修復作業に意識を落とす。依頼は溜まっている。仮資格紋章師として受けた案件の締め切りは動かない。引き渡し要請が来ようが、この工房の信用が揺らぐわけにはいかない。


構造線を引く。色を見る。いつもの工程。けれど隣の作業台からは筆音だけが聞こえて、「この境界を見てくれ」という声は来なかった。


昼前、リーゼルが製本室から顔を出した。


「フォーゲルさん。ダム主任鑑定官から呼び出しです。紋章院に来てほしいって」


筆を置いた。ヴァイスさんが棚の前で手を止めたのが、背中越しにわかった。振り向かなかった。


紋章院の鑑定室は、仮資格試験の日と同じ乾いた紙の匂いがした。


ダム主任鑑定官が机の向こうに座っている。眼鏡の奥の目が、いつもより長く私を見た。


「フォーゲル紋章師。引き渡し要請の件で、現状をお伝えします」


「はい」


椅子の縁を両手で握った。膝の上に置くべき手が、そこにとどまれなかった。


「ブレンハイム王国からの引き渡し要請を侯が受領し、現在保留の判断を下しています。侯の見解は——紋章院の鑑定業務に関わる人材の処遇は、鑑定結果が出揃うまで決定しない、というものです」


保留。却下ではなく、受理でもなく。


ダム主任鑑定官が眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。仮資格試験の時と同じ仕草。けれどあの時より動作が遅い。


「率直に申し上げます。侯は、あなたの身柄をブレンハイムに渡す意志は現時点ではお持ちではない。ただし外交文書として正式に受理した以上、何らかの回答期限は生じます。その前に、紋章院として客観的な鑑定実績を積み上げておく必要がある」


眼鏡を掛け直し、姿勢を正した。声が静かになった。


「あなたの技術が侯国にとって不可欠であることを、記録として残す。それが、あなたをここに留める最も確実な根拠になります」


喉の奥が熱くなった。飲み込んだ。ダム主任鑑定官の顔を見た。この人の目は、仮資格試験の日と同じだった。紋章の前で事実を事実として見る目。


「承知しました。できることは全てやります」


声が震えなかったことに、自分で驚いた。


工房に戻ると、午後の光が作業台を横から照らしていた。


ヴァイスさんは席にいた。構造線を引いている。私がスツールを引く音にも振り向かない。作業台の上に、さっきの杯がまだ置いてあった。中身は冷めきっている。


古紋章のスケッチの束を広げた。ダム主任鑑定官の依頼で整理を進めている修復記録の中に、まだ分析が終わっていない古い図案がある。ヴァイスさんの署名があった修復記録よりさらに古い年代のもの。


一枚ずつ広げる。褪色した顔料。欠けた構造線。その中の一枚に、手が止まった。


紋章の図案の端に、補修の痕跡がある。けれど補修に使われた線の角度が、周囲の構造線と整合していない。拡大鏡を取り上げた。


息を止めた。


この紋章の構造線の下に、もう一層、別の線がある。上から塗り重ねられた顔料の下に、元の図案が残っている。


今の王家の紋章とは、鷲の翼の角度が違う。


指先が紙の上で震えた。これは——封印線が加えられる前の、元の構造に近い図案ではないのか。断片だけでは確証が持てない。けれど鷲の左翼の輪郭線が、私が卒業制作で指摘した「二度のずれ」を含んでいない。


顔を上げた。ヴァイスさんの背中が視界に入った。構造線を引く手は止まっていない。


この人に伝えるべきだろうか。この発見を。


口を開きかけて、唇を閉じた。あの日の告白が耳の奥に残っている。知っていて、何もしなかった、と言ったあの声が。私はまだあの言葉に答えを出していない。それなのに、紋章の話だけは共有するのか。


スケッチの束を静かに閉じた。今は、記録として整理する。分析を進める。答えが出ない問いを抱えたまま、手だけは動かし続ける。


夕方、リーゼルが工房の掃除を終えて外套を羽織りながら、私の作業台の横に立った。


「フォーゲルさん。一つだけ教えていいですか」


「何ですか」


「親方が今朝、侯のところに行ってたの。あたし、工房を開ける前に通りで見かけたんです。侯の屋敷の方から戻ってくるところ」


手が止まった。リーゼルの顔を見た。彼女の目は真っ直ぐで、嘘をつけない顔をしていた。


「何をしに行ったかは聞いてません。親方に聞いても答えないだろうし。でもね——あたし三年ここにいて、親方が自分から侯のところに出向いたの、一度も見たことないんです」


リーゼルが肩を竦め、「じゃあお先に」と製本室に戻っていった。


ヴァイスさんの背中を見た。彼は作業台で筆を洗っている。インク壺の蓋を閉める手の動き。日常の所作。けれどその手は今朝、侯の前に差し出されていたのか。


何を言ったのだろう。この工房の主が、侯に直接出向くということは、職人ギルドの親方として正式な陳情に当たる。騎士に準ずる身分を持つ工房主だからこそ許される行為だが、それでもカスパル・ヴァイスという人間にとっては——五年間、誰にも経歴を語らず、黙って工房を守ってきた人間にとっては。


声を上げたのだ。二度目の声を。


作業台の上の冷めた杯に目が戻った。朝、手をつけなかった飲み物。今はもう冷えきって、陶器の表面に水滴がついている。


指を伸ばした。杯の縁に触れた。冷たい。


怒っている。まだ怒っている。知っていて黙っていたことに。けれど——あの人がいない作業台が、こんなにも広いと思ったことは、今まで一度もなかった。


赦すとも、赦さないとも、まだ言えない。


けれど明日の朝もし杯が置かれていたら——温かいうちに、手を伸ばしてみてもいいかもしれない。


古紋章のスケッチを鞄に入れた。封印前の図案の断片。この一枚が何を意味するのか、まだわからない。わからないまま、工房の扉を閉めた。


鍵が金具に落ちる音が、冬の通りに小さく響いた。

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