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王家200年の嘘を守ったつもりの愚かな人たちへ  作者: 月雅


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第6話「署名の日付」

五年前の修復記録。その末尾に——署名があった。


紋章院から運び込まれた古い記録の束を、私は工房の作業台で一枚ずつめくっていた。羊皮紙の乾いた手触りが指先に張りつく。膠と埃の混じった匂いが、ページを繰るたびに立ち上がる。


年代順に並んだ修復履歴。十年前、十五年前。担当者の署名、使用顔料の記録、構造線の修正箇所。ヴァイスさんの父の名前が、古いインクの色で繰り返し現れる。


さらに遡った。


二十年前の記録を通り過ぎ、紙の質が変わった束に手が届いた時、指が止まった。


五年前の日付。ブレンハイム王国——王家紋章の修復記録。


署名欄に書かれた名前を、二度読んだ。


カスパル・ヴァイス。


呼吸が浅くなった。目の前の文字がぶれて、まばたきで焦点を戻す。修復内容の欄には、王家の鷲の紋章の構造線検査と記されていた。検査結果の備考欄に、短い一文。


「左翼第三羽根の輪郭線に、本来の図案にない付加線を確認。除去を進言」


指先が冷たくなっていた。


この人は——知っていた。


五年前に、同じものを見ていた。私が卒業制作で指摘したあの一本の線を、この人は五年も前に見つけていた。


作業台の向こうで、ヴァイスさんが構造線を引いている。いつもの猫背。いつもの静かな筆音。その背中を、私は見た。


「ヴァイスさん」


声が硬かった。自分でもわかる。普段は手元や作品を見て話す私が、彼の背中に向かって呼びかけていた。


筆音が止まった。


「この記録に、あなたの署名があります」


羊皮紙を持ち上げた。ヴァイスさんは振り向かなかった。背中の筋肉がエプロンの下で固まるのが見えた。三秒。五秒。工房の外で荷馬車が石畳を通る音だけが響いていた。


「五年前に、あなたはブレンハイム王家の紋章を検査している。左翼の付加線を見つけて、除去を進言している」


沈黙が重い。


「あなたは——ブレンハイムの宮廷画家だったんですか」


ヴァイスさんが筆を置いた。静かな音だった。振り向いた時、灰青の目が私の目を正面から受け止めた。普段は感情が乗ると逸らすその目が、今は動かなかった。


「そうだ」


短い。低い。それだけで、空気が変わった。


「五年前、俺はブレンハイム王国の宮廷画家だった。王家の紋章を検査して、あの線を見つけた。上に報告した」


ヴァイスさんの声が、いつもより遅かった。言葉を一つずつ選んでいるような間があった。


「報告の相手は宰相だ。宰相は——黙殺を命じた。王家の安全保障に関わる事項だと。俺は拒否した。拒否した結果、解任された。国外に追放された」


指の関節が白くなるほど、私は記録の紙を握っていた。


「それで、ここに来たんですか」


「父の工房を継いだ。それだけだ」


それだけ。五年間、宮廷画家だった経歴を隠して。色が見えない目で紋章を直し続けて。「父の工房を継いだ」とだけ語って。


口の中が乾いていた。次の言葉が喉を通る前に、ヴァイスさんが視線を落とした。灰青の目から光が消えた。


「おまえが断罪された時のことも——知っていた」


工房の空気が、さらに冷えた。


「ブレンハイムの卒業式で、フォーゲル伯爵の娘が王家の紋章を不敬で断罪されたという話は、商人経由で届いた。俺は——」


声が途切れた。ヴァイスさんの手が作業台の縁を掴んでいた。筆を確認する、いつもの仕草ではなかった。台の角に指を押しつけて、何かに耐えている手だった。


「知っていて、何もしなかった。二度目の声を上げる勇気がなかった」


工房に音がなくなった。窓の外の荷馬車も、リーゼルの製本室からの物音も、何も聞こえなかった。聞こえていたのかもしれない。ただ私の耳が、それを拾えなくなっていた。


あの日。卒業式の壇上で、誰も口を開かなかった。審査教授は目を伏せ、ルートヴィヒ殿下は横を向き、マルガレーテだけが宰相の方を見て告発した。


この人もまた、知っていて、黙っていた側の人間だった。


記録の紙を作業台に置いた。指が震えているのを、自分の目で確認した。


「今すぐには——答えられません」


声が平坦だった。感情が多すぎて、どの音を出せばいいのかわからない。敬語の語尾が途切れなかったのは、辛うじて残った習慣のおかげだった。


椅子を引いた。立ち上がり、作業台から離れた。ヴァイスさんは何も言わなかった。引き留める手も、言い訳の言葉もなかった。


工房の扉を押した。蝶番の軋む音が背中に残った。


旧市街の石畳を、あてもなく歩いた。


夕方の空気が首筋に冷たい。足の裏で石の凹凸を感じる。靴底が磨り減って、地面の感触が近い。


同じ真実を見た人が、もう一人いた。


五年前に同じ線を見つけて、同じように声を上げて、同じように追われた人が。あの工房の主が、最初からそうだった。


私の手を見て即座に採用した理由。ブレンハイムと聞いた時の一拍の硬直。王家の紋章の話題を遮った時の、背中の強張り。修復記録を私に任せる時の、あの一瞬のためらい。


全部つながった。全部、わかった。


わかったのに——足が重い。


また裏切られたと思っている自分がいる。知っていたのに黙っていた。私が壇上で一人で立っていた時、この人は別の国で、沈黙を選んでいた。


けれど。


この人も追われた。この人も声を上げて、それで全てを失った。宮廷画家の地位を。色が見えることを前提にした、紋章師としての誇りを。


怒ることが正しいのか。赦すことが正しいのか。どちらの感情も本物で、どちらも手放せなかった。


旧市街の角を曲がった。工房の看板が見えた。鷲の羽根ペンと開いた書物。夕暮れの光の中で、木の板が橙色に染まっている。


足はこの方向に向かっていた。工房から離れたはずなのに、歩いた道は大きな弧を描いて、同じ場所に戻ろうとしていた。


けれど扉には手を伸ばせなかった。


工房の前で立ち尽くしていた時、リーゼルが扉を開けた。


「フォーゲルさん。中に——」


言いかけて、私の顔を見て口を閉じた。リーゼルは表情を読むのが早い。何も聞かず、ただ扉を開けたまま半歩退いた。


「親方に、紋章院経由で外交文書の写しが来てます。フォーゲルさんにも関係ある内容だって」


工房に入った。ヴァイスさんは作業台の前にいた。立ったまま、一枚の紙を手にしていた。


「ブレンハイム王国から、ランツベルク侯国に対して引き渡し要請の外交文書が届いた」


ヴァイスさんの声には抑揚がなかった。紙を差し出す手は、さっき作業台の角を掴んでいた手と同じだった。


「引き渡し対象者は——フォーゲル・アネリーゼ。不敬罪の追放処分を受けた者が、侯国内で紋章に関わる業務に従事していることを問題視し、身柄の引き渡しを要請する、と」


紙を受け取った。指先が文面に触れる。外交文書の書式。ブレンハイム王国宰相の名が記されていた。


あの工房が。あの窓際の席が。あの新しい筆が。


全てが、奪われるかもしれない。


「侯の判断はまだ出ていない。エーリヒが受領して、侯に上申する手続きに入っている」


ヴァイスさんの声を聞きながら、私は紙を折った。指が正確に動いたのが、自分でも不思議だった。


怒りと、恐怖と、まだ名前をつけられない感情が、胸の中で渦を巻いていた。この人への答えは出ていない。それなのに外から、もっと大きな力が押し寄せている。


窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。低い音が石壁を伝って工房の中に入り込んでくる。


同じ真実を見て、同じように追われた人が、目の前にいる。その人を赦せるかどうか、私にはまだわからない。けれど今、この場所を奪われることへの恐怖が、喉の奥を塞いでいた。


折った紙を、外套の内側にしまった。仮資格の認定書の隣に。

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