第5話「新しい筆」
「フォーゲルさん、そこの筆、いつ変わったか気づいてます?」
朝の工房で、リーゼルが製本台から身を乗り出してきた。指が私の作業台の端を指している。
見下ろした。筆立てに入っている三本の彩色筆。穂先の柔らかさ、軸の太さ、握りの部分の木目。数週間使い込んだはずの見慣れた道具のはずが、違う。穂先が新しい。毛の揃い方が、以前のものより明らかに上質だった。
「これ、昨日までのと違います」
「でしょう。あたしも今朝気づいたんですけど、親方が昨日の夕方、画材屋に寄ってたの見たんですよね。で、今朝来たらフォーゲルさんの筆だけ新しくなってる」
リーゼルの目が私とヴァイスさんの間を行き来した。ヴァイスさんは奥の作業台で構造線を引いている。背中はこちらを向いていない。
「それだけじゃないんですよ。ね、あの人、あなたにだけ窓際の席譲ってるの、気づいてます? あたしがここで三年働いてますけど、窓際に席を動かされたのフォーゲルさんが初めてですからね。あとあの人、あなたのデッサンに一度も赤入れてないの。あたしの製本の糸目には毎回チェックが入るのに」
「それは——工房主としての配慮でしょう。光の具合で色の判定が変わりますから、彩色担当を窓際に置くのは合理的です」
「ふうん。合理的ねえ」
リーゼルが頬杖をついた。信じていない顔だった。私は筆を手に取り、穂先の感触を指の腹で確かめた。上質な貂の毛。工房の備品としては贅沢すぎる。
ヴァイスさんの肩が微かに動いた。聞こえているのだろう。けれど振り向かない。
数週間の共同作業で、修復依頼は順調にこなしていた。ヴァイスさんが構造を描き、私が色を見る。その分業は既に工房の標準になっていて、仕上がった紋章をダム主任鑑定官が検品するたびに、合格の印が増えていった。
今朝も二枚の修復が完了し、帳簿に記録を書き込んだ。出来高制の報酬が積み重なるのを数字で見ると、足元がわずかに安定していく実感がある。
昼過ぎ、ダム主任鑑定官から伝書が届いた。宛先は工房のヴァイスさんだが、内容は私にも関わるものだった。
「紋章院所蔵の古い修復記録の整理を依頼したい。保管状態が悪化している古紋章の目録作成と、必要に応じた修復計画の策定。ヴァイス工房に委託する」
リーゼルが伝書を読み上げ終えると、ヴァイスさんが筆を置いた。
「フォーゲル。記録の整理はおまえに任せる。古い紋章の構造分析には、おまえの目が要る」
短い指示。いつもの口調。けれどその言葉を聞いた瞬間、ヴァイスさんの右手が筆立ての筆を確認するように触れるのが見えた。一瞬の動作。すぐに手を引いた。
古い修復記録。紋章院の保管庫に眠っている過去の修復履歴。そこにはこの工房が、あるいはヴァイスさんの父の代が手がけた紋章の記録も含まれているはずだった。
「承知しました。明日から始めます」
ヴァイスさんは頷いた。頷いただけだった。けれどその直後、彼が工房の棚を黙々と整理し始めたのを、私は横目で見ていた。何かを探すというより、手を動かしていないと落ち着かないような動作だった。
夕方、作業を終えて道具を片付けていると、リーゼルが声をひそめて寄ってきた。
「フォーゲルさん。あの筆のこと、もう少し聞いてもいいですか」
「筆がどうかしましたか」
「あの筆、親方の自腹ですよ。工房の経費じゃなくて。あたし帳簿つけてるからわかるんです。経費に計上されてない。つまり親方が自分の給金から出してる」
手が止まった。筆立てに視線が戻る。貂の毛の穂先が、夕暮れの光に柔らかく光っている。
「どうしてそんなことを」
「それはあたしが聞きたいですよ。親方が自腹で誰かに道具を買ったの、あたしが知る限りこれが初めてです」
リーゼルの声が遠くなった。耳の奥で、代わりにヴァイスさんの「頼む」という短い声が反響している。色の境界で弱みを見せた時の、あの消え入りそうな一言。
なぜこの人は、私にだけこんなことをするのだろう。工房主だから、とは——もう思えなくなってきていた。
けれど口には出せなかった。尋ねれば答えが返ってくるかもしれない。その答えが何であれ、今の関係が変わってしまう。私は分析結果を指摘して人を遠ざけてきた人間だ。見えたものを口にすれば、また何かが壊れるのではないか。
筆を元の場所に戻した。穂先に触れた指先に、微かな温もりが残った。
翌日の朝、紋章院から届いた外交情報の写しをダム主任鑑定官がリーゼル経由で工房に回してくれた。
「ブレンハイム王国において、宮廷紋章官の修復を受けた王家紋章旗の魔力が著しく低下。旗に触れた際に本来発現すべき防御魔法が不発となる事案が複数報告されている」
リーゼルが読み上げる声を聞きながら、私の手は膝の上で握りしめられていた。
王家の紋章旗。あの卒業式の日、追放される際に王宮の回廊で見た、色が褪せかけていた旗。あの時は追放の混乱の中で誰にも伝えられなかった。それが、ここまで進行している。
「王家の紋章旗って、相当重要なものですよね。防御魔法が効かなくなるって——」
リーゼルが眉をひそめた。私は黙って頷いた。
紋章の図案が正確であるほど魔力の伝達効率が高い。逆に、修復が不適切であれば魔力は減衰する。実技の裏付けのない紋章官が王家の紋章に手を入れれば、この結果は避けられない。
ヴァイスさんは外交情報の写しに目を落とし、長い沈黙の後に紙を裏返して作業台に置いた。表情は読めなかった。
「記録の整理を始めろ」
それだけ言って、自分の構造線に戻った。
私は古い修復記録の整理に取りかかった。紋章院から運び込まれた木箱の中に、年代順に綴じられた羊皮紙の束が詰まっている。膠と埃の入り混じった匂いが鼻に届いた。
記録を一枚ずつ広げていく。十年前、二十年前。各家の紋章の修復履歴。使用した顔料、構造線の修正箇所、担当者の署名。
ヴァイスさんの父の名前が散見された。丁寧な署名が、古い紙の上で乾いたインクの色をしている。
さらに古い記録に手を伸ばした時、ヴァイスさんが振り向いた。一瞬だった。記録の束に向かう私の手を見て、彼の目がわずかに細くなった。けれどすぐに作業台に戻り、筆を取り直した。
あのためらい。修復記録を渡すことを聞いた時と同じ、一瞬の硬直。この記録の中に、何かあるのだろうか。
私は尋ねなかった。代わりに、記録のページをめくる手を動かし続けた。目の前の文字と図案に集中する。ここにある情報を、見たまま正確に読み取ること。それだけが今の私にできることだった。
夕暮れ近く、二階の自室に戻る途中で振り返った。工房の窓際——私の席に、夕陽が最後の光を落としている。そこに置かれたデッサン帳の上に、あの新しい筆が三本並んでいた。
誰かの好意を好意だと認めることが、こんなに怖い。けれど、あの人が修復記録の箱を見た時に浮かべた表情の方が、もっと気にかかった。




