第4話「赤と緑の境」
この色の配置のままでは、魔力の流れが——。
私は修復中の紋章から顔を上げた。工房の窓から差す午後の陽光が、作業台の上に斜めの影を落としている。仮資格を取得してから一週間あまり。ヴァイスさんと隣り合わせの作業台で、それぞれの修復作業を進める日々が続いていた。
今日の依頼は、ランツベルク侯国の騎士家の紋章。盾の中央に描かれた樫の木の紋章で、葉の彩色が大きく褪色している。構造線はヴァイスさんが既に引き直しており、私の作業は色を正しく補う工程だった。
ところが隣の作業台から、筆が紙に触れては止まる音が繰り返されている。
ヴァイスさんが修復しているのは別の騎士家の紋章で、鹿の角を持つ盾の図案。構造線は完璧だった。対称性も角度も、私の目で見て訂正の必要がない精度で引かれている。
けれど彩色の段階で、筆が何度も止まる。
ヴァイスさんの手元を盗み見た。鹿の角の付け根に、深い赤から暗い緑へ移り変わる境界がある。彼はその境界線の上で筆先を浮かせ、数秒静止し、そして一度も塗ることなく筆を下ろした。
「ヴァイスさん」
声をかけた。ヴァイスさんは筆を持ったまま振り向かない。手元を十秒ほど見つめてから、ようやく横を向いた。
「なんだ」
「その角の付け根、色を変える境目で迷っていらっしゃいますか」
沈黙。長い沈黙。工房の外で荷馬車が通り過ぎる音が遠くに聞こえた。
「……この赤と、この緑の境界が」
ヴァイスさんの声が落ちた。語尾が消えかける。顎の角度がわずかに下を向き、筆を握る指の関節が白くなった。
「わからない。好みの問題で人に任せることもあるが——今回は俺が仕上げなければならない依頼だ」
好みの問題。
私の目は、ヴァイスさんの作業台に並べられた絵具皿を見ていた。赤と緑の皿が隣り合って置かれている。前世のデザイン事務所で、先輩が同じ配置を避けていたことを思い出す。赤と緑を隣に置くと取り違えるから、と。
息を止めた。
ヴァイスさんの構造線の精度。図案を読む目の確かさ。その同じ目が、特定の色の境界で繰り返し筆を止める。好みの問題ではない。
「ヴァイスさん。もしよければ——私が色を見ます」
椅子を引いた。自分の作業台を離れ、ヴァイスさんの隣に座る。二つの作業台の間は腕一本分の距離しかない。彼のエプロンから膠の匂いが微かに漂った。
ヴァイスさんの手が止まった。横顔を見た。灰青の目が私の顔を捉え、三秒。何かを測るような視線だった。それから目を逸らし、窓の外に視線を飛ばした。
「……頼む」
声が小さかった。口元がわずかに動いただけで、音がほとんど唇の間にとどまっている。
私は拡大鏡を取り上げ、鹿の角の付け根を覗き込んだ。この境界は、深い臙脂から松葉色へ三段階で移行する構造だった。紋章魔法の流れが色の層を通過する設計になっていて、色の純度がずれれば魔力が散る。
「ここは臙脂から松葉色です。境界に中間色を一層挟むと、魔力の流路が滑らかになります」
筆を取り、色を置いた。ヴァイスさんが覗き込む。近い。肩が触れそうな距離。彼の息遣いが私の手元にかかった。
「——なるほど。そこで色が変わっていたのか」
独り言のような呟き。低い声の中に、力が抜けた響きがあった。
一つ目の境界を仕上げると、ヴァイスさんが構造線を補い、私が次の色を見る。その繰り返しが、いつのまにか一つのリズムになっていった。彼が線を引き終えて筆を置く音と、私が絵具皿に筆を浸す音が交互に鳴る。
「フォーゲル。この構造線の先、もう一箇所色が変わる部分がある。見てくれるか」
振り向くと、ヴァイスさんは作業台の上に指を置いて、紋章の右端を示していた。指先だけで場所を伝える仕草。言葉が少ない分、手の動きに情報が集まっている。
「はい。ここですね。暗い茶から、もう少し黄みを帯びた——」
言いかけて、口が早くなっていることに気づいた。前世のデザイン事務所で色校正を説明していた時の癖。専門的な色の話になると、私は相手を置いてけぼりにする。
「すみません。早口に——」
「いい。続けてくれ」
短い。けれど遮る声ではなかった。ヴァイスさんは手元の紋章から目を離さず、私の言葉を待っている。
私は続けた。色の境界を一つずつ指し示し、彼が構造線でそれを固定する。二人の手が同じ紋章の上を行き来した。
リーゼルさんが昼食の知らせに来た時、二人の作業台の間に仕切りはなくなっていた。
「えっ。なに、二人とも同じ紋章触ってるの。親方、いつもは絶対に人の分は手を出さないのに」
リーゼルさんの視線が私たちの間を往復した。ヴァイスさんは応えず、筆先をインク壺の縁で整えている。
「それと——フォーゲルさん。あなたの席、今朝より窓に近くなってません?」
言われて振り返った。確かに、私の作業台が窓際に数十センチほど寄っている。朝はもう少し壁側にあったはずだ。窓からの光が、私のデッサン帳を直接照らす角度になっている。
ヴァイスさんの背中を見た。彼は何も言わなかった。
「……工房のレイアウトは親方の管轄ですから、きっと作業効率の問題でしょう」
「ふうん。効率ねえ」
リーゼルさんが首を傾げたが、それ以上は追及せず、昼の賄いの支度に戻っていった。
午後、工房の扉を叩く音があった。
ブレンハイムから来たという商人が立っていた。手には紋章の入った書類を抱えている。
「ヴァイス工房さんですか。ブレンハイム王国の貴族の依頼なんですが、紋章の修復をお願いしたい。国元では修復を請け負える腕の紋章師が——その、少なくなりましてね」
商人は外套の埃を払いながら、作業台を物珍しそうに見回した。国元では紋章修復を外注する貴族が増えている、と。宮廷紋章官の修復後に魔法が不安定になった家が複数あり、自前で手を打とうにも技術者がいないのだと言った。
ヴァイスさんが商人の書類を受け取り、内容を確認している。その手元に私の視線が吸い寄せられた。書類を繰る指の動きが、普段の紋章を扱う時と変わらない。けれど一瞬——ブレンハイム、という単語が耳に入った瞬間——彼の左手が筆を確認するように触れた。何度も。
商人が帰った後、私はヴァイスさんに問いかけたい衝動を押し殺した。なぜブレンハイムの名前が出るたびに、あなたは手元が落ち着かなくなるのか。なぜ色が見えないのに紋章師を続けているのか。
尋ねる代わりに、作業台に向き直った。修復途中の鹿の紋章。彼が引いた構造線の上に、私の色が重なっている。二人の手が描いた一枚の紋章。
この人は「見てくれ」と言った。命令でも依頼でもない口調で。あの短い一言が、私を雇用主への職業的な敬意とは別の場所に引き寄せている。
けれどヴァイスさんの沈黙には、まだ語られていない奥行きがあった。色の話は打ち明けてくれた。それ以上の核心には、手が届かない。
夕方の光が傾き、窓際の私の席を琥珀色に染めた。この位置に作業台を動かしたのは、誰だったのか。私は答えを知っているのに、まだ「効率の問題」だと思おうとしている自分がいた。




