第3話「光る線の道」
「明日、紋章院で試験を受けろ」
朝の工房で、ヴァイスさんはそれだけ言った。筆を動かす手は止めないまま、こちらを振り向きもしない。
「試験、ですか」
「仮資格の実技試験だ。俺が推薦状を書いた。紋章院の主任鑑定官が審査する」
推薦状。数日間、工房で紋章修復の作業をしただけの私に。ブレンハイムでの学位を剥奪された、身元保証人付きの外国人に。
ヴァイスさんの肩甲骨が、エプロンの下でわずかに動いた。筆を持ち替えたのだ。言葉はそれ以上来ない。
「ヴァイスさん。推薦状に、何と書いてくださったんですか」
「必要なことを書いた」
声量が下がった。語尾が消える。それがこの人の癖だと、数日の共同作業でわかりかけていた。感情を言葉にしようとする時ほど、声が小さくなる。
リーゼルさんが製本室から顔を出し、「親方が推薦状書くなんて、あたし知らなかったんですけど」と言った。ヴァイスさんは応えなかった。
翌朝、紋章院は旧市街の中心に建つ石造りの公館だった。
入口の扉を押すと、乾いた紙と古い蜜蝋の匂いが鼻腔に広がった。天井が高い。壁面に各家の紋章が額装されて並んでいる。ランツベルク侯国の紋章体系。ブレンハイムとは配色の規則も構造も異なるが、図案の根底にある対称性の原則は共通していた。
奥の鑑定室で、一人の男が待っていた。
白髪交じりの髪を丁寧に整え、眼鏡の奥から私を見る。立ち上がらない。机の向こうに座ったまま、書類に目を落とし、それから顔を上げた。
「フォーゲル嬢。ランツベルク侯国紋章院主任鑑定官、エーリヒ・ダムです」
声は穏やかだが、姿勢に一切の緩みがなかった。
「お時間をいただきありがとうございます、ダム主任鑑定官」
頭を下げた。ランツベルク侯国では職人ギルドの親方が騎士に準ずる社会的地位を持つ。紋章院の主任鑑定官はそれ以上の権威。敬意を形で示すのは当然だった。
「カスパルの推薦状は読みました。実技を見せてもらいます」
ダム主任鑑定官が机の上に一枚の紋章図案を広げた。損傷した貴族家の紋章。褪色と線の劣化が進んでいる。
「この紋章を分析し、修復方針を示してください。道具はそちらに」
机の横に、修復用の筆と拡大鏡が並んでいた。椅子を引き、紋章の前に座る。
拡大鏡を手に取った瞬間、世界が切り替わった。
前世の仕事と同じだ。クライアントのロゴを受け取り、印刷事故の原因を特定する時の感覚。線の太さ、角度、交差点の処理。構造線の対称性。色の境界。前世で六年間繰り返した作業が、この世界の紋章の上で動き始めた。
「左上の獅子の爪部分、構造線が元の図案から逸脱しています。劣化による自然な崩れではありません。三本目の爪の角度が対称軸に対して約三度内側に傾いていて、これが魔力の流路を狭めています」
声に出した。
一瞬、ためらいが走った。喉の奥が締まる。また断罪されるのではないか。正しいことを口にした瞬間、この場所からも追い出されるのではないか。
拡大鏡を握る指に力が入った。
けれど——見えたものを黙っていたら、この紋章は正しく修復されない。
「修復方針としては、三本目の爪を対称軸に揃え直し、元の角度に戻す必要があります。それにより魔力の流路が正常化し、紋章魔法の伝達効率が回復するはずです」
沈黙が長かった。
ダム主任鑑定官は眼鏡を外し、レンズを布で磨いた。ゆっくりとした動作。磨き終えてもすぐには掛け直さず、裸眼のまま私の手元を見た。
「ほう」
一言だった。それから眼鏡を掛け直し、姿勢を正した。
「この精度は見たことがない」
声に力みはなかった。事実を確認するような、静かな口調。けれどその一言の後、ダム主任鑑定官は書類の束から一枚を引き抜き、署名欄にペンを走らせた。
「仮資格を認定します。本日付で、ランツベルク侯国紋章院の仮資格紋章師として登録されます」
ペン先が紙の上を擦る音が、鑑定室に小さく響いた。
「……ありがとう、ございます」
声が震えた。ブレンハイムで奪われた学位とは別物だ。この国の、この紋章院が、私の目と手を見て出した判定。誰かの推薦や身分ではなく、紋章の前に座って線を読んだ結果として。
ここでは——見えたものを口にしても、罰されなかった。今回は、たまたまかもしれない。けれど目の前の署名は本物だった。
工房への帰り道、足取りが軽かった。仮資格の認定書を外套の内側に入れている。羊皮紙の硬さが肋骨に触れる感触が、まだ信じられない。
工房の扉を開けると、ヴァイスさんが作業台にいた。いつもの姿勢。猫背で、手元に顔を寄せて。
「受かりました。仮資格をいただきました」
「そうか」
振り向かない。けれど筆の動きが一拍だけ遅くなったのを、私は見ていた。
リーゼルさんが奥から「おめでとう!」と声を上げ、私の両肩を掴んで揺すった。「これで単独受注もできるようになるんでしょ。親方、もっと喜んであげてくださいよ」
「喜んでいる」
ヴァイスさんの声は相変わらず低く、筆は止まらなかった。リーゼルさんが「またそれ、言葉足りないですよ」とため息をついた。
仮資格の認定書を資料棚にしまおうとした時、ふとした疑問が口をついた。
「ヴァイスさん。ブレンハイム王家の紋章について、以前から気になっていたことがあるんですが——」
空気が変わった。
ヴァイスさんの筆が止まった。背中の筋肉が引き攣るように硬くなるのが、エプロン越しに見えた。
「——その話はいい」
短い。声が低い。断定でも拒絶でもない、何かを押し込めるような響き。振り向かないまま、筆を再び動かし始めた。けれど筆の軌道が、一瞬だけ乱れたのを、私の目は捉えていた。
口を閉じた。手元を見た。ヴァイスさんの指は筆を握り直し、何事もなかったように線を引いている。
なぜ。ブレンハイムの紋章の話を出した途端、この人は——。
訊けなかった。訊く権利があるのかもわからなかった。雇用主に対して、工房に来て数日の助手が踏み込んでいい領域ではない。
けれど引っかかった。喉に小骨が刺さったまま取れないように。
その日の夕方、ダム主任鑑定官からの伝書がリーゼルさんの手で届いた。
「フォーゲルさん宛。紋章院から」
封を開くと、短い文面だった。仮資格の登録完了の通知に続いて、一行。
「なお、ブレンハイム王国宮廷紋章官の修復業務に関し、同国の三家において紋章魔法の不安定化が公式に報告された旨、侯国紋章院として情報を受領しております」
指先が紋章院の紙の質感をなぞった。ブレンハイムの三家で紋章魔法が不安定化している。宮廷紋章官が修復した紋章の、魔法が正常に機能していない。
商人の噂ではなく、公式情報として。
リーゼルさんが肩越しに覗き込んだ。「あれ、ブレンハイムの噂、やっぱり本当だったんだ。商人が言ってたのと合ってる。三家も被害が出てるなんて」
私は紙を折り、外套の内側にしまった。仮資格の認定書の隣に。
あの国で、紋章が壊れていく。私がいなくなった場所で、修復の技術が追いつかないまま。
ヴァイスさんの背中を見た。相変わらず手元に顔を寄せ、筆を動かしている。ブレンハイムの話をした時の、あの背中の強張りが記憶に残っている。
この人は、なぜブレンハイムの紋章の話を避けるのだろう。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。ランツベルク旧市街の鐘の音は低く、石壁に長く残る。その残響の中で、私は作業台に向かい直した。
明日から、仮資格紋章師として最初の仕事が始まる。この手で、この目で。見えたものを見えたと言える場所で。




