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王家200年の嘘を守ったつもりの愚かな人たちへ  作者: 月雅


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第2話「窓辺の工房」

ランツベルク侯国の旧市街は、石畳が雨に濡れて黒く光っていた。


数日間の徒歩と乗合馬車を乗り継いだ足は、靴の中で豆が潰れている。母が握らせてくれた革袋の中身は、宿代と食費で底を見せかけていた。残りの硬貨を指先で数える。あと一泊分。それきりだった。


旧市街の通りは狭く、二階の張り出し窓が向かい合って空を塞いでいる。湿った石壁の匂いと、どこかの工房から漂う煮た膠の臭気。ブレンハイム王都の広い大通りとは何もかもが違う。


父は反対したはずだ。あの場にいて、宰相の圧力に屈さざるを得なかったとしても。けれど書簡を送ることすら、今は難しいだろう。宰相が文書管理局を直轄している以上、伯爵家の書簡は監視されているに違いない。


通りの角を曲がった時、看板が目に入った。


木の板に、鷲の羽根ペンと開いた書物が彫られている。文字は読める——ヴァイス写本工房。その下に小さく、「紋章修復・彩色承ります。助手募集」と書き足されていた。


足が止まった。指先が、無意識に宙を撫でた。


工房の扉は、押すと膠と古い羊皮紙の匂いが溢れ出した。


奥の作業台に、一人の男が座っていた。長身を猫背に丸めて、手元の羊皮紙に顔を寄せている。インクで汚れた指が、細い筆を走らせていた。こちらに気づく様子がない。


「あの、失礼します。助手の募集を拝見して——」


男が顔を上げた。暗い茶色の髪が額にかかっている。目が合った。灰青の瞳が、私の顔ではなく、私の手元に落ちた。


一瞬だった。男が立ち上がり、作業台を回ってこちらに来るまで。歩幅が大きい。革のエプロンの裾が揺れる。


「手を出せ」


敬語のない、短い一言。私は反射的に両手を差し出しかけて、一瞬ためらった。この手を見せれば、紋章に触れたことがある人間だとわかるかもしれない。インク染みの痕。筆胼胝。爪の際に残る顔料の跡。


けれど——履歴書も推薦状もない追放者に、他に見せるものがあるだろうか。


手を開いた。


男の視線が、私の指先から手のひら、手首までを辿った。筆胼胝の位置。親指と人差し指の間の皮膚の硬さ。それまで弛緩していた肩が、前に傾いだ。


「紋章を触ったことがある手だな」


声が低い。断定だった。質問ではない。


「はい。紋章学を——専攻して、おりました」


どこで、とは言わなかった。男も訊かなかった。ただ、次の質問が来た。


「どこから来た」


「ブレンハイムから」


男の手が止まった。


一拍。呼吸ひとつ分の沈黙。男の表情が固まり、灰青の目がわずかに細くなった。それは瞬きよりも短い時間だったが、私の目は見逃さなかった。顎の筋肉が一度引き締まり、すぐに弛緩する。


「——採用だ。明日から来い」


「え」


「住み込みの部屋がある。賄いも出る。報酬は修復一枚ごとの出来高。仕事の質は見てから決める」


早い。あまりにも早い。履歴書も、試験も、何もなく。男は作業台に戻りかけ、振り向きもせずに付け足した。


「俺はカスパル・ヴァイス。この工房の主だ。父の代から引き継いだ」


それだけ言って、筆を取り直した。採用の理由も、私の名前を訊くことすらも、後回しにして。


「私は——アネリーゼ・フォーゲルです。よろしくお願いします、ヴァイスさん」


頭を下げた時、ヴァイスさんの背中は既にこちらを向いていなかった。筆の走る小さな音だけが、工房に響いていた。


この人は、論文でも身分でもなく、私の手を見て雇った。その事実に、喉の奥が詰まった。けれどブレンハイムと聞いた時の、あの一拍の硬直が、胸に引っかかったまま取れなかった。


「あーーっ、新しい人! やっと来た!」


奥の製本室から、赤毛の女性が飛び出してきた。革のエプロンに糸くずをつけたまま、まっすぐこちらに歩いてくる。物理的な距離が近い。手を取られ、上下に振られた。


「あたしはリーゼル・ホルン。製本担当。よろしくねフォーゲルさん、もう名前聞いたから。ていうか親方、説明少なすぎません? 住み込みの部屋って言ったって、どこのどの部屋かも言ってないでしょう」


ヴァイスさんは振り向かない。筆を動かしたまま、低い声だけが返った。


「二階の奥。鍵は棚の三段目」


「ほら、こういう人なの。言葉が足りないのは仕様なんで、慣れてください。さ、こっち。荷物、それだけ?」


リーゼルさんの手が、私の肩を軽く叩いた。人に触れられるのは何日ぶりだろう。追放の門を出てから、誰の手も触れていなかった。


「はい。これだけ、です」


外套と、革袋と、着の身着のまま。リーゼルさんはそれ以上何も訊かず、階段を上がりながら工房の案内を始めた。一階が作業場と資料室、二階が住居。賄いは朝と夕の二食。昼は各自で。


二階の奥の部屋は小さかったが、窓があった。旧市街の屋根の連なりが見える。窓枠に手を置くと、石の冷たさが指先に伝わった。


ここで、とにかく生きていく。


技術が通用するかどうかは、明日からの仕事で証明するしかない。学位を奪われた今、私に残っているのは、この手と、この目だけだ。


窓の外で、夕暮れの鐘が鳴った。低い音が石壁に反響する。ブレンハイムの鐘とは音色が違う。


翌朝、工房に降りると、リーゼルさんが賄いのパンとスープを出してくれた。硬いパンを千切ると、温かい湯気が立つ。何日ぶりかの、座って食べる朝食だった。


スープを口に運びかけた時、リーゼルさんが声をひそめた。


「ねえフォーゲルさん。ブレンハイムから来たって言ってたけど——聞いた? あっちの宮廷紋章官、新しく就いた人がいるんだけどさ」


スプーンが止まった。


「商人ギルドの荷運びが噂してたの。何でもその紋章官が修復した紋章の、色がおかしくなったんだって。貴族の家の紋章旗に魔力を通したら、光り方がまだらになったとか。修復した直後なのに」


修復した紋章の光がまだらになる。それは彩色の配合が元の図案と整合していないことを意味する。魔力の伝達効率が、色の層で乱されている。


——座学の知識だけで、実技の経験がほとんどない人間が修復をすれば、そうなる。


マルガレーテ・シュトゥルムの顔が、一瞬だけ頭をよぎった。あの告発の場で、髪に触れながら宰相の方を見ていた横顔。


「ふうん……そう、ですか」


それ以上は言わなかった。スープに口をつけた。薄い塩味が舌に広がる。あの国のことは、もう私には関係がない。


関係がないはずだった。


けれど紋章旗の魔力がまだらになっている光景を思い浮かべた時、指先が無意識に動いた。テーブルの上に、見えない線を引く。左翼の構造線。対称軸から二度のずれ。あの一本が、まだ頭の中に残っている。


「フォーゲルさん? ……何描いてるの?」


「あ——すみません。癖です」


手を膝に落とした。リーゼルさんが不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。


作業台に向かう。ヴァイスさんは既に座っていた。昨日と同じ姿勢。猫背で手元に顔を寄せ、筆を走らせている。私がスツールを引く音にも振り向かない。


けれど作業台の上に、一枚の紋章図案と修復道具一式が揃えて置かれていた。


試されている。わかる。


筆を取った。手が動き出した瞬間、前世の六年間と、この世界で学んだ紋章学の知識が、指先で一つになる。紋章の構造線をなぞり、劣化した箇所を特定し、元の図案との差異を洗い出していく。


ヴァイスさんの筆の音が、いつの間にか止まっていた。振り向かなかったが、背中に視線を感じた。十秒以上。それから、筆の音が再開した。


何も言われなかった。何も訊かれなかった。ただ、この手が動く限り、私はここにいていい理由がある。


それだけを信じて、線を引いた。

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